少し商店街の中に入っていくと、種類豊富な総菜がショーケースに並んだ総菜屋「まめや」の前で立ち止まる。
帰りがけの主婦がこぞって買い込む、この店のお惣菜は栄養バランスも良く、「おふくろの味」と謳われるほど人気だ。そしてなぜか、一番人気商品が「まめたのおはぎ」という、小豆餡から作る本格的おはぎが飛ぶように売れている。総菜屋なのにおはぎが、と不思議がる人もいるが、これがなかなか絶品らしい。
……らしい、と濁したのは、口コミで知った程度で私自身が食べたことがないからだ。
作間くんがショーケースの前まで行くと、先程まで別のお客さんの相手をしていたおばさんが気付いた。
「あら、作間くんじゃない! 学校帰り?」
「こんにちは。豆太はいますか?」
「裏で追加のおはぎを作ってくれてるの。もうそろそろ来ると思うけどねぇ。……ところで、お隣の子は彼女さんかしら?」
「え!?」
「嫌だなぁ。そんなんじゃないですよ。もし彼女と一緒にいたら、菊が黙っていないですから」
彼の言葉にそうよねぇ、と納得するおばさん。
そうだよ、作間くん絡みで誤解を招くような噂が流れたら、あのお菊さんが黙っていない。申し訳ないけど彼女の鬼火の餌食にはまだなりたくない!
声に出さずにいると、それを察した作間くんが「そこまでしないから大丈夫だよ」と笑う。
……あれ、っていうかこの人、お菊さんのこと知ってるの?
「美代子さんはね、菊と仲が良いんだ。たまに入り浸っていることもあるよ」
「随分助かっているのよ! あの子がいてくれると、いなり寿司やお揚げとほうれん草の胡麻和えがよく売れる売れる!」
ふと狐の姿のお菊さんがお店に立っているという、シュールな光景に眉をひそめる。招き猫ならぬ招き狐というべきか。
すると店の奥からガタン、と音を立てて出てきたのは、トレイいっぱいに詰めたおはぎを、慎重に運ぶ小学生くらいの男の子だった。半袖短パンに少し大きめのえんじ色のエプロンをつけた彼は、美代子さんにトレイを渡す。
「みよこさん、第三弾お待たせ! ……ってアレ? さくまだー!」
「こら、豆太! お客さんの前でしょう?」
「あっ……いらっしゃいませー!」
美代子さんに注意されながらも、ショーケースから出て作間くんに飛びついた男の子は、元気に挨拶をしてくれた。ずっと裏でおはぎを作っていたのか、頬にこした小豆がついている。
……もしかして、人気のおはぎを作っているのって……!
「さくまー! っと……おまえ、もしかして【しぐれさま】が連れてきた新しい人間?」
男の子――改め、豆太くんは首を傾げながら問うと、作間くんが笑って答えた。
「そうだよ。久野さんって呼んであげて」
「へぇー……くの! よろしくな!」
「よ、よろしく……えっと……豆太君は妖怪なの?」
「そうだよ! 見ての通り【小豆洗い】の妖怪さ!」
どこを見て?
ニコニコの満点の笑みで言われても、見た目だけでは人と大差ないのにわかるわけがない。小難しい顔をしているのが分かったのか、隣で作間くんが笑いをこらえて震えている。
「もしかして、くのは小豆洗いを知らないのか?」
「えっと……小豆を洗っている、妖怪……?」
「だいせーかい! すごいなお前!」
それでいいんかい。
キラキラと目を輝かせて興奮する彼に私が黙って突っ込むと、ついに作間くんは噴き出して笑った。
考えていることが読めるって大変だな。
「ん? さくま、どうしたの? 急に笑い出して、相変わらずヘンなやつだな!」
「いや、何でもないよ! それより本谷さんと菊のところに行くからおはぎを八個貰えるかな?」
「まいどーっ! みよこさん、おはぎ八つー!」
豆太くんが飛び跳ねながら店へ戻ると、美代子さんと一緒にできたてのおはぎを包んでいく。
待っている間に笑いを落ち着かせようとしている作間くんの横っ腹を軽く突いた。
「そんなに私のツッコミが面白かった?」
「ふふっ……タイミングがね、結構ツボだったよ」
「……豆太くんは、ここに住んでいるの?」
「そうだよ。美代子さんが生まれる前からずっとここにいる。勿論、豆太が妖怪だって知ってるよ。家族絡みですごく仲が良いんだ」
聞けばこの総菜屋さんは五十年以上前から続いており、その頃から豆太くんが住み着いて一緒に暮らしているらしい。今は美代子さんとおじさん、豆太くんの三人で切り盛りしている。子供は他所へ嫁入りに行って帰ってくるのは年に二回もないため、孫みたいな豆太くんと生活できるのがいいのかもしれない。
でもまさか人気商品を作っているのが妖怪だったなんて、と考えているうちに、豆太くんがおはぎが入った透明のプラスチックケースをポリ袋に入れて持ってきてくれた。
握りこぶし一つ分の大きさの割に、一個一二〇円はお得だろう。ケース越しからでも小豆一粒が艶々していて、思わず腹の虫を抑える。
「お待たせー! 出来立てほやほや、はんごろしでどうぞ!」
「はっ……半殺し!?」
「『はんごろし』は米の潰し具合のことだよ」
ちなみにおはぎで使うもち米を全部潰したものを『みなごろし』と言うらしい。
小学生みたいな可愛い顔をして怖い言葉が出てきたことに驚いていると、豆太くんは小首を傾げて不思議そうに言う。
「くのは知ったかぶりなのか? 反応も大きいし、わざとしてるのか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……。豆太くんはよく知ってるね」
「みよこさんが教えてくれたんだ。おれの方がずっとずっと長生きしてるのに、みよこさんはいろんなことをたくさん知ってるんだ!」
すごいだろーっ! と豆太くんは胸を張って答える。ショーケースの向こう側では美代子さんが気恥ずかしそうに笑っていた。
ふと美代子さんと目が合うと、何か思い出したように手を軽く叩いた。
「そうだ。本谷さんのところ行くなら、途中で清音ちゃんのところに寄ってくれない? お昼におはぎを買いに来てくれたんだけど、丁度売り切れた後で渡せなかったのよ」
「いいですよ。清音の分も入れていくらですか?」
知らぬ間に淡々と話が進んでいく。作間くんがおはぎの代金と交換で、四つのおはぎが入ったポリ袋を受け取った。
「それじゃ久野さん、行こうか」
「う、うん。美代子さん、豆太くん、お邪魔しました」
「さくま、くの! また来いよーっ!」
「豆太! お客様にはありがとうございます、でしょ!」
美代子さんに軽く小突かれる豆太くんを横目に総菜屋から離れる。その直後、おはぎを買いに来た常連客で賑わう声が遠くから聞こえた。
更に商店街の奥へ入っていくと、作間くんがある店の前で足を止める。
「久野さん、ここ来たことある?」
「ここら辺に住み始めてすぐに一度来た気がする……」
