妖怪と本谷さん達に出会って一週間が過ぎた頃、出勤前にマネージャーから呼び出された。
普段より一時間早く行くと、店には数名のお客様がいるだけで静かだった。入口から近くの席で人型の黒い靄の塊がどっと構えて座っているのを見つけると、思わず目を疑った。
何度目を擦って見直しても、人型の黒い靄がノートパソコンと叩いているようにしか見えなくて、また鬼がやってきたのかと思って立ち止まる。すると、私に気付いた黒い靄が手招きをして呼んだ。
「ああ、久野さん。こっちこっち!」
声でマネージャーであることがわかると、恐る恐る対面の席へ座った。
「急に呼び出してすみませんね、今日しか日程取れなくてさ」
「え? 来週に予定開けたって聞いたんですけど……」
「その日が行けなくちゃったんだ。本当は要望通り、店長も含めて三人で面談する予定だったんだけど、彼も今日は別の用事があるから、許してね」
――あ、意味のない面談になりそう。
まだ始まってもいないのに、黒い靄が一回り大きくなったのを見て察してしまった。きっと店長の別の用事も嘘なんだろう。
念の為にテーブルの下でスマートフォンを操作し、ボイスレコーダーのアプリを起動させる。
「黒い靄は名簿の力によって妖怪の姿を映している」と、本谷さんは言ってたけど、身体に巻き付いているのはどういう状態なんだろう? 作間くんにでも聞いておけばよかった。
顔が見えないマネージャーは、一度パソコンを閉じて本題に入った。
「今回、店長さんにお話を聞きました。久野さんはなんでも営業中に遊んでいるそうじゃないですか。お客さんへの態度も良くないって聞いてますよ」
「遊んでいるわけではありませんし、接客中に関して、店長との面談時にはご指摘ありませんでした。
それに、お客様も見ずにスタッフと世間話をしている店長に言われても困ります」
「そうなの? 僕はそう聞きましたけど。それと……一番に食品のことを考えてくれるのはいいけど、そんなにきっちりやらないと駄目なものなのかな?」
とぼけたように小首を傾げて聞いてくるマネージャーに、今にも殴りかかりそうになる右手を抑え込んだ。
飲食店、の話だよね?
「飲食店として最低限のことを実践したまでです。それのどこが悪いんですか?」
「だって併設のカフェだよ? 本来はボタン一つで出てくるドリンクバーの機械があればいいくらいのものなんだ。しっかりした料理は提供する必要がない。そんなに厳しくする必要ってどこにあるのかな?」
「……賞味期限の切れたものを提供しても問題はない、そういうことですか」
「それはまぁ、しょうがないんじゃない?」
顔が見えなくてよかったかもしれない。
黒い靄で顔が隠れていても、言葉や息遣いで明らかに鼻で嗤っていることがわかった。
今のメニューやコーヒーを主体とする形で店を立ち上げたのは会社だ。特にコーヒーは某有名ブランドのものを使用していることもあって、堂々と「有名コーヒーロースターの豆を使用しています」といろんなところで公表している。
メニューなんて会社から提案された無茶ぶりを、アルバイトが仕込みしやすいようにレシピを作り直しているのは、前にも話した通りだ。社員が関与することは一切なくて、いつの間にか自己流の作り方をしているときも少なくはない。
同じレシピを全員が作れなければ店の味が統一できず、商品のクオリティが下がる。手間暇かけて淹れたドリップコーヒー四五〇円がその味で提供できるのか、と切り詰めて考えていくのが社員の仕事の一つではないだろうか。
更に働いているスタッフ皆が「この店は飲食店である」という認識で働いているというのに、根本的にマネージャーや社員が店自体を否定するのは、どう考えても間違っている。
「飲食店で期限切れの物を提供して、お客様が食中毒になったらどうするんですか。人を殺しているのも一緒ですよ? 飲食店でしょう?」
「殺す……って言い方は良くないね。会社の認識として、この店は飲食の括りにはしていないんだよ。あくまで併設。今後、提供の仕方も変わってくると思うよ」
マネージャーはそう言って、ケタケタと嗤いながら閉じていたパソコンを開く。今まで私が話した内容をメモしているのだろう。これだけ聞けば会社を脅迫しているようにも見えるだろうな、と苛立ちながらも思った。
本当は「人を殺す」なんて言葉は使いたくはない。
しかし、実際に食中毒になって困るのは会社であり、働いているアルバイトであり、最終的にすべての責任を取らなければいけないのは店長だ。「私が責任を取ります」「休みを惜しんで働きます」だけで済む話じゃない。
たかが食品管理の不手際で?
