風呂場の鏡に、穴の空いたゴミ袋を被ってバスチェアに座る自分がいた。
床には、水で滲んだ新聞紙が敷かれている。
着せ替え人形のように、自分の髪に色々な物が付いていく。
腰にコームやハサミを付けた父さんが、鏡越しに僕に向けて白い歯をみせた。
「今日はどういたしますか?お客様」
僕の頭に霧吹きで水を吹きかけながら、父さんが要望を聞いてきた。
「父さんに任せるよ」
僕の髪の様子をみるために、父さんが濡れた毛束を蝶のように羽ばたかせる。
「そしたら…イケメン、ビューティーカットしていきますねぇ」
イメージが固まったのか、父さんは毛束を手に取りハサミを入れ始めた。
ハサミの奏でる凛とした音が、空を切る。
「あれ?前はただのイケメンカットだったよね?」
すると、父さんが人差し指を立てて左右に振りながら、知識の乏しい僕に講義を行う。
「チッチッチ!哲也君、甘いな〜。今は男子も美容に気を使わなきゃいけない時代なのだよ!女子にモテるには清潔感、大事ですから!はい、ここポイントね〜」
そんなことを言いながら、父さんはコームを濡れた髪に当てて、躊躇なく髪を切っていく。
まるでタンゴを踊るようなステップでハサミを動かし、切髪と重力のワルツが風呂場で始まった。
(分かる〜!!清潔感、めっちゃ大事!!)
頭の中の女子が、父さんの講義に激しく共感する。
(そうなの?)
未だピンときていない僕は、見えない女子に再度確認した。
(そうだよ!清潔感、大事です!)
父さんが左右の毛束を持ち上げて、髪の長さを確認しながら唐突に質問してきた。
「テツヤ、彼女できたか?」
「はあっ⁉︎何、いきなり⁉︎」
鏡越しにニヤつく父さんと目線が重ねる。
丸眼鏡の奥からは期待の眼差しが向けられていた。
(ワクワク…)
どこかで盗み聞きしている女子も恋愛話に興味深々のようだ。
「そんな慌てんなよ〜。こりゃ、もしかするとかぁ?いや、高二の夏やろ…青春ですわ。髪を切って、イケメンになって…花火大会にお祭りとイベントが盛り沢山やんか。これで彼女でもおったら、今年の夏休み…ステキやん?」
夏のイベントを指折り数える父さんと落ち着かないアオイに、僕は残酷な真実を伝える。
「残念ながら、そんなステキな夏休みになる予定はないよ」
期待に応えられない僕は、目線を下げて無残に散った髪の毛を見つめた。
二人の女子からため息が漏れる。
(え~、つまんない)
「はぁ…つまらんなぁ」
すると、父さんが何か思い出したように動かす手を止めた。
「……あっ、そうやった!梢ちゃんと同じクラスなんやって?…こないだ、うちの店に来てくれた時に、たまたまその店におってな、五年ぶりくらいに会ったんやけど、めっちゃ可愛いなっとってビックリしたわ」
父さんは、時折コームを使って語尾を強調しながら、その時の興奮を伝えてきた。
聞いた事がない名前にアオイが反応する。
(梢ちゃん?)