「曖昧だね。でもそっか、それだと清音とは会ってないのか」
「誰?」
「俺の従兄弟のねーちゃん」
レトロな建物に「喫茶ララ」と書かれたプレートのドアを開くと、一気に煙草の匂いが溢れた。若干肌寒い店内には、煙草をくわえて読書をする年配のお客さんが二、三人いる程度で、特に音楽が流れているわけでもなく、ゆったりとした時間が流れていた。
カウンターでグラスを拭いていた色白の青年が顔を上げると、一瞬驚いた表情をしながらも笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ。……あれ、珍しい。お菊さん以外を連れてくるなんて」
「美代子さんにも言われたよ。清音いる?」
「呼んできますね。お好きな席へどうぞ」
そう言って色白の彼がカウンターの奥へ行くと、作間くんが近くのテーブル席に座った。促されて対面側の椅子に座ると、なんとなく声を潜めて彼に問う。
「ねぇ、ここにも妖怪がいるの?」
「そうだけど……そんなに小声にならなくても大丈夫だよ」
「そう言われてもねぇ……」
この空間で普段通りの声量で話せる内容じゃないくらいわかってよ。
黙ったまま悪態をつくと、作間くんが鼻で哂う。
「……また読んだでしょ?」
「だって久野さんわかりやすいんだもん」
だもん、じゃないよ。全く。
「そうよそうよ。どうせ店内には見えないだけで妖怪だらけなんだから。聞こえても問題ないって」
「問題ないって言われても一応……ん?」
真横から聞こえた声は、明らかに作間くんのものではなく女の子の声だ。目を向けると、三つ編みに結った黒髪に、真っ黒なスカートに身を包んだ女の子が立っていた。
私をジロジロと品定めてから、ニッコリ笑って言う。
「初めまして、人間さん。郵便屋の未空ちゃんでーすっ!」
「ゆ……ゆうびん、や?」
「名簿がまた人を連れてきたって噂を聞いてはいたんだけど……うん、キミは残念さんだね。いやぁ、これまた随分不憫な人間を連れてきたね。本当に名簿は【しぐれさま】そっくりだ!」
待って、意味がわからない。
初対面の女の子にこんなにはっきりと「残念」だの「不憫」だの言われたの初めてだよ。
どこから突っ込んで良いのかわからなくて固まっていると、彼女は更に続けた。
「でもキミ、いつも夜遅くに帰ってくる子だよね? 早く帰った時は『鈴々』にも立ち寄って、ヒロさんと話しているのを何度か見かけたことがあるよ。お酒飲めないのに、結構長い時間居座ってるけど、やっぱり空間に酔っちゃうの? そうそう、名簿とはどこで出会ったの? いろんな人間さんに聞いてまわってるからさ、未空に教えてちょーだいっ?」
「え、えっと……?」
自分では処理しきれないと察して作間くんに助けを求めると、彼はニッコリと笑っているだけで手を貸してくれそうにない。というより、随分楽しんでいるようにも見える。
そして目を離した隙に、いつの間にか彼女の顔が数センチというところまで迫っていた。
「ねーえ。聞いてる? 人間さーん?」
「ちょっ……近い! 作間くん止めて! さっさと、早く!」
「はいはい。未空、そこまでにしてあげて」
ようやく作間くんが重い腰を上げて、彼女を引き剥がして近くの席に座らせた。不貞腐れた顔で浮いた足をプラプラと揺らす。
「今日は休み? 郵便の仕事だって聞いてたんだけど」
「仕事だったよ? 未空ちゃんはお仕事が早いからさ、今日の分は午前中に終わらせを散歩して『ララ』に寄ったの。そしたら作間くんが新しい人間さんと一緒にいるし? 思わず声をかけちゃった」
彼女――未空ちゃんはてへっと笑いながら頭を軽く叩いた。この子は一体何者なんだろう、と苦い顔をしている私に、作間くんが教えてくれた。
「未空は【烏天狗】の妖怪だよ。日中は郵便局で働いてて、夜中は遠い地域の領主との連絡係をしてるんだ」
あ、さっき言ってたことは本当だったんだ。
申し訳なく思ってそっと彼女を見ると、どや顔で返してくる。
「ねぇ、人間さん? 未空の正体を知ったんだから、質問答えて?」
「知ったっていうか教えてもらったというか」
「交換条件。こんな可愛い見た目だからって、人を攫っちゃう妖怪なんだから」
早くして、と先程と打って変わった鋭い目で睨んでくる。と言っても、名簿が勝手にアパートの郵便受けに入っていたのだから、どんな経緯で名簿がやってきたのかがわからない。
そのことを伝えると、未空ちゃんは眉を顰めた。
「郵便受けに突っ込まれていて、ご丁寧に紙袋に入れられてた? 初めましてのパターンだね」
「そう……なの?」
「そう。大体道で拾ったとか、家の本棚にいつの間にかあったとか。あと書店で見つけたって人間さんもいたかな。彼らもキミみたいに、何かに苦しんでたよ」
初めて聞いた、名簿に導かれた人間の話。本谷さんから「名簿自身がぬらりひょん」だと話は聞いていたものの、まるで人を選んでいるように思えてならない。
そういえば作間くんは特殊だって言ってたような。
「作間くんのときも、違ったの?」
「え? 俺は……実は俺、名簿については商店街に来てから知ったんだ。だからわからないや」
申し訳なさそうに言うと、彼はどこか遠くを見つめた。なぜかこの話題に触れてはいけない気がして、私も目を逸らした。
「ごめんね! 巧、お待たせ!」
するとカウンターの奥からポニーテールの女性が出てきた。振り返った作間くん……ではなく、テーブルの上に置いたポリ袋を見つけると、目を光らせてカウンターから飛び出してきた。
「それおはぎ? 豆太のおはぎよね?」
「美代子さんから預かってきたよ」
「うわっ! 嬉しいーっ!」
ポニーテールの彼女は、袋からパックに入ったおはぎを持ち上げて嬉しそうに目を輝かせた。
「今日は食べれないと思ってたからめっちゃ嬉しい! ありがとう! ……そっちの袋は?」
「あげないよ。俺達の分なんだから」
「おれたち……?」
もう一つのポリ袋を見ると、彼女は作間くんと私を交互に見る。次第に口元が緩み始めたところで、作間くんが釘を刺した。
「想像しているところ悪いけど、俺には菊だけだから」
「もーっ! 言う前に答えるのやめてよね!」
しかも惚気ないでよ、と拗ねると、彼女は私を見て慌てて姿勢を正した。
「初めまして! この喫茶店の店長代理やってます、三森清音です。清音って呼んでね。巧がいつもお世話になってます」
「いえ、こちらこそ……。初めまして、久野です」
「久野ちゃんね。まさか巧がお菊ちゃん以外の女の子を連れてくるなんて、ビックリしちゃった!」
フフッと笑う清音さん。見た感じ私と同い年くらいだけど、はきはきとした話し方からして、私より年上だろう。
というか作間くん、お菊さんを連れ回しすぎじゃない?
