2.



 悩みを――紐解く?

 靴の()()けているのだろうか。

 ともかく眼前の靴職人はそうのたまった。すがり付く鞘香の要望に応じたのだ。

「よ、良かったね鞘香……」

 後ろでは踏絵がたどたどしく祝福の拍手をしている。

 まだ直し終えたわけではないため、喜ぶのは時期尚早だが、ひとまずランニングシューズの修理に()ぎ付けたのは朗報と言えよう。

 鞘香はもう一度、店主に礼を告げた。

「ありがとうございます! それで、えっと――修理代金の話になるんですけど!」

「いちいち迫るな。顔が近い」

 意見するたびに相手の間合いへ踏み込む鞘香は、店主の息がかかる距離だった。

 なるほど、パーソナルスペースが近い。鞘香は今さらのように顔を真っ赤に染めた。

「あっ、済みません! つい夢中になっちゃって!」

「修理代金に関しては我輩も切り出そうと思っていた所だ」

 仕切り直す店主は、極めてビジネスライクな声色だった。

 鞘香も持ちかけた金銭交渉は、商売を成立させる上で欠かせない要素だ。ましてや個人経営店ともなれば、目下の利益が最優先課題であることは言うまでもない。

「ざっとランシューの損傷を見た限り、靴底を中心に換装せねばなるまい。となると靴底の材料費と手間賃が基本料金に上乗せされる」

 店主はレジカウンターの上にランニングシューズを置いて、全体を観察した。

 鞘香もレジの前で手を突き、店主と対面する。傍らには踏絵が同伴している。この親友は口こそ出さないが、商談がまとまるかどうか固唾を呑んで見守っている。

「そうですね! 靴底がすり減ってるし、かかとも剥がれかけてるんで、そこを直すだけでも走りやすくなると思います!」

「靴底には二種類の層がある。底面をアウトソール、靴底の厚みをミッドソールと呼ぶのだ。各メーカーが血道を上げて開発しているのも、このミッドソールだ。ここにエアを入れたり、低反発素材や緩衝材を盛り込んだりして、走りやすさを向上させるわけだ」

「なるほど~。あ、ここの縫い目がアウトソールとミッドソールの境目ですね!」

「だな。この靴と同じソールをメーカーから取り寄せなければならん。高く付くぞ」

「うっ」

「さらに足首を包むインナー、シュータンが裂けている。それだけ君が走り込んだ証拠ではあるが、靴の入口であるこの部分がブカブカだと、靴が脱げて走りづらかろう」

「はい! 超困りました! 靴紐をきつめに縛って、脱げにくくはしましたけど」

「その靴紐も相当(いた)んでいるぞ。見ろ、紐のあちこちがほつれているではないか。紐を通す穴・シューレースホールも一部が破れていて、飛ばして結んでいるな」

「うぅ、その通りです」

 指摘されるたびに、鞘香は肩身が狭くなった。

 こんな靴で大会に(のぞ)んだら、勝てるものも勝てない。備品、道具、手入れとメンテナンスにどれだけ金をかけられるか。努力では超えられない壁は実在する。

 いくら陸上競技が他の運動に比べてお金のかからないスポーツといえども、だからこそ靴の良し悪し一つで走力が大きく左右されるのだ。徒競走は足腰と靴が全てだ。

「足の甲を覆うアッパーも外皮(ガワ)が剥がれ、中の素材が露出している。本来ならさっさと廃棄すべきだ。直すとしても全面的に貼り換える羽目になりそうだな」

「えっ! 全部とりかえちゃったら、もはやこの靴じゃありませんよ! ほぼ新調するのと変わらないってことですよね?」

「ありていに言えば、そうだ」取り付く島もない店主。「アッパーもインナーもシューレースもソールも全てオシャカだ。新品を買った方が遥かに良い」

「けど、このモデルってプレミア付きの限定品なんです。私がお兄ちゃん(・・・・・)に買ってもらったとき、完全限定生産品だとかで十五万円でした」

 十五万円!

