【最終章 『前園幸助は答えを欲する』 - 04】


 れいかは観覧車の外の景色を眺めると、目を輝かせて、

「わぁ、きれい!」
「……そうだな」
「私と夜景、どっちがきれいですか?」
「夜景」
「即答ですか!? ショックです!」
「冗談だ」
「もー!」
 れいかは少しの間夜景を堪能したあと、
「前園さん、もう少し端っこまで詰めてください」
「端? なんで?」
「いいからいいから」
「……?」

 れいかにぐいぐいと押し込まれ、長椅子の端まで追いつめられると、れいかはさっと身をひるがえし、俺の膝に頭をのせた。

「……おい。何してるんだ」
「えへへ。何って、膝枕ですよ、膝枕」
「なんでだよ」
「いいじゃないですか。このままお話を続けましょう。……というか、どうしてこんなところにまで鞄を持ってきたんですか? 邪魔です。前園さんの顔がよく見えません。どけてください」

 膝の上を占領された俺は、しぶしぶボディバッグをおろした。

 ふと、れいかが左手を強く握ったままなのが目に留まった。

 そう言えば、観覧車に乗る前からずっとだ。何か手の中に持ってるのか?

 俺の疑問を他所に、れいかは淡々と、窓の外に広がる星空を見つめながら語り始めた。

「……小学生の時、宿題を忘れた生徒に、先生はこう言いました。そんなことじゃ、立派な大人にはなれないよ、と。でも、私が同じように宿題を忘れると、先生は憐れんだ目をしたあと、あなたは気にしないでいいのよ、と言いました。……それが、当時の私には耐えられませんでした。未来がないと、叱ってももらえないのか、と……。そんな私が小説の世界に逃げ込んだのは、当然の結果だと思います。小説の中には、私を憐れむ人も、同情する人もいない。特別扱いという差別を受けることのない、たった一つの、私の大切な世界」

 れいかは続ける。

「私が小説を書き始めたのは、小学生の頃でした。女の子がファンタジーの世界で冒険をする、どこにでもある、普通の小説。それを妹に読んでもらって、おもしろかったよって言われるのが、とてもうれしかった……。だから、もっとたくさんの人に読んでほしいと思ったんです。こんな私でも……大人になれない、こんな私でも、この世界に何かを残せるんじゃないかって。そしたら中学生になって、地元の新聞社が、短編小説のコンクールを開催していることを知りました」

 膝の上でごろんと寝返りを打ったれいかの頭は、やはりひどく軽かった。

「あぁ、これだって、すぐにピンと来て、急いで小説を書き上げて応募したんです。そしたらなんと、私が書いた小説が優秀賞に選ばれたんです! あの時はほんとにうれしかった。自分にも居場所があるんだ。こんな自分でも、認めてくれる人がいるんだ、と」

 この話の先に何が待ち構えているのかを知っている俺は、思わず自分の耳を塞ぎたい衝動に駆られた。

 けれど、れいかは語る。

「……その授賞式が催される一週間ほど前に、受賞作をまとめた薄い冊子が家に届きました。そこに載っていた前園さんの小説は、とてもおもしろかった。ページをめくるたび、次々と息もつかせぬ展開が続いて、最後はみんなが幸せになるハッピーエンド。前園さんが三年連続で受賞していると聞き、公民館の人に頼み込んで、他の二年分の冊子も読ませてもらいました。……あの頃の前園さんの小説は、どれも本当におもしろいものばかりでした。こういう素敵な物語を書く人は、いったいどんな人なんだろう。授賞式で会ったら少しくらい話ができるかもしれない。もしかしたら、私の小説も読んでくれていて、おもしろかったと褒めてくれるかもしれない。……そんな期待を抱えながら、私は授賞式に行きました」

 今の俺の記憶の中には、鮮明に、幼かった日のれいかの姿があった。授賞式が始まる前、チラチラとこちらを盗み見ては、恥ずかしそうに顔を赤らめて隠れるれいかの姿だ。

「授賞式に行くと、関係者の人に、前園さんはどの人かとたずねて、すぐにあなたを見つけました。でも、私は人見知りで、結局一言も話しかけることができませんでした。……そしてそのうち、受賞者は全員壇上に並べられて、賞を配られることになりました。佳作の人から順番に並べられて、私のとなりに、前園さんが立っていました。……話すなら今しかないと思い、一言だけ、前園さんに言ったんです。『最優秀賞、おめでとうございます。すごいですね』って。そしたら前園さんは……こう返したんです」

