4.
脛永歩美が跡部邸に着いたのは、午後をだいぶ回ってからのことだった。
これでも早く来てくれた方だと感謝するしかない。営業ノルマを早めに済ませ、余った時間でこっそり立ち寄ったのである。
赳士は夜勤明けだったこともあり、歩美が来るまでリビングのソファで仮眠を取っていたが、恋人の到着を知るや否や飛び起きて、大手を振って歓迎した。
彼は彼女を微塵も疑っていない。疑惑の目を向けたのは鞘香だけだ。
歩美は屋内に充満する緊張感が居心地悪そうだったものの、来た以上はすぐに退散するわけにもいかず、お見舞いに持参した菓子折りをテーブルに広げた。
駅前のデパートで買ったクッキー詰め合わせを肴に、ちょっと遅めのおやつとなる。鞘香がお茶のお代わりを運んだ頃、ようやく空気が和らいだ。
頃合いを見計らい、靴屋の主人が重い唇を開く。
「我輩は地元商店街の人間だ。競合相手である駅前デパートの菓子をあてがうのは、何かのあてつけかな?」
「あら、そんな解釈をなされるのは心外ね」
赳士の隣に座した歩美は、店主の勘繰るような強面にも慣れたのか、臆さず見返した。
店主は挑発して、何かを探っている。やはり歩美が『犯人』の最有力候補なのか……と鞘香は店主の小脇でおろおろと見守った。
「時に赳士殿、腰越氏から写真は送られて来たのかね?」
「あ、ああ……それなら僕が寝てる間に」
赳士はポケットからスマートホンをまさぐり出した。
画面をタップすると、メール受信画面に一件の新着が表示されていた。画像添付ありのメールだ。開いてみると、そこには二枚の写真が同封されていた。本文には短いお見舞いの言葉も添えられている。
『よう、ゆうべは散々だったな。足が完治するまで赳士が抜けちまうのは大変だが、何とか現場は持たせるよ。ゆっくり療養してくれ!』
いかにも友人らしい、気の置けない文体である。とても三角関係には見えない文章を見るに付け、彼が犯人とは思えなかった。
添付画像を見やすいよう、赳士はテーブルの中央に置いた。
指でスライドすれば、下駄箱の周辺および安全靴の写真を交互に閲覧できる。
「犯人当てに直結する写真をためらいなく提供するとはな」一同を見回す店主。「つまり腰越氏は潔白だ。下駄箱で赳士殿と鉢合わせたのも他意はない、単なる偶然だろう」
「なぜ断言できるんです? あいつは外面を取り繕うのが上手なんですよ!」
頑として赳士は同僚を疑い続けた。
本当に友人なのだろうか? むしろそっちに疑問が湧きそうだった。
「歩美も言ってくれよ、腰越に言い寄られて困ってたんだろ?」
「ええ……わたしはタケくんを選んだし、きっぱり腰越くんには断りの返事を出したんだけど、今もときどき二人きりで飲みに行かないかって誘われたり、デートまがいの外出を迫られてるわ」
腰越の横恋慕は本当に継続中なのだった。
三角関係のしこりは現存している。店主はこれをどう捉えるか――。
「写真を見てみよう」指差す店主。「まずは安全靴からだ。うむ、真上から俯瞰するように撮られているので判りやすいな。古びてボロボロだ。足の甲……甲被に仕込まれた鉄板も割れていて、外観がいびつに膨らんでしまっている」
通常だとまっすぐ鉄板が挿入されているため、甲被も平らになるのだが、この安全靴は割れた位置が不自然に盛り上がっていた。
「靴の中にはサイズも表記されている。二七センチと書かれているな……赳士殿、君の足はいくつだったかね?」
「二九センチです。やっぱりすり替えられてたんだ!」
「それを踏まえた上で、下駄箱の写真を見るとしようか」
店主は赳士のスマホを勝手にタップした。
下駄箱周辺の足場が露呈される。雨粒と泥にまみれた床。無数の靴跡がびっしりと残されていた。清掃される前に撮影できたのは僥倖だ。
「数多の靴跡が入り乱れる中、赳士殿が言うには『一』と書かれた痕跡もたくさん残っていたそうだが」
「そうですよ、ほらここ! こっちにもありますよ!」
赳士は身を乗り出し、スマホ画像を指で拡大表示した。
