久野さんとぬらりひょんの名簿

  *

「さっきも少し話したけど、その和装本は遥か昔、【妖怪の総大将】と謳われたぬらりひょんが自分の配下にいる妖怪の名前を書き残した名簿なのさ。
 ここ近辺の地域はそのぬらりひょんの領地でね、名簿に名前を書いて配下に置くことを交換条件として、妖怪がこの地で生活することを許可した。
 勿論、よくテレビや漫画で見かける忠誠を誓う盃も交わしているよ。
 名簿を作った理由はわかっていない。ただぬらりひょん自身が几帳面の変わり者で、身寄りのない妖怪を自分の領地に住まわせ、危機が迫った時にはすぐ駆け付けるほど、優しく慕われる存在だったと、彼らは皆、口をそろえて言っている。
 そんなぬらりひょんがある日、忽然と姿を消した。
 居なくなったかと思えば、すぐ戻ってくる彼の行動を知っている多くの妖怪たちは、いつものことだと思って誰も探すことをしなかった。短くて数時間後、長くて三日。遠い地域の領主に会いに行って一ヵ月戻ってこなかったこともあった。
 それでも彼は必ず戻ってきた。だからこの日も誰も気に留めなかったんだ。
 しかし、三か月が経っても帰ってこないことに嫌な予感がした妖怪たちは、ようやく近辺を探し始めた。
 ぬらりひょんが帰ってくる気配は一向になかった。
 するとそこに、一人の人間が彼らの前に現れて『渡してくれと頼まれた』と、名簿と共に手紙を差し出したんだ。
 手紙にはぬらりひょんの字で、野暮用で領地を無期限で不在にすること、戻ってくるまで人間と共存することを命じると書かれていた。
 更に名簿にかけられた妖術によって、一部の領地がぬらりひょんの力によって余所者の妖怪から守られていることがわかると、多くの妖怪が集まって生活するようになった。
 ――その領地がこの商店街周辺なのさ。
 昼間の商店街でも妖怪が混ざっていたりするから、もしかしたらお嬢さんもどこかで会っているかもね。
 しかし、名簿があるからといって領地が守られているとは限らない。
 妖力は有限だ。妖怪が消えれば名簿の妖術は無効になる。近頃はどうやら結界が弱まっているようでね、余所者が入ってきてはぬらりひょんの名簿を寄越せと怒鳴り散らしている。実力行使の名残が残っている妖怪は、奪えば勝ちとでも思っているんだろうね。
 実際に名簿にはかなりの妖力が込められている。しかも妖怪の総大将の妖力だ。欲しがらないわけがない。
 いつしか『ぬらりひょんの名簿を手にすれば領地を統べる力を得る』と噂されるようになった。
 最近、頻繁に鬼が商店街に現れているって言っただろう?
 彼らは名簿の噂を聞きつけてやってきたんだ。彼らを見つけるたびに、商店街の妖怪が見回って追い出す日々が続いている。
 困ったモンだよ。触れられないまじないが掛かっている名簿を、どうやって彼らに差し出せば良いんだろうね」

  *
「触れられない? 私、普通に持てますけど……」

 ポストに入っていた和装本――ぬらりひょんが書いたとされる妖怪の名簿は、込められた妖力のおかげで今の商店街ある地域一帯が守られていた、というところまでは固い頭に強引に押し込んで理解できた。

 しかし妖力が強いのであれば触れるどころか、見つけられるのではないだろうか?
 金棒を叩きつけて地割れを起こす怪力や、鬼火を出す術を持ち合わせていないごく普通の一般人にはわからないけど。
 本谷さんはちゃぶ台の上に置かれた名簿を見つめた。

「妖怪たちから聞いた話だと、ぬらりひょんが名簿を書き込んでいるところは見かけたものの、机の上に置いた途端スッと消えてしまったらしい。でもぬらりひょんが触れると何事もなく名簿がそこに置かれていた。……つまり?」
「つまり……?」
「つまり、名簿には所有者以外が触れられないように、妖術がかけられていたんだ。……いや、この場合、『まじない』といった方がいいかもしれない。災いを取り除くためのものだからね。ぬらりひょんは妖怪とはいえ、個人情報を集めていたのだから、漏洩しない対策だったんだろう」

 そういって本谷さんは表紙をそっと撫でると、丁寧な手つきで開いた。相変わらず煤で汚れて読めないが、懐かしむようにゆっくりとページを捲っていく。

「お嬢さんは小学生の頃、プロフィール帳を友人に渡して集めたことはあるかい? ぬらりひょんがやってることはそれと同じなのさ。ただ、防犯対策として暗証番号をつけるのではなく、触れられる者を限定させ、中身を所有者しか読めないようにした。だから他の妖怪には見えないし、置かれた場所を見ても触れることができない仕組みになっている。几帳面な変わり者だね」
「そこまで徹底していたのに、どうして今は触れられるんでしょうか」

 所有者しか触れられない名簿――これが本当であれば、私が郵便受けから取り出すことも、本谷さんがページを捲ることも不可能のはずだ。

「んー……ここからはボクの推測なんだけど、条件を変えたんじゃないかな」
「条件?」
「そう。ぬらりひょんは何らかの理由で、急遽領地を離れることになってしまった。数日で戻る予定が無期限で不在になる。――ということは、ぬらりひょんは領地に残した妖怪たちを守ることができない。そこで苦肉の策として、妖力を込めた名簿を何らかの方法で領地へ戻し、結界の役割を担ってもらおうと考えた」
「何らかの方法? 瞬間移動とか、空を飛ぶとか?」
「そんな便利なものがあったら彼自身がすぐ戻ってるさ! それよりももっと地道で、世渡り上手な妖怪ができる方法――なんだと思う?」

 ――と言われましても。
 しかめっ面で考えても、状況を飲み込むだけで精一杯の私の頭はすでにキャパオーバーだ。全く思いつかない。
 そろそろパンクして煙が出てくるのが見えたのか、本谷さんは話を続けた。

「彼は人間の中に混ざっていても、自然と溶け込んでお茶をご馳走されているんだよ? そんな彼が人間と仲良くしないわけがない」
「……もしかして、名簿を人間に渡した?」
「その通り! 彼は仲良くなった人間に名簿を託して、名簿だけを領地に残った妖怪たちへ戻す手段を考えた。人間に託す際、名簿に触れられる条件を書き換えた可能性があるとしたら?」

 そこまで言われてようやく理解した。
 妖怪にとって身近な存在で、その中でもぬらりひょんが名簿を託せるほど信頼している人間であれば、名簿だけは領地へ戻ってくることが可能だろう。
 しかし、今日みたいに人間が持っているところを狙う妖怪だっていれば、人間自体が裏切る可能性も考えると、少々リスクが高いような気がする。

「多少の危険に関しては想定内だっただろうね。でも実際に、名簿を託された人間は、何事もなく領地に辿り着いた。恐らくその時も、まじないがかかっていたのだろう。触れられる条件に【人間】を加え、道中に見つからないように仕組んだ」