 一介の高校生には安くない価格だ。社会人でも高い。一流のトップアスリートですらめったに履かない値段である。

 しかも『お兄ちゃん(・・・・・)に買ってもらった』と来た。

 店主が耳ざとくそのフレーズにこめかみを疼かせた。

 ランシュー一足にここまで入れ込むからには、特別な想いが込められていると予測するのはたやすいが、恐らく『兄』とやらがそれなのだろう。

 鞘香がこの靴に執着する理由――。

「君がこれを買った経緯、出来れば教えてくれないか」

 店主は強面のまま、ぶしつけに尋ねた。

 鞘香はこくりと頷いて、素直に口外し始める。一切のためらいもなく事情を打ち明ける距離感の近さが、純粋無垢で眩しい。

 隣では踏絵が「え、そこまで話す必要があるの……?」と首をひねっていたが、外野の懸念など構うものか。

「もともと私の家、貧乏なんです」顔を寄せて話す鞘香。「私が中学生の頃、両親は事故で他界しました。蓄えも身寄りもなくて、葬式やお墓の費用で財産も底を突いちゃって」

「親が居ないのか。どうやって生計を立てているのだ?」

「大学生だったお兄ちゃんが自主退学して、就職したんです! 高卒から入れる工場で働き始めました。これなら一応、成人した社会人が家族に居るってことで、孤児院などの施設には入らずに済んだんです!」

「ほう。では兄妹二人きりで暮らしているのか」

「はい! けど毎月ぎりぎりの生活で、無駄なお金をかけられなくて。私も週二日、部活のない日にコンビニバイトして、何とか部費や小遣いを捻出してます。昔は二人とも剣道を習ってたんですけど、防具や衣装の費用がかさむんで辞めました」

「それで金のかからない陸上を始めたのか。極端な話、靴代だけで済むからな」

「お兄ちゃんは私だけでも剣道を続けさせたかったみたいですけど、贅沢するわけにはいかないんで我慢しました。そしたら、お兄ちゃんがムキになって『せめてランシューくらいは良いものを見繕ってやる!』って息巻いて、限定モデルを奮発してくれたんです。いわばこの靴は『一張羅(いっちょうら)』なんです」

 安かろう悪かろうでは(かえ)ってお金がかかるから、高値の良品を一足だけ買おうとしたらしい。

 品質が良ければ、走る際の負担も減る。初心者だからこそ良い道具を揃えるべきだ。

 その結果、十五万円もの稀少なランニングシューズが手元に届いた。鞘香はその一足を勝負靴として使い込み、高校生活を陸上に(ささ)げたのだ。

「ふむ。だから同額の代替品を買い直すことは難しいわけか。高い上にレアと来た」

「はい!」

「おまけに兄が、薄給から大枚はたいた『貴重な記念品』というのも、靴を手放したくない理由なのだな」

「その通りです! 私は高校三年間、そのランシューと共にありました。一年目はぺーぺーでしたけど、去年は努力が実って夏大会と春大会に出場しました!」

 大会規定にもよるが、この世界では個人競技に誰でも出場できるわけではない。

 学校ごとの出場人数は上限が定められている。部活の顧問教師がレギュラーを選出し、あらかじめ大会に登録する手筈になっているのだ。

「は、春大会は惜しかったわよね……鞘香」フォローになっていないフォローを入れる踏絵。「鞘香の実力なら予選を突破できるのに、靴がボロボロのせいで失速……ランシューさえ万全なら突破できたのに……!」

「うん。あと少しでライバル校にも勝てそうだったのに。悔しい!」

 慰め合う女子二人を、しかし店主は冷徹に見下ろす。

 今は感傷に浸る場面ではない。もともとは金銭の話をしていたのだ。

「この靴を完璧に復元する場合、十五万円では済まないぞ」

「えっ!」

「限定品となると、修理用パーツがメーカーに残っているかも疑問だ。材料の在庫があるとは思えない。我輩の工賃も、限定品は市販品より高くなる。細かな仕様の違いや縫製の差に合わせなければならず、手間がかかるのだ」

「それはちょっとキツイです!」

「ならば修理する患部をいくつか絞る必要がある。アッパーは一部が剥がれかかっただけで致命傷ではないから、今回は見逃そう。インナーのゆるみも靴紐の結び方次第で(おぎな)えるだろう」

