【第01章 『夢月れいかは邂逅する』 - 04】
ぼぉっと鈍い音を立てて冷気を送る教室のエアコン。閉じられたカーテンの隙間から見える、燦々(さんさん)と輝く太陽。他のクラスが水泳の授業を行っているのか、時折ぱちゃぱちゃと水の音がした。
教室の中に目を向けると、高校三年生で受験を控えているということもあってか、みんな真面目に先生の授業を聞いていた。
いつもと変わらない、何気ない地続きな日常の一ページ。けれど、来週には私だけがこの日常から離脱する。
私が六日後に死んでしまうということを、他のクラスメイトは知らなかった。ただ、このクラスで唯一私の事情を知っている先生だけが、時々私の様子をうかがうように視線を送っているのに気がついた。
気を遣われるのが嫌で、私の寿命については特に話したりはしていなかったが、年に一回の健康診断などでも寿命は計測されるため、一部の教師は私がもうじき死んでしまうことを知っているのだ。
私の席が一つだけぽっかり空いていたら、みんな気になって勉強に集中できないかもなぁと、少し申し訳なく思う。けれど、特別仲のいい友達を作らないように努めてきたので、誰もそこまで取り乱したりはしないだろう。立つ鳥跡を濁さずである。
「ねぇ、夢月さん。教科書とか忘れたの?」
となりの席の……名前は憶えていないけど、おさげの髪の可愛らしい女の子が、ひっそりと声をかけてきた。
学校に来たはいいが、さすがに授業を聞いたりノートをとったりする気分にはなれず、机の上には何も出さないまま、カーテンの隙間から見えるグラウンドの景色をぼうっと眺めていた。そんな私を見ても、先生は注意したりはしなかった。きっと、命短し乙女に同情してくれているのだろう。
「うん。忘れちゃった」
「……全部? 教科書もノートも?」
「うん」
「じゃあ、私の見る? ノートも後で貸してあげよっか?」
名前もおぼろげなとなりの女の子は、とても優しかった。
そんなに優しくしてもらって悪いけど、私はもうすぐ死んじゃうから、他の人に優しくした方がきっとあなたのためになるよ。
そうやって助言をしてあげたくなったが、そんなことを言えば、きっとこの優しい女の子を傷つけてしまうだろう。
だから、私はとなりの女の子に微笑み返した。
「ううん。ありがとう。でも、私、もうそろそろ帰るから」
「え? 帰る?」
黒板の前に立っている先生に見えるよう、すっと手を伸ばした。
先生はすぐにこちらに気づき、
「夢月さん? どうかしたの?」
「すいません。体調が悪いので帰ってもいいですか?」
「……それじゃあ保健室で早退届を……いえ、そうね。わかったわ。手続きは私がしておくから、帰って大丈夫よ」
先生は、他の大人たちと同じような哀れみの視線を私に向けた。
普段は早退届を教師が代わりに出すということなどなく、その異例とも言える対応に数名のクラスメイトが二言三言、言葉を交わした。
となりの女の子が、心配そうな顔でたずねる。
「体調悪かったの? 大丈夫?」
「大丈夫。帰って休めばよくなると思うし」
「……そう」
「うん」
空っぽの通学鞄を手に持ち、席を離れようとすると、となりの女の子が控えめな声で言った。
「またね」
その返答に一瞬詰まってしまい、妙な間が生まれたが、私はなんとか「またね」と返すことができた。
だけど、私が学校に来ることは、もうないだろう。
◇ ◇ ◇
ガタゴトで揺れる電車の中で、つり革に掴まり、車窓を流れる景色を眺めていた。この見慣れた景色とも今日でおさらばだ。もう朝の満員電車で足を踏まれることもないし、窓ガラスに反射した寝ぐせのついた自分の間抜け面を拝むこともない。
地上を走っていた電車がトンネルに入ると、ゴツゴツとしたコンクリートの壁が視界いっぱいに広がった。暗くなった窓に、ぼけっとした自分の顔が映り込む。