 まぁ、本当のところはわからないんだけどねぇ、と。

 本谷さんの話し方は説明、というより昔話を懐かしんでいるようで、ページを捲りながらも時々うっとりした表情を浮かべていた。

「ちなみに、名簿がその後どこに保管されていたかは知らないよ。一説として、名簿を持ってきた人間が、領地を気に入って一緒に暮らし始めたという話があるから、その彼が管理していたんじゃないかな。名簿の有無を確認できる者が限られているのなら、妖怪たちは人間を近くに置いておきたかっただろう。そこで一緒に暮らすよう提案し、商店街を作って領地を盛り上げたんだ。……いつか帰ってくる領主を、彼らは今でも信じている」
「でも今になっても帰ってこないって――」

 最後まで言い切る前に、本谷さんは首を静かに横に振った。
 多くの妖怪が、信頼するぬらりひょんを待つために人間と暮らすことを選んだとして、何年、何十年――下手したら何百年以上も前から、彼の指示に従って、人間と共にあの商店街に住んでいる。
 遠い昔に交わした忠誠なんて、ぬらりひょんが忘れているかもしれないのに、それでも彼らは今でも信じている。

「……彼を待ち続ける理由は、名簿があるからといっても過言ではないだろう。なんせ、名簿自身もぬらりひょんだからね」
「へ……?」

 ページを捲る手を止めて、呆れたように笑う。

「この名簿はね、不思議なことに人間が目を少し離すといつの間にか消えて、新しい人間を領地へ連れてくるんだよ。最初は驚いて大騒ぎしていたが、名簿が連れてきた人間は皆、妖怪との生活を楽しいと喜び、次第に移り住みたいと交渉してくる人間が増えた。その積み重ねでできたのが、商店街なのさ。ぬらりひょんを知る妖怪たちは『連れてくる人間を選ぶ目は、領主と変わらない』と笑ったそうだよ」

 あ、でも名簿に目はないか! と茶目っ気全開で言う本谷さん。
 仕事帰りに寄るヒロさんのバーにも妖怪が居て、人間と一緒に呑んでいるのかもしれないと思うと、上手く紛れるものなんだなぁと感心する。

「本谷さんも名簿に連れてこられたんですか?」
「まあねー。ああ、作間くんとお菊はちょっと変わっているかも」
「お菊って……喋る狐の?」
「そう、あの子は【妖狐】なんだ。普段はもふもふの姿で可愛らしい見た目だけど、本来の姿もなかなか別嬪さんで――」
『褒められるのは嫌いじゃないけど、遺言はそれでいいの? 灰になる準備はできたと受け取るわよ』

 後ろから聞こえたと同時に、私の周りに先程の青白い鬼火が現れたかと思えば、青年の肩の上で可愛らしい白い狐の姿で在りながら、九つの尻尾を揺らす彼女が本谷さんを睨みつけていた。

「あらー……思っていた以上に早かったね」
『早いに決まってるわよ。今のは私と作間への侮辱と捉えていいのかしら?』
「ちょっ、ちょっと待っておくれよ! いくら何でも横暴じゃないかい!?」

 焦る本谷さんを横目に満足そうに鼻を鳴らすと、狐は飛び降りて私の足元をじっと見つめた。がしゃどくろに掴まれた足を見て、大きく溜息を吐く。

『最悪……全く手当してないじゃない。作間の手を煩わせるようなことしないでよね!』
「うわっ! 忘れてた……美味しくお茶を淹れることだけに全集中を注いでいたからねぇ……」
『お茶の中にトカゲの尻尾の破片を入れておいてよく言えるわね? 本当にどうしようもない奴!』
「菊、想定内だから大丈夫だよ。おねーさん、手当するから足出して」
 呆れた声と共に青年がいつの間にか隣に座って使い込まれた救急箱を開く。
「じ、自分でやりますから!」
「いいから、怪我人はじっとしてて。別に足をちょん切ってやろうとか思ってないから安心して」

 と、言葉とは相反するようにふんわりと微笑む。これは大人しく従った方がよさそうだ。

「それじゃあ、お願いします。えっと……」
「俺は作間(さくま)(たくみ)。作間でいいよ。できればタメ口で話してほしいな。さっきから喋ってる狐の子は菊姫。皆からお菊って呼ばれてて……」
『ちょっと! なんで私も紹介するのよ!』
「俺としては二人が仲良くなってくれたら嬉しいんだけど、駄目なの?」
『……しょうがないわね! 特別に呼ばせてあげてもいいわ!』

 頬を赤らめながらも拗ねる狐――改め、お菊さん。いや、ちゃん?

「どっちでもいいよ。呼ばれるの嬉しいみたいだからさ」
「……私、何も言ってないんですけど、なんでわかったんですか」
「さぁ、どうしてでしょう。はい、終わったよ」

 彼はとぼけながら、足首に包帯を巻き終えてテープで固定してくれた。少しだけ救急箱の中身が見えたけど、訳の分からない薬草が数種類とトカゲの干物、何やらうにょうにょと動く何かが見えた気がして、思わず顔をしかめた。

「ね? 俺が手当した方がよかったでしょ?」
「……そうですね」

 彼は読心術でも使えるのか。それとも実は彼も妖怪で、考えていることを見抜ける力があったりするのだろうか。
 ああ、今日だけで頭が破裂しすぎだよ!

「お嬢さんは考えすぎて隙ができちゃったんだねぇ。お気の毒に」

 先程まで黙っていた本谷さんが窓の外を見ながら言った。何の話だろうと首を傾げると、見透かしたように「襲われた原因だよ」と続ける。

「名簿を奪う目的の他に考えられるのが、人間の心の隙間だよ。確か昨日、働いている店からクビ宣言をされたと言っていたね。店長から何を吹き込まれたのかは知らないけど、考える時間の中でキミは苛立ちと後悔で何もかも放棄したくなったはずだ。妖怪はそういった人間の元へ行きたがる習性があるからねぇ。……そうだ、がしゃどくろの手や鬼の姿が見える前、黒い靄が見えなかったかい?」
「あ……」

 本谷さんに言われて頭に浮かんだのは、仕事に行く前の電車で見かけたサラリーマンと、事務所から出てきた店長の姿だった。サラリーマンの時は何度か瞬きしている間に消えてしまったけど、店長に巻き付いていた黒い靄は喋る度に身体に巻き付いていった。
 血の気が一気に引くのを感じると、本谷さんが見たんだね、と続けた。

「名簿は妖怪の気配を察すると、その姿を黒い靄で表す。お嬢さんの目には、あの鬼が金属バットを持つ黒い靄で全身を覆われた大男に見えただろう? 導かれた者は皆、同じように見えるのさ」

 本谷さんは一度もこちらを見ることなく、淡々と仮説を述べる。それが正しいのかはわからないけど、少なくとも今日だけで目の前で起こった出来事から考えたら、ほとんど当たっているかもしれない。
 難しい顔をしていたのが分かったのか、本谷さんは私を見て小さく笑って立ち上がった。