「久野さん、それじゃあ俺がナンパ男みたいじゃん」
「また勝手に読んだ……。本谷さんと一緒にいた時点で変な人の部類にしか見えないよ」
「変な人と軽いのは別だって」
「巧、本谷さんと同類なのウケる!」
不服そうな顔をする作間くんを横目に、清音さんは近くに座っていた未空ちゃんと一緒にケタケタと笑う。
「……って、清音さんは本谷さんやお菊さんを知っているんですか?」
「知ってるもなにも、牡丹の友達だもの。よくコーヒーフロート飲みに来るし」
「ぼたん?」
「あ、僕のことです……」
清音さんの後ろで控え目に手を上げる色白の彼が言う。
「彼が牡丹。一昨年くらいから商店街に戻ってきて、働いてもらっているの」
初めまして、と牡丹くんはギリギリ聞こえる声の大きさで言う。
「戻ってきて、というのは? どこかで修行されていたんですか?」
「いえ、一種の里帰りみたいなものです。僕の生まれは雪山でも、家と呼べるのは【しぐれさま】の商店街だけですから」
牡丹くんはそう言ってどこか誇らしげに笑った。「雪山」というワードに首を傾げると、悟った作間くんが教えてくれた。
「牡丹は【雪女】の末裔なんだよ。だから雪山に里帰りしていたってワケ」
「雪女、というより雪男ね。ややこしいけど、性別なんて関係ないわ。牡丹は牡丹。この喫茶店で働くエースなの!」
清音さんが牡丹くんの肩に手を置いて自信満々に言い切ると、彼も嬉しそうに頬を赤らめた。肌が白いから、赤が映えて見える。先程の豆太君に比べるととても大人しい。
……というより人見知りなのかもしれない。
「牡丹くんも未空ちゃんも、どう見ても人間にしか見えないんですけど……」
「そりゃあ、人間に化けているからね。私が真っ黒な烏の姿で商店街を出歩いているのを想像してみて? 動物保護センターに行くより前に射殺されてちゃうよ!」
「確かに、未空さんの姿だとそうなってしまうかもしれませんが……。僕の場合は本来の姿で仕事をしていると、周りにいる皆さんが凍えさせてしまうので……」
「初出勤の日はすごかったのよ。お客さんに持っていくお冷、全部凍らせちゃったんだから!」
歩く冷凍庫か?
「ところで、お菊ちゃんのおはぎも買ってるなら早く持って行った方がいいんじゃない? 久野ちゃんと一緒だってわかって拗ねてるわよ」
ほら、と言って清音さんが窓の外を指さすと、あの夜見た青白い鬼火が一つ、店の中を覗くように浮かんでいた。
夕方とはいえ商店街は人間が賑わっているだろうに、そんな堂々と出てきて大丈夫だろうか。
「流石お菊ちゃん。簡単に浮気はさせてくれないわね」
「だから違うって。久野さんに商店街の妖怪たちを紹介してたんだよ」
「へぇー? お菊のこと放っておいて? 未空だったら嫌だなぁー」
「放ってない。今日は本谷さんのところで用事があるって言ってたし。俺も大学行ってたんだよ」
「はいはい、従兄弟がレディーファーストがお上手で何よりだわ」
「絶対二人とも思ってないだろ……!」
作間くんが不服そうな顔をしながらも、清音さんと未空ちゃんは楽しそうにからかう。傍から見れば姉二人に絡まれる弟のようだ。
そこから二、三歩離れた場所で牡丹くんがオロオロと落ち着かない様子で見ていた。
「えっと……牡丹くん、大丈夫?」
「は、はい。この光景は見慣れてはいますが……殴り合いにならないか、いつもいつも心配なんです。清音さんも未空さんも加減を知りませんし、ああ見えて作間さんは口が悪いですから」
「口が悪い? 作間くんが?」
「ええ。以前、他所から来た【大かむろ】が商店街の人を驚かそうとしたがありまして、あまりにも暴力的だったので、作間さんが『てめぇらいい加減にしねぇとその面剥がすぞゴルァ!』って怒鳴ったんです。……耳を疑いました。彼の後ろにはお菊さんの鬼火が燃え盛っていたこともあって、妖怪はすぐ退散していきましたが、あの時ばかりは彼も人間なんだな、と関心したものです」
遠い目で懐かしそうに牡丹くんは言う。見た目からして穏やかそうな作間くんからそんな言葉が出てくるとは想像できない。
私が苦笑いを浮かべると、牡丹くんは何を思ったのか、慌てて小さく握り拳を構えていた。
「久野さん、でしたね。心配はご無用です。これ以上長引く場合は僕が仲介人として間に入って止める役割になっています。万が一喧嘩になるようでしたら、店内全てを氷漬けにしてでも止めますのでご安心ください」
切羽詰まって喧嘩を力ずくで止める前に、まずは平和的な解決を目指そう?
