「ふぁ~!ハンバーグ、美味しかったぁ。テツヤのお母さんのご飯美味しい!」
 アオイのお腹を(さす)っているかのような満足げな声が頭に聞こえた。
「夕方にプリン食べたうえに、ご飯二杯も食べて…さすがに自分でもビックリだわ。絶対、アオイの分まで腹減ってるだろ…コレ」
 僕は重くなった身体をベッドに投げ出して、綺麗な放物線を描くお腹を撫でる。
 
「しょうがないじゃん!お腹は空くものなのだよ、テツヤ君。それにしても、タダであんな美味しいご飯食べちゃって…何か悪いなぁ」
 その声から心苦しさが滲み出ていたので、僕は冗談混じりに軽口を叩いてみた。
「じゃあ、お代は宿題を手伝うってことで…」
「まぁ…そう思えば少し気が楽になるけど…それはそれとして、約束はちゃんと守ってよね!」
 語尾を強めて念を押すアオイの声は、なかなか僕の足を掴んで離してはくれないようだ。
 
「ゲェッ、ちゃんと覚えてたか」
 自由になれない僕に対して、アオイが昼の話の続きを所望してきた。
「そりゃ、覚えてるよ。まだ、何をお願いしようか迷ってるけど…。で、英語の宿題も終わったし、お昼に言ってた話、聞かせてよ」
 
 僕はベッドから起き上がり、壁にもたれかかって視界に椅子を映した。
「ふぅ…そうだな。約束したしな…。少し、長くなるぞ」
「うん」
 
 目を閉じるとアルコールの匂いと心電図が奏でる甲高い音が聞こえる。
 異物が腕に常にある感覚。
 いつもの白く硬い空。
 
 あの日の先にいる僕は、夕陽の抜け殻が残る部屋へ水面を作るように、言葉を投げ入れる。
 
「中学になった俺は、病気のせいで生活のほとんどを病院で過ごしてたんだ。数か月に一度、体調が良い時に許可が出て、学校に登校したけどね。まぁ、登校って言っても保健室行きだったけど…。そんな日々を過ごす中、彩音さんと出会ったんだ。…いや、違うな。実際に会ったことはないんだ」
 
 僕の話を聞いたアオイが、小首を傾げているような声で僕に質問をした。
「ん?会ったことがない?」
 
 ーまぁ、当然の反応だと思う。
 
 僕は、疑問の(もや)に包まれたアオイの手をひいて先導に立つ。
「そう、会ったことはないんだ。正確には知った(・・・)んだ。あれは、俺が中三の時…写真家をやってる叔父さんが見舞いに来たんだ。アオイ、<坂本岳>って人、知ってる?」
 女子高生が写真家なんて知らないと思っていたが、アオイから意外な答えが返ってきた。
「マジ⁉知ってるよ。前にモデルやってる友達から、写メ見せてもらったから覚えてる!あのイケメンのオジさん…テツヤの叔父さんだったんだ」
 少し興奮したアオイの声が耳の奥で反響する。
 
 思いもしなかったアオイの返事を聞いた僕は、驚きと興奮が溶け込んだ声を無自覚に出てしまった。
「マジか⁉叔父さん、やっぱその界隈では有名人なのか…。で、叔父さんはいつも仕事が一段落したら、外に出れない俺に仕事で撮った写真を見せながら、土産話をしてくれてたんだ」
 ゆっくり閉じた瞼の裏では、夕焼けに染まる叔父さんの笑顔とカーテンが僕を迎えてくれた。
 
「へぇ…いい叔父さん、だね」
 優しく合いの手を入れるアオイに重ねて、僕もそっと言葉を添える。
「そうだな。俺は叔父さんの写真と話を聞くのが楽しみでさ、今回の現場はこうだった…とか楽しそうに話してくれたんだ。それでその日は、ある新人のモデルさんのグラビアの撮影をしてきたって話してくれて…。その話を聞きながら、叔父さんが仕事で撮った写真をカメラで見てたんだよ。その時、あの写真を見つけたんだ」
 
 虚空を見ていた目線を笑顔を向ける彼女へスライドさせる。
 
「あの写真以外は、こう…無理矢理笑ってる感じだったんだけど、あの写真だけは自然な感じがしてさ。嫌々やってるんだけど頑張ってるんだなぁって。俺もこんな身体に好きでなったわけじゃない…。…だけど、母さん達のために生きることを頑張ってたんだ。三年近く頑張り過ぎて、疲れちゃってたんだよ…あの時。でもさ…全然知らない所で、望まない境遇の中でも頑張ってる彼女を見て、自分だけじゃないんだなって…ほんの少しだけ、気持ちが軽くなったんだ」
 
 僕は、モノクロの胸に出来たカサブタを優しくなぞる。
 
「テツヤ…」
 アオイの声が僕の耳元で寄り添う。
 
 カサブタから滲み出る黒い液体を押さえつけて、僕は話を続けた。
「でさ…なんとなく彼女の笑顔を見れたら、まだ生きること…頑張れる気がして…叔父さんにこの写真が欲しいって頼んだんだ。そしたら、この写真はボツの写真だけど渡すにしても許可が必要だから、彼女と事務所に聞いといてあげるって言ってくれたんだ…」
 