(あぁ…そっか。アオイは見たことなかったな。多分、幼馴染…みたいなもんだよ)
(ふぅん)
適切な言葉なのか分からないが、友達や知り合いとは違う気がしたのは確かだ。
襟足付近を切りやすいように下を向きながら、父さんが好きそうな話題で話を返した。
「梢、父さんの店に来てたんだ。何か、うちの学校で割と男子から人気らしいんよね…」
すると、父さんが興奮気味にさらに詳しい情報を求めてきた。
「そりゃそうやろ!アレで人気ない方がおかしいわ!彼氏おるんちゃう?」
残念ながら、それ以上の梢の情報を知らない僕は両手を上げて肩をすくめた。
「さぁ?分からん」
僕の放った言葉に父さんの手が止まった。
「なんや、幼馴染なんに知らんの?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている父さんに、さらに豆鉄砲を食らわせる。
「まぁ…挨拶くらいしかせんし…」
僕の言葉を聞いた父さんが、丸眼鏡のブリッジをクイッと上げて、深くため息をこぼす。
「はぁ…お前ってヤツは…まぁ、哲也がええんやったらええけど…」
頭頂部の髪を切りながら、父さんが諭すように言葉を上から落としてきた。
「哲也…。面倒くさがったり、怖がるなよ。人を好きになること。相手が男でも女でもええんよ。たしかに、マイナスな事があるんは事実やけどな。…でも、どんな形であれ、哲也に何か残してくれるから」
「…うん」
普段からは考えられない落ち着いた口調で話す父さんに、少し緊張してしまう。
父さんが僕の横に置いていた椅子に座り、ハサミをすきバサミに持ちかえた。
「母さんとはどうだ?仲良くやっとるんか?」
「まぁ…多分…」
ハサミに絡みついた黒い藻が、綿毛のようにふわりと舞い落ちる。
「勉強しろ、勉強しろって、うるさいかもしれんけど、哲也の事思っての事やけ、目ぇつぶったってや」
羽毛のように柔らかな言葉が僕の背中に投げかけられる。
「うん、分かっちょる」
鏡越しにこちらに目線を合わせた父さんが、頬を緩めた。
「そうか、ありがとう。…そういや、まだ、音楽しとんか?」
椅子から立ち上がり、横に立つ父さんが突拍子もない質問をしてきた。
「うん?そうだね、たまに弾いとるよ」
前髪を切るために目を瞑っていると、さらに父さんは質問をする。
「そっか…哲也、音楽好きか?」
いつもと違う雰囲気にさらに緊張感が増す。
「うん。まぁ…」
暗闇の中、ハサミの無機質な音と父さんの密やかな声が、鼓膜を打ち鳴らす。
「じゃあ、止めるなよ。音楽。好きなもんがあるって凄いことやからな」
すると、突然、甲高い機械音が反響した。
「おっと、悪い…。はい。…おー、おはようさん。うん。どしたん?……」
父さんは商売道具を腰にしまい、席を立って脱衣所へ向かった。
緊張感を壊してくれた電話に感謝しつつ、身体を強張らせていた僕はため息をついた。
すぐに父さんが戻ってきて、作業が再開されて前髪を調整する。
「さぁて…、前髪はもう終わりやから…あとは最後に眉カットして終わりやわ」
眉毛を動かさないように、目を瞑っていると終了の合図を告げられた。
「うっし、お疲れさん。どうや?イケてるんちゃう?」
鏡を見ると顔が少し引き締まっているように見えた。
(いいじゃん!爽やかだし、前より全然良いよ!)
髪を切った姿は、年下のようなお姉さんにも好評のようだ。
(そ、そっか…)
僕は親指を立てて、父さんにお礼を言った。
「うん…イケてる。ありがとう」
満足そうに頷いた父さんは、濡れたタオルで手に付いた毛を払った。
「うっし!上等やな。ほいじゃあ、もう出んといけんくなったけ、悪いけど片付け頼んでもええか?」
「うん。もう出るの?」
仕事道具をしまいながら、脱衣所へ上がった父さんが足をバスタオルで拭いた。
「おう。もしかしたら来週、少しだけなら家に顔出すかもしれん」
「分かった」
僕は自分の毛がこれ以上まき散らないように、慎重にゴミ袋を取り外しながら返事をした。
髪の毛がまぶされた新聞紙をゴミ袋に詰めて一息ついていると、父さんの声が聞こえた。
「おーい、哲也!渡すもんあったん忘れとったわ」
「何ー?」
足に付いた水分をマットで拭き取り廊下に出ると、玄関で黒い袋を持ち上げて手招きする父さんがいた。
式台には、エプロン姿の母さんが小さな袋を持っていた。
「どうしたの?」
「ニヒヒ。ほれ、コレ!何かは開けてからのお楽しみってな」
目尻を下げて笑う父さんが、左手に持った黒い袋を僕に渡した。
「そしたらな。夏休み、思いっきり楽しみんさい」
袋を手に取った僕の身体を父さんの太い腕が包み込む。
「父さんも仕事、頑張って」
父さんに別れの言葉をかけると、横にいた母さんが口を開いた。
「テツヤ、朝ご飯もうできてるから…片付け終わったら、食べてちょうだい」
「はーい」
父さんから離れて、急ぎ足でその場を離れた。
邪魔者となった僕は、ホラー映画のような風呂場へ戻った。
壁に張り付く髪の毛たちのせせら笑う声が、いつもでも僕の中でこだましていた。
朝ご飯を食べて、陽射しの掃き溜めとなっている部屋に入る。
髪を切ったせいなのか、いつもの暑苦しいはずの部屋が若干和らいでいる気がした。
エアコンをつけて、温かなベッドに身体を放り投げた。
涼しい風が顔に当たり、人類の叡智を享受する。
ゆっくりと、タオル地の敷パッドを手でなぞる。
最初はいつもどおりの心地よい感触を楽しんでいたが、途中からアオイがここに寝ている事を思い出して、慌てて体を起こした。
壁に背中を預けて、棚とヒヨコの座布団を視界に入れた。
僕は紛らわすように、散髪の途中から大人しいアオイに声をかけた。
「アオイ。何か、元気ないけど…朝食、口に合わなかったか?」
少し慌てた様子でアオイが反応した。
「んっ⁉︎い、いやぁ…美味しかったよ!塩サバ。ちょっとね、考え事してただけだから、気にしないで!…それよりさ、テツヤのお父さん凄かった!良い意味でだよ、良い意味で!」
いつにもなく早口で喋るその様子が、気にならない方が無理だった。
しかし、そこに突っ込む事は、僕らにはまだ早い気がしていた。
ーアオイのお父さんはどんな人なんだ?