無気力で自堕落な瞳に、まるで人形のように生気のない顔色。いったいいつから、私はこんな人間になり果ててしまったのだろうか。
医者に、私の寿命が十七歳で尽きてしまうと聞かされた時は、それはもうショックだったが、それでもその時は、もう少し生気のある表情をしていたように思う。残された短い未来に夢を見て、一握りの希望を抱いていた。
けれど、私は気づいてしまった。
人は、生きながらにして死ぬことができる生き物なのだ。
皆、生きているフリをして死んでいるのだ。
きっと私も、例外ではない。
電車がトンネルから抜けると、舞い込んだ風がボンと窓ガラスを叩き、無感動な私の姿を美しい海岸線に変貌させた。
そう言えば、と鈴寧さんの話を思い出す。
鈴寧さんいわく、若くして死ぬことが決定している悲劇的な人間には、特別にそこそこの願い事を叶えてもらえるチャンスが与えられるらしい。そう言えばそんな制度、昔医者から教えてもらった気がする。
現金なら百万円までくれるって言ってたし、それをもらって全額両親にあげるのはどうだろうか? 他人に譲渡したお金まで回収されることはないだろうし、ついでに両親にも少しだけ恩返ししてあげられる。一石二鳥だ。
……でも、それってなんだか、私の命が百万円で買われたみたいでちょっと嫌かも……。私が死んだあと、ポツンと残った百万円を眺めている両親の絵面は、想像するとあまりにも悲劇的だ。
うん。やっぱり現金はなしだな。
だったらもう少し夢のある願い事はどうだろうか。
そんなことを薄っすらと考えて、過去に捨て去った自分自身の夢について想いをはせた。
……一度捨てた夢にすがるなんて……そんな真似、できっこない。
過去から目を背けるように、車内へ視線を移す。
まだ昼前ということもあり、乗客はちらほらとしかおらず、その中でもわざわざつり革に掴まって外の様子を眺めていたのは私だけだった。
ここにいる人たちにも、きっとそれぞれの人生があるのだろう。
うとうとと船をこいでいる女性や、むすっと腕を組んでいるサラリーマン。目の前には大学生風の男性がうつむきがちで座っていて、現代人らしくかぶりつくようにスマホを睨みつけていた。
次の駅が目前に迫ったことを知らせるアナウンスが鳴り響き、ゆっくりと電車が停車すると、大学生風の男性がすくっと席を立ち、私の横を通り過ぎた。
特に気になったわけでもないが、男性が操作していたスマホの画面がチラッと目に入った。
そしてそこに、私もよく利用するネット小説サイトのページが表示されていて、この人も小説が好きなんだなぁ、なんて思った。けれど、画面上部に小さく『冬森光のマイページ』と書かれているのを見ると、驚いて顔が強張った。
というのも、その冬森光という人物は、私がそのサイトで読んでいた『約束の矛先』という小説の作者の名前だったからだ。予定していた最終話まで残り三話というところで更新は滞り、もう一カ月も音沙汰がない。
マイページって本人しか開けないよね? だったらもしかして……この人が冬森光本人?
さっきはうつむいててよく見えなかったけど、どんな顔してるんだろう……?
何をどうこうしたかったわけではないけれど、冬森光らしき男の人の顔を確認したくて、相手には気づかれないようにそっとそちらを見やった。
その瞬間、まるで後頭部をレンガで殴られたような衝撃を覚えた。
ほんのりとくせ毛で跳ねた髪先。細身で、不愛想に結ばれた薄い唇は妙に艶っぽかった。そして何より、どこか人を小馬鹿にしたような切れ長の目が、私の視線を釘付けにして離さなかった。
プシューと音がして電車の扉が開くと、その男の人はスマホをポケットにしまい、そそくさとホームに降りてしまった。
気づいた頃には、私はその男の人を追って電車から飛び降りていた。
あれ? 私、何やってるんだろう?
