きみの手が生み出す世界

 今日の服。ワインレッドのコート。
 ダブルボタンで、短めの裾に控えめにレースがついていて。厚手のウールでとってもあたたかい。
 女子高生や女子大生に人気のある憧れのブランドのもので、故に大人っぽいデザインで勿論お値段も普段、私服を買っているような安いブランドよりずっと高かった。
 けれど折角のデートなのだ。ちゃんとした格好をしたかった。
 ドレスアップ、なんてものではなくてもしっかりオシャレをして。蘇芳先輩の隣に並んでも恥ずかしくないように。
 この特別なお買い物は秋のバイト代を使った。綾のお店のお手伝いをしたバイトのときのお給料は手をつけずに丸々取っておいたのだ。
 なにか、特別なものを買ったりするときに使おうと思って。それが幸いした。今こそ使うべきときだ、と思って、浅葱はお給料袋を握りしめてお店へ行ったのだった。
 それでこのコートとスカートを買った。
 コートを短い丈にしたのはスカートが見えるように、だ。
 ロングコートはかわいいけれど、下の服がまったく見えなくなってしまう。
 だから少しだけ下の服、ミニスカートが見えるようなものを選んだ。
 ちなみにスカートはグレーとピンクのチェックのフレアスカートだった。これも厚手の素材で冬らしくて、そして女の子らしい。
 蘇芳先輩はそのコートもスカートも褒めてくれて「オシャレしてきてくれてありがとな」と言ってくれた。
 自分のことを見てくれた。褒めてくれた。
 両方がとても嬉しくて。
 浅葱はもう一度、ありがとうございますと言ったのだけど、そのあと自分からも言った。
「蘇芳先輩も、とても素敵です」
 そう、今日の蘇芳先輩はカジュアルながらもかっちりとした、大学生といっても通ってしまうほど大人っぽい格好をしていた。
 ダークグレーのPコート。コーデュロイ素材であたたかそうな、季節感が溢れたズボン。シンプルながらブレスレットなどもついていた。コートの中はわからないけれど、きっと中も素敵なのだろうと浅葱は思った。
 髪型だって、普段とは違うハード目のワックスをつけているようで、髪は持ち上げられていた。
 普段よりきりっとした印象で、また蘇芳先輩の新しい面を見られた気がする。
 それも、これは学校の誰もが見られるものではないのだ。
 ……いや、違う。
 浅葱のために、つまり彼女のために、この特別な格好をしてきてくれたのだ。デート、だから。
 本当に、今日は特別な日なのだ。
 学校の中とは少し違う二人の関係。
 格好からもそれを感じられることが嬉しくてならない。
 浅葱の心は踊ったけれど、それと同時に何故かふっと緩んだ。
 蘇芳先輩と一緒にいられるのは自分なのだ。
 そう思うのは傲慢でもなんでもない。
 自信、だ。
「お、ゲーセンだ。ゲームとか好きか?」
 通りかかったのはゲームセンター。デートの定番だ。
 蘇芳先輩に聞かれて、浅葱は頷いた。
「はい! クレーンゲームとかもしますし、音ゲーも少し」
「おっ、なんか意外だな。俺もたまにやるんだよ。どれプレイしてるんだ?」
 中へ入りながら蘇芳先輩は聞いてくれた。
 一階のクレーンゲームコーナーで、蘇芳先輩は浅葱にぬいぐるみを取ってくれた。
 それは片手の大きさほどのうさぎのぬいぐるみだった。ふわふわとした素材でできていて、手触りがとてもいい。首元にはリボンが結んであった。
「わぁ、取れました!」
 百円玉、三枚ほどでうさぎはクレーンに掴まれてそのまま落ちてきた。取れたとき、浅葱はつい声をあげてはしゃいでしまったものだ。