「今日はもう妖怪は寄ってこないから安心して。でも怪我もしているし……作間くん、お嬢さんを送ってやってくれ。お菊はちょっと用事を頼まれてくれるかい?」
『私と作間を引き剥がす気……?』
「そうじゃないよ。作間くんを守るために必要な用事さ」

 腑に落ちないといった表情ながらも、お菊さんは本谷さんの肩に飛び乗った。彼女の周りに浮いていた鬼火がしょんぼりしたように火力が弱まった気がする。

「お嬢さん、この名簿はキミが預かっていてくれ。持ち歩いていれば【良くないもの】から身を守ってくれるだろうし、ここに置いて保管しても勝手にキミの元へ戻ってしまうだろうからね」
「戻ってくるって……そんなことあるんですか?」
「だってぬらりひょんだよ?」

 さも当然と言いたげな顔で言われると、私は首を傾げた。
 私はリュックに名簿を入れると、既に出入り口で待っていた作間くんのもとへ行く。

「それじゃあまたね、お嬢さん。困ったら何時でも山田書店に来るといい」
『作間に手なんか出したら承知しないわよ!』
「お、おやすみなさい……」

 二人に見送られて書店を出て歩いていると、作間くんがスマートフォンを取り出して言う。
「妖怪が見える者同士、何かあったときのために連絡先を交換しておかない?」
「いいけど……あの、作間くんは人間なの?」
「そうだよ。菊が取り憑いてからもう何年になるかな……」
「とり……?」

 スマートフォンを操作しながら、彼の言葉に眉を顰める。
 私の空耳でなければ、彼は今「取り憑いて」って言った?

「いろいろあったんだけど、俺がここに居られるのは全部、菊のおかげだから」

 どこか誇らしげな表情で彼は笑う。目の下のクマもどこか幸せそうに見えた。

「まさか、初対面のおねーさんに妖怪呼ばわりされるとは思ってなかったけどね」
「うっ……ごめん」
「全然。気にしないで。それにあんな怖い経験したんだもん。疑心暗鬼になっても仕方がないよ」
「……あの商店街って、いつもあんな感じなの?」
「ここ最近はそうだね。本谷さんが余所者を見つけると、商店街に住んでいる妖怪たちが動くよ」
「本谷さんって、何者なの?」

 私の問いかけに、作間くんは少し考え込んだ。聞いてはいけないことだっただろうか、と後になって後悔していると、彼は笑って言う。

「なんて言ったらいいんだろう……そうだな、人と妖怪を傍観している変わり者、みたいな。要は変人って言葉が合っているのかもしれないね。あ、おねーさんのことなんて呼べばいい? 久野さん? 芽衣ちゃん?」
「……もう何でもいいよ」

 私の名前、一言も言ってないのに何でわかるの……!
 彼といい本谷さんといい、急に人が変わったかのように話す口調や表情が忙しい。わざと話を逸らされたので、これ以上聞き返さなかったものの、代わりに年下キャラを前面に押し出してきた作間くんの問いかけには適当に返した。
 本谷さんと妖怪に出会った翌日から、アルバイトの日以外は家から一歩も出ようとしなかった。
 がしゃどくろに掴まれた左の足首の痣は、次第に薄れて見えなくなったものの、得体のしれないものに襲われた恐怖は未だに残っている。
 しばらくは商店街を避けて駅に行ったり、どんなに夜遅くなっても遠回りをして帰宅する日々が続いた。
 本谷さんの話を真に受けているわけではないが、ぬらりひょんの名簿はリュックの中に入れっぱなしにしている。

 そんな日々が続いたある日、夕方に仕事を終えて最寄の駅の改札から出ると、後ろから作間くんに声をかけられた。
 相変わらず目元の隈はくっきり残っているものの、爽やかな笑顔を振り撒いている。思っていたより早い再会だった。

「……そうだよね。商店街の方に家があるなら、どこかで会うはずだよね」
「今更? 時間帯が違うから今まで会わなかったんだろうね。俺は大学やバイトがあっても夕方にはここら辺にいるし、久野さんは朝早く出ても夜遅いでしょ?」
「そう……だね。作間くん、学校帰り?」
「そうだよ。久野さんはカフェのバイト?」
「カフェじゃないよ。今日は掛け持ちしている別のバイト帰り」

 工場のレーン作業で、ダイレクトメールの中身を詰めて封を閉じるだけの簡単な仕事だ。
 カフェで前の店長から「社会保険を抜けろ」と脅されたことがあってから、掛け持ちでできる仕事をさがしていたところ、飲食とは別の仕事で高時給だったため、週三日を目安に入れている。

「なんか意外。カフェにしなかったのはなんで?」
「店舗が違うと、レシピが混ざってわからなくなるから。それにどうせなら別のこともやってみようと思って」

 例えあの店をクビになっても、飲食の仕事は続けたい。いつか戻れるように、求人サイトも見ないといけないなぁと一人で思い更けていると、隣で作間くんがどこか満足そうに微笑んだ。

「なに?」
「ううん。なんでも」
「そういえば、お菊さんは?」

 初めて会った時もお菊さんは作間くんの肩に乗っていた。彼が私に手を貸してくれたとき、『私の特等席を人間に使わせるの?』と拗ねるほどくっついていたのに、今日はどこにも見当たらなければ、黒い靄も見えない。

「菊なら本谷さんのところだよ。そうだ、久野さんって帰るとき商店街を通るよね? せっかくだし、皆に会いに行こうよ」
「皆?」
「商店街で暮らす妖怪たちだよ。よし、善は急げだ!」

 作間くんは楽しそうに言って私の腕を掴むと、商店街の方へ引っ張るようにして歩いていく。

「大丈夫だって。本谷さんも妖怪たちは友好的だって言ってたでしょ? もしかしたら久野さんと既に会ってるかもしれないじゃん? 人間と生活リズムを合わせるために、日中でも動いている妖怪が多いんだよ。勿論、個人差はあるだろうけどね」

 ちなみに菊は夜型だからあまり出歩かないよ、と足を止めることなくされるがまま商店街へ向かう作間くん。

 何度も言ってるけど、私はまだ何も言ってないんだって。

 そもそも全ての妖怪が誰にでも友好的だったら、名簿を用意する必要だってなかったじゃん。
 ……考えてみればおかしな話だ。
 妖怪を惹きつけ、妖怪から守る名簿。――ぬらりひょんが何の為に作ったのかわからないけど、名簿が無ければ妖怪が襲ってくることも、人間が関わることもなかったのだろうか。

「……それ、皆の前で言っちゃ駄目だよ」

 腕を掴む手を緩めて私の横に並ぶと、寂しそうな顔をして言う。真っ直ぐ見つめられる瞳をなぜか逸らすことができない。

「名簿は妖力が込められているって言っただろ? 妖力があるってことは、ぬらりひょんが生きている証拠なんだよ。目の前から消えても人間を連れて名簿は戻ってきたし、火事に巻き込まれて煤だらけになっても、名簿だけは形が残ってたことだって今まで何度もあったんだ。……そんな奇跡を見た彼らは、『ぬらりひょんがどこかで生きてる』ことを信じてあの場所を守っているんだよ」
「……ぬらりひょんって、そんなに信頼されてるの?」
「俺は会ったことないけど、皆優しくて変わったお方だって聞いたよ」