そんなことを考えながらも、足はどうしようもなく地面を蹴り、前を歩いていた大学生風の男性に追いつくと、考えもまとまらないままぽろっと言葉があふれ出た。
「あ、あの!」
私の呼びかけに、大学生風の男性は歩みを止め、こちらを振り返った。
目が合った。息が止まりそうになった。額に汗が滲む。声が出ない。頭の中が真っ白になる。もうじき死ぬというのに、私は何をやってるんだろう。
言葉を発することができず、ただ見つめ合う時間が流れると、不意に、男の人が私に向かって首を傾げた。
「えっと……どちら様? 俺に何か用?」
その時だった。
あとはもう消えていくだけの私に、一つの願いが生まれたのは。
「お願いします! 私が死ぬまでに、『約束の矛先』を完結させてください!」
ぼぉっと鈍い音を立てて冷気を送る教室のエアコン。閉じられたカーテンの隙間から見える、燦々(さんさん)と輝く太陽。他のクラスが水泳の授業を行っているのか、時折ぱちゃぱちゃと水の音がした。
教室の中に目を向けると、高校三年生で受験を控えているということもあってか、みんな真面目に先生の授業を聞いていた。
いつもと変わらない、何気ない地続きな日常の一ページ。けれど、来週には私だけがこの日常から離脱する。
私が六日後に死んでしまうということを、他のクラスメイトは知らなかった。ただ、このクラスで唯一私の事情を知っている先生だけが、時々私の様子をうかがうように視線を送っているのに気がついた。
気を遣われるのが嫌で、私の寿命については特に話したりはしていなかったが、年に一回の健康診断などでも寿命は計測されるため、一部の教師は私がもうじき死んでしまうことを知っているのだ。
私の席が一つだけぽっかり空いていたら、みんな気になって勉強に集中できないかもなぁと、少し申し訳なく思う。けれど、特別仲のいい友達を作らないように努めてきたので、誰もそこまで取り乱したりはしないだろう。立つ鳥跡を濁さずである。
「ねぇ、夢月さん。教科書とか忘れたの?」
となりの席の……名前は憶えていないけど、おさげの髪の可愛らしい女の子が、ひっそりと声をかけてきた。
学校に来たはいいが、さすがに授業を聞いたりノートをとったりする気分にはなれず、机の上には何も出さないまま、カーテンの隙間から見えるグラウンドの景色をぼうっと眺めていた。そんな私を見ても、先生は注意したりはしなかった。きっと、命短し乙女に同情してくれているのだろう。
「うん。忘れちゃった」
「……全部? 教科書もノートも?」
「うん」
「じゃあ、私の見る? ノートも後で貸してあげよっか?」
名前もおぼろげなとなりの女の子は、とても優しかった。
そんなに優しくしてもらって悪いけど、私はもうすぐ死んじゃうから、他の人に優しくした方がきっとあなたのためになるよ。
そうやって助言をしてあげたくなったが、そんなことを言えば、きっとこの優しい女の子を傷つけてしまうだろう。
だから、私はとなりの女の子に微笑み返した。
「ううん。ありがとう。でも、私、もうそろそろ帰るから」
「え? 帰る?」
黒板の前に立っている先生に見えるよう、すっと手を伸ばした。
先生はすぐにこちらに気づき、
「夢月さん? どうかしたの?」
「すいません。体調が悪いので帰ってもいいですか?」
「……それじゃあ保健室で早退届を……いえ、そうね。わかったわ。手続きは私がしておくから、帰って大丈夫よ」
先生は、他の大人たちと同じような哀れみの視線を私に向けた。
普段は早退届を教師が代わりに出すということなどなく、その異例とも言える対応に数名のクラスメイトが二言三言、言葉を交わした。
となりの女の子が、心配そうな顔でたずねる。
「体調悪かったの? 大丈夫?」
「大丈夫。帰って休めばよくなると思うし」
「……そう」
「うん」
空っぽの通学鞄を手に持ち、席を離れようとすると、となりの女の子が控えめな声で言った。
「またね」
その返答に一瞬詰まってしまい、妙な間が生まれたが、私はなんとか「またね」と返すことができた。
だけど、私が学校に来ることは、もうないだろう。
◇ ◇ ◇
ガタゴトで揺れる電車の中で、つり革に掴まり、車窓を流れる景色を眺めていた。この見慣れた景色とも今日でおさらばだ。もう朝の満員電車で足を踏まれることもないし、窓ガラスに反射した寝ぐせのついた自分の間抜け面を拝むこともない。
地上を走っていた電車がトンネルに入ると、ゴツゴツとしたコンクリートの壁が視界いっぱいに広がった。暗くなった窓に、ぼけっとした自分の顔が映り込む。
