先輩、とはまさか。
浅葱がここまでずっと気にしてしまっていた、曽我先輩というひとではないだろうか?
そしてそれは残念ながら事実だったようなのだ。
「俺の前の部長さんがさ、女子先輩だったんだけど。絵がめちゃくちゃうまいひとで、当時の賞を総ナメするようなひとで」
初めて壱樹先輩の口から聞く。浅葱の心臓がどきどきしてきた。
けれどこのどきどきはあまり心地良くなかった。
本当は聞きたくない。でも聞いておかなければいけないことだとも思う。ここまで気にしてしまってきたのは確かなのだから。
「そう、なんですね」
こんなあまり綺麗でない気持ちは悟られたくないけど。よって浅葱はなるべく普通に言った。
「先輩も今、美大で活躍してるはずだ。だから俺も大学生になったら余計に頑張らないとなと思うんだ」
まぁ、まず受かることだけどな。なんて壱樹先輩は頭に手をやって笑った。
浅葱も笑った。
けれどそれは愛想笑いのようになってしまっただろう。
曽我先輩は美大にいるのだ。
まさか壱樹先輩が受けるのと同じところだろうか。
いや、この口ぶりだとそうなのかもしれない。
胸がずきずき痛む。
曽我先輩というひとと付き合ってなんかいないことは知っている。だって自分と付き合ってくれているのだから。
でも再会して、近くにいるようになったら?
まさか、なにか、嫌なことが。
思ってしまって浅葱は自分が嫌になった。
そんな疑うようなこと。
考えたって意味がないし、壱樹先輩を信じていないようなことなのに。
だから頭から振り払おうとした。
「私もそろそろ受験について考えないとって思うんですよ」
言ったことは話をそらすようなことだった。本筋からはそれていないけれど。
壱樹先輩はなにも疑問に思わなかったらしい。「そうだな、二年生になったらそろそろ考えたほうがいいだろう」と言って、そのあとは壱樹先輩が二年生の頃、勉強していたことなんかを話してくれた。それで浅葱の意識もそちらへ集中することができた。
でもさっき考えてしまったことは、どうしても頭の隅には残ってしまったけれど。
年末はデート、というわけにはいかなかった。壱樹先輩は折角纏まった時間があるのだ、受験勉強を頑張りたいだろうし、浅葱も家のことを手伝うように言われていたし。
それでも冬休み。友達たちと一日遊びに行った。
ショッピングモールに行って、年末セールで色々と服や雑貨を見て、ファミレスで長々とお喋りもした。
その中で「蘇芳先輩、優しい?」「いいなぁ、カレシ持ちになっちゃうなんて。しかもあの蘇芳先輩」なんて話題になったのは当然だろう。
浅葱は顔を赤くしてしまって、ジュースのストローを咥えながら壱樹先輩のことを話した。
話せるのは嬉しかったけれど、どうしても恥ずかしい。ハグをしただのキスをしただの具体的なことは言えないし。いくら友達相手だといっても恥ずかしい。
「浅葱、頑張ってたもんね。本当に幸せになってくれてよかったよ」とその中で言ってくれたのは綾だった。
綾も普段は部活が忙しいのだけど年末はやはり休み。久しぶりに思いっきり遊べるよ、と今日も一番はしゃいでいた。
「そうだね。部活では私もだいぶお世話になっちゃったし」
萌江も頷いてくれる。目の前のケーキをつつきながら。
ほかの子たちも「いいなぁ」と言えども二人が言ってくれたように同級生でいつも学校で浅葱と過ごしてくれている子たちなのだ。浅葱が頑張っていたことは親友である綾や萌江ほどでなくても、それなりに知っていてくれている。
いい友達がいてくれてよかった、と浅葱は噛みしめる。
綾や萌江はたくさん助けてくれたけれど、友達は一人ではないしその誰もが等しく、大切な存在だ。
ちょっとからかわれつつも祝福してもらえたことに嬉しくなる。
それに心の中があったかかった。
自分は一人ではない。
壱樹先輩は彼氏だけど、友達だって違う意味で傍にいてくれる大切なひと。
優しいひとたちに囲まれている自分は幸せなのだ。
年末のこの友人たちとのお出掛けは、浅葱にとってとても楽しめ、また自分の幸せを噛みしめさせてくれるような素敵な一日だった。
