僕の頭には、封を切ったように泣きじゃくる女の子の声が響き渡る。
 星が見守る部屋では、冷たい吐息が僕らに吹きかかる。
 
 <認識されない>という辛さを経験したことがない僕は、彼女には寄り添えない。
 姿が見えないので、その涙を拭ってあげることすら叶わない。
 僕は突然の事で、どういった気の利いた言葉をかければ良いのか頭を抱えていた。
 
 しばらくして、深く息を吐く音が聞こえ、アオイがゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ゴメンね…驚かせちゃった…よね」
「いや、それより…大丈夫か?」
 結局、ありきたりな言葉しか思い浮かばず、鼻をすすっている音を漏らすアオイに声をかけた。
 
「うん…ありがとう。あぁ…これ、目腫れちゃってるヤツだぁ〜。もう、哲也が泣かせるような事言うから!」
「えっ⁉︎俺⁉︎俺、泣かせるような事、言った?」
 身に覚えがないことをアオイから指摘されて、僕は困惑した。
「ん〜…言ってないけど…言った!」
「どっちなんだよ、それ」
 声に明るさが戻った彼女の様子に、ホッと胸を撫で下ろす。
「そういうことなの!はい、この話はもう…おしまい!」
 僕も湿っぽい雰囲気は居心地が悪かったので、話題を変えて彼女に質問をした。
 
「素朴な疑問なんだけど、アオイは物とか掴めたりしないのか?」
 姿が見えない彼女がどのような状態なのか、僕は単純に気になっていた。
 話題が変わって部屋の空気も軽くなり、アオイも打って変わって軽快に話し始めた。
「物はね、残念ながら掴めないみたい。テツヤが全く起きてくれなかったから、机にある教科書で起こそうとしたんだけど、教科書、掴めなかったんだぁ。残念だよ〜。テツヤに触ろうとしてもすり抜けちゃう」
 
 何やら物騒な事を言っていた気がしたが、僕は少し安心して話を続けた。
「俺としては良かったよ。いきなりモノが動いたりしたら、ビビるから。マジで。あとさ、壁とかすり抜けたりできたりするの?」
 
 僕の質問を聞いて、アオイは高揚した声を発する。
「そうそう!幽霊って、本当に壁とかすり抜けられるんだよ!ほら…あっ、そうだった。ん〜見せられないのが残念だなぁ…。そうだ!あとね、何処でも移動できるわけじゃないみたい。私、テツヤからある程度の距離までしか離れられないんだよ。こう、足が鎖に繋がれてる感じで…」
 何やら自分の中の幽霊のイメージと違う様子に興味が沸いた。
「何だそれ。じゃあ、今だと何処らへんまで行けるんだ?」
「ちょっと待っててね………」
 
 音の消えた頭を左右に振る。
 夢の続きや幻聴ではないかと思ったが、(つね)った頬からは痛みを感じる。
「お待たせ。んっ⁉テツヤ、何してるの?」
 部屋に戻ってきたアオイが、驚きの声を上げる。
「いや、これ…夢じゃないかなって…」
「私だってそう思ってるけど…私は夢だったとしても…こうやってテツヤとお話できて嬉しいよ」
 その心地よい言葉に、夕方の梢の言葉が重なる。
 
「まぁ…俺も、こうやって直接お礼も伝えられたし、話せて嬉しいよ。ってか、よくそんな事、恥ずかし気もなく言えるな」
 少しの間のあと、アオイが言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。
「だって、思いはね…口に出して言葉にしないと伝わらないから。後悔は、したくないんだ…もう」
 その柔和な声色の中には、強い意志が混じっている。
「そっか…」
 彼女に何があったのか、僕には分からない。
 ただ、それは聞き出してはいけない気がした。
 彼女自身については、彼女の口から語られるべきだと思う。
 
 再び重い空気になったことを察して、アオイが咄嗟に声をあげた。
「あっ、そうだった!忘れてた、忘れてた。何処まで行けるか…って話だけど、今はね、玄関まで行けるみたい。それ以上行こうとすると、足と背中が引っ張られる感じがして、先へ行けないよ」
 
「なるほど…」
 もし、これからも彼女が現れるなら最低限のことは知っておく必要があると思い、僕はアオイに再度質問をした。
「あとさ、俺が触れた物の感覚とか…こう、五感みたいなのは、どうなってるんだ?俺と共有してたりするのかなって…。例えば、ほら。今、そっちは何か感じてる?」
 僕は隣にあった、枕に触ってみる。
「ん〜、何も感じないよ」
「じゃあ、これは?」
 僕は自分の目を手で覆い隠した。
「どうだ?暗くなったか?」
「ううん。目を隠してるテツヤが見えてる」
 アオイは、フフッと笑い声をあげて、楽しそうに実情を伝えてくれた。
 
