……えっ。
それはもう、今日何度目かもわからない驚きだった。
私に?
見せてあげたいと思ってくれた?
おまけに昨日、このライトアップを見つけて、すぐ、に?
今回の嬉しさはここまでで一番強いものだった。
そんなの『特別』であるに違いない。
だってただの友達や後輩であれば『一番に見せたい』なんて思われるものか。
急にどきどきした心臓の鼓動が速くなってきた。
これはまさか、少しくらいは、ほんとうに、少しくらいは、可能性が、あるのでは。
ゆっくり、じっくり、自分に言い聞かせるように浅葱は考えた。
そして自分の思ったことに恥ずかしくなってしまう。
本当ならいいと思う。
けれどそうである可能性は高かった。それも随分、だ。
不意に右手になにかが触れた。唐突なことに浅葱はびくっとしてしまう。
嫌だのなんだのよりも、このようなことは起こったことがないのですぐには意味がわからなかったのだ。
ばっとそちらを見ると、蘇芳先輩が微笑んでいた。
その手は浅葱の手に触れていて。しっかり触れていて。
偶然触れてしまった、というにははっきりしすぎていた。
どくんと心臓が跳ねる。一気に顔が熱くなった。赤くなったかもしれない。
そんな中なのに優しくてあたたかい目。その瞳から目が離せなかった。
蘇芳先輩のくちびるがゆっくり動く。それもはっきり見えてしまった。
「意味、わかるかな」
そう言われたけれど、浅葱はすぐにはわからなかった。蘇芳先輩になにを言われたのか、ということがだ。
だって、それはあまりに都合がいい。
自分はライトアップを見て、素敵な夢を見せられているのでは。
思ってしまったのに、浅葱は強制的に現実に引き戻された。
右手がきゅっとあたたかなものに包まれる。
それはさっき持っていたペットボトルとは比べ物にならなかった。ほんのりあたたかくて、やわらかくて、でもちょっとごつごつともしている。
……男のひとの、手だ。
いや、蘇芳先輩の、手だ。
かぁっと顔が熱くなる。心臓もばくばく速くなって止まるのではないかと思ってしまった。
そこから伝わってくる。蘇芳先輩の気持ちが。
きっとこれは、夢でも思いあがっているのでもない。
あたたかな手はそれをはっきり教えてくれた。
なにか言わないと。
浅葱はやっとはっとして、口を開こうとした。
でも考えてしまった。すぐにはわからなかったのだ。
「わかります」でいいのか「ありがとうございます」なのか、もしくはほかの……。
こんな雰囲気になるのは初めてで戸惑ってしまった、その数秒。
カーン、カーン……。
不意に大きな音が聞こえて浅葱はびくりとした。視線をそちらに向けるとそれは鐘だった。
ライトアップの中央にある大きな鐘。それが鳴っている。時間を告げるとか、そういうものだろう。
蘇芳先輩もそちらを見た。
数秒。沈黙が落ちる。
鐘はゆっくりと鳴った。そして六回鳴って終わった。
夜の六時になったらしい。
気付けばあたりも暗くなっている。早く帰らなければいけない。
蘇芳先輩もそれを知ったのだろう。
「……まずい。長居しちまったな」
……えっ。
浅葱は違う意味でどきっとした。
さっきのあたたかくてやわらかな空気。それが消えてしまったような気がしたのだ。
そしてそれは残念ながら事実だったようなのだ。
すっと蘇芳先輩の手が離れて行ってしまった。浅葱の手はそのまま取り残される。
急に手が冷たくなったように感じることだった。
けれど冷たいままになっただけではなかった。
かすかに先輩の声がする。
「もう少し、ゆっくりできるときにしよう」
蘇芳先輩のその言葉は口の中で呟くようなものだった。
けれど浅葱の耳には確かに聞こえた。
残念に思ったのは確かにあったのに、蘇芳先輩の言葉はまた違う意味で浅葱の胸を騒がせてしまう。
もう少し?
ゆっくりできるとき?