真剣な眼差しで決意を伝えてくれる牡丹くんを横目に、私はそろそろヒートアップしそうな彼らの間に入った。
*
あの後、何事もなく「喫茶ララ」を出て山田書店へ向かうと、待ってましたと言わんばかりに本谷さんが急須と茶筒をちゃぶ台の上に用意していた。
勿論、扉を開けた途端にお菊さんが作間くんに飛びついた途端、頬擦りしたのは言うまでもない。
鬼火が私の鼻先をかすめたのも、彼と再会したから気持ちが高ぶってしまっただけだ。
「豆太のおはぎが美味しいのはね、丁寧に小豆を洗ってくれるからなんだよ。それを丹精込めて炊いた小豆のふっくら加減といったら、もうたまらなくてねぇ……! ぬらりひょんがいた頃におはぎがあったかはわからないけど、小豆洗いの小豆は彼も好んで食べていたんだよ」
「本谷さん、詳しいですね」
「ぬらりひょんが居た頃に書かれたであろう日記から抜粋したのさ。大抵のことは読んで覚えているんだよ」
作間くんが淹れてくれた煎茶と、パックから洒落た小皿へ移した豆太くんのおはぎを本谷さんの前に置く。艶々としたおはぎにうっとりと見惚れている。
書店の奥は本谷さんの生活スペースになっている。初めてここに来た時もこの部屋に通されたっけ。
五畳半の和室には簡易台所があり、食器棚には三つの小皿と湯呑が置かれている。作間くん曰く、滅多に人が訪れないため三人分あれば足りるらしい。本谷さんと作間くん、お菊さんの分は小皿に、私の分はパックから貰おう。
おはぎを小皿へ移しながら、気になっていたことを本谷さんに問う。
「そう言えば、今日会った妖怪たちが【しぐれさま】がどうのって言ってたんですけど、誰のことですか?」
「……ああ、それはぬらりひょんの名前だよ。人間に紛れるときに名乗っていたらしくてね。実際どこまで本当かはわからないけど、領地の妖怪たちは皆【しぐれさま】と呼んで慕っていたんだ。ほら、ここの商店街の名前は『しぐれ商店街』だろう?」
……そういえばそうだった。
商店街の入り口にかけられたアーチには、しっかりと「しぐれ」商店街と書かれていたっけ。
苦笑いを浮かべながら小皿におはぎを三人分取り分けて、その一つを本谷さんの前に置くと、彼は手を合わせてから箸で器用におはぎを挟み、一口で頬張った。二、三回ほど噛み締めると、なぜかすぐさま緩んだ頬に手を添えて抑えている。その表情は幸福感で満ち溢れていた。
「んーっ! 相変わらず豆太の小豆は美味しいねぇ。頬っぺたが落ちるとは、まさにこのことさ! あと百個は食べられる自信があるよ!」
「炭水化物の摂り過ぎでドクターストップかかっちゃいますよ?」
「そんな冷たいこと言わないでよー。美味しいものはいくらあっても足りないのさ!」
名言っぽいのが出たのを横目に、私は作間くんとお菊さんの近くにおはぎを置く。
「俺、パックに入ってるの貰うよ?」
「いいの! おはぎを買ってくれたのは作間くんだし、私がパックから貰うよ」
『ねぇ』
ほぼ強引に作間くんに小皿に乗ったおはぎを押し付けていると、お菊さんが肩に乗ったまま私を睨みつけて言う。
『私、後で食べるからそのパックごと残しておいてくれる?』
「え? でも出来立ての方が美味しいって」
『狐の姿で食べるのは大変なのよ。だから貴女はそっちの皿に乗っている方を食べなさい。私の分はそのパックのまま放っておいて。あ、間違っても冷蔵庫に入れちゃ駄目よ!』
拗ねた口ぶりでお菊さんは言うと、作間くんの肩から降りて店の外へ出て行ってしまう。
何か気に障ることをしてしまっただろうかと心当たりを探すけど、どれが原因なのかわからない。するとまた作間くんがクスクスと笑って教えてくれた。
「菊は毛に小豆が付くとなかなか取れないから、いつも人間の姿になって食べるんだよ。きっとまだ久野さんに慣れてないから、恥ずかしくて化けられないんだと思う。気にしなくて大丈夫だよ」
「もうっ! お菊ちゃんは人見知り激しいんだからっ!」
「本谷さん、その喋り方ちょっと気持ち悪い」
関節はどこに行ったと問いたくなるくらいクネクネと動く本谷さんに辛辣な一言が刺さる。体育座りして落ち込む姿を見ても、可哀想と思えないのはなんでだろう。
それを気にすることなく、作間くんは続けた。
「確かに菊は人見知りだけど、あんなに突っかかるのは仲良くなりたいっていうアピールなんだよ。今頃、皿でも買いに行ったんじゃないかな」
「皿……?」
ちゃぶ台の上に置かれた小皿と湯呑に目を向ける。もしかしてパックごと残してって、私が小皿を使わずに食べようとしてたから?
「その小皿も湯呑も、ここにある食器はすべて菊が選んだんだ。良いセンスしてるでしょ?」
淹れたての煎茶を私の前に置いて、小皿に乗ったおはぎと並べる。
蛍光灯の光が当たって、小豆の艶が光るおはぎに、少しざらついた質感とぼんやりした色の味を出した白い小皿、添えられた黒文字。握り拳サイズのおはぎには少し食べ辛そうだが、無駄に協調しない、落ち着いた空間を一皿で醸し出している。
「……妖怪って、不思議ですね」
全く別の生き物やその文化に好奇心を抱いて、何年も前からずっとこの土地で共存している。まだ見た目が人間に近いからといっても、お菊さんみたいに狐の姿だったり、がしゃどくろや鬼のような人間が恐ろしいと思う虚像の姿になる妖怪だっている。
それでも仲良くなりたい、一緒に暮らしたいと思い合える関係が存在していることが、私の目の前で起こっている。。
――それが例え、ぬらりひょんの指示に従っているとしても。
「食べないの?」
本谷さんがお箸をカチカチと音を立てながら私のおはぎに狙いを定めている。私は慌てて小皿を手に取ると、黒文字で一口サイズに切り分けてそのまま口へ運ぶ。
ふっくらとした小豆は丁度良い甘さで、絶妙な柔らかさのもち米との相性が抜群だった。
「……美味しい」
頬っぺたが落ちそうになって思わず手を頬に添えると、二人はどこか嬉しそうに笑った。
妖怪と本谷さん達に出会って一週間が過ぎた頃、出勤前にマネージャーから呼び出された。
普段より一時間早く行くと、店には数名のお客様がいるだけで静かだった。入口から近くの席で人型の黒い靄の塊がどっと構えて座っているのを見つけると、思わず目を疑った。
何度目を擦って見直しても、人型の黒い靄がノートパソコンと叩いているようにしか見えなくて、また鬼がやってきたのかと思って立ち止まる。すると、私に気付いた黒い靄が手招きをして呼んだ。
「ああ、久野さん。こっちこっち!」
声でマネージャーであることがわかると、恐る恐る対面の席へ座った。
「急に呼び出してすみませんね、今日しか日程取れなくてさ」
「え? 来週に予定開けたって聞いたんですけど……」
「その日が行けなくちゃったんだ。本当は要望通り、店長も含めて三人で面談する予定だったんだけど、彼も今日は別の用事があるから、許してね」
――あ、意味のない面談になりそう。
まだ始まってもいないのに、黒い靄が一回り大きくなったのを見て察してしまった。きっと店長の別の用事も嘘なんだろう。
念の為にテーブルの下でスマートフォンを操作し、ボイスレコーダーのアプリを起動させる。
「黒い靄は名簿の力によって妖怪の姿を映している」と、本谷さんは言ってたけど、身体に巻き付いているのはどういう状態なんだろう? 作間くんにでも聞いておけばよかった。
顔が見えないマネージャーは、一度パソコンを閉じて本題に入った。
「今回、店長さんにお話を聞きました。久野さんはなんでも営業中に遊んでいるそうじゃないですか。お客さんへの態度も良くないって聞いてますよ」
「遊んでいるわけではありませんし、接客中に関して、店長との面談時にはご指摘ありませんでした。
それに、お客様も見ずにスタッフと世間話をしている店長に言われても困ります」
「そうなの? 僕はそう聞きましたけど。それと……一番に食品のことを考えてくれるのはいいけど、そんなにきっちりやらないと駄目なものなのかな?」
とぼけたように小首を傾げて聞いてくるマネージャーに、今にも殴りかかりそうになる右手を抑え込んだ。
飲食店、の話だよね?
