確かに行くところはない。準備もなく飛び出してきたから、財布やスマートフォンすら置いてきてしまった。文字通り無一文だが、私物を取りに行くためにあの家に戻るのは御免だった。もう二度と、あの人たちの顔は見たくない。

 わらにでも縋る思いで、とりあえずこの人の言う通りにするしかない。屋敷では、積極的に掃除や炊事をして、居候としての恩を返すことにしよう……。

 ぼんやりとそんなことを考えていると。


「必ず君の心を動かしてみせる。君の方から、俺と結婚したいって言わせてあげよう。覚悟しておくがいい」


 お茶目にウィンクをしながら、自信満々に歯の浮くようなセリフを言われた。男性に口説かれ慣れていない私は、ドギマギしてしまって何も言えなくなる。

 そんな私とは対照的に、この人は女慣れしている印象がある。しかしそれに嫌悪感はなかった。

 少し強引だけど、大半の女子は引っ張ってくれる男性にはやっぱり弱い。今まで知らなかったけれど、私もそうだったらしい。

 正体はいまだに不明だけど、なぜか憎めないし、どこか温かい。魅力的な人だなと思う。

 それにしても、なんで紫月さんは私なんかと結婚したいのだろう。これだけ見目麗しければ、引く手あまただと思うのだが。屋敷だの従者だのなんて言っているから、きっと財産もたくさんあるのだろうし。

 不思議に思いながらも、無一文な上に行くあてのない私は、彼の後に続いて歩くしかなかった。