きみの手が生み出す世界

 一階まで降りて購買へ向かった。
 購買は学校内の小さなコンビニのようなお店だが、活動がある部活が多いので休日でもやっている。
 スタッフのおばちゃんは一人だったけれど。普段、お昼休みなどはパンを買う生徒で溢れるのでスタッフのおばちゃんも何人かいるのだけど今、静かなのは部活の生徒しかいないからだろう。
 休日の購買を利用するのは滅多にないので、浅葱はちょっと新鮮な気持ちになった。
 そこで棚から大好きなミルクティーのペットボトルを取り上げたのだけど。

『六谷、結構根を詰めてただろう。少しでも息抜きになれば、と思って』

 ふと数日前のことを思い出した。蘇芳先輩に言ってもらった言葉だ。
 そう言って綺麗なライトアップを見せてくれた蘇芳先輩。それは浅葱が楽しんでいても、ちょっと無理をしつつあった、と思ったからだろう。
 今、手に取ったのは大きいサイズのペットボトルで、あのときのものとは違う。
 けれどあの甘かったミルクティーの味と、優しいあたたかさがまざまざとよみがえった。
 私が、今できること。
 浅葱はふっと思った。
 なにもできないわけじゃない。
 手伝うことなんてできない。一年生の自分が手を出すなんてそんなことは図々しい。
 だけど。
 ……なにもできないわけじゃない。
 もう一度そう思って、浅葱はミルクティーのペットボトルを持ったままお店の奥へと進んだ。
 『それ』を、どれにしようかと考えながら。
 週末の二日間はあっという間だった。朝から集まって、作業をして、たまに休憩して、お昼にはお弁当やパンなんかを食べて、また夕方まで作業。その二日間。
 大変だった。
 おまけに休みがなかった状態で明日からそのまま学校があると思うと、ちょっと気が重くはある。
 けれどそのぶん作品のできは良くなったはずだ。
 浅葱の絵はもう完成、となっていた。直すところなんて、見ていけばまだまだいくらだって思いついてしまうだろう。
 それは副部長の森屋先輩が先日、お説教をする際に言っていた通り『絵に終わりはない』からである。
 それでもコンテストに出す『作品』とするならどこかでおしまいとしなくてはならないのだ。
 その『おしまい』。
 いいタイミングで『おしまい』にできたと思う。
 納得できるだけ、作りこめた。
 だからこの二日間はとても充実していたし、大切な二日間だったと思う。


「お疲れ様でした!」
 夕方。普段の下校時間の少し前。
 蘇芳先輩によって一旦の『解散』が言い渡された。
 みんな片付けをして帰り支度をはじめる。
 大体のひとたちは、浅葱と同じくもう完成としているようだった。
 そうでないひとは明日の部活で仕上げるのだろう。
 それでも遅くまではいられない。
 部活動のある部活も多いとはいえ、夜遅くまで学校が開いているわけではないからだ。平日と違って出勤している先生も少ないだろうし。
 なのでお疲れ様、の挨拶をして浅葱は帰ることにした。
 絵も完成した。明日は最後の見直しだけ。心から満足していたし安心していた。
「浅葱! 一緒に帰っていい?」
 そこへたたっと駆けてきたのは萌江だった。
 浅葱はちょっと驚いた。
 蘇芳先輩が手伝ってくれていたのを見ていたのだ。てっきりまだぎりぎりまで作業するのかと思っていた。
 浅葱の思ったことはわかったのだろう、萌江はきまりの悪そうな顔をした。
「……遅くまで根を詰めたらいけないって。帰れ、って言われちゃった」
「……そうなんだ。じゃ、帰ろうか」
 浅葱はふっと笑った。
 萌江のしたことは良くなかったことだったかもしれない。
 けれどあれ以来、萌江は今までよりずっと真面目に取り組んでいたと思う。それは心を入れ替えて……というかはわからないが。少なくとも、本気でこの絵を完成させたい。そういう気持ちだったのは確かなはずだ。
 帰り道。昇降口を出て、校門を出て、駅までの道を歩きながら萌江はそのとおりのことを言った。
「私、適当にしすぎだったと思う」
 その声には心底、後悔が滲んでいた。浅葱は「そうだね」とも言えずになんといったらいいか困ってしまった。
 浅葱が答えられないのをわかっている、という顔で萌江は浅葱を見て困ったような顔で笑った。
「だから、できないならもういいやって投げ捨てちゃおうかと思ってた。それって今まで課題とかほかのこともそうだったかもしれない」
