きみの手が生み出す世界

「蘇芳先輩! あの、今回は本当にすみませんでした」
 「どした」と微笑んでくれた蘇芳先輩に、萌江はばっと頭を下げた。勿論締切に間に合わないなどいう事態にしてしまって、蘇芳先輩に大変な迷惑をかけたことに決まっている。
「ああ……。でもちゃんと反省したんだろ。今回もなんとか形にできたし、次に生かせばいい」
 蘇芳先輩はちっとも怒ることなく、むしろ嬉しそうに笑った。その笑みには優しさがたっぷり溢れていて。
 厳しいことは言ったし諫めるようなことも言ったけれど、蘇芳先輩は決して感情的に怒ったりはしない。
 萌江は蘇芳先輩のその笑みにほっとしたような顔をした。
「私、次はもっとちゃんとやってみせます。それで、あの」
 右手に持っていたものを前に出す。それはノートのようなものだった。小さめで手帳のようにも見える。
 もしかして、これ。
 浅葱は思った。一緒に帰りかけたとき自分が言ったことからだろうか。
「こういうものを作ったんです! 浅葱に計画表を作ったらいいって教えてもらって……」
 その通り、萌江はちらっと浅葱を見てちょっとだけ笑った。
 萌江が取り出し、広げて見せたそれは手作りのスケジュール帳だった。
 色ペンを使って見やすく線が引いてある。十一月と十二月のカレンダーが手書きで作られていた。
「おお、すごいじゃないか。自分で作ったのか?」
 蘇芳先輩は目を丸くした。萌江が渡したそれをしげしげと見つめる。萌江は嬉しそうに目を細めた。
 ここからまず一歩。そういう決意が溢れていた。
「はい! だから冬季賞の締切がわかったら教えてください!」
 萌江の決意。蘇芳先輩にも伝わっただろう。蘇芳先輩も嬉しそうに表情を崩した。
「わかった。今度は計画的に頑張ろうな。予定が狂いそうになったら言ってくれ。相談に乗るよ」
「ありがとうございます!」
 あたたかな空気が場に溢れる。浅葱は横で見ているだけだったが自分もあたたかな気持ちになっていた。
 萌江が反省から『これからのこと』を考えて形にしてきたこと。
 それはとても立派なことだと思う。
 見習いたい、と思った。
 浅葱は元々計画的に課題を進めることはできた。今回の絵だってそうして完成させることができた。
 でもそれは、そうすること、計画的に物事を進めることが苦手でなかったからなのだ。それは得意不得意の問題である。
 浅葱にだって欠点がまるでないわけではない。萌江の欠点が、この『計画的』というだけのことなのだ。
 それを克服しようとして、具体的に形にしてきた萌江を浅葱は尊敬した。
「六谷もいつもこういうものを作ってるのか?」
 浅葱が教えた、と萌江が言ったからだろう。蘇芳先輩の視線が浅葱に向いた。
 ちょっとどきっとしてしまったが、誇らしくて。浅葱は「はい」と言った。
「予定をいつもスケジュール帳に書いてるんです。走り書きくらいなんですけど……」
 ちょっとくすぐったい。自分もついでに褒めてもらっているようなものだ。
「いや、それはとても偉いよ。先のことを考えるってのは難しい。そうだな、……進路とかも同じ、だな」
 進路。
 浅葱はそれがちょっと引っかかった。
 すぐにはっとしたけれど。
 蘇芳先輩がこの美術部の部長でいる時間。実はもう少ないのだ。
 もう秋も真っ盛り。少しすればすぐに萌江の言った冬季賞へ向けて活動することになる。
 冬季賞の提出は年末だけど、それが終わったら多分蘇芳先輩は卒業へ向けて部を卒業してしまうのでは。
 いや、進路、と言った。
 当たり前のように浅葱たち高校生にとっては大学や専門学校への進学、というのがメインだ。
 蘇芳先輩は……。
 浅葱はちょっと考えた。
 蘇芳先輩は……どの大学へ行く予定なのだろう?