年も明けて新年。心新たにまた一年をはじめる日である。
そんな新しい一年はデートではじまった。
壱樹先輩が「初詣に行かないか」と誘ってくれたのである。
浅葱は勿論「はい!」と答えるところだったけれど、ちょっと心配になった。
元旦だ。家族と過ごす予定もあるだろう。
それに勉強だって……。
よって「いいんですか?」と言ってしまったのだけど、壱樹先輩は予定を話し合っていた通話越しにだったけれど「当たり前だろう」と言ってくれた。
「一年のはじまりなんだ。神様にお参りをしないとな」
そう言われれば当たり前のことであった。それに。
「浅葱と行きたいんだ。一年の最初の行事だし『綺麗なもの』も見られるだろうし」
優しい声で言われたことにほわっと胸が熱くなってしまう。
壱樹先輩が告白のときに言ってくれたこと。
『隣で綺麗なものをたくさん見たい』
その相手に自分を選んでくれたことを改めて実感してしまった。
そんなわけで初詣に一緒に行くことになった。
神社は浅葱の住む駅の近くにあるところに行くことにした。そこそこ大きめのところ。
よって壱樹先輩が「迎えに行くよ」と言ってくれて、家まで来てくれたのだけどそこで事件が起こってしまった。
「あったかくして行きなさいよ」
家を出る前、お母さんに口をすっぱくして言われた。確かに一月の午前中なのだ。今日はだいぶ冷え込む。
「大丈夫だよ。ちゃんとズボンにしたし」
上はクリスマスと同じ赤いコートだったけれど下は長ズボンにした。
お参りの順番を待つとき寒い中、しばらく並ぶかもしれない。
冷えて体調を悪くしてしまったら壱樹先輩に迷惑をかけてしまうし、デートも楽しめなくなってしまう。
なのでスカートで行きたいところだったけれどズボンにしておいたのだ。
今日のために茶色のチェックのかわいらしめのものを買ったので、赤いコートにも似合うはずだ。
そんな支度もしっかり整えたのだけど、玄関のドアを開けて「行ってきます」と言ったとき、お母さんが「ああ、あれ」となにかを思いついたように言った。
「カイロ! 持っていきなさいよ」
確かにカイロがあったらあったかいだろう。お腹に入れておけば冷えることもないだろうし。
「すぐ持ってくるから」
そう言って家の中に入っていったお母さん。
しかしそこへやってきたひとがいた。
「やぁ、あけましておめでとう」
壱樹先輩だった。
浅葱の顔がぱっと明るくなった。年が明けて初めて会う。
それだけでなく冬休みに入って初めて会うのだ。
ほんの数日なのに随分長く会っていなかったような気がして、心が踊ってしまった。
「あけましておめでとうございます! 今年もよろしくお願いします!」
ぺこっとおじぎをする。壱樹先輩は「浅葱は律儀だな」と笑って、でも「俺こそよろしくな」と言ってくれた。
これからの一年も一緒にいられる。朝から嬉しくなってしまった浅葱であったけれどそこへドアが開く音がした。
「浅葱! カイロあったわよ……。……あらっ」
カイロを手にして出てきたお母さん。
浅葱が待っていたことはわかっていただろうけれど、隣にいた壱樹先輩を見てきょとんとした。
……あっ。
浅葱はそこでやっと気付いた。
一気に顔が熱くなってきてしまう。
男のひとがこんなところにいるのだ。明らかに浅葱と親しげな様子で一人で来ているのだ。
お母さんに、その意味が、わからないわけが。
お母さんにはまだ、彼氏ができたという話はしていなかった。
まさかこんな形でバレるなんて。いや、バレたよね。どうしよう、高校一年生で彼氏なんて早すぎるとか言われたら。
そんな心配が膨れ上がるやら単純に恥ずかしいやらで、浅葱はなにも言えなくなってしまった。
けれどそんな浅葱のすぐ隣にすっと壱樹先輩が並んできた。
「初めまして。お母様ですよね。蘇芳壱樹といいます」
しっかりと名乗ってぺこっとおじぎをする。
お母さんも驚いたに決まっているけれど、壱樹先輩ははっきり言ってくれた。
「浅葱さんとお付き合いさせていただいています」