ちょっとのカビだけで?
過去に死亡例が出ているなんて、この人や店長は何とも思っていないのかもしれない。
一つ間違いが出てしまえば、全員の今後がおじゃんになってしまう可能性だってある。脅迫まがいな言葉遣いになってしまっても、危機感を持ってほしかった。
メモ書きを終えたのか、マネージャーは手を止めて話を戻す。
「そうだ、いわゆる飲食の仕事がしたいなら、別の店への異動を検討するのはどうかな? お給料は少し下がってしまうけど、しっかりとキッチン業務ができる環境だし、久野さんの家の近くにも系列店はあるからさ」
「この店で働いているからこそ意味があります」
「それほどまで、店にこだわる理由はあるの?」
「それは……できることが増えたから、目標もできたところで、中途半端で終わるのは嫌だからです。態度が悪いことが原因なら直します。だから……」
これが本音なのかは未だにわからないが、少なくともプラスに見てもらえるなら。少しでもここに残れるのならと目線を逸らして苦し紛れに答える。
マネージャーは暫く黙って考えると、わかったと口を開いた。
「久野さんが残りたい気持ちはよくわかりました。僕が貴女にできる選択は別の店舗に異動するか、店長に謝って誠意を見せるか。この二択です」
普段より一時間早く行くと、店には数名のお客様がいるだけで静かだった。入口から近くの席で人型の黒い靄の塊がどっと構えて座っているのを見つけると、思わず目を疑った。
何度目を擦って見直しても、人型の黒い靄がノートパソコンと叩いているようにしか見えなくて、また鬼がやってきたのかと思って立ち止まる。すると、私に気付いた黒い靄が手招きをして呼んだ。
「ああ、久野さん。こっちこっち!」
声でマネージャーであることがわかると、恐る恐る対面の席へ座った。
「急に呼び出してすみませんね、今日しか日程取れなくてさ」
「え? 来週に予定開けたって聞いたんですけど……」
「その日が行けなくちゃったんだ。本当は要望通り、店長も含めて三人で面談する予定だったんだけど、彼も今日は別の用事があるから、許してね」
――あ、意味のない面談になりそう。
まだ始まってもいないのに、黒い靄が一回り大きくなったのを見て察してしまった。きっと店長の別の用事も嘘なんだろう。
念の為にテーブルの下でスマートフォンを操作し、ボイスレコーダーのアプリを起動させる。
「黒い靄は名簿の力によって妖怪の姿を映している」と、本谷さんは言ってたけど、身体に巻き付いているのはどういう状態なんだろう? 作間くんにでも聞いておけばよかった。
顔が見えないマネージャーは、一度パソコンを閉じて本題に入った。
「今回、店長さんにお話を聞きました。久野さんはなんでも営業中に遊んでいるそうじゃないですか。お客さんへの態度も良くないって聞いてますよ」
「遊んでいるわけではありませんし、接客中に関して、店長との面談時にはご指摘ありませんでした。
それに、お客様も見ずにスタッフと世間話をしている店長に言われても困ります」
「そうなの? 僕はそう聞きましたけど。それと……一番に食品のことを考えてくれるのはいいけど、そんなにきっちりやらないと駄目なものなのかな?」
とぼけたように小首を傾げて聞いてくるマネージャーに、今にも殴りかかりそうになる右手を抑え込んだ。
飲食店、の話だよね?