それは、そのくらいに、大事なことだと思ってくれて。
また顔が熱くなってしまう。
今、知りたかったに決まっている。
けれど嫌だとも言い切れない。
なにしろ唐突すぎて、ついていけなくなりそうだったのは確かだったのだから。
「うん、良かったらまた、付き合ってくれるか」
そう言われて、浅葱はこくりと頷くしかなかった。蘇芳先輩はそんな浅葱を見てにこっと笑ってくれた。浅葱がどう思った、と受け取っただろう。
それが心配だったけれど多分、悪い意味ではなかった。優しい目のままだったから。
「家まで送ってやれなくてごめんな。気を付けて帰れよ」
蘇芳先輩と別れたのは、前にそうしたように改札を抜けて、ホームへのエスカレーターをあがるところだった。
そんな優しいことを言ってくれて、おまけに見送ってくれる蘇芳先輩に前と同じように小さくおじぎをして。
浅葱はホームへ着いた。
前に『地球堂』で偶然会ってカフェへ行ったとき。あのときも帰りはどきどきしたのに、そのときとは最早比べ物にならなかった。
心臓が遅れてまたばくばくしてきて苦しいほどだ。しゃがみこみたいのをやっと我慢した。
しゃがみこみたかったのは顔が熱くてたまらなかったからだ。その顔を隠したかった、のもある。
まるで告白のようなこと、それに近いようなことを言われてしまった。
ううん、これはきっと思い上がりや都合のいい考えや、もしくは夢なんかじゃなくて、現実。
おまけに『ゆっくりできるときに、また』と言われてしまった。
それはつまり、さっきのことよりもっとはっきりとしたことが多分起こるだろうということで。
こんなこと、ラッキー過ぎる。
そんなところに直面してしまって、心臓が持つかな。倒れてしまうのでは。
そんなことを考えれば考えるほどくらくらと、まるで酔ったように浅葱の頭は揺れてしまっていて、着いた電車に乗ることも忘れて、はっとしたのは目の前で音を立ててドアが閉まってしまってからだった。
おかげで次の電車が来る五分ほどの時間。またさっきの出来事を噛みしめてしまって、また心の中でじたばたと転がった浅葱であった。
「ええ! それ絶対、告白じゃん!」
翌日。いてもたってもいられず昼休みに綾を捕まえた。「ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど……」と空き教室へ連れ出して昨日の帰り道にあったことを話したのだ。
昼休みという時間のないときだったので少し端折ったけれど、とにかく、要点は話した。
浅葱のその話を聞いて、綾は目を輝かせて自分のことのように嬉しそうにしてくれたのだった。
「そう……いう、可能性は、ある、かな」
まだ信じられないような気持ち、嫌な理由ではなく、こんなことは幸せすぎてにわかには信じられない、という気持ちだが。
そういう気持ちで濁ってしまった浅葱の言葉を、綾は切り捨ててくる。
「それ以外になにがあるの!」
「うう、そう、だよね……」
顔が熱くなってしまう。これは恥ずかしさと嬉しさから、だけど蘇芳先輩を前にしているときとは少し違う、と浅葱は感じる。
親友の綾がはっきり肯定してくれた。
その嬉しさと、自信を生ませてくれるようなことからだ。
「お断りするつもりなんかないんでしょ?」
「そ、そんなわけ! ……は……うん……ない、けど」
断るなんてとんでもない。二つ返事、というのは期待していたようで恥ずかしいけれど。でも事実だし、とも思う。
でも綾はそれも肯定してくれた。
「告白した相手の子が『実は自分も……』って言ってくれたら、すごく嬉しいんじゃないかなぁ」
その言葉は優しく、そしておそらく的確で。
浅葱の中に自信が生まれた。
こういう言葉が欲しかったのだ、と思う。
信頼できるひと、一番身近な親友に。
「そう、だよね」
浅葱の顔に笑みが浮かんだ。この相談を話し出してから初めてだ。
そりゃ、ちょっとは嬉しそうな顔はしていたと思う。なにしろ昨日のあの嬉しすぎた出来事の話をしたのだから。