その言葉が喉まで出かけていたが、力強く嚥下する。
サエキアオイとして会えない彼女に、彼女の家族の話題はあまりにも酷な事だと考えていた。
もちろん、死因に関しても…。
「いつもより真面目な事ばっか言ってたから、俺もビックリしたけど…まぁ、体調悪かったら言ってくれよ」
意気消沈しているアオイの肩に、そっと言葉をかけた。
「何なに〜?テツヤ、もしかして…私の事、気にしてくれてんのぉ?」
少し朗らかな声をあげたアオイが、楽しそうに頭の中ではしゃぎ立てる。
「はぁっ⁉︎そりゃ、元気なかったら気にするだろ!普通!」
いつものアオイに戻った事に、胸を撫で下ろしつつ、僕は語尾を強く言い放つ。
しかし、アオイのニヤつく声は収まらなかった。
「へへへぇ、そっか、そっかぁ〜」
少し機嫌が良くなったアオイに、僕は釘を刺した。
「ちゃ、茶化すなよ」
普段どおりの調子に戻ったアオイが、別の話題をふってきた。
「は〜い。それよりさ、お父さんから何貰ったの?」
僕はベッドの上に置いた黒い袋を手に取り、中身を取り出した。
その中身を見たアオイが、すぐさま僕に尋ねた。
「何、これ?」
袋の中から出てきた物は、ピアノスコアとバンドスコアだった。
僕は表紙のアーティスト名を見て、今日一番の声を上げた。
「マジか⁉︎」
「えっ⁉︎ねぇ、何なのこれ!」
答えを聞けないアオイが、頭の中で騒ぐ。
「これ、ピアノスコアとバンドスコアってやつだよ。音楽を演奏するための楽譜って感じ」
なるべく分かりやすいように、噛み砕いてアオイに説明した。
すると、アオイから思いがけない反応が返ってきた。
「へぇ、楽譜ってこんな感じなんだ。ねぇ、これ…表紙に書いてあるライクラって、あのライクラのこと?」
耳を疑うような返しに、僕は思わずベッドから身を乗り出した。
「ま、マジか⁉︎アオイ、ライクラ知ってんの?」
あまりの僕の迫力に、若干引き気味のアオイが口吃る。
「う、うん。と、友達から教えてもらった」
棚の前に立ち上がり、無意識に右手を彩音さんの写真に向けて差し出していた。
「マジか!素晴らしい!!俺、その子と友達になれるわ。しかも、これ…インディーズ時のアルバムのヤツだし!うわぁ、父さんにマジ感謝やわ」
「好きなんだね、ライクラ。あっ、ちなみにちゃんとテツヤの手、握ってるよ」
僕は同志を見つけた喜びを込めて、右手を上下に振った。
「そりゃね、入院中にずっと聞いてたから。ちなみに、アオイはどの曲が好きなんだ?」
「え〜とねぇ、たしか、<夏初月>ってやつ」
先程よりも強い熱気が胸の奥から沸き立って、さらに身を乗り出した。
「マジ??マジで言っとる?うわぁ、めっちゃヤバイ!あれ、俺もライクラの中で一番好きなヤツやから!あの曲は、インディーズの頃のやけ、多分このスコアに載っとるはず…」
興奮が冷め止まずに、左手に持ったピアノスコアのページを捲る。
その様子を見て、アオイがクスクスと笑っている声が聞こえたが、今の僕にはそれに構っている余裕はなかった。
「あっ、あったあった」
目の前に並ぶ譜面に、規則正しく音が並んでいる。
「あっ、ホントだぁ!ねぇねぇ、テツヤ!弾いてみてよ。テツヤのピアノ、聴きたい!」
アオイのリクエストに応えて、僕はエレクトーンの方へ足を向けた。
「ちょ、ちょっと待って…」
エレクトーンの電源を入れて、椅子に座ってスコアを立てかける。
マスターボリュームを少しあげて、エクスペンションペダルを数回踏む。
ピアノのボタンを点滅させて、鍵盤に手を置いてボリュームを確認する。
ミ、レ、シ、ソ、ソ…♪