「うん」
 萌江が話したい、と思ってくれていることがわかったので浅葱は単純に相槌を打った。
 浅葱が聞いてくれるという姿勢になったのを感じたのだろう。萌江はちょっと視線を上げた。
 まだ空は明るい。でもあと三十分もすればオレンジ色が濃くなってくるだろう。
「でも蘇芳先輩は言ってくれた。できないならできないなりにやってみろって」
 それは最初から計画を立て取り組んできた浅葱にはわからない気持ちだった。
 でも今回のことがあって、だからこそ萌江は気付くことができたのだろう。そしてそれに気付けたことはとても良いことだったはずだ。
「蘇芳先輩の時間も奪っちゃった。すごく悪いことをしたなって思う。それは自分の作品に手を抜いたことだけじゃなくて、部活全体の邪魔をしちゃった」
 それは反省。萌江は小さく息をついて、でも浅葱の顔を見た。その顔は後悔したことも落ち込んだことも、ちゃんと飲み込んで先へ進んでいる顔をしていた。
「だから、次はちゃんとやろうって思う」
 萌江のその顔と言葉。浅葱はわかった。
 萌江がこういうふうになったのは蘇芳先輩のおかげもあるのだ。
 蘇芳先輩が部長として真剣に助けてくれたからだろう。その姿勢を見てなにも思わないわけがない。
 ああ、蘇芳先輩は本当に、部長として、先輩として、すごく立派なひとだ。
 浅葱はまた心を熱くしてしまった。
「計画的にっていうのは苦手だけど……」
 そのあと萌江はちょっと困ったように笑った。気付いて反省したとはいえすぐに行動を変えるのは難しいことだ。
「そうだね。計画を立てるって難しいよね」
 浅葱も笑った。ただし今度のものは困って、ではなく、なんだかほのかにあたたかいような気持ちでだった。
 蘇芳先輩のように、なんてふうにはとんでもない。自分にそんな立派なことはまだできない。
 でも自分のしていることを元にして、こうしたらどうかな、とアドバイスするということならできる。
 蘇芳先輩のような立派なひとになるためには、そういうところからはじめればいいのだろう。
「難しかったら見えるようにしたらいいよ。たとえばカレンダーを見てね、この日付までにはどのくらいの作業を終えていたらいいだろうなって書き込んで……」
 なんだか嬉しい気持ちにもなりながら浅葱は自分の手帳を出そうとした。
 スマホのカレンダー機能は便利でそちらも使っているけれど、学校内ではスマホの使用が制限されているので紙の手帳があると便利なのだ。
 よってミニサイズのものを持っていた。手帳はバッグの中に確かにあったのだけど。
「……あれっ」
 浅葱はちょっと声をあげてしまった。
「どうしたの?」
 萌江も不思議そうな声を出す。
 ごそごそとバッグを探ったけれど見当たらなかった。
 ペンケースがない。ペンや消しゴムなんて文具がまるっと入っているもの。
 ああ、そういえば部活のときに使ったんだった。うっかり置いてきてしまったのだろう。
「ごめん、ペンケース、部室に置き忘れたみたいだから取ってくるね。ごめんだけど、先帰ってて?」
 それだけ言い残して浅葱はきびすを返した。たっと地面を蹴って軽く走り出す。
 まだそれほど学校からは離れていなかった。数十分のロスで済むだろう。
「気を付けてねぇ」
 うしろから萌江が声をかけてくれるのを背に、浅葱は急いで学校へと後戻りしたのだった。
 昇降口はまだ閉まっていなかった。学校の閉まるにはまだ少しあるのだ。
 良かった。浅葱はほっとした。
 ふぅ、と息をつく。小走りで来たので息が軽く上がっていた。
 ちょっとだけ息を整えて、ここからは急ぐこともないのでゆっくり階段をのぼりだした。
 とん、とん、といい音をたてて美術室のある階までのぼり、廊下の突きあたりにある美術室が見えてくる。
 そこで浅葱は、あれ、と思った。
 電気がついている。
 そろそろ夕方に差しかかるので電気をつけたのだろう。
 それはつまり、電気をつけたひとがいる、というわけで。
 もしかして。
 浅葱の心臓が期待にとくりと高鳴った。
 こんな、最後まで残っているなんて部長である蘇芳先輩である可能性は高いと思った。
 今日も昨日も声をかけられなかったけれど、気になっていたのだ。そりゃあ、とても気になっていた。
 もし今、蘇芳先輩がいるなら少しくらいは話ができるかも。
