突如、救急車の甲高い音が聞こえて、僕の意識は覚醒した。
 
 バニラのような甘い匂いが鼻をくすぐる。
 目の前には、上から小さな輪っかが垂れ下がっている。
 その奥に見える窓には、無数の水滴が付いていた。
 窓から漏れる赤い警告灯が乱反射して、薄暗い部屋を僅かに照らし出す。
 目の前に置かれたベッドの上にはぬいぐるみがあり、ここが女性の部屋だということは理解できた。
 無数の涙を流す窓の外には、蟻のように整然と群れをなす家々が見える。
 
 その高層ビルから見たような景色に、僕は違和感を覚えた。
 
 ー明らかに、人が見る景色にしては背が高い気がする。
 
 辺りを見回そうと試みるが、首を動かすことができない。
 自分の意識があるはずなのに、以前の夢のように身体を自由に動かすことができなかった。
 
 すると、僕の意思に反して、手が目の前にある輪っかに伸びていく。
 伸ばされた細い手は、小刻みに震えている。
 震えた右手で小さな輪を持ち、自分の方へ手繰(たぐ)り寄せている。
 それと同時に背後から乾いた木の軋む音が聞こえた。
 
 手繰(たぐ)り寄せられて鼻先まで来た輪っかは、人の顔ほどの大きさだった。
 車のハイビームに照らされて煌く雫が、輪の上部にあるベルトのバックルのようなものを映し出す。
 
 頬に温かなものが流れるのを感じる。
 それに合わせて身体が前のめりになった。
 つま先が何かから離れている感覚がする。
 
 歪む視界の中に、舞い踊る光がミラーボールのように耀(かがよ)う。
 
 視界から輪っかが消えた。
 何かが首を少し押し上げる感覚がする。
 
 気道から空気が抜ける音がした。
 そして、ゆっくりと視界から光が遮断された。
 
 
 止めて…。
 苦しい…。
 
 
 突然、携帯電話の甲高い音が鼓膜に突き刺さった。
 同時に、息苦しい視界に弱々しい光が蘇る。
 首に押し当てられたものから解放されて、呼吸が楽になった。
 
 見下ろす視界に、ベッドの上で携帯電話が赤く点滅して泣き叫んでいる様子が映し出される。
 わめき散らしている様子をしばらく見ていると、携帯電話は大人しくなった。
 
 ーこの人は何を考えているのだろうか。
 
 邪魔するものがいなくなったのを確認したのか、再び視界から輪っかが消えた。
 すると、また携帯電話が短い音と共に緑色に光った。
 身体の持ち主が手を輪っかから放して、足が何かから離れる感覚がした。
 幻想的な街の輝きが消えて、視界が人の目線になった。
 
 身体の持ち主が、ベッドに置いてあった携帯電話を手に取り、少し不機嫌そうに腰を下ろした。
 携帯電話を開くと<不在着信>、<新着メール1件>と画面に表示されていた。
 面倒くさそうにボタンを操作して、メールを開く。
 すると、目を疑う文章が飛び込んできた。
 
 
[from]岳さん
[sub]お願い
[本文]
 お疲れ様です。
 夜遅くにすみません。以前、グラビアの撮影で写真を撮らせていただいた坂本です。
 今日は、彩音ちゃんにお願いがあって連絡させていただきました。
 実は、僕には持病をもった甥がいます。
 仕事が一段落したら、いつも撮影で撮った写真をいくつか見せながら、外に出れない彼に土産話をしています。
 そして今日、彩音ちゃんとの現場の話をしていた時に、甥がある写真が欲しいと言ってきました。
 休憩中に彩音ちゃんが、猫を撫でようとして逃げられた時に撮った写真です。
 オフショットなのですが、もし、彩音ちゃんがよければ甥にその写真を1枚、渡してあげたいのです。
 また、詳しい話は来月の写真選びの時にマネージャーさんも交えてお話させてください。
 
 それでは、来月お会いできるのを楽しみにしています。
 
 
 
 無機質な文字が閉じられた。
 身体の持ち主が、彩音さんと知って僕は困惑する。
 言葉にならない気持ちが、胸を締め付ける。
 
 携帯電話は閉じられ、彩音さんの手によって視界が遮られた。
 暗闇の世界に温かな雫が何度も何度も落ちて、弾けて、散った。
 
 何もできない自分の胸の中に、悔しさと苦しさが入り混じる。
 
 ふと、微かに家の呼び鈴の音が聞こえた気がした。
 その合図と同時に、再び視界が開けるが、その視界は徐々に遠くなっていく。
 元に戻ろうと駆け寄ってみるが、遠のくスピードに追い付けない。
 
 
 消えゆく視界の中、扉に垂れ下がる輪っかが、嘲笑うようにこちらを見つめていた。