 いつか会ってみたいね、と笑って作間くんはまた歩き出す。
 彼の前で考えるのはできる限りやめよう。警戒しながら彼の後を追った。

 「しぐれ商店街」と書かれたアーチをくぐってすぐに、比較的新しいチェーン店のカフェや賃貸物件屋、百円ショップなどが並んでいる。その中にも通路ギリギリまで革靴が並んだ靴屋や古着屋も負けじと並んでおり、どこか昔の雰囲気を残していた。

 駅が近いこともあってか、仕事帰りのサラリーマンや食材を詰め込んだエコバックを持って子供の手を引いて歩くお母さん、カフェの窓際の席で懸命に勉強している学生の姿も見受けられる。
 私はこの近くに住み始めてまだ数年しか経っていないけど、それこそ立ち飲みバー「鈴々」のヒロさんくらいとしか交流はない。
 というのも、私の仕事と通勤時間からして夜遅くに帰ってくることの方が多く、夜の八時を越えて営業しているのは居酒屋くらいだからだ。
 少し商店街の中に入っていくと、種類豊富な総菜がショーケースに並んだ総菜屋「まめや」の前で立ち止まる。
 帰りがけの主婦がこぞって買い込む、この店のお惣菜は栄養バランスも良く、「おふくろの味」と謳われるほど人気だ。そしてなぜか、一番人気商品が「まめたのおはぎ」という、小豆餡から作る本格的おはぎが飛ぶように売れている。総菜屋なのにおはぎが、と不思議がる人もいるが、これがなかなか絶品らしい。

 ……らしい、と濁したのは、口コミで知った程度で私自身が食べたことがないからだ。
 作間くんがショーケースの前まで行くと、先程まで別のお客さんの相手をしていたおばさんが気付いた。

「あら、作間くんじゃない! 学校帰り?」
「こんにちは。豆太(まめた)はいますか?」
「裏で追加のおはぎを作ってくれてるの。もうそろそろ来ると思うけどねぇ。……ところで、お隣の子は彼女さんかしら?」
「え!?」
「嫌だなぁ。そんなんじゃないですよ。もし彼女と一緒にいたら、菊が黙っていないですから」

 彼の言葉にそうよねぇ、と納得するおばさん。
 そうだよ、作間くん絡みで誤解を招くような噂が流れたら、あのお菊さんが黙っていない。申し訳ないけど彼女の鬼火の餌食にはまだなりたくない!
 声に出さずにいると、それを察した作間くんが「そこまでしないから大丈夫だよ」と笑う。
 ……あれ、っていうかこの人、お菊さんのこと知ってるの?

美代子(みよこ)さんはね、菊と仲が良いんだ。たまに入り浸っていることもあるよ」
「随分助かっているのよ! あの子がいてくれると、いなり寿司やお揚げとほうれん草の胡麻和えがよく売れる売れる!」
 
 ふと狐の姿のお菊さんがお店に立っているという、シュールな光景に眉をひそめる。招き猫ならぬ招き狐というべきか。
 すると店の奥からガタン、と音を立てて出てきたのは、トレイいっぱいに詰めたおはぎを、慎重に運ぶ小学生くらいの男の子だった。半袖短パンに少し大きめのえんじ色のエプロンをつけた彼は、美代子さんにトレイを渡す。

「みよこさん、第三弾お待たせ! ……ってアレ? さくまだー!」
「こら、豆太! お客さんの前でしょう?」
「あっ……いらっしゃいませー!」

 美代子さんに注意されながらも、ショーケースから出て作間くんに飛びついた男の子は、元気に挨拶をしてくれた。ずっと裏でおはぎを作っていたのか、頬にこした小豆がついている。
 ……もしかして、人気のおはぎを作っているのって……!

「さくまー! っと……おまえ、もしかして【しぐれさま】が連れてきた新しい人間?」

 男の子――改め、豆太くんは首を傾げながら問うと、作間くんが笑って答えた。

「そうだよ。久野さんって呼んであげて」
「へぇー……くの! よろしくな!」
「よ、よろしく……えっと……豆太君は妖怪なの?」
「そうだよ! 見ての通り【小豆洗い】の妖怪さ!」

 どこを見て?

 ニコニコの満点の笑みで言われても、見た目だけでは人と大差ないのにわかるわけがない。小難しい顔をしているのが分かったのか、隣で作間くんが笑いをこらえて震えている。

「もしかして、くのは小豆洗いを知らないのか?」
「えっと……小豆を洗っている、妖怪……?」
「だいせーかい! すごいなお前!」

 それでいいんかい。

 キラキラと目を輝かせて興奮する彼に私が黙って突っ込むと、ついに作間くんは噴き出して笑った。
 考えていることが読めるって大変だな。

「ん? さくま、どうしたの? 急に笑い出して、相変わらずヘンなやつだな!」
「いや、何でもないよ! それより本谷さんと菊のところに行くからおはぎを八個貰えるかな?」
「まいどーっ! みよこさん、おはぎ八つー!」

 豆太くんが飛び跳ねながら店へ戻ると、美代子さんと一緒にできたてのおはぎを包んでいく。
 待っている間に笑いを落ち着かせようとしている作間くんの横っ腹を軽く突いた。

「そんなに私のツッコミが面白かった?」
「ふふっ……タイミングがね、結構ツボだったよ」
「……豆太くんは、ここに住んでいるの?」
「そうだよ。美代子さんが生まれる前からずっとここにいる。勿論、豆太が妖怪だって知ってるよ。家族絡みですごく仲が良いんだ」

 聞けばこの総菜屋さんは五十年以上前から続いており、その頃から豆太くんが住み着いて一緒に暮らしているらしい。今は美代子さんとおじさん、豆太くんの三人で切り盛りしている。子供は他所へ嫁入りに行って帰ってくるのは年に二回もないため、孫みたいな豆太くんと生活できるのがいいのかもしれない。

 でもまさか人気商品を作っているのが妖怪だったなんて、と考えているうちに、豆太くんがおはぎが入った透明のプラスチックケースをポリ袋に入れて持ってきてくれた。
 握りこぶし一つ分の大きさの割に、一個一二〇円はお得だろう。ケース越しからでも小豆一粒が艶々していて、思わず腹の虫を抑える。

「お待たせー! 出来立てほやほや、はんごろしでどうぞ!」
「はっ……半殺し!?」
「『はんごろし』は米の潰し具合のことだよ」
 ちなみにおはぎで使うもち米を全部潰したものを『みなごろし』と言うらしい。
 小学生みたいな可愛い顔をして怖い言葉が出てきたことに驚いていると、豆太くんは小首を傾げて不思議そうに言う。

「くのは知ったかぶりなのか? 反応も大きいし、わざとしてるのか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……。豆太くんはよく知ってるね」
「みよこさんが教えてくれたんだ。おれの方がずっとずっと長生きしてるのに、みよこさんはいろんなことをたくさん知ってるんだ!」