 思って、浅葱はたどり着いた美術室のドアをこんこんと控えめにノックした。
 そして「はい」と返ってきた返事は、ああ、やっぱり蘇芳先輩。
「失礼します」
 かららっとドアを開けて浅葱は中に入る。
 なにか、作業をしていたところから顔を上げた蘇芳先輩と目が合った。
 蘇芳先輩のその目がふっと緩む。
「六谷か。どした。忘れものか」
 その『自分を見て優しい目をしてくれた』ところと『フランクな声と言葉』にとても嬉しくなってしまう。
「はい。ペンケース、忘れちゃって……」
「そうか。明日から学校で使うしな。思い出してよかったな。朝取りに来るんじゃばたばたしただろ」
「そうですね。良かったです」
 浅葱は自分の作業していたスペースへ向かう。
 確かにペンケースはそこにあった。ほっとして取り上げる。
「でも早く帰れよ。もう暗くなる」
 浅葱の様子を視線で追ってくれていた蘇芳先輩は、なにやら大きな紙と紐を弄っていた。
 なんだろう。部活にこんなもの、必要なのかな。
 浅葱はよくわからなかったけれど、しばらく蘇芳先輩の手つきを見ているうちにはっとした。
 蘇芳先輩の手元にある紙。その中には。
「あの。……おうちで……?」
 浅葱が中身に気付いて、そしておそらく自分がこんな作業をしていた理由も察したと気付いたのだろう。
 蘇芳先輩は笑みを浮かべた。ちょっと困ったような笑みで。
「ああ。時間があまりないから最後の見直しを今夜、しようと思って」
「そう、だったん、ですね」
 中身は蘇芳先輩の秋季賞提出予定の作品だろう。
 キャンバスのそれを、紙に絵の具がつかないように慎重に包んでいたらしい。
 そしてそんなふうに包む理由なんてひとつしかない。
 持って帰って家で作業をするという意味だ。
 学校は閉められてしまうから、これ以上遅くまで作業することは出来ないだろうから。
 でもまさか徹夜で作業するのだろうか。
 浅葱のその心配もわかったのだろう。今度は浅葱を安心させてくれるような笑みで蘇芳先輩は笑った。
「大丈夫だよ、作業はするがちゃんと寝てくるさ」
 蘇芳先輩がそう言うならそうだろう。それでも心配だ。
「……はい」
 でも浅葱は笑みを浮かべた。蘇芳先輩は嘘を言ったりしない。それに無理もしない。
 今、蘇芳先輩が無理をして倒れてしまっては部活が困ってしまうだろう。
 提出のチェックも必要だし、顧問の水野先生や副部長の森屋先輩がいるとしても、蘇芳先輩がいなければ大きな痛手になるはずだ。
 だから蘇芳先輩は絶対無理をしたりなんかしない。
 そのうえでしっかり作品も仕上げてくる。
 そういうひとだ。
 信頼から浅葱は笑みを浮かべて「頑張ってくださいね」と言った。
 まるで浅葱のその気持ちを読み取ってくれたように、蘇芳先輩もにこっと笑って「ああ。ありがとう」と言ってくれた。
「それに、いいものがあるからさ」
 そのあと、ちょっと悪戯っぽく言ったので浅葱は不思議に思った。
 ついでにその言い方はなんだか子供っぽさもあって、ちょっとかわいらしく見えてしまって微笑ましくなってしまったのだけど。
 蘇芳先輩が傍らにあった通学バッグを探って取り出したもの。
 それはダークレッドのパッケージのお菓子だった。
 浅葱はそれを見て、あっ、と言うところだった。
 だって、それは。
「初めて食べたんだけど、うまかったぜ。それにちゃんと効果もありそうだ。すっきりした」
 それはチョコレートだった。
 ただのお菓子だけれど、一応謳い文句がある。
『疲労とストレスを軽減する』
 そういう広告やテレビCMをやっている商品なのだ。
 浅葱は少し前にそれを食べたことがあった。勿論そういう謳い文句があってもお菓子なのだ。即座に疲労がなくなるなんてことはない。
 けれど、なんとなくすっきりするような気持ちは感じられた。今、蘇芳先輩が言ってくれたように。
「ありがとな」
 浅葱の目を見つめて、蘇芳先輩は微笑んだ。ふっと目元を緩めて。とても優しい笑みだった。
「……いえ。良かった、です」
 そんな優しい目で見られたらくすぐったくなってしまう。浅葱はちょっともじもじしてしまった。照れくさい。
 だって嬉しいではないか。
 ……自分の贈ったもので、そういうふうに言ってもらえたなら。
 そう、それは浅葱が蘇芳先輩に差し入れたもの。
 土曜日の購買。休憩のミルクティーを買ったときにふと思いついたものだ。