「あっ、<猫ふんじゃった>だ!テツヤ、本当に弾けるんだね、ピアノ」
アオイの感嘆の声が、頭の隅で聞こえた気がした。
「いや、飾りじゃないから…もう少し、ボリューム上げた方が良いな」
音の調子を見ながら、<猫ふんじゃった>を弾き終わり、ようやくお気に入りの曲のスコアと向き合った。
「とりあえず、Aメロからサビのトコまで試し弾きな。ふぅ~」
緊張でいつもより指が固い感じがして、深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
「わぁ〜ワクワクする!」
頭の中では、目を輝かせて期待に満ちた声が響き渡る。
沈む鍵盤に、次々と指を滑らせて音を奏でる。
聴いていた曲が弾ける喜びが、曲とともに身体中を駆け巡る。
さいわい、サビまでは難しい箇所が無かったため、問題なく辿り着くことができた。
サビを弾き終わると、アオイの黄色い声が頭の中を染めていく。
「わぁ〜!スゴイ!スゴイよ!テツヤ、カッコいい!」
言われ慣れない言葉をかけられて、胸の奥がむず痒くなった。
「ま、まぁ…それなりに弾いてるから…」
すると、謙遜する僕を褒め称えるアオイが、予想外の提案をしてきた。
「いや、本当スゴイよ。私、楽器なんて無理だから。カスタネットが限界です!でもさ、せっかく歌詞があるんだから歌おうよ!やっぱ、歌がないと何か寂しいじゃん!」
聞き間違えだと思い込みたい僕は、アオイに確認をとる。
「えっ⁉︎それ、俺に歌えって言ってんの?」
「えっ?駄目なの?」
何が問題なのか分からない様子のアオイに、僕は全力で拒否をする。
「いやいや、人前で歌うなんて…いや、マジで無理…」
「えぇ〜……じゃあ、しょうがないなぁ。テツヤが曲弾いてくれるなら…せっかくだし、私が歌う!」
思いの外、あっさり引いてくれたかと思ったが、アオイ自身が歌うと言うとは思わず目を丸くした。
「えっ⁉︎マジ⁉︎」
僕の反応に対して、アオイは笑いながら答えた。
「マジ、マジ!これでもね、歌うのは好きなんだぁ。友達とも学校帰りによくカラオケ行ってたし…」
声を張るアオイに僕は、期待の声をかける。
「だったら尚更お願いします。アオイの歌、聴くの楽しみだな」
「ふっふ〜ん。聴き惚れて曲、止めないでよね」
アオイが自信ありげに鼻を鳴らして答える。
「それはないから安心しろ」
舞台に上がる前のような、緊張感と高揚が胸の中で混じり始めた。
「フフッ、何か楽しくなってきたぁ!初めての二人の共同作業だね!」
アオイも同じ気持ちなのか、茶々を入れるその声からは若干の緊張が感じられた。
「変な言い方するなよ。じゃあ…準備はいいか?アオイ?」
「おう、いつでも来い!」
観客のセミ達が熱い声援を僕らに送っている。
僕らは舞台に立ち、その声援に包まれながら大きく息を吸った。
朝凪の空の下、初めて僕とアオイの音が重なる。
「夏初月」
作詞 yukko
作曲 クラタユウスケ
編曲 raiqula
〜〜♪〜〜♪
乾いた風景 つぎはぎだらけの風
何度も同じ君を見ている
いつまで見ればいいのだろう
ねぇ、戻り方を忘れてしまったんだ
騒めく夏虫 たどり着けない春茜
叶いもしない祈りをのせて
どこまで行けばいいのだろう
ねぇ、進み方を忘れてしまったんだ
自分の価値なんて自分じゃ決められないから
ほら、ほら、この手ですくっても
僕の景色は変わらぬまま
東ゆく声をその煌きに乗せて
このぬくもりを冷ますように
時が昨日と見紛うように
壊れた人形 泳ぎ疲れたアルタイル
それでもいいと願ったんだ
どこまで泣けばいいのだろう
ねぇ、止め方を忘れてしまったんだ