 すごいだろーっ! と豆太くんは胸を張って答える。ショーケースの向こう側では美代子さんが気恥ずかしそうに笑っていた。
 ふと美代子さんと目が合うと、何か思い出したように手を軽く叩いた。

「そうだ。本谷さんのところ行くなら、途中で清音(きよね)ちゃんのところに寄ってくれない? お昼におはぎを買いに来てくれたんだけど、丁度売り切れた後で渡せなかったのよ」
「いいですよ。清音の分も入れていくらですか?」

 知らぬ間に淡々と話が進んでいく。作間くんがおはぎの代金と交換で、四つのおはぎが入ったポリ袋を受け取った。

「それじゃ久野さん、行こうか」
「う、うん。美代子さん、豆太くん、お邪魔しました」
「さくま、くの! また来いよーっ!」
「豆太! お客様にはありがとうございます、でしょ!」

 美代子さんに軽く小突かれる豆太くんを横目に総菜屋から離れる。その直後、おはぎを買いに来た常連客で賑わう声が遠くから聞こえた。

 更に商店街の奥へ入っていくと、作間くんがある店の前で足を止める。

「久野さん、ここ来たことある?」
「ここら辺に住み始めてすぐに一度来た気がする……」
「曖昧だね。でもそっか、それだと清音とは会ってないのか」
「誰?」
「俺の従兄弟のねーちゃん」

 レトロな建物に「喫茶ララ」と書かれたプレートのドアを開くと、一気に煙草の匂いが溢れた。若干肌寒い店内には、煙草をくわえて読書をする年配のお客さんが二、三人いる程度で、特に音楽が流れているわけでもなく、ゆったりとした時間が流れていた。
 カウンターでグラスを拭いていた色白の青年が顔を上げると、一瞬驚いた表情をしながらも笑みを浮かべた。

「いらっしゃいませ。……あれ、珍しい。お菊さん以外を連れてくるなんて」
「美代子さんにも言われたよ。清音いる?」
「呼んできますね。お好きな席へどうぞ」

 そう言って色白の彼がカウンターの奥へ行くと、作間くんが近くのテーブル席に座った。促されて対面側の椅子に座ると、なんとなく声を潜めて彼に問う。

「ねぇ、ここにも妖怪がいるの?」
「そうだけど……そんなに小声にならなくても大丈夫だよ」
「そう言われてもねぇ……」

 この空間で普段通りの声量で話せる内容じゃないくらいわかってよ。
 黙ったまま悪態をつくと、作間くんが鼻で哂う。

「……また読んだでしょ?」
「だって久野さんわかりやすいんだもん」

 だもん、じゃないよ。全く。

「そうよそうよ。どうせ店内には見えないだけで妖怪だらけなんだから。聞こえても問題ないって」
「問題ないって言われても一応……ん?」

 真横から聞こえた声は、明らかに作間くんのものではなく女の子の声だ。目を向けると、三つ編みに結った黒髪に、真っ黒なスカートに身を包んだ女の子が立っていた。
 私をジロジロと品定めてから、ニッコリ笑って言う。

「初めまして、人間さん。郵便屋の未空(みく)ちゃんでーすっ!」
「ゆ……ゆうびん、や?」
「名簿がまた人を連れてきたって噂を聞いてはいたんだけど……うん、キミは残念さんだね。いやぁ、これまた随分不憫な人間を連れてきたね。本当に名簿は【しぐれさま】そっくりだ!」

 待って、意味がわからない。
 初対面の女の子にこんなにはっきりと「残念」だの「不憫」だの言われたの初めてだよ。
 どこから突っ込んで良いのかわからなくて固まっていると、彼女は更に続けた。

「でもキミ、いつも夜遅くに帰ってくる子だよね? 早く帰った時は『鈴々』にも立ち寄って、ヒロさんと話しているのを何度か見かけたことがあるよ。お酒飲めないのに、結構長い時間居座ってるけど、やっぱり空間に酔っちゃうの? そうそう、名簿とはどこで出会ったの? いろんな人間さんに聞いてまわってるからさ、未空に教えてちょーだいっ?」
「え、えっと……?」

 自分では処理しきれないと察して作間くんに助けを求めると、彼はニッコリと笑っているだけで手を貸してくれそうにない。というより、随分楽しんでいるようにも見える。
 そして目を離した隙に、いつの間にか彼女の顔が数センチというところまで迫っていた。

「ねーえ。聞いてる? 人間さーん?」
「ちょっ……近い! 作間くん止めて! さっさと、早く!」
「はいはい。未空、そこまでにしてあげて」

 ようやく作間くんが重い腰を上げて、彼女を引き剥がして近くの席に座らせた。不貞腐れた顔で浮いた足をプラプラと揺らす。

「今日は休み? 郵便の仕事だって聞いてたんだけど」
「仕事だったよ? 未空ちゃんはお仕事が早いからさ、今日の分は午前中に終わらせを散歩して『ララ』に寄ったの。そしたら作間くんが新しい人間さんと一緒にいるし? 思わず声をかけちゃった」

 彼女――未空ちゃんはてへっと笑いながら頭を軽く叩いた。この子は一体何者なんだろう、と苦い顔をしている私に、作間くんが教えてくれた。

「未空は【烏天狗】の妖怪だよ。日中は郵便局で働いてて、夜中は遠い地域の領主との連絡係をしてるんだ」

 あ、さっき言ってたことは本当だったんだ。
 申し訳なく思ってそっと彼女を見ると、どや顔で返してくる。

「ねぇ、人間さん? 未空の正体を知ったんだから、質問答えて?」
「知ったっていうか教えてもらったというか」
「交換条件。こんな可愛い見た目だからって、人を攫っちゃう妖怪なんだから」

 早くして、と先程と打って変わった鋭い目で睨んでくる。と言っても、名簿が勝手にアパートの郵便受けに入っていたのだから、どんな経緯で名簿がやってきたのかがわからない。
 そのことを伝えると、未空ちゃんは眉を顰めた。

「郵便受けに突っ込まれていて、ご丁寧に紙袋に入れられてた? 初めましてのパターンだね」
「そう……なの?」
「そう。大体道で拾ったとか、家の本棚にいつの間にかあったとか。あと書店で見つけたって人間さんもいたかな。彼らもキミみたいに、何かに苦しんでたよ」

 初めて聞いた、名簿に導かれた人間の話。本谷さんから「名簿自身がぬらりひょん」だと話は聞いていたものの、まるで人を選んでいるように思えてならない。
 そういえば作間くんは特殊だって言ってたような。

「作間くんのときも、違ったの?」
「え? 俺は……実は俺、名簿については商店街に来てから知ったんだ。だからわからないや」

 申し訳なさそうに言うと、彼はどこか遠くを見つめた。なぜかこの話題に触れてはいけない気がして、私も目を逸らした。

「ごめんね! 巧、お待たせ!」

 するとカウンターの奥からポニーテールの女性が出てきた。振り返った作間くん……ではなく、テーブルの上に置いたポリ袋を見つけると、目を光らせてカウンターから飛び出してきた。

