夏休みがやってくる。
終業式は滞りなく進んで、無駄に長い校長の話にお尻が痛くなった。十一年目になっても、体育館の固い板の床には全く慣れない。
通知表に赤の丸がなかったことだけが救いのような一日だった。おかげで天月との約束を、欠点者補修に奪われないで済む。
「二条さー、欠点何個あった?」
終業式からの帰り道、国道沿いのコンビニに屯っていると、隣に立つ友崎が尋ねてきた。
「いや、まずないから、友崎は?」
「え、学年13位にあると思ってんの?」
「はいはい、ないない」
適当な会話を続けつつ、安いソーダ味のアイスを食む。
僕の分は、学年上位を取って気分のいい友崎の奢りだった。
「お前、夏休みどうすんだ?」
茹だる夏の直射日光に項垂れていると、頭上から声が降ってくる。
「どうせ暇だろ? どっかいこーぜ」
「残念、ほとんど埋まってるよ」
忘れん坊の泥棒を探すんだ、と言うと、友崎の怪訝な顔が見られた。
「忘れん坊の泥棒? お前が七不思議か」
「なんだよ」
「いや、珍しいなー、と思ってさ」
行き交う車の流れを眺めながら、友崎がポツリと溢す。
「で、誰と?」
「んー、天月と」
「え、あいつ?」
気だるく返した答えに、友崎の声音が沈む。
アイスの僅かな残りが溢れて、アスファルトの上に黒いシミを描く。
「なあ、止めとけよ」
「なんで」
「なんでって……」
零れ落ちた溜め息の中に、友崎の躊躇いが見えた。
彼の躊躇は初めて見る。彼との付き合いはまだ二年目だけど、教室で過ごした時間で言えば、他の誰よりも長い。
下手に会話をしない天月よりも、比較的何でも話せるのが友崎だった。
「知らねぇの? あいつ、殺害予告されてるって噂だぜ?」
殺害予告。
唐突に転び出た非日常的な単語の意味をなぞって、眺めて、またなぞる。
(天月が、殺される)
いくら反芻しても、衝撃はない。現実味も、上手く仕事をしてくれない。
「それも七不思議?」
「ちっげーよ、マジなんだって。最近ホラ、連続強盗殺人だってあんじゃん!」
友崎の振り回したソーダバーが飛び散って、剥き出しの太陽が威張る空に溶けていった。
先端の丸い棒が現れて、そのアイスに隠れていた文字が、少しだけ顔を覗かせる。嫌な予感がした。
「なあ、巻き込まれるって、やめとけって。な?」
心配そうに覗き込む友崎と目が合った。
大丈夫だよ、と返して、一気にソーダバーを齧る。覗いた棒に、文字はない。
「それに、もしそれが本当なら、学校だって何かしらの反応するでしょ」
行き交う車に反射する日光が煩わしい。
こんな山田舎のどこにこれ程の車があるのかと、不思議に思う。
「してただろ、呼び出されてたじゃん、天月」
「それ、いつ?」
「一週間前、数学のテストが終わった後、すぐ。警察にも行ったらしいぜ」
「ふーん」
期末テスト中日の数学は酷かった。解けた問題は半分しかなくて、そして正解していた問題は、それよりさらに少なかった。
正直、天月どころではなかったのかもしれない。
「おい、二条」
真っすぐな声音に、咎めるような色が混じった。
「お前さ、なんでそんな天月のこと避けんの?」
「避けてない」
「嘘だろ。全部」
否定の声は、いよいよ大きくなった友崎の声にかき消される。
結局友達も他人に過ぎないというのに、友崎の顔は悲しげに、悔しげに歪んでいた。
「お前、元カノのこと忘れたいから、全部上っ面だけで否定して、考えんの止めてんだろ。そうすりゃいつか、本当に嫌いになれるって信じて」
「うるさいな、お前に」
何がわかるっていうんだ。
激情のままに吐き出そうとした言葉が、胸に刺さった。
誰も人の気持ちなんてわからない。それは僕も同じだった。
天月の気持ちなんて、わかりっこない。