 大事だったそのこと。初めて考えたような気がした。
 いや、一応聞いたことはある。美大を目指している、と前に雑談の中で聞いたのだ。
 そのときは「美術部部長だし、自然だよなぁ」と思って、単に「すごいですね! 頑張ってください!」と言ったのだった。そのときの自分はまだ呑気だった、と思う。
 蘇芳先輩がここからいなくなる時期。それが迫ってきているのだ。
 急に、一瞬だけ心の中にひゅっと冷たい風が一筋抜けたように感じてしまった。
「蘇芳先輩は美大へ行かれるんでしたっけ」
 その間に萌江が質問していた。蘇芳先輩はちょっと笑って手を振る。
「受験はするけど、入れるかはわからないよ」
「そうですけど! 先輩なら絶対受かりますよ」
 萌江は確信に満ちた声と顔で力強く言った。浅葱もそう思うし、その通りのことを言って応援したかった。けれど何故か声が出てこなかったのだ。
「そうかな。ありがとう。頑張るな」
 ふっと笑って蘇芳先輩は「じゃ、俺は水野先生と打ち合わせをしてくるな」と行ってしまった。
 その後ろ姿を見送って、浅葱はちょっとだけ作品を提出できた明るい気持ちに陰が差したのを感じてしまう。
 そうだ、秋が終わるというのはそういうことだ。今まで絵にかかりきりで、そんなことも思いつかなかった自分が迂闊すぎたと感じてしまう。
 この時間はいつまでも続いていくものではないのに。
 おまけに。
「美大、かぁー。どこだろうな。多真美(たまび)とかかなぁ」
 萌江があげたのは『多真(たま)美術大学』。美大を目指す生徒なら知らないはずはないどころか憧れて当然のところである。
「そうかもね。でも蘇芳先輩なら絶対受かるでしょ」
 色々と考えてしまった浅葱だったがそう言った。今、あれそれ思い悩んでも仕方がないからだ。これからゆっくり考えればいい。
 けれど、ひとつだけ。
「……尊敬する先輩のいるところ、なのかな」
 ぽつっと萌江が言ったこと。
 それがひとつだけ。気になってしまったことだった。
 その日はしとしとと雨が降っていた。
 反省会もお疲れさん会も終わって、それどころかもう冬季賞の締め切りの話なんかも出てきている。
 締め切りは年末だけど勿論年末ぎりぎりまで学校はないので、クリスマスの数日後、学校が冬休みになる直前だと聞かされた。
 つまりもう時間があまりない。一ヵ月もないのだ。
 秋も深まって、浅葱は制服のジャケットの下にセーターを着るようになっていた。
 ジャケットは紺色なので何色でも似合うだろう。
 浅葱が選んだのはシンプルなベージュ。ジャケットの下に着るので袖がすっきりしているものを選んだ。
 袖を少し長めに出す着方をしている子もいて、それもかわいらしいのだけど、浅葱はなにしろ美術部。絵を描くのに手を使うことが多い。あまり袖を長くしていると部活で邪魔になってしまう。
 そのようにセーターを追加した日はとてもあたたかかった。ここしばらくの寒さを思い知らされるように。
 いけない、気を付けないと風邪を引いちゃうよね。
 浅葱は思って、再び気を引き締めた。冬季賞の締切が出たということはつまり、そこから逆算して計画を立てねばならないということだ。
 浅葱は萌江に「このくらいだとどうかなぁ」と相談も受けていた。
 「下塗りはもうちょっと前に終わってたほうがいいと思うよ」などとアドバイスをして、そこから「今度の部活で蘇芳先輩に見てもらおう」ということになっていた。
 そう、蘇芳先輩。
 ちょっと前に話があった。
 『冬季賞の提出が終わったら世代交代をする』と。
 世代交代。つまり三年生が引退して今の二年生メインに移行するということだ。
 次の部長になりそうなひとはすでにいる。二年生リーダーの男子の金澤(かなざわ)先輩というひとだが蘇芳先輩がよく「サポートに回ってくれ」と依頼していることが多いのできっとその先輩が次の部長になるのだろうなぁ、と浅葱は思っていた。
 それはともかく。
 蘇芳先輩がいなくなってしまう。この部活から。
