風呂場の鏡に、穴の空いたゴミ袋を被ってバスチェアに座る自分がいた。
 床には、水で滲んだ新聞紙が敷かれている。
 着せ替え人形のように、自分の髪に色々な物が付いていく。
 腰にコームやハサミを付けた父さんが、鏡越しに僕に向けて白い歯をみせた。
 
「今日はどういたしますか?お客様」
 僕の頭に霧吹きで水を吹きかけながら、父さんが要望を聞いてきた。
「父さんに任せるよ」
 僕の髪の様子をみるために、父さんが濡れた毛束を蝶のように羽ばたかせる。
「そしたら…イケメン、ビューティーカットしていきますねぇ」
 イメージが固まったのか、父さんは毛束を手に取りハサミを入れ始めた。
 ハサミの奏でる凛とした音が、(くう)を切る。
 
「あれ?前はただのイケメンカットだったよね?」
 すると、父さんが人差し指を立てて左右に振りながら、知識の乏しい僕に講義を行う。
「チッチッチ!哲也君、甘いな〜。今は男子も美容に気を使わなきゃいけない時代なのだよ!女子にモテるには清潔感、大事ですから!はい、ここポイントね〜」
 そんなことを言いながら、父さんはコームを濡れた髪に当てて、躊躇(ちゅうちょ)なく髪を切っていく。
 まるでタンゴを踊るようなステップでハサミを動かし、切髪と重力のワルツが風呂場で始まった。
 
(分かる〜!!清潔感、めっちゃ大事!!)
 頭の中の女子が、父さんの講義に激しく共感する。
(そうなの?)
 未だピンときていない僕は、見えない女子に再度確認した。
(そうだよ!清潔感、大事です!)
 
 父さんが左右の毛束を持ち上げて、髪の長さを確認しながら唐突に質問してきた。
「テツヤ、彼女できたか?」
「はあっ⁉︎何、いきなり⁉︎」
 鏡越しにニヤつく父さんと目線が重ねる。
 丸眼鏡の奥からは期待の眼差しが向けられていた。
(ワクワク…)
 どこかで盗み聞きしている女子も恋愛話に興味深々のようだ。
「そんな慌てんなよ〜。こりゃ、もしかするとかぁ?いや、高二の夏やろ…青春ですわ。髪を切って、イケメンになって…花火大会にお祭りとイベントが盛り沢山やんか。これで彼女でもおったら、今年の夏休み…ステキやん?」
 
 夏のイベントを指折り数える父さんと落ち着かないアオイに、僕は残酷な真実を伝える。
「残念ながら、そんなステキな夏休みになる予定はないよ」
 期待に応えられない僕は、目線を下げて無残に散った髪の毛を見つめた。
 二人の女子からため息が漏れる。
(え~、つまんない)
「はぁ…つまらんなぁ」
 
 すると、父さんが何か思い出したように動かす手を止めた。
「……あっ、そうやった!梢ちゃんと同じクラスなんやって?…こないだ、うちの店に来てくれた時に、たまたまその店におってな、五年ぶりくらいに会ったんやけど、めっちゃ可愛いなっとってビックリしたわ」
 父さんは、時折コームを使って語尾を強調しながら、その時の興奮を伝えてきた。
 聞いた事がない名前にアオイが反応する。
(梢ちゃん?)
(あぁ…そっか。アオイは見たことなかったな。多分、幼馴染…みたいなもんだよ)
(ふぅん)
 適切な言葉なのか分からないが、友達や知り合いとは違う気がしたのは確かだ。
 
 襟足付近を切りやすいように下を向きながら、父さんが好きそうな話題で話を返した。
「梢、父さんの店に来てたんだ。何か、うちの学校で割と男子から人気らしいんよね…」
 すると、父さんが興奮気味にさらに詳しい情報を求めてきた。
「そりゃそうやろ!アレで人気ない方がおかしいわ!彼氏おるんちゃう?」
 
 残念ながら、それ以上の梢の情報を知らない僕は両手を上げて肩をすくめた。
「さぁ?分からん」
 僕の放った言葉に父さんの手が止まった。
「なんや、幼馴染なんに知らんの?」
 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている父さんに、さらに豆鉄砲を食らわせる。
「まぁ…挨拶くらいしかせんし…」
 