「……仮に天月の殺害予告が本当なら、僕はどうすればいいんだ」
天月が殺害予告を出されて怯えている姿なんて、想像できない。
少なくとも図書室で話した二日とも、彼女が怯えているようには見えなかった。
「話、聞いてやれよ。それができんの、二条だけじゃん」
「僕はそんな大層なもんじゃない」
僕に何かできること。そんなことは端から無いに等しくて。でもそれが、悔しいことも確かで。
僕はただ、アスファルトに引っ張られていくソーダバーを見下ろしている。半分溶けた塊が、落下と同時に崩れて溶けた。
「俺、もう止めねぇからな」
食べ終わったアイスの棒を食んで、友崎がポツリと溢す。
その言葉の真意を知りたかったけれど、黒く湿った棒に「あたり」と書いてあるのを見て、止めておいた。
「らっきー、あたりじゃん!」
「よかったね」
「ちょっと交換してくる!」
一転、興奮した友崎が遠ざかる。
友崎にはあって、僕にはないアイスの当り。僕にはあって、友崎にはない数Ⅱの赤点。
(交換してほしい……)
ぼんやりと思いつつ、暑苦しく白んだ空を見上げた。
青くて、白い、夏の空。
蝉と太陽に飾られた空は無駄に明るくて、何もしていないのに罰を受けている気分になる。
「夏休み、かぁ……」
明日から夏休みが始まる。
皆が宿題の山と戦って、学校のアルバイト禁止令を破って、密かに小遣い稼ぎに奔走する、夏が。
僕はこの夏、どこに行けるのだろう?
天月と忘れん坊の泥棒を見付けて、彼女に送られた殺害予告を笑い飛ばせるようになるのだろうか。
学校の宿題は、期限が過ぎても提出できる。
けれどこの宿題は、この夏にしか見つけられない、大きな命題だった。
*
その日の夜は眠れなくて、意味もなく点けたテレビは、夜中になっても無機質なニュースを流していた。
地域名産の桃が旬を迎えたとか、高速道路が予定より三年遅れで開通しただとか。
そんな毒にも薬にもならない情報が、忙しなく画面を流れては、味気なく消えていく。
けれど僕の頭の中では、天月の殺害予告がループしていて。
誰かの幸せも不幸も、全く頭に入っては来なかった。
天月への殺害予告の結末を、よく聞く話に当て嵌めるのなら。それはきっと、ただの一文で片付くのだろう。
《ストーカー被害女性、自宅で刺され死亡》
そして翌日かその日の夕方、棒読みのニュースキャスターが言うんだ。
──人が死にました
頭を振った。
違う、そんなの、僕が望んだ結末じゃない。
こんな意味のない妄想で徒に拒絶心を煽っても、泥棒の呪いに縛られ続けるだけだ。
『次のニュースです』
僕の煩悶なんて気にも留めず、ニュースキャスターは原稿を進めていく。
芸能人の結婚、不倫と離婚、株価の推移。そのどれもが薄い紙切れ一枚で冷たく語られる。
『今日未明、加賀美宮市の住宅街で、十代の女性が男に刃物で刺され死亡しました』
そのニュースは、ほぼ呪いとも思えるタイミングで、僕の耳に穴をあけた。
続報に耳を澄ます。
事件が起こったのは、隣の市の外れ。
被害者は天月じゃない。
ホッと胸を撫で降ろす手が、鳩尾あたりで固まった。
痛いほど握り締めた掌に、生きている証が叫びかける。
「最悪だ」
誰かが理不尽に命を盗まれたと言うのに、僕はそれが天月じゃないと知って安心してしまった。
誰かの不幸を「自分とは無関係」と切り捨ててしまった。
「こんな誰も救われないニュース……」
こんな汚い感情、無くなってしまえばいい。
嫌だ、要らない、と心底思った。
《無くなってしまえばいい》
強く強く、胃がねじ切れそうなほど。それは丁度、十年前のあの日のように。
僕が初めて抱いた拒絶心が、また僕の中で揺れ動く。
《おや、久しぶりだねぇ、坊っちゃん》
泥棒の笑い声が、聞こえた気がした。