 この学校からは……というのはもう少し先だけど。それだって春には完全にいなくなってしまうのだ。
 春をこれほど来なければいいのに、と思ったのは浅葱は初めてだった。
 今まで片想いをしたことはあるけれど、先輩に、というのは初めてだったので『春=お別れの季節』であるのが初めてなのである。
 まだ秋の終わりでそのようなことを考えるのは早すぎる、と思う。
 けれど心の別のところで、意識しておいたほうがいい、とも思うのだった。
 心の準備はしておくにこしたことはない。いきなり直面してショックを受けるよりずっと良いではないか。
 最近の浅葱はそう思うようにしていた。けれど寂しさはどこか、心の中をすかすかさせるのだった。
 そして雨でなんだかしんとしている校内。浅葱は昼休み、三年生の教室のある階に向かっていた。
 蘇芳先輩に会いに……というわけではない。蘇芳先輩になら部活の時間に会えるのだし、なにか話があるならそのときに捕まえてしまえばいい。それが一番確実。
 それに三年生の教室、蘇芳先輩のクラスで「蘇芳先輩をお願いします」と呼んでもらうのはちょっと怖かった。
 なにしろモテモテの蘇芳先輩だ。
 部活のことで話があるので、なんて言ったところで言い訳としか思われないだろうし、悪くすれば先輩の女子たちに目を付けられてしまうかもしれない。
 なので特に蘇芳先輩目当てではなかった。単に午後の授業で使う教材が三年生の教室のある数学準備室にあるというだけだ。
 でも三年生の教室があるのだ。なにかの偶然で蘇芳先輩に出くわしたらいいな、とは思ったけれど。
 そんなことはなく、浅葱は数学準備室へ向かい中にいた数学担当の先生に挨拶して、無事に教材を借りた。
 それは資料集で随分分厚かった。ちょっと重い。でも持てないほどじゃない。
 よって浅葱は「ありがとうございます。お借りします」とそれを抱えて外へ出た。
 そのまま一年生の教室にある階へ向かうつもりだったのだけど。
 ふと通りかかった空き教室。そこから声が聞こえてきた。
 別に不思議でもなんでもない。昼休みに空き教室でお弁当を食べたり、おしゃべりをするのは普通だ。きっと三年生がそうしているのだろう。
 中にいるのは男子生徒らしい。あたり憚ることなく大きな声で普通に話していたので廊下の浅葱にも聞こえてきた。
あまり興味はないことだと思ったのでそのまま通過する予定だったが、中から「そういえば蘇芳がさ」と声が聞こえてきたので驚いた。
 つい足がとまってしまう。なにか、蘇芳先輩が話題らしい。
 急にどきどきしてきた。クラスメイトなのか、蘇芳先輩と同じ学年のひとなのだ。きっと浅葱より蘇芳先輩と接する機会は多いだろう。友達のようだし。
「ナントカ賞だっけ、やっと終わったから遊びにでも行きたいなとか言ってて。みんなでどっか行かね?」
 内緒話ではなさそうだけど、立ち聞きになってしまうだろうか。浅葱はちょっと悩んだ。
 でも、ちょっとだけだから。普通に聞こえるから盗み聞きではないのだし。
 よって、ちょっとだけともう一度自分に言い聞かせて、立ち止まった。
 中の会話はそのまま続いていく。蘇芳先輩の普段の生活が聞けているようでなんだか楽しくなってきてしまった。
 普段、男子の同級生と話すときはどんなことを話すのかな。呑気に思ってしまっていた浅葱だったが、ある一人が口に出したことにどきっとした。
「遊びたいのはやまやまだけど無理かもしれないぜ。こないだ駅ナカのショッピングモールで見たんだけどさ」
 その一人は、んだか思わせぶりな口調だった。続ける。
「壱樹(いつき)、なんかカワイイ雑貨を扱ってる店にいたぜ。あれ、デートでもあって女子にでもやるんじゃないの」
 言った男子の先輩は蘇芳先輩の下の名前を口にしていた。つまりそれなりに親しいひとだということだろう。
「まじか」
 ほかの男子がちょっと驚いた、という声を出した。
 浅葱も勿論驚いた。女子にでも、やる? かわいい雑貨を扱っているお店で買ったものを?