「それおはぎ? 豆太のおはぎよね?」
「美代子さんから預かってきたよ」
「うわっ! 嬉しいーっ!」

 ポニーテールの彼女は、袋からパックに入ったおはぎを持ち上げて嬉しそうに目を輝かせた。

「今日は食べれないと思ってたからめっちゃ嬉しい! ありがとう! ……そっちの袋は?」
「あげないよ。俺達の分なんだから」
「おれたち……?」

 もう一つのポリ袋を見ると、彼女は作間くんと私を交互に見る。次第に口元が緩み始めたところで、作間くんが釘を刺した。

「想像しているところ悪いけど、俺には菊だけだから」
「もーっ! 言う前に答えるのやめてよね!」

 しかも惚気ないでよ、と拗ねると、彼女は私を見て慌てて姿勢を正した。
「初めまして! この喫茶店の店長代理やってます、三森(みもり)清音(きよね)です。清音って呼んでね。巧がいつもお世話になってます」
「いえ、こちらこそ……。初めまして、久野です」
「久野ちゃんね。まさか巧がお菊ちゃん以外の女の子を連れてくるなんて、ビックリしちゃった!」

 フフッと笑う清音さん。見た感じ私と同い年くらいだけど、はきはきとした話し方からして、私より年上だろう。
 というか作間くん、お菊さんを連れ回しすぎじゃない?

「久野さん、それじゃあ俺がナンパ男みたいじゃん」
「また勝手に読んだ……。本谷さんと一緒にいた時点で変な人の部類にしか見えないよ」
「変な人と軽いのは別だって」
「巧、本谷さんと同類なのウケる!」

 不服そうな顔をする作間くんを横目に、清音さんは近くに座っていた未空ちゃんと一緒にケタケタと笑う。

「……って、清音さんは本谷さんやお菊さんを知っているんですか?」
「知ってるもなにも、牡丹の友達だもの。よくコーヒーフロート飲みに来るし」
「ぼたん?」
「あ、僕のことです……」
 清音さんの後ろで控え目に手を上げる色白の彼が言う。
「彼が牡丹(ぼたん)。一昨年くらいから商店街に戻ってきて、働いてもらっているの」

 初めまして、と牡丹くんはギリギリ聞こえる声の大きさで言う。

「戻ってきて、というのは? どこかで修行されていたんですか?」
「いえ、一種の里帰りみたいなものです。僕の生まれは雪山でも、家と呼べるのは【しぐれさま】の商店街だけですから」

 牡丹くんはそう言ってどこか誇らしげに笑った。「雪山」というワードに首を傾げると、悟った作間くんが教えてくれた。

「牡丹は【雪女】の末裔なんだよ。だから雪山に里帰りしていたってワケ」
「雪女、というより雪男ね。ややこしいけど、性別なんて関係ないわ。牡丹は牡丹。この喫茶店で働くエースなの!」

 清音さんが牡丹くんの肩に手を置いて自信満々に言い切ると、彼も嬉しそうに頬を赤らめた。肌が白いから、赤が映えて見える。先程の豆太君に比べるととても大人しい。
 ……というより人見知りなのかもしれない。

「牡丹くんも未空ちゃんも、どう見ても人間にしか見えないんですけど……」
「そりゃあ、人間に化けているからね。私が真っ黒な烏の姿で商店街を出歩いているのを想像してみて? 動物保護センターに行くより前に射殺されてちゃうよ!」
「確かに、未空さんの姿だとそうなってしまうかもしれませんが……。僕の場合は本来の姿で仕事をしていると、周りにいる皆さんが凍えさせてしまうので……」
「初出勤の日はすごかったのよ。お客さんに持っていくお冷、全部凍らせちゃったんだから!」

 歩く冷凍庫か?

「ところで、お菊ちゃんのおはぎも買ってるなら早く持って行った方がいいんじゃない? 久野ちゃんと一緒だってわかって拗ねてるわよ」

 ほら、と言って清音さんが窓の外を指さすと、あの夜見た青白い鬼火が一つ、店の中を覗くように浮かんでいた。
 夕方とはいえ商店街は人間が賑わっているだろうに、そんな堂々と出てきて大丈夫だろうか。

「流石お菊ちゃん。簡単に浮気はさせてくれないわね」
「だから違うって。久野さんに商店街の妖怪たちを紹介してたんだよ」
「へぇー? お菊のこと放っておいて? 未空だったら嫌だなぁー」
「放ってない。今日は本谷さんのところで用事があるって言ってたし。俺も大学行ってたんだよ」
「はいはい、従兄弟がレディーファーストがお上手で何よりだわ」
「絶対二人とも思ってないだろ……!」

 作間くんが不服そうな顔をしながらも、清音さんと未空ちゃんは楽しそうにからかう。傍から見れば姉二人に絡まれる弟のようだ。
 そこから二、三歩離れた場所で牡丹くんがオロオロと落ち着かない様子で見ていた。

「えっと……牡丹くん、大丈夫?」
「は、はい。この光景は見慣れてはいますが……殴り合いにならないか、いつもいつも心配なんです。清音さんも未空さんも加減を知りませんし、ああ見えて作間さんは口が悪いですから」
「口が悪い? 作間くんが?」
「ええ。以前、他所から来た【大かむろ】が商店街の人を驚かそうとしたがありまして、あまりにも暴力的だったので、作間さんが『てめぇらいい加減にしねぇとその面剥がすぞゴルァ!』って怒鳴ったんです。……耳を疑いました。彼の後ろにはお菊さんの鬼火が燃え盛っていたこともあって、妖怪はすぐ退散していきましたが、あの時ばかりは彼も人間なんだな、と関心したものです」

 遠い目で懐かしそうに牡丹くんは言う。見た目からして穏やかそうな作間くんからそんな言葉が出てくるとは想像できない。
 私が苦笑いを浮かべると、牡丹くんは何を思ったのか、慌てて小さく握り拳を構えていた。

「久野さん、でしたね。心配はご無用です。これ以上長引く場合は僕が仲介人として間に入って止める役割になっています。万が一喧嘩になるようでしたら、店内全てを氷漬けにしてでも止めますのでご安心ください」

 切羽詰まって喧嘩を力ずくで止める前に、まずは平和的な解決を目指そう?
 真剣な眼差しで決意を伝えてくれる牡丹くんを横目に、私はそろそろヒートアップしそうな彼らの間に入った。
  *

 あの後、何事もなく「喫茶ララ」を出て山田書店へ向かうと、待ってましたと言わんばかりに本谷さんが急須と茶筒をちゃぶ台の上に用意していた。
 勿論、扉を開けた途端にお菊さんが作間くんに飛びついた途端、頬擦りしたのは言うまでもない。
 鬼火が私の鼻先をかすめたのも、彼と再会したから気持ちが高ぶってしまっただけだ。