無くして気付くものが多すぎるから
ほら、ほら、この手ですくっても
僕の歩みは変わらぬまま
西ゆく声をその嘆きに乗せて
夜宵を啄む青のように
君をだだ、ただ
嗚呼、嗚呼、そんなことは分かってたさ
花舞う明日の裏側
白紙の数字に色をつけろ、挑め、進め
滲んだ声は僕らを乗せて、儚く、遠く、届く
ほら、ほら、この手ですくっても
僕の景色は変わらぬまま
ささめく声を夜露に流して
揺らめく手で君を描け
ほら、ほら
あの青い月のように
〜〜♪〜〜♪
アオイの澄んだ歌声が、鼓膜に張り付いている。
音の残渣が、部屋の壁に吸い込まれていった。
「わ~!!最っ高~!!気持ちいい!」
興奮冷め止まぬ中、頭に残った音はアオイの感極まる声へと変わっていった。
音に酔っていた僕は、肩で息をしながらアオイに声をかけた。
「アオイ、歌めっちゃ上手いな!ちょっと聞き惚れたわ」
歌声を褒められて上機嫌になったアオイが、僕に賛辞を送ってきた。
「へへへ、でしょ~?私ってば、結構できる子なんです!あっ…でもでも、テツヤもピアノすっごい上手だったよ!本物の曲、聞いてるみたいだった!」
「ありがとう。やっぱ、こうやって誰かと音楽やるのって楽しいな」
自分と誰かの音が重なる気持ちよさを改めて知った僕らは、音楽の楽しさを再認識した。
「だよね!カラオケで歌うのとは全然違った」
僕は、ライクラ好きのアオイに伝えなければならないことがあった事をすっかり忘れていた。
「そういえば、ライクラ…ちょっと前に新曲出したんだけど聴くか?」
「えっ⁉マジ⁉いつ出したの?」
驚きの声を上げるアオイが、身を乗り出した様子で聞いてきた。
「7月26日」
「じゃあ、知らない!聴く、聴く!」
椅子から立ち上がり、机に置いてあるiPodを手に取った。
「でも、今CDは別のヤツに貸してるからiPodの中のヤツでいいか?」
「大丈夫〜全然いいよ」
僕はスピーカーとiPodを接続して、曲を再生した。
心地よい音の粒が、閑寂の部屋に弾けて割れる。
曲を聴き終わった僕らは、その後も時が経つのを忘れて、互いの好きな曲について語り合った。
話がひと段落すると、お腹が空いてきたのでリビングからポテトチップスを持って階段を上った。
迷った挙句、ポテトチップを選んだアオイが口を開いた。
「ねぇ、テツヤはのりしお派なの?」
「まぁ、コンソメ派ではないな。もしかして、のりしお嫌いだったか?」
「ううん。のりしおってあんま食べる機会無いんだよねぇ。ほら、海苔が歯にくっ付くから女の子はあんま食べないんだよ」
アオイの言葉は、自分には全く持ち合わせていない感覚だった。
しかし、女子という生き物が色々と気を使わないといけないモノだということは、ここ数日で学んでいたので、そういうものだと理解した。
部屋に戻ると、優しい冷気が迎えてくれた。
「へぇ〜女子って、ホント大変だな」
「そうなの。面倒な事が多いけど、でも今は幽霊だし、海苔が歯に付いたって関係ないもんねぇ」
ため息をつきながら話すアオイの声には、少し楽しそうな声色が混ざっている。
僕は勉強する気分にならなかったので、鞄からPSPを取り出して起動させた。
「ねぇ、テツヤ。今日は勉強しないの?」
「あぁ…なんか勉強する気分じゃないからな」
袋を開封して、ポテトチップスを口に入れると、香ばしさと淡い磯の風味が口に広がった。
「ん〜!!数年ぶりに食べたけど、のりしおって美味しい!ってか私、ゲームやったことないんだけど…これ、どういうゲームなの?」
ゲーム初心者のアオイに分かりやすいように噛み砕いて説明をする。