「運が良かっただけだよ」
 取り出し口に落ちたうさぎを取り上げて「ほら、プレゼントだ」と渡してくれた蘇芳先輩。ちょっとはにかんだように笑った。
「いえ、すごいです! ……ありがとうございます!」
 いいんですか、と言おうとしてやめておいた。
 あまり遠慮するのも、彼女としてどうかと思ってしまったのだ。それより素直に喜んだほうがいいかもしれない。
 そしてそれは多分間違っていなかった。
 蘇芳先輩は照れたように頭に手をやって「かわいがってくれると嬉しいよ」と言ってくれた。
 浅葱はうさぎの顔をじっと見つめた。くりっとした目がかわいらしい。
 大事にしよう、と思った。彼氏になってくれたひとからもらった子だ。ベッドにでも置いておいたら、蘇芳先輩の夢が見られるかも。
 思ってしまって恥ずかしくなったけれど、それはふわっと心があたたかくなるような感覚だった。
 そのあとは二階や三階で別のゲームをした。
 メインでプレイしている音楽ゲームは違うものだったけれど、お互いのものも少しはプレイしていることが判明して、浅葱は嬉しくなってしまったものだ。
 一曲ずつそれぞれのゲームで対戦して、ほかのゲームもした。
 太鼓を叩くやらシューティングをするやらだ。
 太鼓はたまにやるのだが、シューティングは初めてだったので蘇芳先輩が教えてくれた。
「銃を固定させて撃つんだよ。そうすると軌道が安定する」
 うしろから手を沿えるように教えてくれたので距離が近くて、うっすらと伝わってくる体温に浅葱はどきどきしてしまった。
 こんなこと、恋人同士じゃなければ絶対にしない、と思ってしまって。
 どきどきしつつも蘇芳先輩のアドバイスどおりに何発も撃ってみて。
 はじめは外れてばかりだったけれど、そのうち当たるようになってきた。
 最後のほうにはクリティカルヒットも出せて、蘇芳先輩に「なかなか筋がいいじゃないか」とまで褒められた。
 これはただのゲームだけど、手を抜くことなく丁寧に教えて、おまけに褒めてくれるのだ。
 対戦は当たり前のように蘇芳先輩が大差で勝ちだったけれど「またやろうな」と言われて浅葱は頷いていた。
 一緒に遊べるのも嬉しかったが、このゲームの楽しさを蘇芳先輩が教えてくれたから。
 またやりたい、と純粋に思ってしまったのだ。
 そう思わせるように体験させてくれた蘇芳先輩は、やっぱりすごいひとなんだなぁ。浅葱はもう何度目かもわからない感動を覚えてしまう。
 最後には最上階でプリクラを撮った。
 思えば蘇芳先輩とツーショットなど初めてだった。
 友達とは何度も撮っているのに、そのせいで随分緊張してしまった。操作のボタンも押し間違えてしまう始末だ。
 蘇芳先輩は「俺は男友達と撮れるヤツしかやったことないからこの機種はわからないんだよ。任せる」と言っていたのに。
 さっきのシューティングゲームで蘇芳先輩の教えてくれたのは完璧だったのに。
 あたふたしてしまう自分を浅葱はちょっと情けなく思ってしまった。
 けれど撮るの自体はとても楽しくて。
 プリクラはあわただしい。背景などの設定を変えて次々に写真が撮られる。
 あわただしさには慣れているし蘇芳先輩も『男友達と撮ったことがある』と言っていただけあってそれほど戸惑う様子もなかった。
 撮影はスムーズに進んだのだけど。
 最後のほう。
 機械が喋った内容に浅葱はどきっとしてしまった。

『最後は仲良しのポーズだよ~! ぎゅってハグしてみよ!』

 ハグ!?