「豆太のおはぎが美味しいのはね、丁寧に小豆を洗ってくれるからなんだよ。それを丹精込めて炊いた小豆のふっくら加減といったら、もうたまらなくてねぇ……! ぬらりひょんがいた頃におはぎがあったかはわからないけど、小豆洗いの小豆は彼も好んで食べていたんだよ」
「本谷さん、詳しいですね」
「ぬらりひょんが居た頃に書かれたであろう日記から抜粋したのさ。大抵のことは読んで覚えているんだよ」

 作間くんが淹れてくれた煎茶と、パックから洒落た小皿へ移した豆太くんのおはぎを本谷さんの前に置く。艶々としたおはぎにうっとりと見惚れている。

 書店の奥は本谷さんの生活スペースになっている。初めてここに来た時もこの部屋に通されたっけ。
 五畳半の和室には簡易台所があり、食器棚には三つの小皿と湯呑が置かれている。作間くん曰く、滅多に人が訪れないため三人分あれば足りるらしい。本谷さんと作間くん、お菊さんの分は小皿に、私の分はパックから貰おう。
 おはぎを小皿へ移しながら、気になっていたことを本谷さんに問う。

「そう言えば、今日会った妖怪たちが【しぐれさま】がどうのって言ってたんですけど、誰のことですか?」
「……ああ、それはぬらりひょんの名前だよ。人間に紛れるときに名乗っていたらしくてね。実際どこまで本当かはわからないけど、領地の妖怪たちは皆【しぐれさま】と呼んで慕っていたんだ。ほら、ここの商店街の名前は『しぐれ商店街』だろう?」

 ……そういえばそうだった。
 商店街の入り口にかけられたアーチには、しっかりと「しぐれ」商店街と書かれていたっけ。
 苦笑いを浮かべながら小皿におはぎを三人分取り分けて、その一つを本谷さんの前に置くと、彼は手を合わせてから箸で器用におはぎを挟み、一口で頬張った。二、三回ほど噛み締めると、なぜかすぐさま緩んだ頬に手を添えて抑えている。その表情は幸福感で満ち溢れていた。

「んーっ! 相変わらず豆太の小豆は美味しいねぇ。頬っぺたが落ちるとは、まさにこのことさ! あと百個は食べられる自信があるよ!」
「炭水化物の摂り過ぎでドクターストップかかっちゃいますよ?」
「そんな冷たいこと言わないでよー。美味しいものはいくらあっても足りないのさ!」

 名言っぽいのが出たのを横目に、私は作間くんとお菊さんの近くにおはぎを置く。

「俺、パックに入ってるの貰うよ?」
「いいの! おはぎを買ってくれたのは作間くんだし、私がパックから貰うよ」
『ねぇ』

 ほぼ強引に作間くんに小皿に乗ったおはぎを押し付けていると、お菊さんが肩に乗ったまま私を睨みつけて言う。

『私、後で食べるからそのパックごと残しておいてくれる?』
「え? でも出来立ての方が美味しいって」
『狐の姿で食べるのは大変なのよ。だから貴女はそっちの皿に乗っている方を食べなさい。私の分はそのパックのまま放っておいて。あ、間違っても冷蔵庫に入れちゃ駄目よ!』

 拗ねた口ぶりでお菊さんは言うと、作間くんの肩から降りて店の外へ出て行ってしまう。
 何か気に障ることをしてしまっただろうかと心当たりを探すけど、どれが原因なのかわからない。するとまた作間くんがクスクスと笑って教えてくれた。

「菊は毛に小豆が付くとなかなか取れないから、いつも人間の姿になって食べるんだよ。きっとまだ久野さんに慣れてないから、恥ずかしくて化けられないんだと思う。気にしなくて大丈夫だよ」
「もうっ! お菊ちゃんは人見知り激しいんだからっ!」
「本谷さん、その喋り方ちょっと気持ち悪い」

 関節はどこに行ったと問いたくなるくらいクネクネと動く本谷さんに辛辣な一言が刺さる。体育座りして落ち込む姿を見ても、可哀想と思えないのはなんでだろう。
 それを気にすることなく、作間くんは続けた。

「確かに菊は人見知りだけど、あんなに突っかかるのは仲良くなりたいっていうアピールなんだよ。今頃、皿でも買いに行ったんじゃないかな」
「皿……?」

 ちゃぶ台の上に置かれた小皿と湯呑に目を向ける。もしかしてパックごと残してって、私が小皿を使わずに食べようとしてたから?

「その小皿も湯呑も、ここにある食器はすべて菊が選んだんだ。良いセンスしてるでしょ?」

 淹れたての煎茶を私の前に置いて、小皿に乗ったおはぎと並べる。
 蛍光灯の光が当たって、小豆の艶が光るおはぎに、少しざらついた質感とぼんやりした色の味を出した白い小皿、添えられた黒文字。握り拳サイズのおはぎには少し食べ辛そうだが、無駄に協調しない、落ち着いた空間を一皿で醸し出している。

「……妖怪って、不思議ですね」

 全く別の生き物やその文化に好奇心を抱いて、何年も前からずっとこの土地で共存している。まだ見た目が人間に近いからといっても、お菊さんみたいに狐の姿だったり、がしゃどくろや鬼のような人間が恐ろしいと思う虚像の姿になる妖怪だっている。

 それでも仲良くなりたい、一緒に暮らしたいと思い合える関係が存在していることが、私の目の前で起こっている。。
 ――それが例え、ぬらりひょんの指示に従っているとしても。

「食べないの?」

 本谷さんがお箸をカチカチと音を立てながら私のおはぎに狙いを定めている。私は慌てて小皿を手に取ると、黒文字で一口サイズに切り分けてそのまま口へ運ぶ。
 ふっくらとした小豆は丁度良い甘さで、絶妙な柔らかさのもち米との相性が抜群だった。

「……美味しい」

 頬っぺたが落ちそうになって思わず手を頬に添えると、二人はどこか嬉しそうに笑った。
 妖怪と本谷さん達に出会って一週間が過ぎた頃、出勤前にマネージャーから呼び出された。
 普段より一時間早く行くと、店には数名のお客様がいるだけで静かだった。入口から近くの席で人型の黒い靄の塊がどっと構えて座っているのを見つけると、思わず目を疑った。
 何度目を擦って見直しても、人型の黒い靄がノートパソコンと叩いているようにしか見えなくて、また鬼がやってきたのかと思って立ち止まる。すると、私に気付いた黒い靄が手招きをして呼んだ。

「ああ、久野さん。こっちこっち!」

 声でマネージャーであることがわかると、恐る恐る対面の席へ座った。

「急に呼び出してすみませんね、今日しか日程取れなくてさ」
「え? 来週に予定開けたって聞いたんですけど……」
「その日が行けなくちゃったんだ。本当は要望通り、店長も含めて三人で面談する予定だったんだけど、彼も今日は別の用事があるから、許してね」

 ――あ、意味のない面談になりそう。
 まだ始まってもいないのに、黒い靄が一回り大きくなったのを見て察してしまった。きっと店長の別の用事も嘘なんだろう。
 念の為にテーブルの下でスマートフォンを操作し、ボイスレコーダーのアプリを起動させる。
 「黒い靄は名簿の力によって妖怪の姿を映している」と、本谷さんは言ってたけど、身体に巻き付いているのはどういう状態なんだろう? 作間くんにでも聞いておけばよかった。
 顔が見えないマネージャーは、一度パソコンを閉じて本題に入った。

「今回、店長さんにお話を聞きました。久野さんはなんでも営業中に遊んでいるそうじゃないですか。お客さんへの態度も良くないって聞いてますよ」
「遊んでいるわけではありませんし、接客中に関して、店長との面談時にはご指摘ありませんでした。
それに、お客様も見ずにスタッフと世間話をしている店長に言われても困ります」
「そうなの? 僕はそう聞きましたけど。それと……一番に食品のことを考えてくれるのはいいけど、そんなにきっちりやらないと駄目なものなのかな?」

 とぼけたように小首を傾げて聞いてくるマネージャーに、今にも殴りかかりそうになる右手を抑え込んだ。
 飲食店、の話だよね?

