本谷さんと妖怪に出会った翌日から、アルバイトの日以外は家から一歩も出ようとしなかった。
がしゃどくろに掴まれた左の足首の痣は、次第に薄れて見えなくなったものの、得体のしれないものに襲われた恐怖は未だに残っている。
しばらくは商店街を避けて駅に行ったり、どんなに夜遅くなっても遠回りをして帰宅する日々が続いた。
本谷さんの話を真に受けているわけではないが、ぬらりひょんの名簿はリュックの中に入れっぱなしにしている。
そんな日々が続いたある日、夕方に仕事を終えて最寄の駅の改札から出ると、後ろから作間くんに声をかけられた。
相変わらず目元の隈はくっきり残っているものの、爽やかな笑顔を振り撒いている。思っていたより早い再会だった。
「……そうだよね。商店街の方に家があるなら、どこかで会うはずだよね」
「今更? 時間帯が違うから今まで会わなかったんだろうね。俺は大学やバイトがあっても夕方にはここら辺にいるし、久野さんは朝早く出ても夜遅いでしょ?」
「そう……だね。作間くん、学校帰り?」
「そうだよ。久野さんはカフェのバイト?」
「カフェじゃないよ。今日は掛け持ちしている別のバイト帰り」
工場のレーン作業で、ダイレクトメールの中身を詰めて封を閉じるだけの簡単な仕事だ。
カフェで前の店長から「社会保険を抜けろ」と脅されたことがあってから、掛け持ちでできる仕事をさがしていたところ、飲食とは別の仕事で高時給だったため、週三日を目安に入れている。
「なんか意外。カフェにしなかったのはなんで?」
「店舗が違うと、レシピが混ざってわからなくなるから。それにどうせなら別のこともやってみようと思って」
例えあの店をクビになっても、飲食の仕事は続けたい。いつか戻れるように、求人サイトも見ないといけないなぁと一人で思い更けていると、隣で作間くんがどこか満足そうに微笑んだ。
「なに?」
「ううん。なんでも」
「そういえば、お菊さんは?」
初めて会った時もお菊さんは作間くんの肩に乗っていた。彼が私に手を貸してくれたとき、『私の特等席を人間に使わせるの?』と拗ねるほどくっついていたのに、今日はどこにも見当たらなければ、黒い靄も見えない。
「菊なら本谷さんのところだよ。そうだ、久野さんって帰るとき商店街を通るよね? せっかくだし、皆に会いに行こうよ」
「皆?」
「商店街で暮らす妖怪たちだよ。よし、善は急げだ!」
作間くんは楽しそうに言って私の腕を掴むと、商店街の方へ引っ張るようにして歩いていく。
「大丈夫だって。本谷さんも妖怪たちは友好的だって言ってたでしょ? もしかしたら久野さんと既に会ってるかもしれないじゃん? 人間と生活リズムを合わせるために、日中でも動いている妖怪が多いんだよ。勿論、個人差はあるだろうけどね」
ちなみに菊は夜型だからあまり出歩かないよ、と足を止めることなくされるがまま商店街へ向かう作間くん。
何度も言ってるけど、私はまだ何も言ってないんだって。
そもそも全ての妖怪が誰にでも友好的だったら、名簿を用意する必要だってなかったじゃん。
……考えてみればおかしな話だ。
妖怪を惹きつけ、妖怪から守る名簿。――ぬらりひょんが何の為に作ったのかわからないけど、名簿が無ければ妖怪が襲ってくることも、人間が関わることもなかったのだろうか。
「……それ、皆の前で言っちゃ駄目だよ」
腕を掴む手を緩めて私の横に並ぶと、寂しそうな顔をして言う。真っ直ぐ見つめられる瞳をなぜか逸らすことができない。
「名簿は妖力が込められているって言っただろ? 妖力があるってことは、ぬらりひょんが生きている証拠なんだよ。目の前から消えても人間を連れて名簿は戻ってきたし、火事に巻き込まれて煤だらけになっても、名簿だけは形が残ってたことだって今まで何度もあったんだ。……そんな奇跡を見た彼らは、『ぬらりひょんがどこかで生きてる』ことを信じてあの場所を守っているんだよ」
「……ぬらりひょんって、そんなに信頼されてるの?」
「俺は会ったことないけど、皆優しくて変わったお方だって聞いたよ」
いつか会ってみたいね、と笑って作間くんはまた歩き出す。
彼の前で考えるのはできる限りやめよう。警戒しながら彼の後を追った。
「しぐれ商店街」と書かれたアーチをくぐってすぐに、比較的新しいチェーン店のカフェや賃貸物件屋、百円ショップなどが並んでいる。その中にも通路ギリギリまで革靴が並んだ靴屋や古着屋も負けじと並んでおり、どこか昔の雰囲気を残していた。
駅が近いこともあってか、仕事帰りのサラリーマンや食材を詰め込んだエコバックを持って子供の手を引いて歩くお母さん、カフェの窓際の席で懸命に勉強している学生の姿も見受けられる。
私はこの近くに住み始めてまだ数年しか経っていないけど、それこそ立ち飲みバー「鈴々」のヒロさんくらいとしか交流はない。
というのも、私の仕事と通勤時間からして夜遅くに帰ってくることの方が多く、夜の八時を越えて営業しているのは居酒屋くらいだからだ。
