すると叶海はパッと顔を輝かせ、心底嬉しげに口もとを綻ばせた。
「ごめんね、全部私が悪いの。雪嗣のこと……改めて好きになっちゃったから」
あけすけな叶海の言葉に、雪嗣は益々顔を赤らめる。そんな雪嗣の様子に、若干調子に乗った叶海は、彼の純白の髪にそっと触れて囁いた。
「だから私をお嫁さんにして」
すると、雪嗣は困り果てたように眉を下げた。
「……嫌だと言ったら?」
雪嗣の拒絶の言葉に、しかし叶海は更に笑みを深める。
「彼女でもいるの?」
「い、いや……」
「なら、諦めない」
そして、愛おしそうに雪嗣を眺めた叶海は、どこか自信たっぷりに言った。
「私、きっといいお嫁さんになるよ」
今の叶海にとって、「初恋の呪い」は既に効力を失っていた。
……いや、失ってはいない。それは死神のような禍々しいドレスを脱ぎ去り、美しい天女へと姿を変えて、叶海を見守ってくれている。
――ああ! 甘酸っぱい感情が身体の中に充ち満ちて、今なら空も飛べそう。
叶海は熱っぽい眼差しを雪嗣へ向けると、会心の笑みを浮かべた。
すると雪嗣は大きく息を吐き、脱力して天を仰いだ。
風に乗って、はらはらと桜の花びらが舞い降りてくる。
雪嗣は宙を楽しげに踊る桃色の欠片に僅かに目を細めると、しみじみと呟いた。
「……どうしてこうなったんだ……」
ぽつりと零れた龍沖村の守り神の嘆き。
それは、春の暖かな風に流され、すぐに消えてしまったのだった。
人が初めての恋をする時、相手のどこに惹かれるのだろう。
大部分の人間が幼少期に経験するであろう初恋。
社会の仕組みも知らず、心身が未成熟なうちにするその恋は、長い時を経るにつれて、誰にとっても過去のものとなる。
かけっこが他の子よりも速かった。ドッジボールが強かった。髪型が可愛かった。クラスの人気者だった……大人の価値基準からすれば、さほど重要でもない部分が初恋の決め手になることも多い。
だからこそ、幼かった自分を懐かしみ、その恋を思い出に昇華させる。成長した自分からすれば、当時は焦がれるほどに魅力的に思えた部分が、人生においてはさほど重要ではないことに気が付くからだ。
長い時を共に過ごし、相手に新たな価値を見いだしたら話は違うだろうが、途中で離ればなれになった場合は致命的だ。なにせ、相手の魅力的だと思っていた部分は、大人になるにつれて無価値へと成り下がってしまうのだから。
だから、初恋は成就しない。大部分の人たちの中で、ただの思い出で終わる。
ならば――どうして、叶海は今も雪嗣に惹かれているのか?
雪嗣を見ると、胸がじんと熱くなる。涙が零れそうになる。話したい、触れたい、見て欲しい、一緒にいたい。その感情は理屈じゃ説明つかなかった。彼を求める強い気持ちが溢れて、叫び出したくなるくらいだったから。
――私は、今の雪嗣のどこが好きなのだろう。
綺麗な顔? 優しい眼差し? 幼い頃の思い出? 彼が神様だったこと?
それ以外に価値を見いだすには、叶海は今の雪嗣のことをあまりにも知らない。
けれど、確実に彼に惹かれていることは事実だ。言うなれば一目惚れ。まるで磁石が対極に引かれるように、心が惹き付けられている。そんな奇妙な状態だった。
理由もなく相手に惹かれることは、叶海からすると少し不安なことだ。
なにせ、今の彼女が生きている大人の世界は、何事にも説明が求められ、曖昧ですまされることはそう多くない。
朝目覚めて、自分の心を確認する。ああ、今日も雪嗣が好きだ。
叶海はほうと息を漏らすと動き出した。
今日こそ雪嗣を好きな理由が見つかるだろうか。
この恋心に説明をつけられるだろうか。
私の初恋は成就するのだろうか。
……そんな風に思いながら。
桜色に彩られた季節があっという間に過ぎ去ると、徐々に強い日差しが大地を照らすようになる。つい先日までは若葉だったものが、一丁前の顔をして天を仰ぐようになると、龍沖村には青々とした夏らしい雰囲気が漂う。
そんな夏の日の朝、あるものを受け取った叶海は、軽やかに祖母宅を出発した。
「叶海! 龍神様によろしくな~」
玄関まで見送りに出てくれた祖母が手を振っている。
「うん。朝早くからごめんね!」
叶海は笑顔で手を振り返すと、社へと続く道を急いだ。
朝の風が気持ちいい。茹だるような都会とは違って、ここの夏はとても爽やかで、いつもは耳障りなだけの蝉の声すら、心地よく思えるから不思議だ。
すると、朝から畑仕事に精を出していた総白髪の老人が声をかけてきた。
「叶海ちゃん、おはよう。どうだ、仕事は順調だべか?」
老人の名は沢村和則。龍沖村最年長で、村の顔役のようなことをしている。叶海のことも幼い頃からよく知っていて、当時から世話になっていた。