「あぁ、恐竜みたいなモンスターを倒して強い装備とか作るんだよ」
「ふぅん」
「まぁ、一人じゃ倒せないような強いヤツもいるから、そういうのは友達と一緒に倒したりするんだけど…」
「へぇ〜…友達と一緒にできるのは楽しそうだね。人がゲームやってるの初めて見るから何か、ワクワクする〜」
画面にタイトルが出てきて、僕らは冒険の旅へ出発した。
初めは黙って見ていたアオイだったが、しばらくするとゲームの世界にのめり込み、僕に色々と話しかけてきた。
「あっ!テツヤ!そこに罠はったら、足止めできるんじゃない?」
「たしかに、頭いいな。アオイ」
そんな事を言いながら、アオイとゲームをしていると下から名前を呼ばれた。
「哲也~!!ちょっと、片栗粉買ってきてくれなぁい?」
日が傾きかけている時刻といえ、外に出るのはすこぶる気が乗らない。
しかし、年上のお姉さんは違ったようで、子供のようにはしゃぎだした。
「えっ⁉外出れるの?やった~!!テツヤ、行くよね!おつかい!」
「え〜…暑いし、めんどい…」
穴に引きこもろうとする僕をアオイが外へ引っ張り出す。
「え〜!私、外出たい!それに、片栗粉買ってこないと夕飯食べられないよ!」
「まぁ〜…そうだけど…」
僕のどっちつかずの反応に業を煮やしたアオイが、声を張った。
「はい!もう、外も日が沈んできてるし大丈夫だって!」
「分かったよ〜、行けばいいんだろ、行けば…」
背中を押された僕は、快適な部屋から出て生温い階段を降りる。
オレンジ色のリビングには、まな板と包丁がリズミカルに心地よい音色を響かせていた。
扉を開けると、こちらに気づいた母さんが話しかけてきた。
「悪いんだけど、片栗粉買ってきてくれる?お母さん…今、手離せないから」
忙しなく夕食の準備をする母さんはすぐに目線をまな板へ戻した。
「あぁ…分かった」
「テーブルにお金置いてるから、お釣りはお駄賃でいいから」
テーブルに置かれた鈍く光るお金を手に取り、取手を握る。
「19時までには帰ってきてよね!」
背中から念を押す声に、僕は軽く返事をする。
「はいよ〜」
生暖かいサンダルを履いて玄関の扉を開く。
働き者の太陽の置き土産が、額から汗を呼び寄せる。
「あっつ〜。マジで暑過ぎるわ」
「そうなの?私は分かんないけど…」
「アオイは良いよなぁ〜外の暑さとかは感じないって…ズルくない?変わってくれ…」
そんなぼやきを吹き飛ばすように熱波が顔に直撃する。
夕飯の為に重い足を動かす僕に、アオイは自分の体質の自慢を始めた。
「フフフン♪良いでしょ?でも、風は感じるよ。熱風だってアオイ様の前では、ただの風なのだよ!」
「へぇ…アオイ様はスゴイなぁ」
適当な合いの手を入れて、自転車のサドルに跨がり地面を蹴った。
家の前の砂利道に出ると、身体が大きく上下した。
「よっし!じゃあ、私はせっかくだし…後ろに乗ろうっと!」
「おい!二人乗りしたら怒られるだろ!」
初めての外出にはしゃぐアオイを僕は落ち着かせようと奮闘する。
「大丈夫だよ〜。どうせ私の事、みんな見えないんだし!」
そう言ってアオイが大きく息を吸う音が聞こえた。
「ん~!草の匂いがする~。はぁ…気持ちいい。生きてるって感じ…」
吹き荒ぶ黄昏色の風は、後ろに立つ彼女の髪を舞い上がらせていることだろう。
昼間の熱を残こした風が、稲穂を優しくたなびかせている。
虫達が小休止したこの世界には、僕とアオイの声しか聞こえない。
天色の空に向かい走る僕らは、どこまでも続く畦道を進む。
うろこ雲から顔を見せる斜陽は、僕らの不慣れな旅路を淡く包み込むように照らしていた。