 一瞬、息が止まったかもしれない。
 いや、プリクラとしては定番だけど。
 友達同士でなら良くやるけど。
 でも今、一緒にいるのは蘇芳先輩なわけで。
 かぁーっと頭の中が熱くなる。きっと顔が赤くなっただろう。
 そんな浅葱の状況も気持ちもわかっているだろうに、蘇芳先輩はしれっと浅葱の腕に触れてきた。
「ほら、早くしないと撮られちまうぞ」
 そう言って。
 ぐいっと腕を引かれて、あっと思ったときには蘇芳先輩の腕の中に捕まえられていた。
 どくんっと心臓が跳ねる。これほど距離が近付いたことは初めてだった。
 浅葱の頭の中がくらくら揺れた。
 しっかりとした胸と腕の感触。伝わってくる体温。
 おまけに香水だろうか、ほんのり良い香りもする。
 すべてが浅葱を酔わせるようだった。
 ポーズをつけることも笑うこともできるはずがない。そのままぱしゃぱしゃと何枚も撮られてしまった。

『おしまーい! お疲れ様でしたっ! 次は落書きコーナーに行ってね!』

 機械が終わりを告げて、蘇芳先輩にそろっと離された。
 急に寂しくなってしまう。あんなにびっくりして緊張したというのに。
「……嫌だったか?」
 蘇芳先輩に聞かれて、浅葱ははっとした。
 自分がこんな反応だったから、嫌だったのかと誤解されてしまったのかもしれない。そんなことは。
「いっいえ! そんなはずは!」
 慌てて言ったけれど蘇芳先輩はちょっと不安げな顔をしている。
 誤解されたくないのに。嫌なんてはずがないのに。
 むしろ。
 ……嬉しかった、のに。
 どきん、どきん、と心臓が高鳴る。ごくんと唾を飲んで、でも思い切って浅葱は口を開いた。
「その、……どきどきして、しま、って……」
 こんなこと恥ずかしすぎる。でも誤解されるよりずっといい。
 そしてそれは正解だったようなのだ。
 蘇芳先輩は笑みを浮かべた。ほっとしたような笑みだった。
 おまけに笑みはまた変わっていく。こういう笑顔はなんというのか。
「そっか。やっぱり六谷はかわいいな」
 言われた言葉にまた頬が熱くなってしまったけれど、浅葱は思い知る。
 こういう笑顔は『愛しさ』だ。
 いくつか落書きをして加工も入れて、プリクラは綺麗に完成した。スマホにも転送して大きな画面で見ることもできるようにした。
「この機種、綺麗だなー。画質がいい」
 蘇芳先輩がいかにも美術部らしいことを言うので、浅葱はちょっと笑ってしまった。
「女子向けの機種のほうがやっぱりいい機種なんだな。男は損だよ」
 その言葉は浅葱をもっと、くすくすと笑わせてくるのだった。
「でもこれからは六谷と入れるもんな」
 小さく笑っていた浅葱だったけれど、その笑いは蘇芳先輩によって止められた。
 そうだ。
 プリクラコーナーは男子入場OKエリア以外、女子専用なのだ。
 例外は『女子の同伴がいる男性』。カップルや家族などに限られているのだ。
 つまりそれは、蘇芳先輩は浅葱にとって特別な『カップルの男性』であるわけで。
 もうよく知っていたことなのに、こうやって形にされると、なんだかくすぐったくなってしまって浅葱はもじもじしてしまった。
「また撮ってくれよな」
 そんな約束をした、プリクラ。


 プリクラの中でも最後に撮ったもの。
 蘇芳先輩にハグされているものだ。
 写真の中の浅葱は顔を真っ赤にして固まって写っていた。
 随分情けなく恥ずかしい姿である。
 けれど、そんな浅葱をうしろからハグする蘇芳先輩は笑っていたのだ。
 それも幸せそうに、だ。
 だからいい、のだと思う。
 一緒のプリクラ、つまり写真に写ることだって、そしてハグだって、これから少しずつ慣れていけばいいのではないだろうか。
 浅葱はプリクラの中の自分にちょっと苦笑しながらも決意した。
 もっともっと、距離が近付いていけますように。
 いつかは蘇芳先輩の腕の中で自分も幸せそうに笑えたらいい、と。確かに思った。