その言葉。
はっきりとした、浅葱と付き合っていると名乗ってくれた言葉。
浅葱の胸を一気に熱くした。顔も赤くなっただろう。どれほど赤くなってしまっているかもわからない。
「……まぁー……浅葱ったら、どうして黙っていたの」
お母さんは数秒黙っていたけれど、すぐに感嘆したような声を出した。
あ、言ったほうが良かったのかな。
浅葱は思ったけれど、だってわからなかったのだ。
こういうことを言うタイミング、というのが。
そして浅葱が心配したようにはならなかったどころか、むしろ真逆の結果になった。
「こんな素敵な彼氏さんがいたなんて。蘇芳くん……でいいのかしら? 何年生? あ、大学生かしら」
お母さんは壱樹先輩が気に入ったらしい。あれほどしっかり挨拶をしてくれた壱樹先輩なのだ。勿論見た目だっていい。どこに嫌う要素があるというのか。
「重色高校、三年生です。美術部部長をしていまして……」
そのままお母さんと壱樹先輩は話しはじめてしまった。
お母さん。
壱樹先輩。
今まで全く別の世界にいた、自分の身近なひとが話している。
浅葱は夢を見ているようなヘンな気持ちを感じてしまった。
その感覚はふわふわして、静かにどきどきするような、妙に心地いいもの。
「今日はこれから初詣に行くんです」
そろそろ話が終わるらしい。浅葱は悟ってそろそろ壱樹先輩を見た。
壱樹先輩は浅葱を見下ろしてにこっと笑ってくれる。
「あら、いいわねぇ。浅葱、楽しんでいらっしゃいよ」
「……うん」
お母さんはにこやかに言ってくれたけれど、浅葱の返事はどこかはにかんでしまった。
浅葱の様子がおかしかったのか、お母さんと壱樹先輩が、くすっと笑うのが聞こえてしまう。何故かタイミングがぴったりだった。
「じゃ、じゃあ、行ってくるね」
無性に恥ずかしい。浅葱は言って、思い出したようにお母さんからカイロを受け取った。
「はい。いってらっしゃい」
「では浅葱さんをお借りします。遅くならないうちに帰りますから」
ちょっと、また子供扱いみたいなこと。
思った浅葱だったがそんなことは言葉にできるはずがない。
それに嬉しくもあるし、なんて、思ってしまって。
こんなしっかりとした挨拶をしてもらったのだ。壱樹先輩にとっても予想外の出来事だっただろうに、だ。
そこは浅葱が壱樹先輩を尊敬する部分だった。
これは先輩としてきっちり、しっかりした人間であるところ、である。
自分もこういうひとになりたい、と思わされるような態度であった。
「あー、だいぶ緊張したな」
けれど壱樹先輩は浅葱の家から離れて、角を曲がって、しばらくしたところでそう言ったのだった。
浅葱はちょっと驚いた。
緊張した、のだという。
でもすぐに、それはそうだよね、と納得してしまった。
いきなり彼女の親に会うことになってしまったのだ。緊張しないはずがない。
そこで動揺する様子を見せるどころか、堂々と挨拶してしまうのが壱樹先輩のすごいところなのだけど。
「ご、ごめんなさい。一人で出てくるつもりだったんですけど……」
「いや、いいさ」
謝った浅葱にはひらひらと手が振られた。
「いい機会だったんじゃないか?」
言われた言葉には、またぽっと顔が熱くなってしまう。
初詣デートが終わって帰ってから。
お母さんにあれやこれや聞かれてしまうのは、もう確定だったからである。
新学期に入った学校は少し張り詰めた空気が広がっていた。学期がはじまってすぐ中間テストがあるからである。
なにしろ年度は三月までなのだ。一月に中間テストでも仕方がない。
よって浅葱もテスト勉強に励んだ。
傍らで部活も進めていたけれど。
次は春季賞がある。
これは部活が新しい世代になってから初めてのコンテストである。自然と気合が入る。
部活の運営とコンテストは直接関係ないけれど、部活動自体ももう二年生と一年生で進めていかなければいけないし、毎週のデッサン、もしくはクロッキー会だってそうだ。