「飲食店として最低限のことを実践したまでです。それのどこが悪いんですか?」
「だって併設のカフェだよ? 本来はボタン一つで出てくるドリンクバーの機械があればいいくらいのものなんだ。しっかりした料理は提供する必要がない。そんなに厳しくする必要ってどこにあるのかな?」
「……賞味期限の切れたものを提供しても問題はない、そういうことですか」
「それはまぁ、しょうがないんじゃない?」
顔が見えなくてよかったかもしれない。
黒い靄で顔が隠れていても、言葉や息遣いで明らかに鼻で嗤っていることがわかった。
今のメニューやコーヒーを主体とする形で店を立ち上げたのは会社だ。特にコーヒーは某有名ブランドのものを使用していることもあって、堂々と「有名コーヒーロースターの豆を使用しています」といろんなところで公表している。
メニューなんて会社から提案された無茶ぶりを、アルバイトが仕込みしやすいようにレシピを作り直しているのは、前にも話した通りだ。社員が関与することは一切なくて、いつの間にか自己流の作り方をしているときも少なくはない。
同じレシピを全員が作れなければ店の味が統一できず、商品のクオリティが下がる。手間暇かけて淹れたドリップコーヒー四五〇円がその味で提供できるのか、と切り詰めて考えていくのが社員の仕事の一つではないだろうか。
更に働いているスタッフ皆が「この店は飲食店である」という認識で働いているというのに、根本的にマネージャーや社員が店自体を否定するのは、どう考えても間違っている。
「飲食店で期限切れの物を提供して、お客様が食中毒になったらどうするんですか。人を殺しているのも一緒ですよ? 飲食店でしょう?」
「殺す……って言い方は良くないね。会社の認識として、この店は飲食の括りにはしていないんだよ。あくまで併設。今後、提供の仕方も変わってくると思うよ」
マネージャーはそう言って、ケタケタと嗤いながら閉じていたパソコンを開く。今まで私が話した内容をメモしているのだろう。これだけ聞けば会社を脅迫しているようにも見えるだろうな、と苛立ちながらも思った。
本当は「人を殺す」なんて言葉は使いたくはない。
しかし、実際に食中毒になって困るのは会社であり、働いているアルバイトであり、最終的にすべての責任を取らなければいけないのは店長だ。「私が責任を取ります」「休みを惜しんで働きます」だけで済む話じゃない。
たかが食品管理の不手際で?
ちょっとのカビだけで?
過去に死亡例が出ているなんて、この人や店長は何とも思っていないのかもしれない。
一つ間違いが出てしまえば、全員の今後がおじゃんになってしまう可能性だってある。脅迫まがいな言葉遣いになってしまっても、危機感を持ってほしかった。
メモ書きを終えたのか、マネージャーは手を止めて話を戻す。
「そうだ、いわゆる飲食の仕事がしたいなら、別の店への異動を検討するのはどうかな? お給料は少し下がってしまうけど、しっかりとキッチン業務ができる環境だし、久野さんの家の近くにも系列店はあるからさ」
「この店で働いているからこそ意味があります」
「それほどまで、店にこだわる理由はあるの?」
「それは……できることが増えたから、目標もできたところで、中途半端で終わるのは嫌だからです。態度が悪いことが原因なら直します。だから……」
これが本音なのかは未だにわからないが、少なくともプラスに見てもらえるなら。少しでもここに残れるのならと目線を逸らして苦し紛れに答える。
マネージャーは暫く黙って考えると、わかったと口を開いた。
「久野さんが残りたい気持ちはよくわかりました。僕が貴女にできる選択は別の店舗に異動するか、店長に謝って誠意を見せるか。この二択です」
は?
それを聞いて、私は愕然とした。
まさかここで「お前が謝れ」と言われるとは思っていなかった。今まで店長がしてきた食材管理も営業中の様子も、ほとんど店長の作り話だということも、伝えられるものはすべて伝えたつもりだった。
それなのに、何も伝わってない。
「……それは、辞めたくなければ頭を下げろってことですか?」
「そうだね、ちゃんと思いを伝えればわかってくれるんじゃないかなって。
話が通じない人じゃないじゃない? 僕はこの店のことを見てないからわからないけど、僕が見てきた店長はそんな簡単に人を辞めさせるような人じゃない。店舗のスタッフ皆が働きやすいように、仕事をしてくれているんだよ?
久野さんが知らないだけで、あの人はよく頑張ってくれている。
前の店長もそうだよ。僕にはパワハラをするような人には見えなかった。すごく前向きに仕事に取り組んでいたんだ。
貴女は、彼らの一部部分しか見ていないのに、パワハラだと通達するのかい?
……違うよね。それを何も知らない貴女の一方的な理由だけで否定することは宜しくないね。
個人的な理由で嫌うのは勝手だけど、それを仕事に持ち込まないでくれる? 嫌な上司はいるだろうけど、これは仕事なんだから」
私情を持ち込んでいるのはそっちでしょ。
確かに営業中にふざけていた部分はあったかもしれない。アルバイトの立場で口出ししたことも悪かったかもしれない。言い過ぎたことも自分でわかってたけど、今まで何も言われてこなかった。私自身が注意すればよかった部分でもあるけど、社員ましてや店長が指摘すればすぐ解決した話でもある。
それでもありもしない噂をでっち上げる自分勝手な店長と、店のことを放ったらかしにして現状を理解しないマネージャーに頭を下げろ?
それが私にとって必要なことだって、どうしてこの人が決めるの?
そこまでしてここに残る理由ってなに?
こんな人達のために会社に尽くす私の価値ってなに?