 今日のデートはあくまでもシンプルに、なので夕暮れには解散することになっていた。
 夕ご飯を食べるデートは年明け、少し遠出をするときにしようと蘇芳先輩が言ったのだ。
 高校生といっても浅葱は一年生。まだ十六歳なのだ。
 だから蘇芳先輩は気遣ってくれたのだと思う。多分、帰りは送っていってくれるのだろうけど、あまり遅くまで連れ回すのは悪い、と。
 同じ高校生なのに子供扱いされているようで浅葱はちょっと不満に思ってしまった。
 けれどそれは蘇芳先輩の優しさなのだ。すぐに「そんなことを考えちゃダメ」と自分に言い聞かせた。
 年齢以上に浅葱は女の子なのだ。あまり遅くなるのは何才になったって危ないだろう。それを心配してくれているのだから。
 そんなわけでゲーセンのあとにもいくつかお店を見て回ってショッピングをしたあとは、ケーキを食べて「そろそろ帰ろうか」という話になった。
 ケーキは普通のカフェのケーキだったけれどとてもおいしかった。
 蘇芳先輩が連れてきてくれたのだ。「母親がカフェ巡りが好きでさ、中学生くらいまではたまに連れて行かれたんだよ」というカフェ。
 木の壁や天井でできた店内はナチュラル感溢れる雰囲気でクリスマスにぴったりだった。
 テーブルや椅子も、塗装もなくて素朴だけどそれが味わいになっている。
 そんなカフェで食べたいちごのショートケーキ。今までクリスマスに食べてきたケーキの中で一番おいしかった、と浅葱は思った。
 勿論大切なひとが隣にいてくれるからだ。
 家族とは違う意味で大切なひと。
 大切な存在になってくれて、また、浅葱のことも『大切な存在』にしてくれた蘇芳先輩。
 これからもっともっと、大切な存在として仲が深まっていけばいいな、と浅葱は甘いケーキを食べながら噛みしめた。
 ケーキのあとの帰り道。うっすらと暗くなりつつあった。
 冬も深まっている。
 マフラーをしてきたけれど夕方の風は冷たい。
 手だけは、蘇芳先輩がしっかり繋いでいてくれたから、ほこほことあたたかかったけれど。そのあたたかさが全身をあたためてくれるように感じられた。
「イルミネーションを見て帰ろうか」
 駅に向かううちに提案されて、浅葱は喜んで「はい! 見たいです!」と頷いた。
 蘇芳先輩と二回見たイルミネーション。駅前のもので、それほど豪華というわけではないのかもしれない。
 でも浅葱にとってはこれだってやはり、今まで生きてきた中で一番美しいものだった。
 赤と緑がメインできらきら輝くイルミネーション。
 どうしてか、前回見たとき、蘇芳先輩に告白されたときだが、そのときとは違って見えるような気がした。
 どうしてだろう、と浅葱は思ったけれど、隣にいる蘇芳先輩の顔を見てなんとなくわかるような気がしてしまった。
 蘇芳先輩は優しい表情をしていた。イルミネーションに視線を向けていたけれど、浅葱が先輩を見ていることを感じたのかこちらを見てくれた。ふっと笑顔になる。
 その笑顔はあのときや、もっと前。青のライトアップを見たときとはまったく違っていて。
 浅葱がとても大切な存在だ。その目はそう言っていた。
 浅葱もつられたように笑ってしまう。きっと優しい笑い方になっただろう。
 恋人同士になった。まだ一ヵ月くらいのお付き合いだけど順調に進んでいるのだ。
 はっきり感じられて胸があたたかくなってしまう。
「綺麗だな」
 蘇芳先輩が言った言葉はシンプルだったけれど、たくさんの気持ちが込められている声をしていて、きっと浅葱と同じように感じてくれているのだろうと、伝わってくる。
 浅葱は蘇芳先輩に握ってもらっていた手に力を入れた。自分からもきゅっと握る。
「はい。とっても」
 しっかり手が触れあった。
 蘇芳先輩が手を動かして、するっと浅葱の小さな手の指の間に自分の指を絡めてくれたからだ。
 かぁっと浅葱の顔がまた熱くなってしまう。
 こういう繋ぎ方。
 恋人繋ぎ、とか言ったと思う。
 普通に手を繋ぐより、もっとしっかり手がくっつく。
