【最終章 『前園幸助は答えを欲する』 - 03】


 れいかの提案通り、俺たちは次から次へと目についたアトラクションに飛び乗った。ゴーカート。急流すべり。フリーフォール。コーヒーカップ。

 もう二度と来ない二人だけの時間を噛み締めるように、すべてを忘れて遊び惚けた。時々それが、まるで本当のデートのようだと錯覚すると、同時に、刻一刻と迫っているタイムリミットのことを思い出した。

 五つ目に俺たちが乗ったアトラクション、ローラーコースターから降りると、れいかは俺の顔を指差してけらけらと笑った。

「あはは! ま、前園さん! 怖がりすぎですよ! めちゃくちゃ顔引きつってたじゃないですか! フリーフォールとか急流すべりとか全然平気だったくせに、どうして一番ゆっくりだったローラーコースターで怖がるんですか!」
「し、しかたないだろ! 俺の席にある転落防止のバーが明らかに緩かったんだって! 俺、カーブが来るたびに必死で捕まってたんだぞ!」
「あはは! 嘘ついちゃだめですよ、前園さん! ほんとは怖かったくせに!」
「いや、ほんとだって!」

 れいかは一頻り俺のことを笑ったあと、「あー、おかしい」と涙を拭い、さも当然のように一言つけ加えた。

「さて。じゃあ、そろそろ最後のアトラクションに向かいましょうか」

 れいかが死ぬまで、残り二十分弱。

 さっき、車の中で鈴寧さんから言われた言葉を思い出す。

『あなたは、れいかちゃんがいなくなると悲しい?』

 俺は、れいかに同情したいのか?

 短い寿命でかわいそうだと思っているのか?

 大人になれなかったことを悲しんで、一緒に泣いてやればいいのか?

 ……本当に? 本当にそんなことが、俺がれいかに伝えたい最後の気持ちなのか?