がしゃどくろに掴まれた左の足首の痣は、次第に薄れて見えなくなったものの、得体のしれないものに襲われた恐怖は未だに残っている。
しばらくは商店街を避けて駅に行ったり、どんなに夜遅くなっても遠回りをして帰宅する日々が続いた。
本谷さんの話を真に受けているわけではないが、ぬらりひょんの名簿はリュックの中に入れっぱなしにしている。
そんな日々が続いたある日、夕方に仕事を終えて最寄の駅の改札から出ると、後ろから作間くんに声をかけられた。
相変わらず目元の隈はくっきり残っているものの、爽やかな笑顔を振り撒いている。思っていたより早い再会だった。
「……そうだよね。商店街の方に家があるなら、どこかで会うはずだよね」
「今更? 時間帯が違うから今まで会わなかったんだろうね。俺は大学やバイトがあっても夕方にはここら辺にいるし、久野さんは朝早く出ても夜遅いでしょ?」
「そう……だね。作間くん、学校帰り?」
「そうだよ。久野さんはカフェのバイト?」
「カフェじゃないよ。今日は掛け持ちしている別のバイト帰り」
工場のレーン作業で、ダイレクトメールの中身を詰めて封を閉じるだけの簡単な仕事だ。
カフェで前の店長から「社会保険を抜けろ」と脅されたことがあってから、掛け持ちでできる仕事をさがしていたところ、飲食とは別の仕事で高時給だったため、週三日を目安に入れている。
「なんか意外。カフェにしなかったのはなんで?」
「店舗が違うと、レシピが混ざってわからなくなるから。それにどうせなら別のこともやってみようと思って」
例えあの店をクビになっても、飲食の仕事は続けたい。いつか戻れるように、求人サイトも見ないといけないなぁと一人で思い更けていると、隣で作間くんがどこか満足そうに微笑んだ。
「なに?」
「ううん。なんでも」
「そういえば、お菊さんは?」
初めて会った時もお菊さんは作間くんの肩に乗っていた。彼が私に手を貸してくれたとき、『私の特等席を人間に使わせるの?』と拗ねるほどくっついていたのに、今日はどこにも見当たらなければ、黒い靄も見えない。
「菊なら本谷さんのところだよ。そうだ、久野さんって帰るとき商店街を通るよね? せっかくだし、皆に会いに行こうよ」
「皆?」
「商店街で暮らす妖怪たちだよ。よし、善は急げだ!」
作間くんは楽しそうに言って私の腕を掴むと、商店街の方へ引っ張るようにして歩いていく。
「大丈夫だって。本谷さんも妖怪たちは友好的だって言ってたでしょ? もしかしたら久野さんと既に会ってるかもしれないじゃん? 人間と生活リズムを合わせるために、日中でも動いている妖怪が多いんだよ。勿論、個人差はあるだろうけどね」
ちなみに菊は夜型だからあまり出歩かないよ、と足を止めることなくされるがまま商店街へ向かう作間くん。
何度も言ってるけど、私はまだ何も言ってないんだって。
そもそも全ての妖怪が誰にでも友好的だったら、名簿を用意する必要だってなかったじゃん。
……考えてみればおかしな話だ。
妖怪を惹きつけ、妖怪から守る名簿。――ぬらりひょんが何の為に作ったのかわからないけど、名簿が無ければ妖怪が襲ってくることも、人間が関わることもなかったのだろうか。
「……それ、皆の前で言っちゃ駄目だよ」
腕を掴む手を緩めて私の横に並ぶと、寂しそうな顔をして言う。真っ直ぐ見つめられる瞳をなぜか逸らすことができない。
「名簿は妖力が込められているって言っただろ? 妖力があるってことは、ぬらりひょんが生きている証拠なんだよ。目の前から消えても人間を連れて名簿は戻ってきたし、火事に巻き込まれて煤だらけになっても、名簿だけは形が残ってたことだって今まで何度もあったんだ。……そんな奇跡を見た彼らは、『ぬらりひょんがどこかで生きてる』ことを信じてあの場所を守っているんだよ」
「……ぬらりひょんって、そんなに信頼されてるの?」
「俺は会ったことないけど、皆優しくて変わったお方だって聞いたよ」
いつか会ってみたいね、と笑って作間くんはまた歩き出す。
彼の前で考えるのはできる限りやめよう。警戒しながら彼の後を追った。
「しぐれ商店街」と書かれたアーチをくぐってすぐに、比較的新しいチェーン店のカフェや賃貸物件屋、百円ショップなどが並んでいる。その中にも通路ギリギリまで革靴が並んだ靴屋や古着屋も負けじと並んでおり、どこか昔の雰囲気を残していた。
駅が近いこともあってか、仕事帰りのサラリーマンや食材を詰め込んだエコバックを持って子供の手を引いて歩くお母さん、カフェの窓際の席で懸命に勉強している学生の姿も見受けられる。
私はこの近くに住み始めてまだ数年しか経っていないけど、それこそ立ち飲みバー「鈴々」のヒロさんくらいとしか交流はない。
というのも、私の仕事と通勤時間からして夜遅くに帰ってくることの方が多く、夜の八時を越えて営業しているのは居酒屋くらいだからだ。