 てのひらまで合わさるのだ。
「言っただろ。こういう綺麗なものを一緒に見てくれるひとになってほしい、って」
 蘇芳先輩は浅葱の手とぴったり合わせてくれて、目を見つめて、言ってくれた。
 告白してくれたときに言ってくれた言葉。
 それを本当のことにしてくれるのだ。
 真面目で、誠実なひと。
 この優しいひとが自分の恋人、彼氏だなんて。
 浅葱の胸が熱くなる。感動とか、誇らしさとか、嬉しさとか、良い感情が次々に湧き上がってきて、溢れそうだ。
「だから俺はとても幸せなんだ。ありがとう。六谷」
「私こそですよ」
 その気持ちのままに自然に言葉になっていた。
 浅葱の返事に蘇芳先輩の目が緩む。
 愛しい、という気持ちがいっぱいになった瞳だ。
 不意に蘇芳先輩が動いた。手が離される。
 あれ、と浅葱は思ったのだけどその疑問は一瞬だった。
 蘇芳先輩の手は上に向かっていって、浅葱の頬に触れたのだから。
 ここまでしっかり触れ合わせていたのだ。蘇芳先輩の手はあたたかかった。
 心地いい。
 そう感じてしまって、けれどすぐにはっとした。
 この状況。
 わからないはずがない。
 空気が告げていた。どこか甘いような空気が。
 かっと顔が熱くなる。どくんっと心臓も跳ねた。喉元まで跳ねたのではないかと思うほどだった。どくどくっとそのまま速い鼓動になる。
 けれど。
 ……なんだか自然だった。
 こうなることは当たり前のような、ずっと前から決まっていたような。そんな気持ちが浅葱の心の中に溢れた。
 だから。
 勇気を出してそっと目を閉じた。どきんどきんと胸の鼓動が痛いほどだけど何故か確かな心地良さがあって。
 閉じた目の前。あたたかな感覚がやってきた。顔を近付けられた、と感じた次には、ふわっとくちびるに優しい感触が触れていた。
 ほんの、一瞬。
 触れるだけの軽いものだった。
 でもそれはまるであたたかな春風がくちびるを撫でていったような。
 とてもとてもあたたかく、優しい感触だった。
 あたたかな感触は数秒留まったけれど、やがてそっと離れていった。
 そろそろと目を開けると、まだ数十センチの距離にいた蘇芳先輩と正面から目が合ってしまった。
 蘇芳先輩もどこか緊張したような目をしている。
 でもその瞳はさっきと全く同じ。
 浅葱が愛しいとはっきり表してくれていて。
 くすぐったさが浅葱の胸を襲った。
 今度は違う意味で、ばくばくと心臓の鼓動が速くなる。

 ……キス、しちゃった。

 じんわりと事実が迫ってきて、浅葱の頬をもっと熱くした。
 流石にちょっと視線を逸らしてしまった。顔が真っ赤だろうから。
 でも浅葱が「嫌だと思った」とか、蘇芳先輩はそんなこと、思わなかっただろう。
 そんな気持ちまでくちびるを通して伝わったようだった。
「……帰ろうか」
 言われて、浅葱はそろっと顔を上げた。まだ顔は赤いだろうけれど。
 でも蘇芳先輩の頬だって、ほんのり赤かったのだ。
 それで浅葱は知る。
 多分、蘇芳先輩も初めて、だったのだ。
 そう言われたわけでもないのに察せてしまう。不思議なことだ。
「……はい」
 浅葱はちょっと努力してだけど笑みを浮かべた。
 もう一度、蘇芳先輩に手を取られて駅の中へ向かった。電車に乗るためだ。
 蘇芳先輩は浅葱を家の近くまで送っていってくれるらしい。当たり前のように同じホームへ二人で上がった。
 駅に入ってから、電車に乗っても、二人ともなにも喋らなかった。
 言葉は必要ない、という状況を、浅葱は初めて体験した。
 あたたかな空気が二人の周りを包んでいるようだった。
 優しい気持ちはあの一瞬の春風だったのだろう。
 手を握って乗る電車。窓の外は真っ暗だったけれど、その中にも街の明かりが見えた。
 素敵な一日の終わりだった。
 浅葱は蘇芳先輩の手のぬくもりを感じながら噛みしめて、心から思った。
 このひとが恋人で本当に幸せだ、と。