でもそれとは意味がまったく違う。
自信を持てたから出せる笑顔、だ。
「それなら早いほうがいいよ。蘇芳先輩と二人になれる時間を作って……」
「ど、どうすればいいかなぁ」
ああ、また聞いてしまった。
浅葱は言ってから後悔してしまった。なんでも綾に聞いてしまおうなど。
けれど綾はむしろ張り切り出してしまったようだ。
「そりゃ部活が一緒なんだから、それ関係でいくらでもあるんじゃないの?」
わくわく言われたし、綾もきっと同じことを考えていただろうけれど浅葱はちょっと難しい顔になってしまう。
「うーん……普段ならあるけど……アドバイスがほしいとか、居残りして教えてくださいとか……でも今は秋季賞の提出直前だから……」
「ああ……そうか。それがあったか」
伝わったようで綾の勢いがちょっと落ちた。確かに今は部活が大詰め。
そして自分の作品を完成させて提出すればいい浅葱はともかく、蘇芳先輩は部長としてもっと大変だろう。そんな余裕はないかもしれない。
「じゃあむしろ、蘇芳先輩もそれが終わって落ちついてから、って考えてるかもよ?」
それもわかったようで綾は違うことを言ってくれた。
確かにそれはありうる、と浅葱も思った。
蘇芳先輩は『ゆっくりできるときに』と言ってくれた。
それならむしろ秋季賞提出が終わってから、という意味で取れるのではないだろうか?
「それまでに心の準備をしておけば、いざというときスムーズにお返事できるんじゃないかな」
最後ににこっと笑って綾は言った。
そのとおりだ。今はまだ、嬉しかったり期待したり九割がたそうじゃないかなと思っていても、落ちついているとはあまり言えないだろう。
「そうだね。そうしてみる! 私も絵に集中しないとだし」
そこでチャイムの音が聞こえた。予鈴だ。午後の授業がはじまってしまう。
「おっと。行かないとね」
綾はお行儀悪く座っていた机からぴょんと飛び降りる。その前の椅子に座っていた浅葱も立ち上がった。
「本当にありがとう。聞いてくれて」
「いやいや、おやすいご用だよ」
浅葱のお礼に綾はもう一度笑ってぱたぱたと手を振った。
空き教室をあとにして廊下に出る。ほかの知り合いに見られないように一階下の空き教室にお邪魔していたので、階段を一階分のぼらなくてはいけない。
「今日は数学だったよね」
「あー、午後イチが数学とか絶対爆睡じゃん。さっきゴハン食べたばっかだし」
「綾はいつもそう言うねぇ。でも中間テストあるから聞いてないとまずいよー」
「そうだけどぉ。じゃあ浅葱が教えてよ! 相談聞いてあげたでしょ」
「それとこれとは別じゃない?」
そんな、いつも通りの親友とのやりとり。
心がずっと、ずっと軽く、穏やかになったことに、浅葱はこのお茶目な親友に心の中でもう一度お礼を言った。
昼休みの綾との会話で随分心穏やかになった浅葱は、放課後になってうきうき部活へ行ったのだけど。
その日の部活が大荒れになるなんて、ちっとも予想していなかったのだ。
「こんにち、はー……?」
がらっと美術室のドアを開けて、明るく挨拶をしかけた浅葱だったが、すぐに気がついた。
様子がおかしい。
なんだか空気が張り詰めている。
すごく嫌な空気がひしひしと伝わってきた。
よって挨拶の語尾は小さくなっていってしまう。
入ってきた浅葱を見て、端のほうにいた同級生がちらっとこちらを見た。
その視線は「大人しくしとこ」だったので、浅葱は息を呑んでしまう。
そろそろとドアを閉めて、中に入って、わかった。
入り口と逆側の、窓際。
一年生二人が立っていて、うなだれていた。
その前には先輩数人が立っている。怒っているか機嫌を悪くしているかなのは明らかだった。
なんだろう。なんでこんな空気に。
とりあえず、その先輩たちは「ただ入ってきた子」という目でしか浅葱をちらっと見ただけで目の前の二人に視線を戻したので、どうも自分はその中にはカウントされないらしい。