 れいかは静かに言った。

「『本にもならないこんな賞もらったって、意味ないよ』、と。……それは、前園さんにとっては、なんでもない謙遜の言葉だったのかもしれません。けれど私にとっては……。賞をもらって、まるで自分の居場所ができたような錯覚をしていた私にとっては、あまりにも残酷な言葉でした」

 俺がれいかに言ったセリフは、当時、俺が同級生から言われたセリフそのままだった。俺自身、その言葉がずっと頭の片隅に引っかかっていて、ついあの時、口に出してしまったのだ。

 れいかは一呼吸置いて話を続けた。

「私はその言葉がショックで、授賞式で泣いてしまいましたけれど、傍目には賞をもらったことがうれしくて泣いているように見えたらしくて、式はつつがなく進行しました。この写真は、その時のものですね」

 れいかから写真が手渡されると、改めて大泣きしている中学生の頃のれいかを見て、心が痛んだ。

「……悪かった。傷つける気はなかったんだ」
「えぇ。そうでしょうね。……でも、中学生の頃の私が傷つき、その一言が筆を折る理由になったことは揺るぎない事実なんです。私は、私に現実を突きつけた前園さんを許せなかった。……ちなみに、実は前園さんの本、『思い出の刃』は発売日に買って読んでいたんです。当時地元では、高校生でプロの小説家になった前園さんは、そこそこ有名人でしたからね」
「そうか……。だったられいかは、ずっと昔から、俺に復讐したいと考えていたんだな」
「いいえ。それは違います。私は前園さんのことを恨んでいたとは言え、自分自身の最期の寿命を使ってまで、前園さんに復讐する気なんてこれっぽっちもありませんでしたよ」
「……じゃあ、どうして……?」

 れいかはゆっくりと、噛み締めるように、声を震わせて言った。

「『えっと……どちら様? 俺に何か用?』」

 それは六日前、俺とれいかが駅のホームで再会した時、俺がれいかにかけた言葉だった。
 今までずっと冷静に話していたれいかは、目に涙を浮かべている。

「私は、電車から降りていく前園さんを見つけて、慌ててそのあとを追いかけました。ただ一言、『お久しぶりですね』と、声をかけたかった……。けれど! あなたは私のことを、これっぽっちも覚えていなかった! 私はそれが憎かった! 私はそれが許せなかった!」

 あぁ、そうか……。

 あの瞬間から……すべてが始まったのか。

 れいかは俺のズボンを力強く掴んだ。

「……前園さんに傷つけられた私は死んでしまうのに、私を傷つけた前園さんは、私のことを忘れてこれからも生きていくのだと想像すると、耐えられませんでした。どうにかこの人に一矢報いたい……せめて、心に癒えない傷を与えて、二度と私を忘れられないようにしたい、そう思ったんです。……『約束の矛先』を完結させてほしいと言ったのは、そのすぐ前に、あなたが『冬森光』というペンネームでネット小説を書いていると知ったから利用しただけです。前園さんを傷つけることができるのなら、本当はどんな理由でもよかったんです。……私はそのために、自分自身の境遇を利用しようと考えました。だから、前園さんに『約束の矛先』を完結させるように頼んでおきながら、それを私自身の手で阻止しようとしたんです。死にゆく人間の最後の願いを叶えられなかったという罪悪感が、これから先、あなたを一生蝕み、小説を書こうとするだけで、自分の不甲斐なさと、私の顔を思い出す。……そうして、私の復讐劇は完成を迎えるはずでした」

 れいかは少し落ち着いた口調で続けた。

「……でも、前園さんが、小説のラストシーンを書けなくなっていると知った時は驚きました。当初の目的では、私のあふれんばかりの魅力に打ちのめされた前園さんが、私のためにせっせこ小説を書こうとして、それをこっそり邪魔するつもりでしたから」
「あふれんばかりの魅力って……」
「私はしかたなく、前園さんに小説のラストシーンをもう一度書けるようにする、という体で、無駄に時間を消費させることにしました。……けれど、私の計画は無事、失敗に終わりました」
「……実際、俺はれいかに触発されて、小説を書き上げてしまったわけだ」
「えぇ……。ほんと、自分のあふれんばかりの魅力が仇となってしまいました……」
「…………」