はじめはぎこちなかった。それはそうだろう、今までは壱樹先輩や森屋先輩がメインになって進めてくれていたこと。今はもう三年生抜きで進めなければいけない。
流れもすることもわかっていてもどうしてもスムーズにはいかなくて。
でもこれにも慣れていって、うまくできるようになっていかなくてはいけない。
四月になれば新一年生が入ってくるのだから、それまでにしっかり部活として成立できるようにしておかねばならないのだ。
新二年生リーダーに任命された浅葱も、やることや覚えることがたくさんで。
新部長で、前二年生リーダーの金澤先輩によく質問させてもらって、聞いたことは全部メモしていった。
金澤先輩だけでなく隙あらば副部長、会計、書記……そういう役職持ちの先輩にも質問した。
立派な先輩で二年生リーダーになりたかった。
なにしろ壱樹先輩が「浅葱ならできる」と認めて任命してくれたのだ。その期待に応えなくては。
壱樹先輩は三月で卒業してしまう。
けれどそれで縁が切れてしまうはずはない。
たまには重色高校にも顔を出してくれるだろうし、浅葱はもっと特別な存在なのだ。「週に一回は会いたいもんだな」と言ってもらっていた。
だから今よりかなり頻度は落ちるけれど、それなりに多く会えるよう約束している。
デートのときに「部活のほうはどうだ?」なんて聞かれて、うまくいっていないなんて情けない返答をするわけにはいかないではないか。
よって浅葱のリーダーとしての活動は気合が入っていた。
二年生の先輩たちもそれを認めてくれて、金澤先輩などは「六谷はやる気に溢れてるなぁ。再来年度は俺が六谷を部長に任命するかもしれないな」なんて、冗談半分かもしれないけれど言ってくれたくらいである。
そのときは「いえ、そんな、まだ私なんて全然……」と言ってしまったけれど、嬉しかった。
二年生リーダーになれたときから浅葱には新しい目標ができたから。
……三年生になるとき。
部長になりたい。
壱樹先輩のような、先輩としても部長としても、立派な人間になりたい。
そういう、具体的で、絶対に叶えたい目標だ。
でも美術部なのだ。
絵だって勿論うまくなりたい。
進学するときは美大を受けて、合格して、大学生になりたい。
やりたいことも叶えたいこともたくさんだった。
それに向けてやることだって多すぎて、浅葱にはいくら時間があっても足りないように感じてしまう。
まだ高校一年生ではあるけれど、あと二ヵ月ほどでそれもおしまい。そうしたら高校生活は残り二年間なのだ。
その二年間でどれだけやりたいこと、できるようになりたいことを叶えられるか。
浅葱はひとつでも多く達成させるつもりだった。
そしてそういう姿勢は部活のひとたちは勿論、今はたまにしか美術室に顔を出さなくなってしまった壱樹先輩も認めてくれたのである。
「浅葱はすごいな」
ある放課後、カフェでお茶を飲みながらふと壱樹先輩が言った。
年末から壱樹先輩は受験直前の短期講習を受けに塾に通うようになっていた。よって新学期になっても一緒に帰れるのは一週間に二日ほどになってしまっている最近。
寂しいけれど壱樹先輩を応援する気持ちのほうが強かった。
それに一緒に帰れる日がもっと特別に感じられるのだ。
今日は更に特別な日だった。「たまには息抜きしようぜ」と壱樹先輩がムーンバックスに連れてきてくれたのである。
今回は学校のある駅前のムーンバックスで、地球堂のある駅のムーンバックスではない。つまり初めて一緒にカフェというものに入って、デートのようなことをしたお店とは別である。
あのときとは随分変わった、と浅葱は思う。
自分の気持ちも、先輩との関係も。
「そう、ですか? 受験勉強を頑張ってる壱樹先輩のほうがすごいと思いますけど」
浅葱はあつあつのキャラメルラテを、ふぅふぅと冷まして飲みながら言った。
浅葱の答えには笑みが返ってくる。
「そうだけど。そうやってひとの頑張りをよく見ていて認めてやれるところもすごいんだよ」
意外なところを褒められた。浅葱は一瞬の驚きののち、嬉しくなってしまう。
壱樹先輩に認められるのは嬉しい以上に特別なことだから。