 直接手伝いなんかできない。
 けれどなにもできないわけじゃない。
 浅葱が思いついたのは『差し入れをする』だった。
 よくあるではないか、飲み物やちょっとしたお菓子など。
 運動部などだともっと多いかもしれない。
 そういうものは単に、もらったお菓子が嬉しいだけではない。
 贈ってくれた、差し入れてくれたひとの心遣いが嬉しいものなのだ。
 そういうものになれたらいい、と思った。
 よって浅葱はそのチョコレートを選んで、それからちょっと考えた。
 これだけぽんと置くのもそっけない。
 すぐに、ああ、あれにしよう。と思いついた。
 取り出したのは例の手帳だ。
 うしろのほうには切り取って小さいメモにできるページがついている。
 それを丁寧に切り取ってメッセージを書いた。
『お疲れ様です』
 たったそれだけだったけれど、自分の想いがすべて詰まっていると感じられたのでそれだけでいいと思った。
 お花の模様の入っているメモだけど、文字だけだとちょっと素っ気ないかなと思ったので、ウサギのイラストを小さく添えた。
 それを、やっぱり手帳のおまけについているミニシールで貼り付けて、そっと蘇芳先輩の通学バッグの横に置かせてもらったというわけだ。
 しかし浅葱はそこで疑問に思った。
 自分はあれに名前など書いていない。
 それなのにどうして自分からだとわかってくれたのだろうか。
「えっと、私、名前でも書きましたっけ」
 疑問のままに聞いてしまったが、蘇芳先輩は楽しくてたまらない、という顔でしれっと言った。
「名前なんか書いてなくたってわかるに決まってるだろ。字が六谷のだったし」
 あ、そっか。同じ部活なんだから字くらい、見ればなんとなくわかるのかもしれない。
 思った浅葱だったが直後、心臓が喉の奥まで跳ね上がったかと思った。
「それに、こういうものを今、くれるのは六谷しかいないと思ったから」
 喉の奥まで跳ね上がった心臓は、そのままどくどくっと早い鼓動になる。
 気付いてくれた。
 筆跡だけではない。
 浅葱がこういうふうにしてくれる、と確信してくれたのだ。
 それは単に部員同士のやりとりより少し上かもしれない。
 浅葱のことを知ってくれているからこそ、そう思ってくれることなのだ。
 急に顔が熱くなってきた。
「……あ、ありが……とう、ございます」
 声はもにょもにょしてしまった。それに蘇芳先輩はまた笑うのだった。
「なんでだよ。もらったのは俺だろう」
 そうだった。
 ついお礼を言ってしまったけれどずれたことであった。恥ずかしくなってしまう。
「いや、でもすげぇ嬉しかったよ。ああ、気遣ってくれてるひとはいるんだな、って」
 浅葱は顔を上げた。再び蘇芳先輩と目が合う。優しい瞳はその言葉の通り、嬉しそうな色になっていた。
 蘇芳先輩も負担になっていなかったはずはないだろう。
 部長としてのつとめで、自分が言い出したのだし、やるべきことではあったのだろうけど、当たり前のように負担に思わないはずがない。
 本当なら自分の絵にずっと集中していたかっただろうし、面倒だとか、もしくは萌江たちのミスを恨む気持ちだってないはずがない。
 でもそんな様子、少なくともちっとも表に出さないのだ。そこも浅葱が尊敬し、そうなりたいと思っているところである。
 おまけににこっと笑って、手のチョコの袋をちょっと振った。
「勿論それが六谷だったこともさ」
 悪戯っぽく言われたそれは、さっきと同じように無邪気ともいえるものだった。
 それなのに浅葱の頬を簡単に熱くしてくる。
 そんなことを言われればくすぐったい。
 おまけに自分の気持ちが蘇芳先輩に筒抜けになっているように感じてしまう。
 いや、……知られちゃってるんだろうな。
 思ってしまい、もっと顔が熱くなった。
 この秋季賞のための作品を作りはじめてから。
 蘇芳先輩とたくさんの想い出ができた。
 その中で仲が深まっていた、と勝手にかもしれないが浅葱は思っていたし、そして自分の気持ちも、少なからずなんとなくは伝わってしまっているのだろうな、と思う。
 そうでなければ蘇芳先輩だって、あのライトアップを見たときのようなことをしてこないし言ってこない、と思う。
 つい「あの」と、口を開くところだった。
 今なら言っても不自然ではないだろう。

 蘇芳先輩のことが好きです。