ほっとするやら、安心しきれないやら。
この場は大人しくしておくべきだったので、浅葱は黙ったままちょっと離れたところにいる同級生や先輩たち、直接関係のなさそうなひとたちのそばへ、そろっと向かって合流した。
見ているのもどうかと思うけれど、この状況で「じゃあ今日の作業を」なんてできるものか。
「秋季賞に出せないって、どういうつもりなの?」
腕を組んで二人を怖い目で見ているのは三年の副部長の女子先輩だった。
森屋(もりや)先輩という。普段は明るくて、ちょっとふざけたことも言って後輩を笑わせるようなひとなのに、今は全く違う雰囲気になっていた。
そこで浅葱はやっと気付いた。怒られている一人は萌江。
一体なにが。違う意味で心配になってしまう。
おそるおそる、もう一人の子が口を開いた。
「間に合いそうに、ないんです」
その理由に浅葱は息を呑んだ。
そういうことだ。
秋季賞の締め切りに、作品が間に合いそうにない。
それがサボっていたからなのかなんなのか、そこまでは浅葱は知らない。
でもその可能性は高そうだった。
もう一人の子はクラスも違うし中学も違ったので、浅葱は特別には親しくなかった。だからその子のことは詳しくない。
けれど萌江のことならわかる。
萌江は悪く言えばちょっとルーズなところがあるのだ。課題だって溜め込むし、ああ、そういえば夏休みの課題だって、夏休みが終わってしまってから、先生に散々つつかれてようやく提出していた。そういう欠点。それが出てしまったのかもしれない。
「間に合いそうにないって、作業日はあと四日くらいはあるでしょう。それで無理だって言うの?」
森屋先輩は怒りを押し殺している、という声で言った。
そこで浅葱は気付いた。いつの間にか、ドアのところに蘇芳先輩がいた。
そのドアというのは美術室の入り口ではなく、奥にある美術準備室のドアだ。
なにか、美術準備室で支度をしていたか、もしくは水野先生と話や打ち合わせをしていたのか、そういうことをしていて今、部活へ入ってきたのかもしれなかった。
蘇芳先輩も固い顔をしていた。
この状況では当たり前だろうが、浅葱は心がすっと冷えるのを感じた。
蘇芳先輩のこんな顔。見たことがなかった。
自分に向けられているわけでもないのに恐ろしくてならない。
実際、美術室の中は一触即発という雰囲気だった。
その中で副部長の質問に萌江が口を開いた。
こんな中で責められていれば当たり前であるが声は震えていた。
「その、……中途半端なものは出したくなくて……」
一瞬、冷たい空気が余計に固まった。
副部長だけでなく、この美術室にいるほかの部員、みんなが多少なりとも嫌な気持ちを感じただろう。
それは当たり前のように理由がある。
森屋先輩がみんなのその気持ちを代表するように言った。鋭い声だった。視線も睨みつけるようなものになる。
「中途半端ってなに? それが嫌なら計画的に進めるべきでしょ。それをやらなかったのは、あなたたちじゃないの?」
正論だった。そして部員が嫌な気持ちになった理由。
それは、みんなここまで頑張ってきたからだ。
締め切りに間に合うように。
自分の中で最高のものを出せるように。
『中途半端』にならないように。みっともないものは出さないように。
計画的に、だ。
それをやらなかったうえに言い訳にされては面白いはずがない。
「それに中途半端なら中途半端で、どうにか格好がつくように仕上げるべきよ。絵におしまいはないんだから折り合いをつけることだって……」
もうひとつ、代表するように、実際代表だったのだろうが副部長が言った。
けれどその言葉は遮られる。
ここまで黙っていた蘇芳先輩が口を開いたのだ。
「森屋。そのへんで」
言葉はそれだけだったのに、空気がさっと変わって、部屋の中の全員が黙ってしまった。
怒られたわけではないのに。
怒鳴られたわけでもないのに。
それほど蘇芳先輩の声は静かで、でも威厳にあふれていた。