和則は十年ぶりに戻ってきた叶海のことが心配らしく、あれこれと気にかけてくれている。雪嗣の嫁になるため、長年住んでいた都会から越してきた叶海としては、ありがたいことだ。叶海は顔を綻ばせると大きく頷いた。
「じっちゃん、おはよう! こないだはありがとう。おかげさまで仕事は順調だよ!」
和則は、叶海の仕事にどうしても必要なものを手配してくれた。
それはアトリエだ。空き家を一軒、格安で貸し出してくれ、更には絵を描くのに快適に過ごせるように色々と取り計らってくれたのだ。
「まさか、叶海ちゃんが画家になってるとはなあ。オラ、びっくりしただよ」
「フフフ、ありがと! この村はすごく綺麗だから、描き甲斐があるよ」
「そりゃあいい。今度、オラのことも描いてけろ」
「わかった。楽しみにしてて」
叶海は駆け出しの絵描きだ。
芸大卒業後、叶海は先輩が経営するアトリエで働きながら創作活動を続けていた。
二年前、大きなコンクールで賞を獲ってからは、個展を開く機会にも恵まれ、徐々に知名度を上げてきている。しかし、ここ最近は煮詰まっていて、どうにも筆が乗らなかったのだ。
ある程度の貯蓄もあったし、新しい刺激も欲しかった。アトリエを辞めて新たな創作活動の場を探していた矢先に、雪嗣への恋心が再燃してしまったのだ。
渡りに船とはまさにこのことである。高齢独居の祖母の様子も気になっていたし、叶海は嬉々として龍沖村へ移り住んだ。事実、自然豊富な龍沖村は、風景画を得意とする叶海にとってモチーフの宝庫と言えた。
今は、次のコンクールに向けて精力的に創作している。
調子に乗った叶海がピースすると、和則は豪快に笑った。
「アッハッハ。叶海の描く絵が有名になりゃ、この村も、もっと賑わうべかなあ? 頼んだぞ、叶海。期待しとる。それに――」
和則は日に焼けたシワシワの顔に、まるで大黒様みたいな笑みを浮かべた。
「龍神様もずっとおひとりじゃ寂しいべな。叶海がいたら、賑やかでいい」
そう言って、いくつか叶海に野菜を持たせる。大きなきゅうり。真っ赤に熟れたトマト。慎ましやかなドレスを纏ったとうもろこし。夏の恵みたちからは、太陽の匂いがする。どうやら雪嗣へ持っていけということらしい。叶海はお礼を言うと、大きく手を振ってまた走り出した。
目指すは、村を見下ろす山の上に建つ神社だ。
龍沖村の村民にとって、龍神の存在は秘密でもなんでもない。
雪嗣は神でありながら、同時に仲間でもあった。村民は誰もが雪嗣を親しい友人や、もしくは家族の一員のように思っていたし、雪嗣もそう思っている。
ただし成人前の子どもや、龍沖村へ永住する気のない相手には秘密にしていた。神である雪嗣と共に生きるために、長年懸けて作り上げた村の掟のためだ。
だからこそ、幼いままこの村を離れることになった叶海は、雪嗣が龍神であると知らずにいた。村で生きると決めた叶海に、村の年寄りたちはようやく雪嗣のことを打ち明けてくれたのだ。
龍沖村には、ある伝承が今もなお伝わっている。
大昔、村が度重なる水害に喘いでいる中、怪我をした白蛇が村に現れたのだという。
昔から、白蛇は神の遣いであると信じられてきた。
信心深い村人たちは、神が自分たちを試しているのだと考え、手厚く看病してやったのだという。すると、傷が癒えた白蛇がみなを集めてこう言った。
『助けてくれた礼に、荒ぶる川を宥め、この地を守ってやろう』
その白蛇は、神の遣いなどではなく、神そのもの――龍神だったのだ。
龍神の言葉通り、次の日には荒れていた川がすっかり大人しくなっていた。
更には頻発していた水害は治まり、次の年から豊作が続き、村は潤った。
それが雪嗣と龍沖村との出会いであり、始まりだ。
以来、雪嗣はこの村に棲み着き、村人たちと共に暮らしている。
年寄りたちが語る雪嗣のことを、叶海は一言一句忘れないように記憶に刻みつけた。
まるで、本当の意味で村へ受け入れて貰えたようで嬉しかったからだ。
大切なことを教えてくれたお礼にと、叶海が雪嗣の嫁になりたいと思っていることを打ち明けた時は、みんな心臓が止まりそうなくらいに驚いていたが。
その時の年寄りたちの顔を思い出して、叶海はくすりと笑みを零した。そして、この頃にはすっかり慣れてしまった石段を一気に駆け上ると、大きな声で呼んだ。
「雪嗣ー! 朝ごはんにしよう!」
雪嗣を捜して境内を見渡す。走ったせいで、服が乱れていないか確認するのも忘れない。ボーダーのシャツ、リネンのスカートに編み上げのサンダル。それに麦わら帽子。特に問題なさそうだ。
すると、奥の方に箒を手に掃除をしている雪嗣を見つけた。
途端、とくんと叶海の心臓が高鳴った。