 どこかへ向かって歩き出したれいかの後ろを、そんなことを考えながらトボトボと歩いた。

 目の前にあるのは、俺よりもずっと小さい、華奢な背中。歩くたび、長い髪が曲線を描くように揺れている。

 ふと、その左手が、固く閉じられているのが目についた。

「……れいか、それ、何か握ってるのか?」
「え? あぁ……。これは気にしないでください。それよりもほら、到着しましたよ。最後のアトラクションに」

 眼前にそびえる巨大な観覧車。普段からそうなのか、今日だけ特別なのか、色とりどりにライトアップされている。

 俺たちの来訪をあらかじめ知っていたのか、すでに従業員の一人が、観覧車の扉を開けて俺たちを待ち構えていた。

 れいかはひょいっと観覧車に飛び乗り、こちらを振り返った。

「この観覧車、一周するのにちょうど十五分かかるんです。なので、私が死ぬちょうど十五分前からスタートしてもらうように頼んでおいたんです」

 れいかに続き、俺も観覧車に乗り込んだ。

 そして、れいかと向かい合うように座ると、れいかはむっと頬を膨らませた。

「なんでとなりに座らないんですか」
「なんでって言われても……」
「これはデートだって言ってるじゃないですか!」
「……わかったよ」

 しぶしぶ席を立ち、改めてれいかのとなりに腰を下ろした。

 れいかは満足そうに胸を張り、うんうんと頷いている。

「それでいいんです。それで」

 しばらく無言の間が続いたあと、ガコン、と鈍い音がして、観覧車が動き始めた。

 れいかが死ぬまで、残り十五分。

 いくら頭では理解していても、あと十五分でれいかが死んでしまうと思うと、心の底から怖かった。

 心臓がどくんと脈を打ち、焦燥感で目の前が真っ白になる。

 呼吸が乱れて、何を話せばいいのかわからなくなる。

 れいかはもう、この観覧車から生きて降りることはない。

 この瞬間が過ぎ去れば、二度とれいかと話すことはできない。

 落ち着け、と心の中で何度叫んでも、背筋をひんやりと染めていく恐怖には抗えなかった。
 その時、そっと、れいかが俺の手に触れた。

 その指先は、まるで氷のように冷たかった。

「……れいか?」

 そしてようやく、俺はとなりにいるれいかの顔を見ることができた。

 ここまでずっと楽しそうにしていたれいかは、青ざめた表情で一点を見つめている。微かに唇を震わせ、手にはじっとりと汗をかいていた。

 俺は、何をしてるんだ……。

 今、一番怖いのはれいか自身なんだ。俺がしっかりしてやらないでどうする。

 れいかの手を強く握ると、れいかははっと目を見開き、すぐに握り返してきた。その力強さに、食い込んだれいかの爪先が痛かったけれど、俺は手を離したりはしなかった。

 れいかは長く深いため息をついたあと、ようやくいつものように口を開いた。

「あぁ……。やっぱり怖いなぁ」
「大丈夫。最期まで、俺がとなりにいてやるから」
「おっ。前園さん、いつからそんなに男前になったんですか?」
「俺はいつだって男前だ」

 そんな冗談を言い合って、少しだけ笑った。

 れいかが「さて」と、居住まいを正して言った。

「一生に一度の出血大サービスです。今ならどんなことにでも、正直に答えてあげますよ。さぁ、どうぞ」
「全部俺に丸投げかよ……」
「もちろん。これは答え合わせですからね。先に前園さんが答えを提示するのが道理でしょう?」

 れいかはすっかりいつもの調子を取り戻したのか、饒舌な語り口だった。その様子に安心して、俺もまぁいいか、と頭の中を整理する。

 俺がれいかに何を聞きたいのか。

 俺がれいかに、何を伝えたいのか。

「……それじゃあ、まず一つ目」
「どうぞ!」
「駅のホームで俺とれいかが出会った時、れいかは俺に、『約束の矛先』を完結させてほしいと言ったな?」
「えぇ。言いましたね」
「あれは嘘だ」

 少しの間も置かず、れいかは「ぴんぽーん」と軽い口調で言った。

「まさにその通りです。あれは真っ赤な嘘だったんです」

 れいかは続ける。

「実はあの時、私の頭の中には別の、本当の目的が存在したわけなんですよ。それで、その目的を達成するためには、あの場であぁ言うしかなかったんですね。……というか、もう、前園さんは私の本当の目的に気づいちゃってますよね?」
「あぁ。俺は一度、その答えをれいかに話したことがあるよな。まぁ、その時は、それがれいかの目的だなんて思ってなかったけど」
「…………」
「れいかの本当の目的は、『俺が『約束の矛先』を、れいかが死ぬまでに完結させられないこと』だ」
「……その理由は?」
「前にも言ったが、れいかは俺に植えつけたかったんだ。れいかの願いを叶えてやれなかったという、罪悪感を」
「…………やっぱりそのことに気づいたのは、あの停電の件が原因ですか?」
「あぁ。俺がアパートで小説を書き始めようと思った時、不自然な停電が起きた。俺はその原因が大元のブレーカーにあると考え、部屋を出て大家のところへ行こうとした。その時、俺とれいかが二人でいるところを大家に目撃されたけど、大家には嫌みの一つも言われなかった。それはあの大家の性格上、考えにくい反応だ。……けど、こう考えれば合点はいく。『大家はもとから、俺の部屋にれいかがいることを知っていた』、と」