 れいかは膝の上でごろんと転がって、真下から俺と目を合わせた。

「これで、私の話はおしまいです。さぁ、前園さん。もうそろそろ、お別れの時間ですよ」

 観覧車の外の景色は、もうかなり地上まで近づいていた。

◇ ◇  ◇

「そうだ……。れいかに渡すものがあるんだ」

 れいかは俺の膝の上で、眠そうな目を必死でこすっている。

「渡すもの?」
「あぁ」

 俺は鞄から、クマのぬいぐるみを取り出し、れいかにそっと手渡した。

 れいかは目を丸くして、そのクマのぬいぐるみをまじまじと眺めている。

「これは……あのゲームセンターで、私が取れなかったぬいぐるみじゃないですか」
「れいかが寝てる間に、一人でゲームセンターに行って手に入れたんだ」
「でも……どうして……?」
「だって、明日はれいかの誕生日だろ?」

 れいかははっと顔を上げ、心底驚いたようにぽかんと口を開いた。

「なっ!? なんで……知ってるんですか……?」
「れいかが俺に見せた若年死亡予定証明書には、生年月日も載ってただろ。その時、予定寿命と生年月日が一日違いだったから、覚えてたんだ」
「…………」
「誕生日おめでとう、れいか」

 れいかの呂律は、少しずつ回らなくなっていた。

「……まさか。……まさかこのタイミングで……誕生日を祝われるとは……思ってもいませんでいた。……前園さん……なかなかブラックジョークのユーモアが磨かれてきたじゃないですか……それも……きっと私のおかげですね」
「あぁ。れいかのおかげだな」
「……はは」

 れいかは乾いたように笑うと、そっと目をつむった。

「……ありがとうございます。……これは……私の宝物にします」
「……それと、あと一つ、れいかに伝えたいことがあるんだ」
「…………」
「れいか――」

 ピピピ、とどこからともなく電子音が鳴り響いた。

 その音源が、ポケットにしまっていたスマホのアラームだと知った。

 そこに表示されている時刻は、二十三時ジャスト。

 れいかの、寿命予定時刻だった。

「そんな……。どうして……。まだ、観覧車は下についてないのに……」

 観覧車は一周するのにちょうど十五分かかると、れいかは言っていた。それなのに……。

 れいかは、ピクリとも動かない。

 だめだ……。

 こんなの、だめだ。

 俺は、俺は、れいかに伝えなくちゃいけないことがあったんだ。

「れいか……」

 もう、二度と動かないれいかに、聞こえてくれと願いながら言葉を紡いだ。

「れいか。生まれてきてくれて、ありがとう」

 れいかが生きているうちに言ってやりたかった。

 こんなことなら、もっと早くに言えばよかった。

 もう取り返しはつかない。

 …………そう、思っていた……。

 次の瞬間、俺は自分の目を疑った。

 何故なら、れいかの口が微かに動いたからだ。

「れい……か……?」

 そんなことはありえない。予定寿命が一秒でも狂うことはない。

 それならば、何故……?

 けれど、目の前には懸命に唇を動かしているれいかの姿があった。

 そして、れいかは言った。

 今にも消え入りそうな声で、たしかにこう言った。

「……………………『ごめんね』………………なんかじゃ………………なくて…………」

 そしてあろうことか、れいかはかっと目を見開き、俺の髪を思い切り掴んだ。

 状況を呑み込めないまま、俺はぐっとれいかに引き寄せられた。

 俺の唇に、そっとれいかの唇が触れた。

 ガコン、と観覧車が大きく揺れて地上にたどり着くと、れいかの体からはふっと力が抜け、そのまま俺の膝の上に横たわった。

 カシャン、という音がして、れいかのポケットから、画鋲がぎっしり詰まったケースが落ちてきた。そのケースには、遊園地に来る前、れいかが立ち寄ったコンビニのシールが貼ってあった。

 恐る恐る、れいかがずっと固く閉ざしていた左手を開いてみると、いくつもの画鋲が手のひらに刺さっていて、血まみれになっていた。きっと、そうしないと起きていられなかったのだろう。

 れいかはもう息をしていない。

 れいかはもう目を開かない。

 れいかはもう喋らない。

 れいかの心臓はもう動かない。

 れいかは、死んだ。

 けれど……その刹那、れいかはほんのひと時息を吹き返した。

 ありえないことだと、自分でも思う。

 けれど、唇に残った柔らかな感触が、それが現実だったことを物語っている。

 観覧車の扉が開くと、鈴寧さんが現れた。その後ろには、鈴寧さんと同じように黒服をまとった女性たちが待機している。

 俺と目が合った鈴寧さんは、何も語らずに、横たわるれいかの頬にそっと手を添え、れいかの顔をじっくりと見つめていた。

 まるで、れいかの顔を忘れないよう、記憶に刻みつけているようだった。