終業式は滞りなく進んで、無駄に長い校長の話にお尻が痛くなった。十一年目になっても、体育館の固い板の床には全く慣れない。
通知表に赤の丸がなかったことだけが救いのような一日だった。おかげで天月との約束を、欠点者補修に奪われないで済む。
「二条さー、欠点何個あった?」
終業式からの帰り道、国道沿いのコンビニに屯っていると、隣に立つ友崎が尋ねてきた。
「いや、まずないから、友崎は?」
「え、学年13位にあると思ってんの?」
「はいはい、ないない」
適当な会話を続けつつ、安いソーダ味のアイスを食む。
僕の分は、学年上位を取って気分のいい友崎の奢りだった。
「お前、夏休みどうすんだ?」
茹だる夏の直射日光に項垂れていると、頭上から声が降ってくる。
「どうせ暇だろ? どっかいこーぜ」
「残念、ほとんど埋まってるよ」
忘れん坊の泥棒を探すんだ、と言うと、友崎の怪訝な顔が見られた。
「忘れん坊の泥棒? お前が七不思議か」
「なんだよ」
「いや、珍しいなー、と思ってさ」
行き交う車の流れを眺めながら、友崎がポツリと溢す。
「で、誰と?」
「んー、天月と」
「え、あいつ?」
気だるく返した答えに、友崎の声音が沈む。
アイスの僅かな残りが溢れて、アスファルトの上に黒いシミを描く。
「なあ、止めとけよ」
「なんで」
「なんでって……」
零れ落ちた溜め息の中に、友崎の躊躇いが見えた。
彼の躊躇は初めて見る。彼との付き合いはまだ二年目だけど、教室で過ごした時間で言えば、他の誰よりも長い。
下手に会話をしない天月よりも、比較的何でも話せるのが友崎だった。
「知らねぇの? あいつ、殺害予告されてるって噂だぜ?」
殺害予告。
唐突に転び出た非日常的な単語の意味をなぞって、眺めて、またなぞる。
(天月が、殺される)
いくら反芻しても、衝撃はない。現実味も、上手く仕事をしてくれない。
「それも七不思議?」
「ちっげーよ、マジなんだって。最近ホラ、連続強盗殺人だってあんじゃん!」
友崎の振り回したソーダバーが飛び散って、剥き出しの太陽が威張る空に溶けていった。
先端の丸い棒が現れて、そのアイスに隠れていた文字が、少しだけ顔を覗かせる。嫌な予感がした。
「なあ、巻き込まれるって、やめとけって。な?」
心配そうに覗き込む友崎と目が合った。
大丈夫だよ、と返して、一気にソーダバーを齧る。覗いた棒に、文字はない。
「それに、もしそれが本当なら、学校だって何かしらの反応するでしょ」
行き交う車に反射する日光が煩わしい。
こんな山田舎のどこにこれ程の車があるのかと、不思議に思う。
「してただろ、呼び出されてたじゃん、天月」
「それ、いつ?」
「一週間前、数学のテストが終わった後、すぐ。警察にも行ったらしいぜ」
「ふーん」
期末テスト中日の数学は酷かった。解けた問題は半分しかなくて、そして正解していた問題は、それよりさらに少なかった。
正直、天月どころではなかったのかもしれない。
「おい、二条」
真っすぐな声音に、咎めるような色が混じった。
「お前さ、なんでそんな天月のこと避けんの?」
「避けてない」
「嘘だろ。全部」
否定の声は、いよいよ大きくなった友崎の声にかき消される。
結局友達も他人に過ぎないというのに、友崎の顔は悲しげに、悔しげに歪んでいた。
「お前、元カノのこと忘れたいから、全部上っ面だけで否定して、考えんの止めてんだろ。そうすりゃいつか、本当に嫌いになれるって信じて」
「うるさいな、お前に」
何がわかるっていうんだ。
激情のままに吐き出そうとした言葉が、胸に刺さった。
誰も人の気持ちなんてわからない。それは僕も同じだった。
天月の気持ちなんて、わかりっこない。