「そうですね。本当は直したいけど!」

「では修理箇所は、靴紐とシューレースホール、そして靴底(ソール)に絞られた。何なら靴紐も安い新品に取り換えた方が――」

「いいえ、その紐を直して下さい! ほつれを元に戻して下さい! お兄ちゃんに買ってもらったのは、それ(・・)なんですから!」

「そうすると、納期は二週間。四月末、ゴールデンウィーク最初の日曜日で大丈夫か?」

「あ。どうだったっけ踏絵?」

 鞘香は友人に顔を向けた。

 踏絵はスマートホンを取り出し、日程表とにらめっこする。

「ぎ、ぎりぎり平気よ……地区予選は五月に入ってからでしょ?」

「そうね! なら連休中は新生ランシューで最終調整する時間が作れるわね! 春大会から部員の構成は変わってないから、今回もレギュラー入りはほぼ確実だし」

「――話はまとまったか?」

 店主は電卓をカウンターの下から持ち出した。

 代金を計算し始める。破損箇所の貼り換えと修繕、その材料費と手間賃をつまびらかに加算した結果が、鞘香の眼前へ突き付けられた。

「どんなに負けても十一万円だ。初めての利用客ということで割引してもこの価格だ」

「じ、じゅういちまんえん……」

 鞘香はそれでも顔が青い。

 とりあえず、十五万円を買い直すよりは懐に優しかった。そもそも限定品なので買い直すことは出来ないのだが、それはともかく。

 いかんせん鞘香は苦学生だ。稼ぎ頭が兄一人。なのに妹はアルバイトもそこそこに部活へ心血を注いでいたとなれば、十一万円ですら法外な価格に思えてしまう。

 そもそも十一万円あれば、普通の新作モデルを複数買ってもお釣りが来る。にも(かか)わらず、あえて使い古しの再生を望むから話がややこしくなっている。

「何だ? 払えないのかね?」

 店主は鼻で大きく溜息を吐いた。商談はご破算、とでも言いたげだ。

 これはまずい。非常にまずい。鞘香から一層、血の気が引いた。この機会を逃せば靴の修理は永遠に叶うまい。兄の限定品で結果を出すという誓いが反故(ほご)になってしまう。

 兄がくれたプレゼント。

 苦しい生活の中、兄が見栄を張って購入した精一杯の餞別(せんべつ)

(お兄ちゃんが生活費も学費も出してくれてる。私はせめてのもの恩返しに、お兄ちゃんがくれたランシューで勝利を飾りたい! だから高校三年間、公式大会は全てこの靴で戦い続けたのよ! 靴が壊れるまですり減らして――)

 得意な短距離走を中心に、中距離走とハードル走にも力を入れた。それらの努力を無駄にしたくない。この三年間を徒労で終わらせるのはまっぴら御免だ。

「済みません! お金の持ち合わせがないんですけど、直して欲しいです!」

「ないのか」渋面をかたどる店主。「君の来月のアルバイト代を前借りするとか――」

「前借り禁止なんです! ごめんなさい!」

「困ったな。先立つものがないと話にならない」

「待って下さい! 私は家の事情が事情なので、進学せず就職するつもりです。来年まで待ってもらえれば、初任給で払います!」

「そんなに待てるか。金がないなら君の体で払ってもらおう」

「へ」

 鞘香は目をぱちくりさせた。後ろで踏絵もきょとんと(ほう)けた。

 金がないなら体で払う。お決まりの台詞だった。よもや現実で聞く機会があろうとは。

「か、体って!」

 鞘香の体温が急上昇する。たまらず自分の体を抱きすくめた。

 踏絵が「ま、まだあたしたち高校生なのに……?」とあらぬ想像を巡らせている。

 店主はしかめっ面で呟いた。

「――君が地区予選を勝ち抜いた場合、その後の本選はいつやるのかね?」

「関東大会が六月半ばで、全国大会が八月初旬です」

「よし、地区予選が終わってから夏休みまでの間、練習の合間に多少なりとも暇が出来るだろう? その期間だけでいい、コンビニバイトの他に靴屋(うち)の店番もやりたまえよ」

 店番。

 体で払うとはそういうことだった。鞘香はぽかんと口を開けたまま立ち尽くした。踏絵は懸命に居住まいを正したものの、まだ少し頬を赤らめている。

「ああ~そういう意味ですね! ですよねーっ!」

「君が新生ランシューで地区予選を勝つにせよ負けるにせよ、隙間の余暇を細かく店番に当てれば、不足分の金額くらいは稼げるはずだ。忙しくなるとは思うが、代金を払う当てにはなる」