 僕の言葉を聞いた父さんが、丸眼鏡のブリッジをクイッと上げて、深くため息をこぼす。
「はぁ…お前ってヤツは…まぁ、哲也がええんやったらええけど…」
 頭頂部の髪を切りながら、父さんが諭すように言葉を上から落としてきた。
「哲也…。面倒くさがったり、怖がるなよ。人を好きになること。相手が男でも女でもええんよ。たしかに、マイナスな事があるんは事実やけどな。…でも、どんな形であれ、哲也に何か残してくれるから」
「…うん」
 普段からは考えられない落ち着いた口調で話す父さんに、少し緊張してしまう。
 
 父さんが僕の横に置いていた椅子に座り、ハサミをすきバサミに持ちかえた。
「母さんとはどうだ?仲良くやっとるんか?」
「まぁ…多分…」
 ハサミに絡みついた黒い藻が、綿毛のようにふわりと舞い落ちる。
「勉強しろ、勉強しろって、うるさいかもしれんけど、哲也の事思っての事やけ、目ぇつぶったってや」
 羽毛のように柔らかな言葉が僕の背中に投げかけられる。
「うん、分かっちょる」
 
 鏡越しにこちらに目線を合わせた父さんが、頬を緩めた。
「そうか、ありがとう。…そういや、まだ、音楽しとんか?」
 椅子から立ち上がり、横に立つ父さんが突拍子もない質問をしてきた。
「うん?そうだね、たまに弾いとるよ」
 前髪を切るために目を瞑っていると、さらに父さんは質問をする。
「そっか…哲也、音楽好きか?」
 いつもと違う雰囲気にさらに緊張感が増す。
「うん。まぁ…」
 
 暗闇の中、ハサミの無機質な音と父さんの(ひそ)やかな声が、鼓膜を打ち鳴らす。
「じゃあ、止めるなよ。音楽。好きなもんがあるって凄いことやからな」
 すると、突然、甲高い機械音が反響した。
「おっと、悪い…。はい。…おー、おはようさん。うん。どしたん?……」
 父さんは商売道具を腰にしまい、席を立って脱衣所へ向かった。
 緊張感を壊してくれた電話に感謝しつつ、身体を強張らせていた僕はため息をついた。
 
 すぐに父さんが戻ってきて、作業が再開されて前髪を調整する。
「さぁて…、前髪はもう終わりやから…あとは最後に眉カットして終わりやわ」
 眉毛を動かさないように、目を瞑っていると終了の合図を告げられた。
「うっし、お疲れさん。どうや?イケてるんちゃう?」
 
 鏡を見ると顔が少し引き締まっているように見えた。
(いいじゃん!爽やかだし、前より全然良いよ!)
 髪を切った姿は、年下のようなお姉さんにも好評のようだ。
(そ、そっか…)
 僕は親指を立てて、父さんにお礼を言った。
「うん…イケてる。ありがとう」
 満足そうに頷いた父さんは、濡れたタオルで手に付いた毛を払った。
 
「うっし!上等やな。ほいじゃあ、もう出んといけんくなったけ、悪いけど片付け頼んでもええか?」
「うん。もう出るの?」
 仕事道具をしまいながら、脱衣所へ上がった父さんが足をバスタオルで拭いた。
「おう。もしかしたら来週、少しだけなら家に顔出すかもしれん」
 「分かった」
 僕は自分の毛がこれ以上まき散らないように、慎重にゴミ袋を取り外しながら返事をした。
 
 髪の毛がまぶされた新聞紙をゴミ袋に詰めて一息ついていると、父さんの声が聞こえた。
「おーい、哲也!渡すもんあったん忘れとったわ」
「何ー?」
 足に付いた水分をマットで拭き取り廊下に出ると、玄関で黒い袋を持ち上げて手招きする父さんがいた。
 式台には、エプロン姿の母さんが小さな袋を持っていた。
 
「どうしたの?」
「ニヒヒ。ほれ、コレ!何かは開けてからのお楽しみってな」
 目尻を下げて笑う父さんが、左手に持った黒い袋を僕に渡した。
「そしたらな。夏休み、思いっきり楽しみんさい」
 袋を手に取った僕の身体を父さんの太い腕が包み込む。
「父さんも仕事、頑張って」
 父さんに別れの言葉をかけると、横にいた母さんが口を開いた。
「テツヤ、朝ご飯もうできてるから…片付け終わったら、食べてちょうだい」
「はーい」
 父さんから離れて、急ぎ足でその場を離れた。
 
 邪魔者となった僕は、ホラー映画のような風呂場へ戻った。
 壁に張り付く髪の毛たちのせせら笑う声が、いつもでも僕の中でこだましていた。