「ふぁぁ。何か、気付いてもらって安心したら眠くなってきちゃった」
「えっ⁉︎幽霊って寝るの?」
「分かんないけど、私は眠いよ。ふぁぁ、テツヤ…今、何時?」
 僕はベッドに置いた携帯電話を開いた。
 照らし出された画面が、すでに午前三時を過ぎていることを教えてくれた。
 
「三時過ぎだね」
「マジ⁉︎そりゃ眠いわけだぁ。お肌にも良くないし、よし…もう寝よう!テツヤ」
 肌の調子を気にする幽霊なんて聞いたことがないが、母さんが明日の朝食は早くすると言ったのを思い出した。
「そうだな。俺も眠いし…あっ、ちょっと待って。眠るなら、俺は床で寝るからアオイはベッドで寝ろよ」
 座っていたベッドから立ち上がり、両手を上にあげて大きく伸びをした。
「いやいや、大丈夫だよ!私、プカプカ浮いてるからベッドとかいらないって!」
「まぁ、そうなんだろうけど…女の子が部屋にいるのに、自分だけベッドに寝るってなんか嫌なんだよ」
 僕はそう言いながら、クローゼットを開けて奥にあるはずの敷布団を探す。
 
「じゃあ…一緒に…寝る?」
 ゆっくりと甘い声が耳元で囁かれた。
「は、はぁ⁉︎な、何言ってんだよ!」
 僕は気が動転して、クローゼット内の棚に頭をぶつけた。
「アハハハッ。もう、冗談だって!頭、大丈夫?それに私…幽霊なんだから、一緒に寝ても何もできないってぇ」
 鈍い音を出したところを摩りながら、枕代わりになりそうな座布団を足元に置いた。
「勘弁してくれ…。まぁ、とりあえず…ここは俺のわがままを聞いてよ、アオイ」
「まぁ、テツヤがそこまで言うなら…お言葉に甘えて、使わせてもらいます」
 少し笑いが残る声で、アオイが礼を言った。
 
「おう、…さてと…」
 クローゼットの中から出した予備の敷布団をベッドの隣に敷く。
「じゃあ、電気消すぞ」
「りょーかい」
 
 振り向くと真っ暗になった部屋には誰もいないベッドが横たわる。
 僕は、その隣に敷いた敷布団に体重を乗せて仰向けになった。
 
 少し早起きな太陽が、僕らの部屋を覗きに来ていた。
「何か、男の子と一緒に寝るなんて…ドキドキする。死んでから、こういう事するなんて、思ってもみなかった」
 しみじみと感じ入っている声を漏らすアオイは、きっと遠い目をしているのだろう。
 左を向くと空のベッドが見える。
 僕は再び、朝日と宵の混じる天井を見つめる。
「変なこと言ってないで、寝ろよ」
「はぁい」
 
 心地よい眠気に誘われて、目を閉じる。
 虚ろな足取りで、あちらの世界へ向かって行く。
 大きく威厳に満ちた扉を目の前にした時、不意に頭の中で呼び止められた。
「ねぇ、テツヤ」
「ぅん?」
 意識の半分をあちらに置いてきたので、反応が鈍くなる。
「目が覚めても…また、お話できるよね?」
 子守歌のような、優しく、寂しげな声が頭に響く。
 
 肺に名一杯、冷たい酸素を送り込んで、細く温かな二酸化炭素を吐き出す。
「……当然だろ。俺たちは二人で一つ…じゃなかったっけ?」
「フフフ。うん、そうだね。ありがと、テツヤ。…おやすみなさい」
 耳元で家族以外に言われたことがない言葉を聞く。
 僕は頬を緩めて身体をベッドの方へ向けると、姿なき隣人にそっと声をかけた。
「…おやすみ、アオイ」
 
 
 再び扉のある場所まで戻り、少し錆びついた取っ手に手をかける。
 
 取っ手を捻ると、金属の擦れる音がした。
 
 黒々と(いかめ)しい扉が、押すと同時に甘い吐息を漏らして高らかに鳴く。
 
 僕は、その扉が開けた小さな口の中へゆっくりと歩みを進めた。