 れいかは何も言わず頷き、俺に先を促した。

「それと、あの時大家は、『ブレーカーが壊れたから業者の人を呼んだけど、復旧に一日かかると言われた』、という旨を俺に告げた。……でも、おかしいだろ? 停電が起きてからまだほんの数分しか経ってないんだ。電話で業者に連絡を取ったとしても、復旧にどれくらいかかるかなんて、あの時点でわかるわけがない。……つまり、『あの停電自体が大家の嘘だった』というわけだ」
「…………」
「『大家はもとから、俺の部屋にれいかがいることを知っていた』。けれど、れいかも大家も、そのことを俺に隠している。そして、『あの停電自体が大家の嘘だった』ということを考慮すれば、こういう仮説が立てられる。『れいかが大家に指示を出し、停電を引き起こした』、と。そしてその仮説を立てれば、当然、どうしてれいかがそんな指示を出したのか疑問が残る。その疑問を解消する答えが『れいかは俺に、『約束の矛先』を完結させないようにしているから』、というわけだ」
「お見事です。……実は、あの大家さんに問題が多いことは鈴寧さんから聞いていたので、あらかじめ私の境遇を説明し、協力してくれるように頼んであったんです。私の寿命が残り少ないことを知ると、大家さんはあっさり提案にのってくれました。……なのであの時、前園さんが本当に『約束の矛先』を完結させてしまいそうだと思って、こっそり大家さんに連絡してブレーカーを落としてもらったんです。……でもまさか、大家さんがわざわざ、業者の人に頼んだなんて嘘をついたりするとは思っていなかったので、さすがに焦りました」
「あの人は思ったことはすぐ口に出すタイプだからな。普段から嘘をつきなれていない分、その嘘を補おうとして行動や言葉をつけ足してしまったんだろう」

 れいかの本当の目的は、『俺が『約束の矛先』を、れいかが死ぬまでに完結させられないこと』だ。けれど俺たちは、その動機(・・)についてはわざと避けるように話を続けた。

 れいかは悔しそうに足をバタバタとさせている。

「やっぱり他人の力なんて借りず、自分の力だけでどうにかすればよかったですね。大家さんの失敗をごまかそうとして、咄嗟にゲームセンターの話を出したりしたんですよ。……けど、私の思惑に気づいた前園さんは……」
「あぁ。れいかの目的が『俺に『約束の矛先』を完結させないこと』なんだと気づいた俺は、れいかが俺に対して(・・・・・・・・・)どんな感情を(・・・・・・)抱いているのか(・・・・・・・)、なんとなく察しがついた……。だから、そんな感情に身を委ねるしかなかったれいかに、勝手に同情して……れいかを傷つけてしまった」
「ほんとですよ……。でも、そのことについては、前園さんは謝ってくれて、頑張って『約束の矛先』を完結させてくれましたし、よしとしましょう。……あーあ。大家さんになんて頼まず、私一人でやっていればもっとうまくいったんですけどねー」
「……いや、それはどうかな」
「え? どういう意味ですか?」
「俺がれいかに違和感を覚えたのは、れいかが初めて俺の部屋に来た時だぞ」
「初めて前園さんの家に行った時? 何かありましたっけ?」
「覚えてないか? ほら、れいか、床に落ちてる賞状を拾ったあと、近くに落ちてた『思い出の刃』を手に取って、『これですよね、この賞を受賞したのって』と言ったんだ」
「……それがどうかしたんですか? 賞状には作品名も作者名も載っていましたよね? だったら一目瞭然では?」
「あぁ。たしかに載っていた。けれど俺は、担当編集の指示で、授賞式を終えてからあの小説のタイトルとペンネームを変更しているんだ」
「……あ」
「だから、あの賞状に書かれていた内容は『思い出の刃』に改題する前の『記憶の値段』というタイトルと、俺の本名、前園幸助という名前だけだった。つまり、その賞状を見ただけでは、『夏川望』という、俺があとでつけたペンネームで書かれた『思い出の刃』を繋げることは不可能なんだ。……ま、本の裏を見れば受賞歴が書いてあったけど、れいかが拾った時はちょうど表紙が上になってたから、見えるはずがないんだ。……俺の本名と受賞作の旧題は、受賞した当初は出版社のHPにものっていたから、れいかがそのHPを見て知っていた可能性はあった。けどやっぱりその場合でも、れいかが俺の小説を知らないフリをしたことには変わりないんだ」
「あー……。なるほど。……それはまた、間抜けな失敗をしてしまいましたね」
「さっきも言っただろ? 普段から嘘をつき慣れていない人間は、その嘘を補おうとして行動や言葉をつけ足してしまうって。れいかは、本当は以前から(・・・・・・・)俺のことを知っていた(・・・・・・・・・・)けど、そのことを隠そうとするあまり、あの瞬間、咄嗟に俺がプロの小説家だと初めて知ったような演技をしてしまったんだ」