無気力で自堕落な瞳に、まるで人形のように生気のない顔色。いったいいつから、私はこんな人間になり果ててしまったのだろうか。
医者に、私の寿命が十七歳で尽きてしまうと聞かされた時は、それはもうショックだったが、それでもその時は、もう少し生気のある表情をしていたように思う。残された短い未来に夢を見て、一握りの希望を抱いていた。
けれど、私は気づいてしまった。
人は、生きながらにして死ぬことができる生き物なのだ。
皆、生きているフリをして死んでいるのだ。
きっと私も、例外ではない。
電車がトンネルから抜けると、舞い込んだ風がボンと窓ガラスを叩き、無感動な私の姿を美しい海岸線に変貌させた。
そう言えば、と鈴寧さんの話を思い出す。
鈴寧さんいわく、若くして死ぬことが決定している悲劇的な人間には、特別にそこそこの願い事を叶えてもらえるチャンスが与えられるらしい。そう言えばそんな制度、昔医者から教えてもらった気がする。
現金なら百万円までくれるって言ってたし、それをもらって全額両親にあげるのはどうだろうか? 他人に譲渡したお金まで回収されることはないだろうし、ついでに両親にも少しだけ恩返ししてあげられる。一石二鳥だ。
……でも、それってなんだか、私の命が百万円で買われたみたいでちょっと嫌かも……。私が死んだあと、ポツンと残った百万円を眺めている両親の絵面は、想像するとあまりにも悲劇的だ。
うん。やっぱり現金はなしだな。
だったらもう少し夢のある願い事はどうだろうか。
そんなことを薄っすらと考えて、過去に捨て去った自分自身の夢について想いをはせた。
……一度捨てた夢にすがるなんて……そんな真似、できっこない。
過去から目を背けるように、車内へ視線を移す。
まだ昼前ということもあり、乗客はちらほらとしかおらず、その中でもわざわざつり革に掴まって外の様子を眺めていたのは私だけだった。
ここにいる人たちにも、きっとそれぞれの人生があるのだろう。
うとうとと船をこいでいる女性や、むすっと腕を組んでいるサラリーマン。目の前には大学生風の男性がうつむきがちで座っていて、現代人らしくかぶりつくようにスマホを睨みつけていた。
次の駅が目前に迫ったことを知らせるアナウンスが鳴り響き、ゆっくりと電車が停車すると、大学生風の男性がすくっと席を立ち、私の横を通り過ぎた。
特に気になったわけでもないが、男性が操作していたスマホの画面がチラッと目に入った。
そしてそこに、私もよく利用するネット小説サイトのページが表示されていて、この人も小説が好きなんだなぁ、なんて思った。けれど、画面上部に小さく『冬森光のマイページ』と書かれているのを見ると、驚いて顔が強張った。
というのも、その冬森光という人物は、私がそのサイトで読んでいた『約束の矛先』という小説の作者の名前だったからだ。予定していた最終話まで残り三話というところで更新は滞り、もう一カ月も音沙汰がない。
マイページって本人しか開けないよね? だったらもしかして……この人が冬森光本人?
さっきはうつむいててよく見えなかったけど、どんな顔してるんだろう……?
何をどうこうしたかったわけではないけれど、冬森光らしき男の人の顔を確認したくて、相手には気づかれないようにそっとそちらを見やった。
その瞬間、まるで後頭部をレンガで殴られたような衝撃を覚えた。
ほんのりとくせ毛で跳ねた髪先。細身で、不愛想に結ばれた薄い唇は妙に艶っぽかった。そして何より、どこか人を小馬鹿にしたような切れ長の目が、私の視線を釘付けにして離さなかった。
プシューと音がして電車の扉が開くと、その男の人はスマホをポケットにしまい、そそくさとホームに降りてしまった。
気づいた頃には、私はその男の人を追って電車から飛び降りていた。
あれ? 私、何やってるんだろう?
そんなことを考えながらも、足はどうしようもなく地面を蹴り、前を歩いていた大学生風の男性に追いつくと、考えもまとまらないままぽろっと言葉があふれ出た。
「あ、あの!」
私の呼びかけに、大学生風の男性は歩みを止め、こちらを振り返った。
目が合った。息が止まりそうになった。額に汗が滲む。声が出ない。頭の中が真っ白になる。もうじき死ぬというのに、私は何をやってるんだろう。
言葉を発することができず、ただ見つめ合う時間が流れると、不意に、男の人が私に向かって首を傾げた。
「えっと……どちら様? 俺に何か用?」
その時だった。
あとはもう消えていくだけの私に、一つの願いが生まれたのは。
「お願いします! 私が死ぬまでに、『約束の矛先』を完結させてください!」