「……仮に天月の殺害予告が本当なら、僕はどうすればいいんだ」
天月が殺害予告を出されて怯えている姿なんて、想像できない。
少なくとも図書室で話した二日とも、彼女が怯えているようには見えなかった。
「話、聞いてやれよ。それができんの、二条だけじゃん」
「僕はそんな大層なもんじゃない」
僕に何かできること。そんなことは端から無いに等しくて。でもそれが、悔しいことも確かで。
僕はただ、アスファルトに引っ張られていくソーダバーを見下ろしている。半分溶けた塊が、落下と同時に崩れて溶けた。
「俺、もう止めねぇからな」
食べ終わったアイスの棒を食んで、友崎がポツリと溢す。
その言葉の真意を知りたかったけれど、黒く湿った棒に「あたり」と書いてあるのを見て、止めておいた。
「らっきー、あたりじゃん!」
「よかったね」
「ちょっと交換してくる!」
一転、興奮した友崎が遠ざかる。
友崎にはあって、僕にはないアイスの当り。僕にはあって、友崎にはない数Ⅱの赤点。
(交換してほしい……)
ぼんやりと思いつつ、暑苦しく白んだ空を見上げた。
青くて、白い、夏の空。
蝉と太陽に飾られた空は無駄に明るくて、何もしていないのに罰を受けている気分になる。
「夏休み、かぁ……」
明日から夏休みが始まる。
皆が宿題の山と戦って、学校のアルバイト禁止令を破って、密かに小遣い稼ぎに奔走する、夏が。
僕はこの夏、どこに行けるのだろう?
天月と忘れん坊の泥棒を見付けて、彼女に送られた殺害予告を笑い飛ばせるようになるのだろうか。
学校の宿題は、期限が過ぎても提出できる。
けれどこの宿題は、この夏にしか見つけられない、大きな命題だった。
*
その日の夜は眠れなくて、意味もなく点けたテレビは、夜中になっても無機質なニュースを流していた。
地域名産の桃が旬を迎えたとか、高速道路が予定より三年遅れで開通しただとか。
そんな毒にも薬にもならない情報が、忙しなく画面を流れては、味気なく消えていく。
けれど僕の頭の中では、天月の殺害予告がループしていて。
誰かの幸せも不幸も、全く頭に入っては来なかった。
天月への殺害予告の結末を、よく聞く話に当て嵌めるのなら。それはきっと、ただの一文で片付くのだろう。
《ストーカー被害女性、自宅で刺され死亡》
そして翌日かその日の夕方、棒読みのニュースキャスターが言うんだ。
──人が死にました
頭を振った。
違う、そんなの、僕が望んだ結末じゃない。
こんな意味のない妄想で徒に拒絶心を煽っても、泥棒の呪いに縛られ続けるだけだ。
『次のニュースです』
僕の煩悶なんて気にも留めず、ニュースキャスターは原稿を進めていく。
芸能人の結婚、不倫と離婚、株価の推移。そのどれもが薄い紙切れ一枚で冷たく語られる。
『今日未明、加賀美宮市の住宅街で、十代の女性が男に刃物で刺され死亡しました』
そのニュースは、ほぼ呪いとも思えるタイミングで、僕の耳に穴をあけた。
続報に耳を澄ます。
事件が起こったのは、隣の市の外れ。
被害者は天月じゃない。
ホッと胸を撫で降ろす手が、鳩尾あたりで固まった。
痛いほど握り締めた掌に、生きている証が叫びかける。
「最悪だ」
誰かが理不尽に命を盗まれたと言うのに、僕はそれが天月じゃないと知って安心してしまった。
誰かの不幸を「自分とは無関係」と切り捨ててしまった。
「こんな誰も救われないニュース……」
こんな汚い感情、無くなってしまえばいい。
嫌だ、要らない、と心底思った。
《無くなってしまえばいい》
強く強く、胃がねじ切れそうなほど。それは丁度、十年前のあの日のように。
僕が初めて抱いた拒絶心が、また僕の中で揺れ動く。
《おや、久しぶりだねぇ、坊っちゃん》
泥棒の笑い声が、聞こえた気がした。