「飲食店として最低限のことを実践したまでです。それのどこが悪いんですか?」
「だって併設のカフェだよ? 本来はボタン一つで出てくるドリンクバーの機械があればいいくらいのものなんだ。しっかりした料理は提供する必要がない。そんなに厳しくする必要ってどこにあるのかな?」
「……賞味期限の切れたものを提供しても問題はない、そういうことですか」
「それはまぁ、しょうがないんじゃない?」
顔が見えなくてよかったかもしれない。
黒い靄で顔が隠れていても、言葉や息遣いで明らかに鼻で嗤っていることがわかった。
今のメニューやコーヒーを主体とする形で店を立ち上げたのは会社だ。特にコーヒーは某有名ブランドのものを使用していることもあって、堂々と「有名コーヒーロースターの豆を使用しています」といろんなところで公表している。
メニューなんて会社から提案された無茶ぶりを、アルバイトが仕込みしやすいようにレシピを作り直しているのは、前にも話した通りだ。社員が関与することは一切なくて、いつの間にか自己流の作り方をしているときも少なくはない。
同じレシピを全員が作れなければ店の味が統一できず、商品のクオリティが下がる。手間暇かけて淹れたドリップコーヒー四五〇円がその味で提供できるのか、と切り詰めて考えていくのが社員の仕事の一つではないだろうか。
更に働いているスタッフ皆が「この店は飲食店である」という認識で働いているというのに、根本的にマネージャーや社員が店自体を否定するのは、どう考えても間違っている。
「飲食店で期限切れの物を提供して、お客様が食中毒になったらどうするんですか。人を殺しているのも一緒ですよ? 飲食店でしょう?」
「殺す……って言い方は良くないね。会社の認識として、この店は飲食の括りにはしていないんだよ。あくまで併設。今後、提供の仕方も変わってくると思うよ」
マネージャーはそう言って、ケタケタと嗤いながら閉じていたパソコンを開く。今まで私が話した内容をメモしているのだろう。これだけ聞けば会社を脅迫しているようにも見えるだろうな、と苛立ちながらも思った。
本当は「人を殺す」なんて言葉は使いたくはない。
しかし、実際に食中毒になって困るのは会社であり、働いているアルバイトであり、最終的にすべての責任を取らなければいけないのは店長だ。「私が責任を取ります」「休みを惜しんで働きます」だけで済む話じゃない。
たかが食品管理の不手際で?
ちょっとのカビだけで?
過去に死亡例が出ているなんて、この人や店長は何とも思っていないのかもしれない。
一つ間違いが出てしまえば、全員の今後がおじゃんになってしまう可能性だってある。脅迫まがいな言葉遣いになってしまっても、危機感を持ってほしかった。
メモ書きを終えたのか、マネージャーは手を止めて話を戻す。
「そうだ、いわゆる飲食の仕事がしたいなら、別の店への異動を検討するのはどうかな? お給料は少し下がってしまうけど、しっかりとキッチン業務ができる環境だし、久野さんの家の近くにも系列店はあるからさ」
「この店で働いているからこそ意味があります」
「それほどまで、店にこだわる理由はあるの?」
「それは……できることが増えたから、目標もできたところで、中途半端で終わるのは嫌だからです。態度が悪いことが原因なら直します。だから……」
これが本音なのかは未だにわからないが、少なくともプラスに見てもらえるなら。少しでもここに残れるのならと目線を逸らして苦し紛れに答える。
マネージャーは暫く黙って考えると、わかったと口を開いた。
「久野さんが残りたい気持ちはよくわかりました。僕が貴女にできる選択は別の店舗に異動するか、店長に謝って誠意を見せるか。この二択です」