「いいんですか? 私に務まりますか?」

「店番くらい誰でも出来る。それにご覧の通り、客足は少ないから簡単だ。基本は店内の掃除および品物の陳列が業務内容となる。バイト代は最低賃金で計算するが、修理代の不足を返済でき次第、雇い止めで良い」

「はぁ。それなら務まりそうですけど」

「我輩は工房にこもりがちだから、店頭に誰も居ない状況が心許(こころもと)なくてな。レジ係を一人立たせておくだけでも安心なのだ」

「判りました! やります!」

 鞘香はカウンター越しに飛び付いた。店主の手を握り、電卓を押しのけて胸板に顔をうずめる。靴屋らしい牛革の匂いと合成樹脂の匂いが、彼の体躯から嗅ぎ取れた。

 抱き着かれた店主は一瞬だけ目を白黒させたが、すぐに鬱陶しがって鞘香を引き剥がした。この少女は距離感が近くて困る。誰にでもこんな接し方をするのだろうか。

「交渉成立だな。まずは我輩がランシューを直す。その間、君は地区予選の練習に専念しろ。アルバイト開始はそのあとだ。詳しいシフトは後日相談。契約書を持って来よう」

 店主はそうと決めたら動きが早い。

 工房の他に、事務室と称された扉がレジの向こうにひっそりとあって、そこから店主は二枚の契約書を携えて来た。

 ランニングシューズを修理するための預かり書と、アルバイトの契約書だ。

「私、印鑑とか持ってませんけど!」

「指紋を朱肉に付けて押したまえ」

 慣れた口調で店主はうそぶいた。実にこなれた挙動と口ぶりだったので、鞘香は興味を惹かれる。

「私以外にも、こういう契約を結ぶ人って居たんですか?」

「ちらほら居た。現代は大量消費・大量廃棄が常なのに、わざわざ靴を修理したがる人物は大抵、何らかの事情を抱えたワケアリ(・・・・)だ。君のように金銭的な理由を掲げるケースも多いゆえ、そんなときはこうやって救済措置を取っている」

「へぇ~、優しいんですね!」

 鞘香は店主の懐の深さを垣間見て、表情をゆるめた。

 一見すると無愛想で人情の欠片もない唐変木だが、その胸の内は意外と情に厚く、一文無しでも依頼を承る義侠心に富んでいる。

 少なくとも鞘香にとって、窮地に一筋の光明を照らした救世主であることは確かだ。

「よ、良かったね鞘香……」親友の手を繋ぐ踏絵。「あ、あたしとまた一緒に走れる日を楽しみにしてるよ……あたしの場合、レギュラーに選ばれるかどうかの瀬戸際だけど……部活仲間として、好敵手として、鞘香と切磋琢磨できたらいいな……」

「うん! 負けないわよ踏絵!」

 鞘香は一層、闘争心を(とも)らせた。

 踏絵は相変わらず引っ込み思案で発言も噛みがちだったが、外見上は友人の復帰を喜んでいるように見える。

 女子二人がきゃあきゃあ騒ぎつつ契約書をしたためていると、店外から一本の影法師が入り込んだ。来客の気配だ。

 ときどきだが客足はあるらしい。店主は鞘香たちを(しず)めてから接客に向かった。女子二人は神妙な面持ちになって、店主の一挙手一投足を観察する。この仏頂面が、どのような営業をするのか関心が湧いたのだ。

 来店したのは、近所に住む顔馴染みらしき老人だった。禿頭が輝かしい老紳士だが、体付きはがっしりしていて足取りも確かだ。服装は登山用のベストと長袖シャツ、そして厚手のズボンだった。

 登山ルックは老人の間で長く流行っているファッションの一つだ。シニアのハイキングやキャンプは健康ブームのおかげもあって人気を博している。

 つまり、このご老体が欲する靴は――。

「登山靴だな。ちょうどトレッキングシューズの新入荷があるぞ」

 店主は目当てのコーナーへ案内すると、手早く品目の紹介を済ませた。

 老人に試し履きをさせ、その場でお金を受け取っている。早足でレジに舞い戻った店主は、品物を袋に詰めたあと、レジスターからお釣りを引き出した。

 再び老人の元へ歩いて行く際、鉄面皮の相好がいくらか崩れているのを鞘香は見た。

「毎度あり」

 かくして老人は去って行く。

 店主はいつもの仏頂面に戻っていた。表立って営業スマイルを浮かべることはなかったものの、スムーズで無駄のない対応だ。

「手際がいいですね!」

 鞘香が感嘆の声を漏らし、店主はフンと鼻を鳴らした。

「店内は我輩の庭だ。どこに何があるかはすぐ判るし、客の顔も覚えている。商店街は近隣住民の常連客(リピーター)ばかりだから、何の入り用かを迅速に察することが肝要だ」