 それはまさか。
 ううん、そんなのただ、お母さんとか身内のひとにあげるのかもしれないし。
 自分に言い聞かせる。
「手袋、手に取ってたな。なんか赤っぽいやつ」
「それ、別に自分でするんじゃねぇの?」
 ほかの男子が言ったけれど次の言葉は否定だった。
「いや、レースついたやつだったぜ。アイツ、姉妹なんかいねぇからなんでかなって」
 壱樹、と蘇芳先輩を呼んだ、仲のいいであろう男子が言った。その場の空気がなんだか『にやにやしている』というものに変わるのを浅葱は感じた。
 それは楽しそうなものだったけれど、浅葱の心は逆にざわざわしていった。
 女子にあげそうなものを選んでいたという。
 かわいい雑貨を。
 そして蘇芳先輩に姉妹はいない。お母さんに……という可能性はあるけれど。
 そのとおりのことが教室の中の会話から聞こえてきた。
「いやー、これはあれだろ。カノジョだな」
 浅葱が『そうだったらイヤだな』と思ったこと。そのままだった。
 心臓が一気に冷える。
「そういや去年、先輩の女子と結構仲良くしてたじゃん」
 その声で、浅葱ははっとした。例のひとだろう。
 曽我先輩、とかいった前部長。
「ああ! 結構美人のヒトな」
 次々に情報は入ってきて、浅葱には有難いことだったけれど面白いはずがなかった。
 でも一応『情報』なのだ。聞かないわけにはいかない。
 嫌な感じにどきどきする心臓を抱えながら、結局、浅葱はその話を全部聞いてしまった。
 そのうち予鈴が鳴ってはっとしたけれど。
 いけない、聞いていたのがバレてしまう。授業にも遅れてしまうし。
 浅葱はそろっと教室の前を離れて小走りで階段へ向かった。
 どくん、どくんと心臓が気持ち悪く騒いでいる。
 もしかして、蘇芳先輩がモテモテなのに彼女がいないのはあのひとと、曽我先輩というひとと付き合っているのでは。男子の先輩たちが話していたように。
 校外で付き合っていることになるけれど、それなら浅葱やほかの子たちが知らなくても不思議はない。
 胸の中がざわざわして気持ち悪くなってくる。
 いつのまにか教室に着いていて、ドアの前ではぁ、とため息をついた。
 このあとの授業にはとても集中できそうになかった。
 それでもサボったりするわけにはいかない。授業開始のチャイムのぎりぎりになってしまったので急いで教室へ入って、先生の使う教卓に抱えていた資料を置いた。
 おまけに外の雨は強くなるばかりで、午後は随分冷え込んだ。シャーペンを握る手が冷たいように感じてしまって、浅葱はセーターの袖を引っ張って手を包みこむ。
 思い出したのは駅のライトアップを見に行ったときのこと。
 あの、初めて触れ合った手のあたたかさが恋しくてたまらなくて、でも本当は自分の勘違いか思い上がりだったのではないか。
 そういうふうにも思ってしまって、涙が滲みそうになってしまった。
 冬季賞の作品にも手をつけはじめた。
 十二月が目前に迫っていて、下絵を描いて下塗りをはじめる時期である。
 浅葱の心はあれから晴れなかった。勿論ずっと落ち込んでいたわけはない。
 すぐに気を取り直した。自分はただ、蘇芳先輩がそういうことをしていた、という様子を聞いてしまったに過ぎないのだ。
 それを丸ごと信じて落ち込んでしまったり疑ったりするのは馬鹿げたことである。本当のことかもわからないのに。
 本当にそういうものを買っていたとしても、お母さんや親戚……いとことか……そういうひとにあげるものだったのかもしれないのではないか。
 綾にも相談したけれど「そっちの可能性のほうが強くない?」と言ってもらえた。それで浅葱の心がだいぶ持ち直したのもある。
 だって蘇芳先輩はあのライトアップを見に行ったときも、秋季賞直前の土日活動のときも浅葱を特別だと、少なくとも少しは特別だと感じるようなことをしてくれたのだ。彼女がいるならそういうことをするだろうか。