「飲食店として最低限のことを実践したまでです。それのどこが悪いんですか?」
「だって併設のカフェだよ? 本来はボタン一つで出てくるドリンクバーの機械があればいいくらいのものなんだ。しっかりした料理は提供する必要がない。そんなに厳しくする必要ってどこにあるのかな?」
「……賞味期限の切れたものを提供しても問題はない、そういうことですか」
「それはまぁ、しょうがないんじゃない?」

 顔が見えなくてよかったかもしれない。
 黒い靄で顔が隠れていても、言葉や息遣いで明らかに鼻で嗤っていることがわかった。

 今のメニューやコーヒーを主体とする形で店を立ち上げたのは会社だ。特にコーヒーは某有名ブランドのものを使用していることもあって、堂々と「有名コーヒーロースターの豆を使用しています」といろんなところで公表している。
 メニューなんて会社から提案された無茶ぶりを、アルバイトが仕込みしやすいようにレシピを作り直しているのは、前にも話した通りだ。社員が関与することは一切なくて、いつの間にか自己流の作り方をしているときも少なくはない。

 同じレシピを全員が作れなければ店の味が統一できず、商品のクオリティが下がる。手間暇かけて淹れたドリップコーヒー四五〇円がその味で提供できるのか、と切り詰めて考えていくのが社員の仕事の一つではないだろうか。

 更に働いているスタッフ皆が「この店は飲食店である」という認識で働いているというのに、根本的にマネージャーや社員が店自体を否定するのは、どう考えても間違っている。

「飲食店で期限切れの物を提供して、お客様が食中毒になったらどうするんですか。人を殺しているのも一緒ですよ? 飲食店でしょう?」
「殺す……って言い方は良くないね。会社の認識として、この店は飲食の括りにはしていないんだよ。あくまで併設。今後、提供の仕方も変わってくると思うよ」

 マネージャーはそう言って、ケタケタと嗤いながら閉じていたパソコンを開く。今まで私が話した内容をメモしているのだろう。これだけ聞けば会社を脅迫しているようにも見えるだろうな、と苛立ちながらも思った。

 本当は「人を殺す」なんて言葉は使いたくはない。
 しかし、実際に食中毒になって困るのは会社であり、働いているアルバイトであり、最終的にすべての責任を取らなければいけないのは店長だ。「私が責任を取ります」「休みを惜しんで働きます」だけで済む話じゃない。
 たかが食品管理の不手際で?
 ちょっとのカビだけで? 
 過去に死亡例が出ているなんて、この人や店長は何とも思っていないのかもしれない。
 一つ間違いが出てしまえば、全員の今後がおじゃんになってしまう可能性だってある。脅迫まがいな言葉遣いになってしまっても、危機感を持ってほしかった。
 メモ書きを終えたのか、マネージャーは手を止めて話を戻す。

「そうだ、いわゆる飲食の仕事がしたいなら、別の店への異動を検討するのはどうかな? お給料は少し下がってしまうけど、しっかりとキッチン業務ができる環境だし、久野さんの家の近くにも系列店はあるからさ」
「この店で働いているからこそ意味があります」
「それほどまで、店にこだわる理由はあるの?」
「それは……できることが増えたから、目標もできたところで、中途半端で終わるのは嫌だからです。態度が悪いことが原因なら直します。だから……」

 これが本音なのかは未だにわからないが、少なくともプラスに見てもらえるなら。少しでもここに残れるのならと目線を逸らして苦し紛れに答える。
 マネージャーは暫く黙って考えると、わかったと口を開いた。

「久野さんが残りたい気持ちはよくわかりました。僕が貴女にできる選択は別の店舗に異動するか、店長に謝って誠意を見せるか。この二択です」

 は?

 それを聞いて、私は愕然とした。
 まさかここで「お前が謝れ」と言われるとは思っていなかった。今まで店長がしてきた食材管理も営業中の様子も、ほとんど店長の作り話だということも、伝えられるものはすべて伝えたつもりだった。
 それなのに、何も伝わってない。

「……それは、辞めたくなければ頭を下げろってことですか?」
「そうだね、ちゃんと思いを伝えればわかってくれるんじゃないかなって。
 話が通じない人じゃないじゃない? 僕はこの店のことを見てないからわからないけど、僕が見てきた店長はそんな簡単に人を辞めさせるような人じゃない。店舗のスタッフ皆が働きやすいように、仕事をしてくれているんだよ?
 久野さんが知らないだけで、あの人はよく頑張ってくれている。
 前の店長もそうだよ。僕にはパワハラをするような人には見えなかった。すごく前向きに仕事に取り組んでいたんだ。
 貴女は、彼らの一部部分しか見ていないのに、パワハラだと通達するのかい?
 ……違うよね。それを何も知らない貴女の一方的な理由だけで否定することは宜しくないね。
 個人的な理由で嫌うのは勝手だけど、それを仕事に持ち込まないでくれる? 嫌な上司はいるだろうけど、これは仕事なんだから」

 私情を持ち込んでいるのはそっちでしょ。
 確かに営業中にふざけていた部分はあったかもしれない。アルバイトの立場で口出ししたことも悪かったかもしれない。言い過ぎたことも自分でわかってたけど、今まで何も言われてこなかった。私自身が注意すればよかった部分でもあるけど、社員ましてや店長が指摘すればすぐ解決した話でもある。

 それでもありもしない噂をでっち上げる自分勝手な店長と、店のことを放ったらかしにして現状を理解しないマネージャーに頭を下げろ?
 それが私にとって必要なことだって、どうしてこの人が決めるの?
 そこまでしてここに残る理由ってなに?
 こんな人達のために会社に尽くす私の価値ってなに?

「……頭を下げて勤務態度を改めたら、残れますか」
「それはわからないけど、僕から頭を下げてみますよ。最終的には店長の判断がすべてですから」

 靄がだんだん濃くなっていく。気持ち悪くなって思わず俯いた。
 私はせめて次の店を決める期間として三カ月は残らせてほしい、と伝えたうえで頭を下げる。仕事の開始時間になって席を立った。