「……頭を下げて勤務態度を改めたら、残れますか」
「それはわからないけど、僕から頭を下げてみますよ。最終的には店長の判断がすべてですから」
靄がだんだん濃くなっていく。気持ち悪くなって思わず俯いた。
私はせめて次の店を決める期間として三カ月は残らせてほしい、と伝えたうえで頭を下げる。仕事の開始時間になって席を立った。
その日の仕事っぷりは最悪だった。
オーダーを間違え、コーヒーをこぼし、注文の入ったトーストを焦がす。普段ならしない失敗を繰り返していろんな人に迷惑をかけてしまった。
まだお客様にかけたりするような事態にはならなかったことと、店長がシフトに入っていなかったことは不幸中の幸いだったかもしれない。
マネージャーは私との面談が終わると、お冷用の紙コップにバッグから取り出したペットボトルに入ったメロンソーダを移し、飲みながらパソコンと向き合っていた。小一時間ほど長居して帰っていったが、当然のように紙コップは置かれたままだった。
ちなみにこのカフェのメニューにはメロンソーダはない。
空元気が目に見えてわかったのか、同じシフトに入っていた奥山さんと原田さんにはすぐバレて、閉店後の閉め作業をしながら、マネージャーとの面談の様子を話した。
話し終えた頃には全ての閉め作業が終わっており、原田さんは呆れた顔をしていた。
「頭下げろって……マジで?」
「会社は社員を守るのが当たり前。……アルバイトは切り捨ててなんぼですね……」
掃除したばかりのカウンター席に座って項垂れる。対面のカウンター内には、原田さんが店で提供できる期限の過ぎたオレンジジュースを注いで出してくれた。
あくまで店で決めた期限であるため、ジュースの味は変わらずフレッシュで甘酸っぱい。むしろ提供しても問題はないくらいだ。
……まぁ、その期限を決めたのはもう辞めてしまった社員やアルバイトの先輩たちで、まとめ直したのは私自身なんだけど。
原田さんは一気にオレンジジュースを飲むと、大きな溜息を吐いた。
「今年に入ってすぐ、マネージャーに店長のことを話したんだ。あの時は話聞いてくれてると思ったんだけど……石田さんが毛嫌いする理由がやっとわかったよ」
「私もわかってはいたつもりだったんですけど……まさかこの店を飲食店として見てなかったとは思わなくて」
会社としては充電バッテリー専門店として立ち上げたのだから、商品を押し売りするのは当たり前のことであって、併設のカフェがおまけだといわれても仕方がないとは思う。
しかし、いつの間にかショップの商品だけ売れてしまえばいいと考えが浮き彫りになっている辺り、会社が作ったコンセプトがどんどんとずれている気がした。
最初はどんな理由で併設のカフェを考えたのかはわからないが、もはやコンセプトがどうのこうのといった話では済まないだろう。
「異動すればって提案された店はどこだったの?」
「ここから近い店舗と、今住んでいるところの逆方向に一店舗ですね。電車で二時間かかります」
「近い店舗って……確かそこも社員とアルバイトが対立していたような……。二時間かかる方の交通費は?」
「どう頑張っても会社から支給される金額の上限は越えますし、ただでさえ今も二千円は自腹なので無理です」
それにあの口ぶりだと他の店と交渉する気もないだろう。どのみちお先真っ暗だ。
「……この際、辞めちゃった方がいいかもしれないね」
事務所の奥から日報を書き終えた奥山さんが出てくる。明日の早番へ向けての連絡ノートを取り出しながら続けた。
「久野はまだ若いし、こんなところじゃ勿体無いよ。そりゃあこの状況は店として不味いけど、このタイミングで辞めてしまった方が久野の為になると思う」
「まぁ、俺らもそろそろですもんね」
苦笑いをしながら原田さんと奥山さんは笑う。
思えば二人は店長の言動に根気強く指摘してくれていた。今まで営業が悪化しなかったのも、二人のおかげであるのは間違いない。この二人が言っていることを疑って、信用できない店長の話を信じてしまいそうになる私はとんだ大馬鹿者だ。
きっとこの二人と石田さんが辞めてしまったら、この店は営業できないだろうな。
オレンジジュースを一気に飲んで席から立つと、出入り口が開いたベルが鳴った。看板を店内に淹れたときに鍵を閉め忘れたのだろうか。
誰かが入ってきたようで原田さんが駆け寄っていく。
「大変申し訳ございません、本日は営業終了しておりまして……」
「すみません、久野さんはもう帰られましたか?」
私の名前が呼ばれた気がして出入り口を見ると、原田さんの前には目元のクマがくっきりと残る作間くんと、青のニット帽を被った見知らぬ黒髪の美少女が立っていた。
作間くんは私に気付くと、軽く手を振って笑った。
「え、なんでここに?」
「なんでって、今日は飲みに行く約束でしょ? 忘れてた?」
そんな約束したっけ?
商店街を案内されて山田書店でおはぎを食べて以来会っていなければ、せっかく交換した連絡先は宝の持ち腐れ状態のはずだ。
すると、隣で拗ねた顔をしていた美少女が痺れを切らして温かそうな紺のコートと白いワンピースの裾を翻して私の方へ来ると、軽く胸倉を掴んで小声で言う。
「貴女が心配だからって作間が来てあげたのよ? 少しは察しなさいよ!」
「お……おきぐっ!?」
可愛らしい顔つきながらも毒を吐く口調。どこかで聞いたことのある彼女の声は、妖狐のお菊さんそっくりだ。まさかと思って声を上げると、彼女は顔をしかめて私の額をはじいた。
私、ちゃんとおでこあるよね? 穴とか空いてないよね?
「いったぁ……何もデコピンしなくたって……」
「驚きすぎよ。こんなに近くで叫ばれたら私の鼓膜が破れちゃうじゃない」
「だって……ええ……?」
同じくらいの背丈で睨みつける彼女の目と声でお菊さん本人だと確信する。
そう言えば牡丹くんも未空ちゃんも人間に化けていたのだから、お菊さんも同様だろう。
「えーと……久野の知り合い?」
放置状態の原田さんと奥山さんがきょとんとしている。どう説明しようかと口を開こうとすると、作間くんが代わりに答えてくれた。
「久野さんとは家の近くのお店で知り合ったんです。ここで働いていることも最近知って、一度来てみたかったんですけど、課題に追われて結局この時間になってしまって。元々今日は飲もうって約束してたのでお迎えに来ちゃいました」
唐突にごめんね、と爽やかな笑顔で押し通す彼に、原田さん達は納得せざるを得ない。
……それよりも隣でじっと見てくるお菊さんの目が怖い。
「だったら久野、早く着替えておいでよ。カギ閉めるのは俺らでやっておくからさ」
「あ、はい。ありがとうございます」
「ちんたらしてんじゃないわよ!」
「はい!」
原田さんと奥山さんにお礼を言って事務所へ入る。
作間くんが心配してたってことは、妖怪絡みを気にしてくれていたのかな。帰り支度を整えて事務所から出ると、既に二人と打ち解けている作間くんがいた。
「へぇ、二人とも森丘大学に通っているんだ?」
「そうなんです。まさか久野さんがこんな近くで働いているなんて思ってなくて」
「でも久野って酒飲めなかったよね?」
「いつもノンアルコールを頼んでますよ。そこのバーの店長、レパートリーが多いんです。菊もたまに無茶ぶりするけど、大体注文通りのものが出てくるんですよ」
「そうね、唯一出てこなかったのはきつねうどんくらいかしら」
「うどん……?」
