【エピローグ】


 れいかが死んでから、もう二週間が経った。

 大学で話し相手がいなくなったので、なんとなく鈴木が話していた文芸サークルに入ってみた。そこでたまに鈴木と顔を合わせると、鈴木は気まずそうな顔をして、あからさまに俺から距離を取るようになった。

 まぁでも、他のサークルメンバーとはそこそこ気もあったので、なんとか続けられそうだ。

 今日は休日ということもあり、パソコンと向かい合うように椅子に座っていると、妹の美咲からメールが届いていた。

『お兄ちゃん、ほんとに夢月さんの転校先の住所とか聞いてないの?』

 美咲には、れいかが死んだことは伝えなかった。同情されることを何よりも嫌っていたれいかは、きっとそれを望んでいると思ったからだ。

 美咲には適当にメールを返し、スマホを閉じて、再びパソコン画面に視線を戻した。

「あ……。そう言えば、『約束の矛先』、まだネットに上げてなかったな」

 フォルダを開き、『約束の矛先』というタイトルのファイルを開く。

「もしも私があなたのことを忘れたら殺してほしい」そう恋人の女性に懇願された男は、とうとうその約束を守ることはなかった。

 男は、自分のことを完全に忘れてしまった恋人に、まったくの他人のフリをして、もう一度恋人になろうと決意する。

 自分でも笑ってしまうような甘ったるいハッピーエンドだ。

 けどまぁ、救いのないバッドエンドよりも、ずっといいラストだと俺は思う。

「もしもれいかがこの小説を読んでたら、なんて言われたかな……」

 少なくとも、『あの頃の(・・・・)前園さんの小説は(・・・・・・・・)、どれも本当におもしろいものばかりでした』なんて言われないといいな。

「……って、ん? あれ? なんだ、これ?」

『約束の矛先』のラスト。『了』という文字で締めくくった次の段落に、短い文章が追加してあった。

『前園さんらしいラストでした。でも、私は好きですよ、こういうの』

 あいつ……こっそり読んでやがったな。

『P.S. 殴ったりしてごめんなさい』

 殴ったりしてごめんなさい? どういう意味だ?

 コンコン、と扉をノックする音が響いた。

 俺はれいかの残した言葉に首を傾げつつも、そそくさと玄関に向かった。

 その途中、本棚の一段に並べられている賞状の一番端に置いてある、遊園地でれいかと一緒に撮った写真が少し斜めになっていたので、その位置を調整した。

「うん。まぁ、いいだろう」

 楽しそうに笑うれいかの写真を横目に、改めて玄関へ急いだ。

「久しぶりね、前園くん」

 玄関の向こうにいたのは、鈴寧さんだった。何度か電話でやりとりをすることはあったが、直接会うのはちょうど二週間ぶり。遊園地の日以来だ。

 今日も仕事があったのか、いつものように黒いスーツを身にまとっている。

「あ、どうも。お久しぶりです」

 鈴寧さんはニヤニヤと笑いながら、

「で、どうだった? れいかちゃんから殴られた感想は」

 殴られた?

「あの、それ、どういう意味なんですか? さっきパソコンで、れいかが書き残した文章にも、殴ったりしてごめんなさいって書いてたんですけど……」

「あら? あー……。じゃあ、結局れいかちゃん、殴らなかったのね。……いや、眠たくて殴れなかったのかな?」

「あの、話が見えないんですが……」

 鈴寧さんは、「実はね――」と、声を細めて、どこか楽しそうに語り出した。

「れいかちゃん、最後の最後に、死んだふりをしてあなたを驚かして、思いっきり顔をぶん殴ってやるんだって言ってたのよ」
「……えっ? な、なんですか、それ」
「『私のことを忘れた罰です。最期に、前園さんの間抜けな驚き顔を見てから死んでやりますよ』って息巻いてたわよ」
「えー……」
「で、油断させるために、前園くんのスマホの時計を、三十秒だけ早めてほしいって」
「……三十秒だけ早める?」
「えぇ。その状態でアラームを仕掛けておけば、時計を確認した前園くんが、れいかちゃんは完全に死んだと思い込むでしょう? その隙を狙って思い切りぶん殴る……と、ここまでが一応、れいかちゃんの計画だったんだけど……。でも殴ってないってことは、きっと気が変わったのね」
「なんですか、その野蛮な計画は……」

 なるほど……。れいかが死ぬ直前、れいかは一瞬生き返ったわけじゃなくて、死んだフリをしていたれいかが、起き上がって俺にキスをしたってわけか……。まぁ、それはそれで驚いたけど……。

 ブラックジョークが好きなれいからしいな……。

 …………ん?

 待てよ?

 だったらどうして、俺を恨んで殴ろうと思っていたれいかは、最期に俺にキスなんてしたんだ?

 れいかが俺のパソコンにメッセージを残したのは、少なくとも、俺が『約束の矛先』を完成させてからだ。だとすると、そこかられいかが死ぬまでの十数時間の間に、れいかを心変わりさせるような出来事があったということか?

 それは、俺がれいかを背負って車に乗せた時?

 遊園地に向かう車の中?

 何かのアトラクションの上で?

 観覧車に乗り込んで手を握った時?

 それとも、もっとあとになってから……?

 …………。

 ……わからない。

 もうすぐ死ぬ(・・・・・・)というところで、れいかはどうして心変わりをしたんだろう?

 それに、れいかが残した言葉、『ごめんねなんかじゃなくて』の意味も、結局わからず仕舞いだ。

 れいかがいない今となっては、その答えを見つけることはできないだろう。

 けれど、心の隅で、微かに考えることがある。

 もしかしたら……。

 もしかしたら、俺にキスをしたれいかは、俺のことを……。

 …………。

 ……いや、まさかな。

 俺の妄想をかき消すように、鈴寧さんが口をはさんだ。

「それと、あなたがれいかちゃんにプレゼントしたぬいぐるみは、きちんと一緒に天国に送っておいたから。今日はそれを報告しにきたのよ」
「そうですか……。ありがとうございます」

 鈴寧さんは腕時計に視線を落とすと、「あっ」と短い声を上げた。

「ごめんなさい。もう行かないと。次の仕事が入ってるから」
「はは。大変ですね」
「えぇ。じゃあ、元気でね。いろいろありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました。お元気で」

 バタン、と扉が閉まると、再び静寂を訪れた。

 台所に行って水を一杯飲んで、改めてパソコンの前に腰を下ろす。

 そして、新たに書き始めた小説の続きに取り掛かろうとすると、ふと、れいかのことが頭を過った。

 これだけはもう、どうしようもない。

 俺は、れいかが死んで以来、小説を書こうとすると、必ずれいかのことを思い出してしまうようになった。二週間たっても、頭の中のれいかは色あせることなく、いたずらっぽい笑みを浮かべている。

 そしてそのたびに、思う。

 れいかは、死にながらにして生きる道を選んだのだ、と。