森屋先輩もそこで言葉を切った。蘇芳先輩のほうを見る。
その森屋先輩にひとつ頷いて見せて、蘇芳先輩は萌江たち、二人の前に立った。
「森屋の言う通りだ。部員としての義務を果たさなかったこと。それはお前たちが悪いことだと、わかるな?」
はい。はい。と二人はそれぞれ、ただ頷いた。
先輩に取り囲まれて責められたせいで、二人とも既に泣き出しそうな顔になっていた。
けれど庇うことなどできるはずがない。副部長の言ったことはなにも間違っていないのだから。
二人に話をする役は蘇芳先輩にチェンジされたようだ。
副部長の森屋先輩と、その横にいた三年生も一歩引く。
「だけどこれ以上、説教を続けてもこうなっちまったもんは仕方ない」
蘇芳先輩の言ったことは部長として当然のことだった。ただ怒るのではなくこれからのことを見すえた話だ。
「とはいえ、出さないのは許さない。部員として全員提出は言ってあったからな」
蘇芳先輩のきっぱりとした言葉に萌江たち二人は黙った。
『中途半端』でも出せということだろうか。
二人だけでなく、その場の部員全員がそう思っただろう。
けれど蘇芳先輩の言ったことは違っていた。
「森屋が言っただろう。『折り合いをつけることは必要だ』って。そうしてみろ。間に合わないなら間に合わないなりに、なんとか格好のつくように努力してみろ。満足できるできにはならないだろう。けれど、それが秋季賞に向かってきた部員としてすべきことだ」
しん、と部室の中が静まり返る。
蘇芳先輩の言ったことは正論で、それから『部長』だった。先輩である以上に、この部活を引っ張っていく『部長』なのだ。
きっぱり言い切った蘇芳先輩の言葉。
萌江たち二人もやるべきことは言いつけられたけれど、それはやらなければいけないことなのである。蘇芳先輩の言った通り。
それは、この部活に居続けるというなら避けては通れない。
「わかりました」
「すみません」
萌江たち二人はそう言って蘇芳先輩の言葉を受け入れた。
これでこの騒動は一旦終了、ということになっただろう。
蘇芳先輩は二人から視線を外して美術室の中を見渡した。息を呑んで見守っていたほかの部員を、だ。
そして空気を変えるように、ぱん、と手をひとつ叩いた。
「はい、この話はおしまいだ。時間がないぞ、みんな自分の作業に入ろう」
その通り、部屋の空気は一気にゆるんだ。みんな、心の中で安心した溜息でもついただろう。そんな雰囲気が溢れる。
部員たちはみんな散らばっていって自分の絵の作業に入り出した。道具を準備したり必要なものを取りに出ていったり。
その中で蘇芳先輩が、再び萌江たち二人に声をかけているのが浅葱には見えた。
「とりあえずどこまで進んでるのか見せてみろ。見てやるから」
「はい……本当にすみません」
ぐす、と鼻をすすりながら萌江が蘇芳先輩に言う。蘇芳先輩はそれ、軽く首を振った。
「泣いてるヒマなんてないだろ。精一杯やれ。それがつとめだって言ったろ」
「はい!」
蘇芳先輩の言葉は、普段に比べたら随分固くて鋭いものだった。
けれどそれは部長としての立場で、役目なのだ。
優しくするときは優しくする。それがいつもの蘇芳先輩。
でも良くないことをする部員がいたらしっかり部を引き締める。
それが部長としての仕事。
自分のキャンバスを運んできながら、浅葱は萌江たちにはちょっと悪いと思いながらも感じ入ってしまった。
この空気は楽しかったわけはない。できればこんなことは起こらないほうがいい。
けれど蘇芳先輩のこの事態の鎮め方。それは部長として立派過ぎることだし、それに格好良かった。
自分もこうして、悪いことは悪いと諫めながら、それでも前に進むための道を示せるようなひとになりたい。
浅葱は思った。
まだ自分は一年生で未熟に決まっている。今は自分のやるべきことだけをしっかりこなしていくしかない。
けれどいつかは蘇芳先輩のようなひとになりたい、と思う。