 浅葱はそんなことはない、と思った。そんな、いるかもしれない彼女にも、それから浅葱にも不誠実なことをするひとじゃない。信じてる。そう自分に言い聞かせて。
 でもまだ本当のことはわからないから。
 たまに思い出して、胸はちくっと痛んでしまうのだった。
 さて、冬季賞の作品。
 浅葱は今度、赤をベースにした絵にしようと思っていた。
 前回、青一色の絵を描いたからというのもあるし、なにしろ冬なのだ。暖色の絵のほうがなんだか描いていて心もあたたまるような気がして。
 なにを描こうか迷ったけれど風景にすることにした。
 最近読んだ海外の小説の風景の描写がとても印象的だったのだ。
 海外の家。テレビでもよく見るヨーロッパの街並みが浅葱は好きだった。
 実際に見たことなどない。けれどいつか見に行ってみたいと思っている。
 それにヨーロッパ、イタリアやフランスは絵画の本場でもある。ぜひ一度行ってみたいものだ。
 今は無理にしても、大学生になってバイトをするようになったら行けるかもしれない……と夢みていた。
 そういう、風景。題材に選んだ。
 下書きの時点から蘇芳先輩に何度も見てもらっていたけれど、それだけだった。
 それだけ、というのは特になにを言われることもなく、絵へのアドバイスや部活の話だけだった、ということだ。
 浅葱はちょっと、ちょっとだけだけど。気持ちが急くのを感じていた。
 気持ちを告げたい。あのとき土日の活動の最後、二人きりになったときに言おうと思ったけれど飲み込んでしまった気持ち。
 今なら状況にも気持ちに余裕もある。もう少しすると冬季賞の作品作りに集中しなくてはいけなくなるし、それから蘇芳先輩の部活卒業も近付いてしまう。
 けれどなかなか、今だ! というタイミングがなかった。
 二人きりになるチャンスもなかったし、つまりそういう雰囲気ももってのほか。
 思いついたのはクリスマスだった。告白をするのにちょうどいいだろう。
 ちょうどいいけれど、いきなり「クリスマス、一緒に過ごしませんか」なんてことは言えない。そんなあからさまで狙っているようなことは。
 悶々としていたところだった。『それ』が浅葱の通学バッグに挟むように伏せて置かれていたのは。
 部活の終わったときだった。浅葱は私物を置いてあるところへ行き、そこで『それ』に気付いた。
 それは一枚の紙だった。
 あれ、なんだろう。私、ここにバッグを置いたときになにか挟んじゃったのかな。
 そのくらいに思ってその紙を取り上げてひっくり返して。
 どきっと心臓が跳ねた。
 そこに書いてあったことより先に目に入った字。
 字だけでわかる、と前に言われたことがある。
 目に入った字は、それとまったく同じ。
 ……蘇芳先輩のものだと浅葱にはすぐにわかった。
 そこで既に浅葱はこれが、特別なものだと知ってしまった。
 どくん、どくんと心臓が跳ねる。今度は良い意味で胸が騒ぐ。
 書いてあった字、つまりメッセージを読んで、もっと鼓動は速くなってしまった。速くなりすぎて苦しくなってきたほどに。
『時間があったら、あの場所で待ってる』
 書いてあったのはそれだけだった。小さなメモだったから。
 あの場所、とは。
 一瞬だけ考えてしまったけれど、すぐに思い当たった。
 『あそこ』だろう。メモに添えられていた、絵。それを見ただけで伝わってきたのだ。
 時間があったら。浅葱は高鳴る胸を抱えながら考えた。
 このあと用事もない。
 今日は金曜日。つまり翌日は休み。だから少し遅くなってもあまり影響はない。
 お母さんには『部活が長引きそうだからちょっと帰りが遅くなりそう』とメッセージアプリで連絡をしておけば、あまり怒られないだろうし。
 ごくっと唾を飲んでしまった。
 メモをそっと手の中に入れる。紙に温度などあるはずがないのに何故かほんのりとあたたかいような錯覚が生まれて、浅葱の胸を熱くした。