 観覧車の窓から見える景色は、ゆっくりと、けれど、確実に変わり始めていた。

 れいかはしばらく外の景色を一瞥すると、またこちらに向き直った。

「私がどれくらい前から、前園さんのことを知っていたと思いますか?」

 俺は以前、れいかの家に行った帰りに、自分の実家へ立ち寄った際、アルバムから抜き取っておいた一枚の写真を取り出した。

 それは、俺が中学三年生の時、地元の新聞社が開催する短編小説のコンテストで、三度目の受賞をした時のものだった。

 写真の中には、最優秀賞と書かれた賞状を手に持った俺の姿と、その右横に、優秀賞と書かれた賞状を手に持って号泣している、一人の女子中学生の姿があった。

「俺とれいかが初めて会ったのは、この授賞式の時だ」

 俺が差し出した写真を受け取ったれいかは、懐かしそうに目を細めながら、

「……こんな写真、まだ持ってたんですね」
「あぁ。前、公民館に行った時、立ち位置が逆だって言ったのは、この写真を撮った時と逆だって意味だったんだろう?」
「ちょっと調子にのってヒントを出し過ぎましたか? でも、前園さんはあの時はまだ、昔、私と会ったことを忘れたままでしたよね?」
「……確信はなかった。だけど、もしかしたらそうなのかもしれない、くらいには思ってたんだ」
「どうしてですか?」
「ほら、覚えてないか? れいかが大学に来た時、『思い出の刃』のバッドエンドが担当編集の指示だったことを告げると、れいかはこう言っただろ? 『たしかにあのラストシーンは、ハッピーエンドを好む前園さんの作風とは違っているように思えました』、と。正直その時はなんてことないセリフだと思っていた。けれど、あとになって疑問を感じたんだ。れいかはどこで、俺の作風を知ったんだろう、ってな。俺の小説がこれまで他人の目に晒されたのは、出版された『思い出の刃』を除けば、中学の頃三年間連続で賞を受賞したあの時だけ。あれは一応、賞を獲った短編小説は全部冊子にまとめられて、関係者に配られたからな。だからもしかしたら、れいかはあの授賞式の時、なんらかの形で俺の小説を読んだんじゃないかと思っていた」

 れいかはうんうんと黙って頷いている。

「けど、ゲームセンターでれいかが倒れて、れいかを家まで送った時、加奈さんから聞いたんだよ。昔、れいかも小説を書いてたって。……それで、もしかしたらと思って、家に帰って授賞式の写真を漁ったら、それを見つけたんだ。その写真を見てようやく、昔れいかと出会った日のことを思い出した。……大学で鈴木に対してあんなに怒ったのも、小説を書くことがどれだけ大変なことか、れいか自身、身をもって知っていたからだろう?」
「……あはは。私、嘘つくの下手すぎですね」
「まったくだ」

 れいかは自嘲気味に笑ったあと、ため息混じりに言った。

「では、私がどうして、『前園さんに『約束の矛先』を書かせようとしながら、それを自ら阻止し、そうすることで前園さんに罪悪感を植え付けようとした』のかは、もうわかっちゃってますよね?」

 観覧車に乗ってから、俺たちがずっと避けていた動機(・・)の話――

「あぁ。わかってる」
「……では、前園さんの口から言っていただけますか?」

 ――けれどそれはすべての元凶で、語らずに済ませられるほど優しいものではなかった。

 俺は、れいかの目を見てはっきりと答えた。

「れいかが、俺のことを恨んでいたからだ」

 れいかは、いつもの調子で答える。

「正解です。さすが前園さん」

 観覧車の窓ガラスの向こうには、街の明かりが宝石にように散りばめられていた。