床に残された真一文字の群れがくっきり見える。工場の入口から下駄箱まで、一の字がいくつも羅列されていた。他の靴跡に潰されて認識できない『一』もあるに違いない。
「ねぇお兄ちゃん、床に記された『一』の文字って、本当に『犯人』の遺留物なの?」
鞘香が率先して問いかけた。赳士は妹を半眼で見やる。
「それが判らないから議論してるんだよ。僕が思うに、腰越が残したミスリードだろう」
「ミスリード……?」
「そうさ。こんな印を残す人間は今まで工場内に存在しなかった……すなわち外部犯の仕業だと思い込ませて、内部犯から目をそらす魂胆なのさ!」
「そうかな?」顎に指をあてがう鞘香。「よくあるミステリーだと、この手の文字はダイイング・メッセージだったりアナグラムだったりしない?」
事件のヒントになる暗号を、犯人に隠滅されないようこっそり書き残す――それがダイイング・メッセージやアナグラムと呼ばれるものだ。
しかし本件では誰も死んでいないし、被害者である赳士自身、こんな文字を書き残した様子はない。
「――そもそも、それが本当に数字の『一』だと思うかね? ただの棒線かも知れんぞ」
店主が根本から覆す異議を唱えた。
目からうろこが落ちたように、鞘香がまぶたをしばたたかせた。
「それは新説ですねっ店主さん! だとすると、単なる横線? 縦線かも知れないですよね! 何本も連ねると記号になるとか? モールス信号? 地図記号? うーん……」
鞘香の推測に答えられる者は居ない。
不毛な時間ばかりが過ぎ去った。建設的な意見が出ない中、いよいよ店主が膝を叩く。
「これだけ煽ってもまだ解けないかね? 数字だの記号だのという先入観から離れたまえよ。もっとも、歩美さんは答えを判っていても答えにくいのかも知れんがな」
「え……」
突然、聞こえよがしに批判された歩美はドキリと上半身を動揺させた。血相を変え、店主の鬼面を瞠目する。まばたき一つしない焦りようだ。
「なんでわたしの名を」
「知れたこと――その真一文字は『靴跡』だからだ」
「!」
「靴跡だってぇ?」素っ頓狂に声を荒げる赳士。「靴跡ってのは普通、ひょうたん型の靴底模様だろう? 真一文字の靴跡なんてあるのか……?」
「赳士殿、世迷言も大概にしたまえよ? これは通常の靴跡ではなく、ウェッジヒールの靴跡だろうに」
「ウェッジヒール!」
その場の全員が息を呑んだ。
ウェッジヒールは、かかとから爪先まで一直線の底上げ加工が施される形態だ。
一直線――真一文字の足跡!
入口から下駄箱まで『一』の字が連なっていたのは、ウェッジヒールのパンプスで往復したからに他ならない。
「工場にハイヒールで立ち入る女性は限られる。そう、歩美さんくらいだな」
言い当てられた歩美は絶句したきり、目を泳がせるのが精一杯だった。
赳士も気まずそうに沈黙し、必然的に鞘香だけが歩美を問い詰める格好となる。
「どういうことですかっ歩美さん! ウェッジヒールの足跡は、迷わずお兄ちゃんの下駄箱まで歩み寄ってますよね? 安全靴をすり替えたのは歩美さんなんですか?」
「ち、違うわ。わたしじゃない……」
かろうじて歩美が反論した。
蚊の鳴くような声ではあったが、ゆっくりと慎重に言葉を選んでいる。
鞘香はますます怪しんだ。敬愛する兄を怪我させた『犯人』が婚約者だとしたら、とんでもない背徳行為である。
「動機は何ですか? 実は腰越さんとよりを戻そうとしてお兄ちゃんが邪魔になった?」
「だから違うってば!」
「じゃあ何ですか? もしかして靴屋で揉めたから? お兄ちゃんと歩美さんは最初、私の仲介した修理を不安視してたけど、お兄ちゃんが折れて私の味方に付きました。それが歩美さんには不愉快だったとか?」
あのとき、歩美は最後まで店主の腕前を信用していなかった。
赳士も妹にほだされて妥協したため、歩美はやむを得ず修理に出したのだ。
「そんなこともあったわね。でも結果的に満足の行く修復はされたから問題なしよ」
「たとえ結果オーライでも、歩美さんの意志が軽視されたのは事実です。靴屋で私の味方に付いたお兄ちゃんが、あたかも歩美さんを裏切ったように見えたんじゃないですか?」