なぜバーでうどんが出てくる? と首を傾げる二人に作間くんが苦笑いを浮かべる。初めて会った時もいなり寿司を強請っていたから、ただ油揚げが食べたいだけなのかもしれない。
後ろからそろっと顔を出すと、お菊さんがすぐ気付いて威嚇するように睨まれた。
「おっそい!」
「ご、ごめんなさい……」
「菊、そんなに怒らないの。それじゃ――」
行こうか、と作間くんが言いかけて止めると、突然店の出入り口を凝視した。急に雰囲気が変わったかと思えば、お菊さんも私を隠すように前に立つ。
「どうしたの?」
「……いや、【良くないもの】はやってくるものなんだなぁって」
なんのこと? ――と問いかけようとすると、出入り口の扉が開かれ、黒い靄がかかった人型のなにかが入ってきた。思わず叫びそうになると、お菊さんが手で口元を覆い、私だけに聞こえるように小声で言う。
「ここを出るまでリュックを抱き締めていて」
「へ……?」
「早く」
聞き直そうとしてもすぐお菊さんは手を外して出入り口に目線を移してしまった。言われた通りに背負っていたリュックを抱き締めるように持つと、黒い靄がゆっくりと消えると同時に店長が現れた。
「お疲れ様です。こんな時間まで残って、閉め作業終わってないの?」
不思議そうな顔をしてカウンターへ近づいてくる店長に、原田さんが一瞬げんなりした顔をしてすぐ営業スマイルに切り替える。
「今終わったんだよ。店長はどうしたの?」
「私用で近くまで来ていてね。あれ、お友達?」
店長はそう言ってお菊さんの方を向いた。二人が何か感じて警戒しているのはわかる。私が見た限りいつも通りの店長だ。変わっていることとすれば、以前身体に巻き付いていた黒い靄が、今はどこにも見当たらないということくらい。
お菊さんはそっぽに顔を背けると、間に作間くんが入って言う。
「閉店後にすみません。僕たち、久野さんの知り合いで」
「ああ、そうなんですね。久野さんがいつもお世話になってます」
いや、店長に言われる筋合いなんだけど。
突っこみそうになるのを堪えながら、私は原田さんと奥山さんにアイコンタクトで帰り支度を促すと、二人は事務所へ入っていった。
それを気にすることなく、作間くんと店長の会話が淡々と進められていった。
「二人とも久野さんと同い年?」
「いえ、僕らの方が下です」
「そっか。もしかしてもう一つのバイト先の人? 久野さん、これからそっちでしっかり働いてくれると思うから宜しくね」
「え? 久野さん、このお店辞めるんですか?」
予想外のことに驚いた作間くんは私の方を見る。
「久野さんはね、今月末で退職が決まったんだよ。俺は止めたんだけどね、会社が彼女の業務態度に不信感を覚えたらしくてね、店に悪影響を及ぼすのは良くないってことで、店長とマネージャー、そして本人の合意の上で今日の朝、決定したんだよ」
「は……?」
ちょっと待って、話が進みすぎている。
数時間前にマネージャーに頭を下げた時には何も言われていない。店長は止めるどころか、勝手に話をでっち上げて進めてる側だ。
何も納得してないのに本人の合意を得た?――ふざけるにもほどがある。
マネージャーと話す前から会社で決定していたのなら、あの苦痛の時間は何だったの?
――いや、それよりもなんで部外者にその話をするの?
頭の中でぐるぐると疑問が飛び交う中、店長が更に話を続けた。
「彼女はね、営業中のおしゃべりや仕事以外のことをしているのはもちろん、食材を勝手に持ち出したりスタッフにセクハラしたり、社会人として在り得ないことをしてるんだよ」
「ちょ、ちょっと待ってください! 私そんなことしてません!」
おしゃべりはともかく、食材を盗んだり、セクハラしたなどとふざけた行為は全く持って心当たりがない。作り話にも程がある。
しかも話している相手は、店に関係のない作間くんとお菊さんだ。彼らに話す理由は一つもない。
撤回しようと口を開くと、店長の頬や首筋辺りに複数の黒い線が弧を描いたように浮き彫りになった。ピクピクと動くその中の一つがパッと開かれたと思えば、真っ赤な目がジロジロと動き出す。
気味が悪くて開きかけた口で留まると、自分の体が異常を起こしていることに気付かない店長は、呆れたように私を見下して続けた。
「やってるでしょ。いっつも悪口ばかりで、自分の思い通りにならないとすぐ周りに当たってるじゃん」
店長が口を開くたびに頬や首筋、手の甲に赤い目が開いていく。本人は自分の体の異変に気付いていないようだった。赤い目はどんどん開かれてジロジロと見渡す。
……これ、かなりヤバいんじゃない?
そっとお菊さんを見ると、眉間にしわを寄せて今にも鬼火を出しそうな雰囲気だった。
「新人が入ってきて指導する人間がこんな態度じゃ示しがつかない。それにいつも愚痴ばっかり言うよね。久野さんには負のオーラが漂ってるし、職場の環境を守るためには必要なことなんだよ。もうデザートも作ること無くなるし、調理をしっかりやりたい人にはここは勿体ないよ」
次々に話が進むにつれ、ほぼ店長の全身に赤い目がこちらを向いて睨んでいた。自然とリュックを抱き締める力が強くなる。
「あれ、何か間違っていること言ったかな? 会社の決定事項なんだから納得してくれないと困るんですよ。辞めるって自分で言ったんだから責任を持たないと」
言ってねぇよ。
突然現れた無数の赤い目に恐怖を感じるも、それを凌駕して怒りがこみあげてくる。ああ、今すぐこの人を殴ってしまいたい。
「あのー……僕ら部外者ですけど、簡単にそんな話しちゃって大丈夫ですか?」
作間くんが恐る恐る問うと、店長は更にニッコリと笑って私に向かって言う。
「知っておいた方がいいと思ってね。友達だと苦労するでしょ? 嘘ばかりつく自分勝手な人っているだけで大変だと思うんだよね。でも仕事に関しては気持ち悪いくらい真面目だから大丈夫だよ。ただプライベートの付き合いは考えた方がいいかも」
「久野さんとの付き合い方について、貴方がそこまで言う権利ありますか?」
「だって事実は伝えた方が久野さんの為でしょ」
――私の為?
アルバイトの話よりも、実権を握っている店長の話が全て正しいと主張することも、
店舗のことを丸投げして状況を確認しないマネージャーも、
否定どころか弁解も聞き入れてもらえない会社の対応も、全て私の為だというのだろうか。
自主退職という設定がすでに社内で決まっていたのも全て私の為だと、納得せざる得ないのか。
――これを、私は許してしまうのか。
「……間違ってますか」
「ん?」
「アルバイトが社員以上に店のことを考えて、真面目に働くことの何が悪いんですか?」
もう無理。
せめて手が出ないようにリュックを強く抱き締めながらも、今まで言いたかったことが喉まで押し上げて、口が勝手に喋り出す。
「お客様もスタッフも店内の様子すら何も考えないでオーダーを流したうえ、間違っていたことに非を認めず、アルバイトがそれをフォローするのが当たり前だと振る舞うのは、社員としてどうなんですか?
新人の教育だって、基本的に社員の仕事じゃないんですか?
賞味期限や食材の管理だって中途半端で、掃除も雑に終わらせてやったつもり。
……他人の口に入るのが前提にある仕事なのに、どうしてそこまで軽んじて仕事できるのか。
お金を頂戴しているにも関わらず、カビの生えたもの提供するのに抵抗はないのか。
衛生責任者として、飲食店の店長としての自覚が圧倒的に欠けていると思います。
管理の問題は自分の話じゃない? 何とぼけたこと言ってるんですか?
