【第02章 『前園幸助は困惑する』 - 01】


「幸助はたくさん本を読んでいて偉いね」

 そんな母親の一言がきっかけで、当時幼かった俺は夢中で本を読み漁った。

 通っていた幼稚園に置いてあった絵本や児童文学を片っ端から読みふけり、小学校高学年になった頃には毎日図書室で本を借り、めぼしい本がなくなると、電車に乗って大きな図書館まで足を運んでまた本を貪った。

 中学生になった頃には本を読むだけでは満足できなくなり、俺はペンを握った。生まれて初めて小説を書き終えた時には、自分には才能があるのだと思った。

 地元の新聞社が学生向けに開催している短編小説のコンクールで、中学生の間、俺はずっと最優秀賞に選ばれ続け、元々持っていた自信は確信へと変わった。

 高校に上がった頃、そこそこ有名な出版社が催している新人賞で大賞を受賞した。大賞、優秀賞、佳作、とある中の一番上。受賞の連絡をもらった時は、はっきり言って舞い上がった。

 中学生の頃、毎年受賞していた小さなコンクールとは違う。自分が書いた小説が本という形で全国の書店に並ぶ。そう考えるだけで背筋がぞくりとした。

 そして最初に違和感を覚えたのは、大賞を受賞した出版社の打ち合わせに行った時だった。

 顎を上げなければ全貌が視界に収まらないほど大きなビル。そんな大層な外見からは想像もできないほど質素な一室で、俺はパイプ椅子に座ったまま、対面にいるやせ型の男と向き合っていた。

 やせ型の男の名は山田と言った。俺の担当編集だ。

 お互いの目の前には、大賞を受賞した俺の小説、『記憶の値段』の原稿が印刷されて置かれている。

 山田さんはその印刷された原稿をパラパラとめくりながら細かい修正の指示を出し、俺はその量の多さに度肝を抜かれつつも、指示を忘れないよう必死でメモをとった。

 その原稿がようやく終わりに差し掛かった頃、山田さんはため息交じりに言った。

「このラストシーンは大幅に変えていきましょうか」

 山田さんの提案に、思わず首を傾げる。

「……はい? えっと、ラストシーンを変える……ですか?」
「えぇ。こんな単調なハッピーエンドでは、正直おもしろくありません」

 おもしろくないと言うのなら、どうして俺の小説を受賞させたのかと、内心で思った。

「……でもそのラストシーンは、記憶を売買できる世界で、それまで何不自由なく暮らしていた主人公が、売ってしまった家族との思い出を、全財産をはたいて買いなおし、金のある人生よりも家族との思い出が大切だと感じる重要な場面なんです」

 山田さんは言う。

「う~ん……。最近の読者っていうのはですねぇ、そんなよくあるハッピーエンドなんて求めてないんですよねぇ」
「ですが……えっと……ほら、この前映画化したあれだって……」
「あぁ~。『花束を抱えた猫』ですか。まぁ、あれもハッピーエンドでしたけど。私、あれのどこがおもしろいのかイマイチわからないんですよねぇ」

 映画化するほど売れた小説のおもしろさがわからない人が、何故編集をしているのだろうか。

 そして、山田さんは当たり前のように付け加えた。

「それと、タイトルとペンネームも変えましょうか」
「タイトルとペンネームも、ですか?」
「はい。タイトルはストーリーの直しに合わせて変更してください。ペンネームは……これ、本名ですよね? それだと後々問題が生じる場合もありますので、別のペンネームを考えてください。ただ、この二つは急ぎではありませんので、まずはストーリーの直しを優先的にやっていきましょうか。あと、その前に授賞式がありますので、そちらの話も――」

 俺はてっきり、大賞をとった自分の小説が完璧だと思っていたから、かなり動揺していた。細かい修正は覚悟していたとはいえ、まさか物語の根幹を変えるような指示を出されるとは思ってもいなかった。

 それからあぁだこうだ言い合って、結局山田さんの「もしも修正できないようであれば、うちの出版社からは本を出すことはできません」という言葉が決め手となり、俺はラストシーンを書き直すことになった。

 全財産と引き換えに失った家族との思い出を買いなおし、その記憶と共に安らかな余生を送るはずだった主人公。だが修正したラストシーンでは、主人公が大切な家族との思い出と思って全財産と引き換えに買い戻した記憶は、自らの手で家族を惨殺している悲惨な記憶だった。そのことにショックを受けた主人公は、記憶を買い戻したことを酷く後悔し、自ら命を絶つという、救いの欠片もないラストに変わった。

 タイトルは、投稿時の『記憶の値段』から、『思い出の刃』へと、ペンネームは『前園(まえぞの)幸(こう)助(すけ)』から『夏川(なつかわ)望(のぞみ)』へと変更された。

 改稿作業を終えた時には、これが本当に自分の書きたかった小説なのかと驚いた。けれど、自分が書いた小説が本になるという誘惑には逆らえず、俺は自分の心を押し殺した。

 そうまでして出版にこぎつけた『思い出の刃』が書店に並んでいるのを見た時、喜びという感情はほとんどなかった。こんなものを世の中に出してしまって本当によかったのだろうか。俺は、こんなもののために今まで小説を書いてきたのだろうか。そんな罪悪感と焦燥感が入りまじった末、せめて、この本が売れなければいいと強く願った。

 けれど、俺のそのささやかな願いが届くことはなかった。

『思い出の刃』の陰鬱としたストーリーはたちまち話題となり、多くの人が手に取った。そして、手に取った読者は口々にこう言った。

「特にラストシーンがよかった」、と。

 ふざけるな。

 あんな救いのないラストのどこがいいんだ。

 あんな後味の悪い小説のどこがおもしろいんだ。

 それからだ。俺が、小説のラストシーンを書けなくなったのは。