 そういう、自分の一番大きくてストレートな気持ち。
 だけど浅葱はぐっとそれを飲み込んだ。喉の奥へ押し込んでしまう。
 今、言ったっていいだろう。
 でも今日、今、締切直前のタイミング。
 おまけに蘇芳先輩はこれから家に帰って夜遅くまで作業をするのだろう。
 そんなときに心を乱してしまうようなこと。
 ……今は、やめよう。
 浅葱は飲み込んだ言葉を、胸の一番奥の、大切なところへそっと入れるように抱えた。
 落ち着いたら。
 少なくとも秋季賞の提出が終わって、お互いに落ちついたら。
 そう、蘇芳先輩が言った通り『ゆっくりできるときに、また』だ。あのライトアップで途中になってしまったときの言葉。
 大切な気持ちなのだ。
 ごたごたした中で伝えてしまうよりは、しっかり向き合えるときに伝えたい。
 よって浅葱はただ笑った。にこっと。
 どきどき心臓は激しく高鳴っていたけれど、しっかり蘇芳先輩の目を見て。
「嬉しいです」
 もしかしたら浅葱の言いたかったことも、それを今、言わなかった理由も蘇芳先輩はわかったのかもしれなかった。
 鋭いひとだから。そしてひとのことを察するのがうまいひと、だから。
 だから。
 それでおしまいになった。
「お手伝い、できることありますか」
「ああ、大丈夫だよ。あとは紐をかけて結ぶだけだから」
 傍らに置いてあった包みかけの絵。
 それを完成させてもう学校を出なければ。
 絵を包んで、美術準備室でなにか作業をしていた水野先生に声をかけて、部室の戸締まりをして。
 一緒に学校を出た。
 二人で並んで歩く。
 勿論どきどきした。
 けれど初めて二人きりで歩いたとき……地球堂へ画材を見に行って、偶然会ったあのとき。あのとき感じたような、必要以上にそわそわしてしまうような気持ちが今はなかった。
 不思議なことだと思う。していることは同じなのに。
 なんだかうまくいくような気がした。
 いや、ほとんど確信だった。
 気持ちを告げることも、つまり、この恋も。
 今、目の前にある、秋季賞のことも。作品も。
 きっとうまくいく。素敵な結果になる。
 二人で歩くオレンジ色の帰り道。
 蘇芳先輩の描く絵の色使いのようなあたたかさに包まれていたからかもしれなかった。
「よし、これは俺と水野先生で預かろう」
「みんな、頑張ったわね。お疲れ様」
 蘇芳先輩はそれぞれ提出された作品を一枚ずつ確かめて言った。横で水野先生もにこにこしていてみんなをねぎらってくれた。
 蘇芳先輩と水野先生によって『終わり』を宣言されたことに部室内の空気が一気にほどけるのを感じた。
 ざわざわと軽くざわめく。無事に終わって良かったね、とか、頑張ったね、とかそういうもの。
「金曜日にはお疲れさん会をやろう。ジュースとお菓子でも用意して……食べたいものがあったら持ってきてもいいぞ」
 蘇芳先輩の言ってくれたことに、場はもっとわぁっと盛り上がった。
 お疲れさん会。ジュースを飲んで、お菓子を食べて、自由に話すのがメインだろうが楽しいに決まっている。
 一気に楽しみになった。無事に提出できた解放感もあって心の中は晴れやかだった。
「じゃ、とりあえず今日は解散。明日は部活休みの日だな。木曜日に振り返りをしよう。それで金曜日にお疲れさん会だ」
「はい!」
 それで、まだ早い時間だったが解散になった。
 それまで使っていた道具を整理するのか奥へ行くひと、もうなにか別のものを描くのかスケッチブックやらを持ってくるひと、もしくは「今日は寄り道しよ!」などと連れ立って帰るひとたちもいる。
 浅葱はどうしようかと思った。
 蘇芳先輩と話がしたいと思ったけれど、先輩はこれからまだ部長としての仕事があるはずだ。
 即ちまとめて預かった作品たちを管理してコンクールの……どこかわからないが、主催に送る手続きとか……そういうものがあるはず。運ぶのは業者などに頼むのかもしれないが、部長としてある程度はやることがあるに決まっている。
 だから今はお邪魔しないほうがいいかな。
 思って、浅葱はあたりを見回して萌江が近くにいたので「一緒に帰る?」と声をかけようとしたのだけど、それより先に萌江が浅葱を見止めて「ちょっと来て!」と言った。腕を引いてくる。
 え、なに、なに、と思った浅葱だったが、連れて行かれた先はなんと蘇芳先輩のところだったので驚いてしまった。