たかが食材の保存一つで問題が起こらないとでも思っているのなら大間違いです。
管理をしているのは店長である貴方でしょう?
どう考えても、これは貴方の勤務態度の話です。随分おめでたい頭で幸せですね」
店長が口を挟む隙を与える間もなく、遮るように暴言を吐く。これが会社に訴えられても味方がいないのは明白だから、怖いものなんてない。
「マネージャーはこの店を『飲食店として扱っていない』と言っていました。たとえメニューがこれまでと大きく変わろうとも、お客様への対応は今までと変わることはないでしょう。お客様を放って、自分を可哀想だと言ってくれる味方だけに媚びを売って、自分の保身のことしか考えない。これは店として良いことでしょうか」
違う。そんな他人のどうでもいいことを言いたいんじゃない。
「どうして……」
声が震える。でも言いたくて言いたくて言いたくて仕方がなかった。
「どうして、真面目に働いた私がなんで、店長とマネージャーの私情だけで、『自主退職』の名目でクビにされなくちゃいけないんですか……っ!」
ああ、プライバシーもデリカシーもクソもない。
受けた屈辱を他人が知ることは絶対にないことも、店長に言ったところで何も変わらないのはわかってる。
わかってるけど、どうして直接言葉にしても気付かない? どうして伝わらない?
この怒りでさえも嘘に見えるのなら、本当に私が法螺吹きみたいじゃないか!
「……私、飲食店で働く人間として間違ってましたか?」
殴りたい衝動を押さえつけて、絞り出して問いかけた声は震えていた。
これ以上言いたくない。黙りたい。ここから立ち去りたい。そう思いながらも、怒りに任せて口は勝手に言葉を紡ぐ。
お客様が誰もいないとはいえ声を荒げる私に、店長は変わることなくただただ嘲笑っている。先程まで辺りを見回していた無数の赤い目はすべて私に向かっていた。馬鹿にするような見下す目に、本当に自分が惨めに思えてきた。
「それは俺にはわからないよ。仕事に関しては無関心でやってるからね」
無関心で接客されてたまるものか。
「……そうですか、無関心だから、間違ってる知識をペラペラ喋っていても、恥ずかしいと思わないんですね。お客様を侮辱していることに気付かないんですか」
「またそういうこと言うの? 文句ばかり言うならシフト減らすよ?」
笑いながらも脅迫してくる。充分なパワハラじゃないか。
「すみません。その話、二回目なんですよ。……もう結構です」
気が付けば私は作間くんとお菊さんを置いて店から飛び出した。
春先ながらも頬を切る風は冷たくて、苛立つ思考をどうにか抑えながら地下鉄の駅のホームへ向かう。
点字ブロック前まで行くと、荒い息を整えるために何度か深呼吸をした。肺に入ってくる空気は埃っぽくて、気持ち悪いほど生ぬるかった。
黄色の線を越えた先には線路があって、これから入ってくる電車のライトが遠くから照らし始めていた。
ふと、ここで死んでしまえば全部無かったことになるのでは、なんてふざけた考えが頭をよぎる。横目でライトの先を見ると、あと少しで目の前を通る位置まで入ってきていた。すると、手の力が抜けたのか、抱しめるように持っていたリュックをその場に落とした。足は既に、線路に向かっていた。
――考えるの、もう疲れたなぁ。
人はこんな簡単に命を投げ出せるのか。
呑気に思いながら目を閉じて、ホームに入ってくる電車に合わせて点字ブロックを越えた。
『回送電車が通過致します。ホームの黄色い線から下がってください。――』
地下鉄のホームにアナウンスが流れてくるのが聞こえる。
横から突っこんでくる衝撃にそのまま倒れ、ガタンガタンと電車が走る音がどんどん近づいてきて、耳元で車輪が線路の上を通過したと共に生ぬるい突風に煽られた。
しかし、電車に衝突した割には真横に倒れ、頬に冷たいコンクリートが当たる感覚と脇腹に重みがのしかかるだけで、ほとんど痛みを感じない。
不思議に思ってそっと目を開いてみると、越えたと思っていた黄色の点字ブロックは視界の隅にあって、目の前には衝突するはずの回送電車が通過していた。
腹部に感じる重みに目を向けると、見慣れた二人――作間くんとお菊さんが重なるようにして私に抱き着いていた。どかそうと体を動かすと、一番密着している作間くんが腹部に回している腕の力を強めた。
「通過するまで動かないで。危ないから」
苛立ちがこもった低い声に、思わず抜け出そうとする腕を止めた。普段キレない人が怒るのは、鬼よりも怖い。
視界だけで確認する限り、黄色の点字ブロックを片足が越えたところで横から走ってきた作間くんとお菊さんに抱き突かれてその場に倒れ込んだようだった。
回送電車だった為にこの駅のホームに停車することはなかったが、汽笛の音が聞こえなくなるまで二人は私にしがみついたままでいた。
電車が通過して音が遠くなると、二人は顔を上げた。
「……ったく、作間になんてことしてくれてんの!? 手間かけさせるんじゃないわよ!」
「菊、今そんなことどうでもいいから」
「どうでもよくないわ! 私にとって作間が助けたい人間を守るのは当たり前なの。例え死にたがりでも守れるものは守るわよ」
「わかったから。その話は後で聞く。そんな怒鳴り方をしたら久野さんが困るでしょ。……久野さん、大丈夫?」
「…………なんで」
なんで止めたの?
目の前で痴話喧嘩を始めた二人に呆気をとられながらも問う。
考えることに疲れた。自分を否定される声を聞きたくなかった。あわよくばここで自分がいなくなれば、無かったことになるんじゃないかと、都合のいいことが頭をよぎった。
自分勝手に飛び込んだにも拘わらず、私は死ぬことも電車に轢かれることもできなかった。
まだ知り合って数日しか経っていない他人同然の彼らは、どうして私なんかを助けた?
すると作間くんは私を見て小さく息をつく。
「正直、止めなくてもよかったかもね」
「じゃあなんで……っ」
「前もそうだった。ここのホームに入ってくる電車の前に飛び出そうとして、久野さんは点字ブロックを越えた。……いや、片足だけ越えたけど踏み止まった。俺達が間に合わなかったとしても、久野さんは今回も踏み留まったと思うよ」
作間くんは立ち上がって軽く膝や手を払うと、少し屈んで私の目を見て見透かしたように言う。
彼はどうして私が前にもホームに飛び込もうとしたのを知っているんだろう。また読んだとでも言うの?
「読んでないよ。そもそも、俺は人の考えていることを察しやすいだけであって、読み取ることなんてできない」
「は……なにそれ、鎌かけたの? そうやって楽しんでたの?」
「でも同じ状況だったことは知ってたよ。このホームで、入ってきた電車の前に飛び込もうとしたのを、実際に目の前で見た」
作間くんは視線を逸らして言った。
「俺、去年のこの時期に反対側のホームで久野さんを見てたんだよ」