「すみません、遅くなりました」
「おお、キリ君、治った?」

 戻ってきた俺に真っ先に声をかけてくれたのは、なぜか靴と靴下を脱ぎ、ワイドパンツの裾を捲り上げて川に入っている桜さんだった。

 危ない、と悲鳴が出そうになるかと思いきや、そうでもなかった。

 むしろどこか、心にかかった積乱雲が少しずつ晴れていくような気分。


「何してるんですか?」
「あ、うん。川に向かって泣いてる佳澄を映すなら、正面から、足元に川が見えるようにして撮りたいんだよね。そうすると、こっちから撮るしかないかなって」

 両手の親指と人差し指で即席のファインダーを作り、佳澄に向ける彼女。

 それを見た瞬間、見えているものは変わらないのに、視界が一瞬にして広がったような錯覚を覚えた。



 ああ、謎が解けたかもしれない。

 愛理。なんで役者でもない君が川に入ったのか、ずっと不思議に思っていた。


 君も、こんな風にやっていたんだな。
 川を見たかったわけでも、川に入る演技をやってみたかったわけでもなくて、川から役者を映そうとしたんだな。


 何にも教えてくれないまま逝ってしまったから、想像しかできないけど、正解かも分からないけど。

 でも、君と同じように映画に日々を懸けている人が目の前にいたから、ここまで辿り着けた。

 俺の中では、これが真実ってことにしておくよ。良いシーンが撮りたかったんだよな。

 どこまでも真っ直ぐに映画に向き合ってた君らしくて、笑っちゃうくらいピッタリだし、それでもやっぱり、前日に大雨なんか降らなきゃ良かったのにって思ってしまうんだ。



「……どうしたの、キリ君?」
「え?」
「なんか、良い事あった?」

 桜さんが顔を覗き込む。
 右の額を少し掻いて、俺は口元を緩めながら目を見開いた。

「ちょっと、昔を思い出して」
 ここをロケ地に選んで、本当に良かった。



「はい、カット271! よういっ、アクション!」

 そこからラストシーンまでは、10カットほど連続で撮影。基本はレフ板担当だけど、比較的動きのないシーンではカメラや音声もやらせてもらいながら、佳澄が悲しみを爆発させるシーンを撮っていく。

『……ふうー…………ふっ…………』

 河原まで走ってきた佳澄が、強張った表情のまま丸い石を川にひゅうっと投げていく。ボチャンと音を立てて沈む石を見ながら、深呼吸と浅い呼吸を繰り返す。

 落ち着こうとする自分と、泣いてもいいじゃないかと言い聞かせる自分。相反する2つの感情を同居させ、どうしていいか分からずに右手で顔を押さえる。そして聞こえてくる、微かな嗚咽。

『うう……うあああ…………』

 その泣き方のあまりのリアリティー。こんなもの、何度も再現できるものじゃない。あとで余分な部分を切る前提で、颯士さんが三脚ごと動かしながらアングルを変えて撮影していく。

 それはどこか、フォトグラファーの撮影のようでもあって、映画が「作品」と呼ばれている理由を肌で理解した。