一番、認めてほしいひとだから。
「そうできてたら、嬉しいです」
はにかんだような笑みを浮かべた浅葱に壱樹先輩はまたにこりと笑ってくれる。
穏やかな放課後だ。カフェの二階席のカウンター。
外はまだ夕暮れだけど暗くなりきっていない。
ほのかにオレンジ色をしている。
あ、あの絵みたいだ。
浅葱は不意にある一枚の絵のことを思い出した。
それは壱樹先輩に初めて『出会った』ときの絵のことだ。
夏の夕暮れの風景。オレンジ色がとても美しくて、優しいひかりをしていたあの絵。何時間でも眺めていたいと思ってしまった絵だ。
浅葱は自然に口に出していた。
「私、壱樹先輩の絵を初めて見たの、中学生の頃だったんです」
「え、そうだったのか?」
壱樹先輩が口にしていたホットコーヒーから視線をあげて浅葱を見る。
視線が合って、ちょっとだけ、とくんと心臓が跳ねたけれど浅葱は続けた。
「はい。コンテストで賞を取ったでしょう。夏の日暮れの絵。私、あれが展示された美術館に友達と見に行って……あの絵に引き寄せられちゃったんです」
「そう……だったのか」
壱樹先輩は驚いたという声、感嘆を含んだ声で言った。
浅葱はいくつか挙げていった。あの絵の好きなところ、興味を引かれたところ、魅力に感じたところ。それはいつも絵について語り合う感覚で話したのだけど途切れたとき壱樹先輩が言ったことに、はっとしてしまった。
「意外なところで見られていたと思うと、ちょっと照れるな」
実際にちょっと気まずそうにしている壱樹先輩。
浅葱はやっと気付いた。
壱樹先輩の『絵の』好きなところを挙げていったけれど、それは『壱樹先輩の』好きなところでもあるのである。
そんなことをぺらぺらと。
急に、かぁっと顔が熱くなった。
なんて恥ずかしいことを語ってしまったのか。
「す、すみません、私……」
恥じ入ってしまった浅葱を見て、けれどその姿を見たためか壱樹先輩は笑みになった。
「大胆だなぁ」
はっきりからかうようなことを言われてもっと顔が熱くなってしまう。
「ち、違います、絵の話で」
「絵だって俺の一部なんだなぁ」
「そ、そうですけどぉ……」
やりとりはからかわれているものであったけれど不快ではなかった。ただ、大胆なことを言ってしまって恥ずかしかっただけだ。
だからやりとりをする空気は穏やかだった。
しばらくして壱樹先輩が「すまん、からかいすぎた」とまだ笑っているくせに、でも一応そう言って終わらせてくれて浅葱はほっとした。
「いや、でも『絵はそのひと』っていうのは、俺もそう思う。俺も浅葱の絵が好きだよ」
違う意味で浅葱の心臓を跳ね上がらせてきた、その言葉。
今までだって「六谷の絵はいいな」と言われていたけれど、今のものは特別なのだ。
「ありがとう……ございます」
なので返事はもじもじしてしまった。
壱樹先輩はそんな浅葱を見て優しく微笑んでくれた。
「浅葱の手が好きだ」
不意に全く違うことを壱樹先輩は言う。浅葱が、え、と思ったとき。
カウンターの上にあった浅葱の手がそっと握られた。
ほわっと、もうだいぶ慣れたあたたかさが浅葱の手を包み込んだ。
「この手が素敵な世界を生み出すだろう。俺はそれが好きなんだ」
包み込むだけではない。両手を出してきゅっと両手で包まれる。
浅葱の手、全体があったかくなってしまう。
慈しむ、というような触れ方に、そこから火がついたように胸が熱くなっていく。
そのひとの手が生み出す世界。
それはひとの数だけ存在する。
いや、ひとの数以上に存在する。
同じ絵は、同じひとが描いたとしても二度として同じものはできあがらないのだから。
その、世界にたったひとつだけの『特別な世界』。それを生み出せる手は、まるで魔法のような存在だ。
「私だって、そうですよ」
自分の手を包んでくれるあたたかな手。
それを『好き』と感じる気持ちは同じだから。
「壱樹先輩の絵は『壱樹先輩』です。だから私は」
浅葱は言った。今度はためらわなかった。にこっと笑って口に出す。
「……先輩の世界が、大好きなんです」