「脱帽ですっ!」

「それに、この店は量販店に比べると敷地が狭く、品揃えも限られる。客層を的確に把握し、確実に売れるものだけを入荷することで回転率を高くしている」

 だから店の品物がほとんど埃をかぶらず、新品ばかりで占められていたのだ。そうやって売上を維持しつつ、修理やオーダーメイドで副次的な儲けを得ているのだろう。

 鞘香は今さらながら感心した。

 この店主、見かけこそ朴念仁だが、経営者としての手腕はあるようだ。そうでなければ商売なんて成り立たないだろうが、機転が利くのは間違いない。

 未来のアルバイト店員として、安心して身をゆだねられそうだ。

「じゃあ店主さん! ランシューのことお願いしますね!」

 契約書を書き終えた鞘香は、店主にぺこりとお辞儀した。

 愛するランニングシューズは店主に渡したままだ。これから二週間ほど彼女の手から離れてしまう。寂しくて胸が張り裂けそうだったが、ここはぐっと耐えるしかなかった。

「うむ、任せたまえよ」ちらりと睥睨する店主。「そっちのメガネの子も、何かあれば遠慮なく頼ってくれて良いぞ」

「え、あ、はいっ」

 踏絵がどぎまぎと返事した。彼女も気にかけられているようだ。

 店主は大きく頷いて、契約書とランニングシューズを片付ける。まずは契約書を事務室へ持って行き、引き返す足でランニングシューズを工房に運び込む――のだが。

「ん?」

 ――店主の、手が、止まった。

 手に携えたランニングシューズの片方――鞘香の利き足でもある右――をまじまじと見据えたきり、時間が停止したかのように微動だにしなくなった。

 何か異変でも発見したのか?

 鞘香は店主の奇行に狼狽するしかない。

「店主さん! 私のランシューに何かありました?」

「この靴紐、酷使したせいで劣化して切れた――という話だったよな?」

「はい、それが何か?」

 小首を傾げる鞘香と裏腹に、店主はふてぶてしくかぶりを振った。

「この紐、人為的な切れ込みが(・・・・・・・・・)入れられている(・・・・・・・)ぞ」

「ええっ!?」

 鞘香は頓狂(とんきょう)に声を裏返した。

 その奇声に驚いた踏絵も、甲高い悲鳴とともに飛び跳ねた。

 ――人為的な切れ込み。

 三人は顔を突き合わせて、慎重にランニングシューズを覗き込む。

「本当だわ! この靴紐、切断面が綺麗!」

「ああ。まるで鋭利な刃物で切断された(・・・・・・・・・・・)ように滑らか(・・・・・・)だろう? 通常の自然劣化なら、もっとほつれたような切れ方になるはずだが」

 意図的に、恣意的に、悪意を持って切断されたということだ。

 誰が? 何のために?

 いたずらにしては悪質すぎる。

「靴の故障は、何かが君の躍進を妨害する工作だった(・・・・・・・・・)のではないか?」

「そんな――!」

 とんでもない疑惑が浮上した。

 鞘香は自分の宝物が第三者に傷付けられたことに衝撃を受けたし、心ない蛮行に悲しみを覚えた。踏絵に至っては眉をひそめたきり凝り固まって動かない。

「考えてみれば、いくら三年間使い込んだとはいえ、大会本番でしか履かないランシューがここまでくたびれるのは珍しい。実は靴紐以外にも傷を付けられていたのかも知れん」

「一度や二度じゃないってことですか!」

 何者かが執拗に付け狙った犯行ということだ。

 そう考えると、この過剰な破損具合も得心が行く。自然な消耗ではこうはならない。

「この修理は、一筋縄では行かないな。(から)まった謎をじっくり紐解く(・・・)必要がありそうだ」



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