「それでわたしが怒り狂って、腹いせにタケくんの安全靴をすり替えた……と?」
「違いますか?」
鞘香の推理が続いた。
勢いに任せて押し切ろうとしている。歩美は鞘香が本気で喋っていると気付き、困惑する一方だった。
「待って鞘香ちゃん。わたしは昨日、まっすぐ帰宅したのよ?」
「帰った振りして工場へ先回りしたのかも知れません。廃棄場から壊れた安全靴をくすねて、お兄ちゃんの下駄箱に忍ばせた……でもお兄ちゃんの足は二九センチで、同じサイズの安全靴がろくになかったのが誤算でしたね! せいぜい二七センチを発掘するのが手一杯だったんじゃないですか?」
「わたしじゃないわ! わたしはやってない……!」
押し問答が繰り広げられる。
鞘香はもう一押し足りなかった。靴跡だけでは決定的な証拠にならない。
歩美も否定するばかりで埒が明かない。何か後ろめたい事情はあるようだが、知らぬ存ぜぬの一点張りだった。
見かねた店主が、鞘香では紐解けないと踏んで口火を切った。
「やれやれ。兄妹間の問題だから任せてみたが、これでは堂々巡りだな。どれ、我輩が手を貸してやろう」
そう告げるなり、店主は鞘香の頭をポンと叩いた。
鞘香はスイッチを押された機械のように口を閉ざし、店主を見上げる。
歩美も赳士も、彼を注目した。
店主は皮肉げに冷笑すると、強面から声を張り上げた。
「かんらかんら、かんらからからよ。ここまで話がこじれたのに、未だに真実を隠し通すつもりとはどういう了見かね――……赳士殿?」
「!」
赳士を敵視する店主の眼光は、いつにも増して鋭かった。
歩美が青ざめた赳士を振り向く。鞘香も白い顔色で兄を見つめた。
「えっ? お兄ちゃん? お兄ちゃんが何か知ってるの?」
「ぼ、僕は……」
言葉に詰まる赳士を、店主は決して見逃さない。大胆不敵に彼を指差し、堂々と断罪してのけた。
「――これは赳士殿の自作自演だろう?」
自作自演!
店主以外の全員が、生気をなくした表情で凍り付く。
赳士は複数の注目に耐えられなくなり、ギプスに巻かれた右足を呆然と見下ろした。
「どうして……判ったんですか」
「お兄ちゃん!?」
白状する兄に、妹が悲痛な声を上げた。
被害者自身が『犯人』――?
自作自演とは、要するに狂言だ。自分で損害を演出し、誰かに罪をなすり付ける。
そう、赳士はしきりに「腰越が怪しい」と吹聴していたではないか。
「犯人が腰越氏でも歩美さんでもない場合、消去法で残されたのはただ一人――赳士殿をおいて他に居ない。実に論理的な帰結だ。赳士殿は、表向きこそ腰越氏と仲直りしたものの、密かに横恋慕を続ける彼に嫌気がさしたのではないかね?」
「……その通りだよ」
「そこで赳士殿は被害者を装い、腰越氏に犯人のレッテルを貼って悪評をばら撒こうとした。それは足を捻挫する程度のイタズラでちょうど良かった。それ以上大きくなると警察沙汰になりかねんし、粗が出て自作自演だと露見するからな」
だから安全靴を交換されて転んだ、という些細な怪我で済んだのだ。
「じゃあ店主さん! 出勤時間が遅刻ギリギリで安全靴を確かめもせず履いた、というお兄ちゃんの発言は方便だったんですか!」
「ご名答だ、鞘香さん」首肯する店主。「さらに言えば、赳士殿が下駄箱を上がってすぐ腰越氏と鉢合わせた、という話も印象操作だな。腰越氏は単に、遅刻寸前だった友人を案じて下駄箱付近まで探しに来ただけだろう」
腰越と出くわしたのは偶然だった。
しかし赳士は、あたかも腰越が下駄箱付近で怪しい動きをしていたかのような喋り方をしてみせた。まるで彼に冤罪を着せるかのごとく――。
「僕は腰越に腹が立ってたんだ……歩美に言い寄る腰越を殴ろうかとも思ったけど、それだと僕が暴行犯になってしまう……だから被害者を装うことにしたのさ」
「本当にお兄ちゃんがやったの!? じゃあウェッジヒールの足跡は何だったのよ?」
鞘香が混乱して頭を抱え込んだ。
もだえ苦しむ女子高生を店主は見下ろしながら、素っ気なく回答する。