部長なんて立場になれるかはわからない。けれどいつか後輩ができたときは、蘇芳先輩のようにきっぱりとした物言いや行動ができるようになりたい。
それは片想いをしているという気持ちからの、贔屓目ではない。
ひとりの『先輩』『部長』として蘇芳先輩をとても、とても尊敬している。
そういう、あたたかくもきりっと引き締まるような気持ちだったのだ。
秋季賞提出締切、最後の週末がやってきた。この土日が終わったら残りはあと二日。
火曜日に提出締切なので、作業日は月曜日までしかないし、更に言うなら月曜日にはあとは最後の見直し、ほぼ完成としておかなければいけないだろう。
つまりこの土日が最後の勝負というわけだ。
よって土日は特別に美術部にも活動許可が出た。
こういうコンクールの締切前などでない限り美術部は休日の活動がない。それは楽だなぁとか、遊ぶ時間ができていいなぁとか思ったりすることだったがこのときばかりは遊んでなどいられるものか。時間が許す限り、ぎりぎりまで手を入れたい。
ここまで頑張ってきたのだ。
賞が欲しいと頑張ってきたのだ。
それを叶えるための最後のひとふんばり。
この土日の活動は美術部全員が来るわけではなかった。あくまでも『自由参加』なので、作業したいひとや用事のないひとだけ来ればいい。そういう日だった。
浅葱は勿論参加した。朝から制服を着て学校へ行って、教室ではなく美術室へ直行。髪をまとめて制服の上からエプロンをして、最後の色調整を入れていく。
時間なんてあっという間に過ぎる気がした。
浅葱の薄い青や黒で下塗りをしていた絵は、もうしっかり『青』一色に染まっていた。
濃い青、薄い青、水色、黒に近い青……何色あるかなんて、もう浅葱にもわからなかった。
下絵はあれから少し変えた。蘇芳先輩にもアドバイスをもらったのだ。
イルカのポーズを反転させて、よりダイナミックに見えるようになったはずだ。
それに伴い色のトーンも変えていく必要があったので、そのバランス調整に浅葱は最後の数日を使っていた。
もう大幅に絵の具を塗る段階ではない。
少し塗っては離れ、塗っては離れして、全体のバランスを見ながら微妙に手直しを入れていく。
浅葱だけでなく周りの部員たちも同じようにしていた。美術室の中は、時々ちょっとした短い会話が聞こえる以外は、しんとしていた。みんな集中していたのだ。
みんな、なにかしらの賞が欲しいに決まっている。そうでなくても納得いく絵に仕上げたいに決まっている。だからこそここまで頑張ってきたのだし。
ちょっと休憩、としたときに浅葱は蘇芳先輩を見た。
蘇芳先輩は例の件、萌江たちの絵の突貫工事……とでもいえるだろうか。急ピッチでの仕上げをするべく、ずっとそちらについていた。
二人が描いていたのも油絵だったが、もう重ね塗りをしていては間に合わないからとポスターのように平面的な塗りを生かすように、蘇芳先輩がアドバイスしているのがちらっと聞こえた。
蘇芳先輩、自分の絵は大丈夫かな。
浅葱は心配になってしまった。
この土日、蘇芳先輩だって自分の絵の最後の仕上げをしたかったはずだ。それが一年生のミスにかかりきりになってしまって。
あまり良くない思考だが、浅葱はちょっと萌江たちのことを恨んでしまった。
二人がちゃんと作業を進めていたら、蘇芳先輩に余計な用事はできなかったのだ。そのぶん自分の絵のクオリティをあげられただろうに。
でも真剣に二人の絵を指差して教えていく蘇芳先輩を見て、心の中で首を振った。
ううん、それは蘇芳先輩が決めること。
私がどうこう思うことじゃない。
きっと先輩なら大丈夫。きっと最高の絵を出してくる。
そう信じることにした。
だってほかならぬ蘇芳先輩なのだ。
彼の部活の先輩として、また絵の先輩として、そして部長として。そういう手腕をずっと、何度も何度も見てきた。
そういう蘇芳先輩だ。きっと大丈夫。
思って、浅葱は声をかけずに美術室を出た。
飲み物でも買ってきて休憩しようと思ったのだ。