 未来を生きる僕の身体にあの時の興奮が駆け巡り、心がざわついた。
 
「それから数日後に叔父さんから連絡があって、OKもらったけど哲也からもちゃんと彼女にお礼の手紙でも書いておけって言われて、事務所宛にファンレターを送ったんだ。そしたら後日、その写真が同封された返信の手紙が送られてきたってわけ…。でさ、そこから彩音さんと文通みたいなやりとりが始まったんだ」
 膝を抱えた手に、夕陽に照らされた丸文字をなぞる、ざらついた感触が蘇る。
 
 机の前の窓から覗く月明かりのように、僕は淡い声を冷風に乗せる。
「でも、ある時から彩音さんから手紙が返ってこなくなって、気になって事務所に聞いたんだけど、個人情報なので教えられないの一点張りで…。叔父さんもあれから彩音さんと仕事してないから分からないって言ってて…。だから今、彩音さんがどうしてるのか知らないんだ…」
 
 しばらく沈黙があった後、封を切ったようにアオイが、耳を疑う提案をしてきた。
「そっか……。じゃあさ…テツヤは、私をその彩音さんだと思ったらいいよ」
 
 僕は彼女の突拍子もない提案に慌てふためき、思わず喉の奥から今日一番の声を出す。
「はぁぁ⁉いやいや、彩音さんはアオイと正反対で大人しい感じの人だから、無理があるって…」
 
 妙案を否定されたアオイが鼻を鳴らしながら、さらに具体的な案を提示してくる。
「失礼だなぁ。私は現にテツヤより年上で、お姉さんなんですけど!テツヤが、私の姿が見えなくて話しづらいんだったら、家族同様に話しやすい人で、その姿が目に焼き付いてる人がいいでしょ?だったら、その彩音さんは適任じゃない⁉だから、彩音さんと話してると思って、その写真に向かって話しかけてよ。私、テツヤの部屋にいる時は基本的にその棚の近くにいるようにするから」
 
 割と説得力のある話だったこともあり、僕はその案に乗ることにした。
「なるほどなぁ…たしかに、アオイの言うことも一理あるな。まぁ…違和感はあるけど、姿が想像できないよりかはマシか…。じゃあ、そうさせてもらおうかな…」
「うん、私は全然大丈夫だから…。テツヤが話しやすそうなら、そうしてみようよ」
「ありがとう。じゃあ、ちょっと待って…」
 ベッドから立ち上がり、クローゼットを開ける僕にアオイが不思議そうに声をかけた。
「テツヤ、何してんの?」
「いやさ、棚の近くにいるんだったら…気休めだけど座布団を置いときたいなって思って…あっ、あったあった」
 
 年季の入ったヒヨコがあしらわれた座布団を棚の前に置いた僕にアオイが、小声で茶化すように囁く。
「ハハハ、ありがと…テツヤ。テツヤってば優しいね」
 僕は咄嗟に首を振って恥ずかしさをごまかした。
「ち、違うって!ただ、女の子が部屋にいるのに座布団も出さないっていうのが俺自身、気持ち悪いだけだから!俺のためにやっただけだから!」
 何の説得力もない言い訳を聞いたアオイが、笑い混じりに礼を言う。
「はいはい、分かったって。じゃあ、ありがたく使わせていただきます」
 
 思ったより長く話したこともあり、眠気に襲われたアオイが呟いた。
「ふぅわぁ…テツヤ、今何時?」
 ベッドに置いていた携帯電話を手に取り、画面を開く。
「今、十一時かな」
「どおりで眠いわけだ。…テツヤ。私、先に寝るね」
 現在時刻を知ったアオイが、就寝の準備を始めたので自分もその後に続いた。
 
「いや、俺も寝るよ。アオイは昨日と一緒で、ベッド使えよ」
 床に敷布団を敷く僕に、アオイが慌てて声をかけてきた。
「大丈夫だって!座布団まで出してくれたんだし…」
「イヤ、俺が嫌なだけだから…」
 その先を言う前に、僕が引かないことを気づいたのか、アオイが話に割り込んできた。
「…じゃあ、テツヤがそう言うなら…お言葉に甘えさせてもらいます」
 
「おう、使ってくれ。じゃあ…電気、消すぞ」
 扉近くの壁にあるスイッチをオフにする。
「はぁい。おやすみ~」
 明るい彩音さんと就寝の挨拶を交わす。
 敷布団に体重を預けて、淡い月桂が照らす天井の下、僅かに軽くなった胸にそっと手を当てる。
 
 頭の中に、機械音に紛れて(ほの)かに温かい言葉が聞こえてくる。
 
「ねぇ…テツヤ、話してくれてありがとう。話、聞けて嬉しかった。おやすみなさい」
 
 朧げな意識の中、僕は過去から微笑む彼女へ声をかける。
 
「あぁ…おやすみ、アオイ」
 
 外から聞こえる弱々しい鈴虫の音を道しるべに、僕は漆黒の夜道を歩き出した。