「-…っと!…ぇ!」
 
 湿った土と青い草の匂いがする。
 耳障りな蛙の声の中に、聞き慣れない音が混じっていた。
 女性の声のような気がするが、母さんにしてはハリがある気がする。
 
「ちょっと〜!起きろ〜!!おーい!」
 
 頭の中にハッキリと聞こえたその声は、明らかに初めて聞く女性の声だった。
 僕は反射的にベッドから飛び起きて、辺りを見回した。
 使い古された机と椅子。
 ピックが弦に挟まったアコースティックギターとエレクトーン。
 見慣れた部屋には自分しかいない。
 
「あっ、起きた」
 声の主らしき人物の声が頭の中から聞こえてくるが、やはり姿は見えない。
 重い夜風を吐き出す窓の外を覗いてみるが、街灯に誘惑された蛾がこちらを見ているだけだった。
 
「そうそう。窓、開け放しで寝落ちしてたんだよ。う~ん。私にはまだ、気づかないのかぁ。ベッドの横にいるのになぁ…」
 僕は窓を閉めてベッドの横に立ち、目を細めてみるが、そこには誰もいない。
 
「だ、誰かいるの?」
 すぐに恐怖が身体を支配して、腰を引きながら姿なき来訪者に問いかけてみる。
 
「…!やっと気付いてくれた!!!ねぇねぇ!私の声…聞こえてるんだよね?」
 僕は声を出せずに、素早く何度も頷いた。
「はぁ…。疲れた~。もう、気付くの遅いぞ~。私、凄く頑張ったんだから!」
 不満の声を漏らしている女性が、こちらを襲ってくる様子は無さそうなので、ホッと胸をなでおろす。
 自分を落ち着かせるために、小さく深呼吸をした。
 
「き、君……誰?」
 僕は、姿を見せない彼女に恐る恐る話かけてみる。
「私⁉…私はサエキアオイ。君はサイトウテツヤ君…でしょ?」
「えっ!?…サ、サエキって…う、嘘だろ?」
 サエキアオイ…その名前を僕は知っている。
 しかし、姿なき彼女が自分の名前を知っていたという恐怖心の方が優って再度、その身を強張らせる。
 
「あれ⁉私の事、知ってるんだ。…そう、私が君の心臓のドナーなのだよ!君の名前は、ママ達が言ってたの…聞こえてたから。それに、机に置いてる教科書にも君の名前が書いてあったしね」
 <どうだ!>と言わんばかりに胸を張って話しているであろう彼女の姿は、相変わらず見えない。
 自分の置かれている状況が全く飲み込めない。
「どういう事、これ…。ドナーってことは…あの…いつから僕の部屋にいたんですか?」
 記憶を探るような唸り声をあげながら、彼女はポツリポツリと話し始めた。
「んとね~、今日から…多分。正確には君が寝落ちする少し前…かな?私もね、どうしてこうなってるのか、よく分からないんだ。気が付いたら君の家にいて…。いきなり目の前に知らない人達がいてね、こっちもビックリしたんだから!」
 
「な、なるほど…」
 何故か怒られているような気がして(かしこ)まっていると、間髪入れずに彼女が質問してきた。
「ねぇ、私も聞きたいことあるんだけど…君は私の姿、見えてるの?」
 何処にいるか分からないが、目の前で右手を左右に振って見えていない意思を伝える。
 きっと、(はた)から見たら、僕は完全に変質者だろう。
「いや、全く見えてないです。サエキさんの声が頭の中に聞こえるだけ…サエキさんは僕が見えてるんですよね?」
「やっぱりそうなの⁉だって今、君が向いてる方向に私いないもん。声だけかぁ…。まぁ、気付かれないよりマシかぁ」
 この数分間、僕は立派な変質者だったようだ。
 
 緊張の糸が取れて、ベッドに座って仰向けになる。
「マジか…。じゃあ、僕はさっきから誰に向かって話してたんですか!で、サエキさんは今、何処にいるんです?」
「ハハハ。ごめん、ごめん。今はね、椅子に座ってる。でも、分かったんだぁ。人にね、気付かれないってこんなに辛いんだなって。幽霊が生きてる人にちょっかい出す気も今なら分かるかな。あっ、私も今は幽霊みたいなもんかぁ、ハハハ」
 
「そういうものですか…」
 日焼けした天井を見ながら聞こえてくる明るい幽霊の話は、僕には実感が湧かない。
「そういうもんだよ。はい、ここで私から提案があります!」
「はい、何でしょうか?」
 突然の事に驚き、上半身を起こして彼女の話に耳を傾けた。
 
「<さん>付けとか辞めない?だって、私達…これから二人で一つ、みたいな感じだし…。私は君の事、<テツヤ>って呼ぶから」
 彼女が言うことも理解できるが、僕には一つ気になることがある。
「まぁ、サエキさんが言うなら僕はいいですけど…」
「サエキさんは却下です」
 有無を言わさぬ物言いで、彼女は僕の言葉をバッサリと切り捨てる。
「だって、サエキさんが僕よりかなり年上かもしれないし…」
「私、高三だったよ。多分、テツヤと変わらないでしょ?」
 彼女は僕の話を途中で遮ってきた。
 しかし、僕は年上の女性と話した経験が少ないのもあり、タメ口で話すのは少し抵抗があった。

「僕は高二で、サエキさんは先輩になるわけで…名前で呼ぶのは気が引けますって…」
「え~!一個しか違わないのは誤差だよ、誤差。<さん>付けとか他人行儀な気がして何か寂しいよ…私」
 萎れた蕾のように話す彼女に負けて、僕は腹をくくった。
「あぁ~。…分かりました。じゃあ、<アオイ>…これでいいです?」
 梢以外の女性の名前を呼び捨てにするのが、こんなに勇気がいることだとは知らなかった。
「よくできました!あとね、敬語もダメ!」
「はい、分かりました」
 逆らうと大変になりそうなことが容易に想像できたので、彼女が言う事を大人しく聞いた方が賢明な気がした。
 
 梢と話していると頭で思い込んで、いつもの調子で言葉を発する。
「…あのさ、アオイは…まだ椅子に座ってるのか?」
 僕は彼女に伝えるべき言葉がある。
 
「うん、いるよ」
 僕はベッドから起き上がり、背筋を伸ばして椅子の前に立つ。
「ど、どうしたの?いきなり」
 突然の出来事に驚くアオイが、身構えているかのように恐々しく話しかける。
「えっと…言うのが…遅くなっちゃったんだけど…」
 驚く彼女に反して、僕は少しの緊張と照れくささが胸の中で混じり合う。
「んっ?なに?」
 アオイは先程までとは打って変わって、落ち着いた口調で聞き返した。
 
 強く握った手を太ももに沿わすように伸ばして、僕は椅子へ向かって精一杯のお辞儀をする。
「助けてくれてありがとう。アオイ。君のおかげで…僕はここにいる」
 
 少し間があった後、密《ひそ》やかな声が鼓膜を揺らす。
 
「…ううん…どういたしまして」
 鼻をすする音がする。
 
「あのね、…テツヤ…」
 震える声が頭に響く。
 
「ん?…どうかした?」
 顔を上げて、僕は静かに声を重ねる。
 
 姿は見えない。
 でも、今のアオイの表情は分かる。

 絞り出すように、微笑みかけるように、アオイは声の断片を届けてくれた。
 
 
「私をね…見つけてくれて…ありがとう」