「それは赳士殿の動機に由来する。赳士殿は歩美さんに相談されていたのだろう? 腰越氏に今なお迫られていることを」
ちらりと歩美を一瞥すると、彼女はとうとう観念した。
「ええ……タケくんに腰越くんのしつこさを打ち明けたわ。そうしたらタケくんが奮起して、腰越くんにお灸をすえるための『自作自演』を発案したのよ」
「発端は歩美さんだったというわけだ」
「けど連休中、靴屋の修理でタケくんに裏切られて以降、しばらく気まずくて倦怠期だったのよ。だからタケくんが本当に自作自演を実行してくれるのか心配で――」
「計画を見届けるために、工場へ舞い戻ったのだな?」
店主が図星を差した。
歩美は黙って相槌を打つ。
やはり歩美は帰宅せず、工場へ立ち寄ったのだ。ただしその目的は、下駄箱に先回りして赳士の自作自演を見届けるため。決して彼女が仕込んだ罠ではない。
「わたしは下駄箱の物陰に忍び込んで、タケくんを監視したわ。タケくんは約束通り、自分の安全靴を廃棄場に捨てて、代わりに二八センチの破損品を拾って履いたのよ」
赳士は倦怠期でもなお、歩美との約束を守った。
恋人の意志を尊重してくれたことに、歩美はすっかり機嫌を直したのだ。
「わたしは感動したわ! 軽い捻挫だとしても、自分の体を傷付けるのって勇気がいることよ。しかも勤務中に! タケくんの勇気に惚れ直したわ。彼は勇者よ!」
歩美は赳士に寄り添った。赳士は照れ臭そうにそれを受け止め、抱き寄せる。
「僕は歩美の靴跡に気付いたけど、これも腰越のミスリードに利用しようと考えたのさ」
赳士も判っていたのだ――『一』の字の正体を。
「何よ、それ!」
納得が行かないのは鞘香だった。
二人に振り回された挙句、学校まで休んでしまった。店主に至っては臨時休業してまで家に同行させたのだ。その結果がこれ? 到底、呑み込めるものではない。
「お兄ちゃん! 罪もない友人に濡れ衣を着せただけじゃなく、工場や店主さんにも迷惑をかけたのよ? 少しは反省したらどうなの?」
「そりゃ申し訳ないけどさ、元はと言えば兄離れできない鞘香のせいでもあるんだぜ?」
「は? 私のせい?」
「鞘香はパーソナルスペースが近くて、兄である僕にベッタリだったよね? 僕も仕方なく鞘香の肩を持ってた……そのせいで靴屋の修理依頼では、恋人の歩美を蔑ろにしてしまった。歩美の機嫌を直すためには、自作自演を決行しなきゃいけなかったのさ!」
「そんな……私とお兄ちゃんは唯一の家族だもん、仲が良いのは当たり前でしょ!」
鞘香は誰とでも親交を深められるパーソナルスペースの持ち主だが、そのせいで過剰な親密さを演出してしまい、歩美の機嫌を損ねたのだ。
すぐ店主に抱き着くのも誤解を招いたし、鞘香は人を勘違いさせやすい欠点がある。
「僕は今まで、妹を甘やかし過ぎてた。僕は今後、結婚して歩美を第一優先にしなきゃいけなくなる。だから鞘香も兄離れして、自立すべきだよ」
赳士が歯切れ悪く弁明した。
自作自演の主犯である彼が言い逃れする姿は、とても悲しく映った。歩美の目には彼が勇者に見えるのかも知れないが、鞘香の目には落伍者にしか映らない。
「むぅ~っ! いいもん、私には店主さんが居るし!」
あてつけがましく店主の腕をたぐり寄せる鞘香が、ますます勘違いを増大させた。
不意に密着された店主は、仏頂面を一層しかめさせる。やっぱり付き合っているんじゃないのかと赳士に不審な視線でなじられたのは、店主にとって心外だ。
それでも鞘香を邪険に扱わないのは、店主の秘めたる優しさに他ならない。
「やれやれ。こじれた紐を解いたは良いが、新たなこじれを生んでしまったようだ」
「何ですかその言い方! 店主さんだけは私の味方で居てくれますよね!? ゴールデンウィークが明けて、とうとう来週は陸上部の地区予選があるんですよ! しっかり私の足をサポートして下さいねっ?」
鞘香は意固地になって叫び続けた。
一件落着こそしたものの、鞘香が家族から自立するための試練は、まだまだ続きそうである。
第二幕――了