八月二十一日は台風が近づく、冷たい雨の日だった。
 その日の僕は、駄菓子屋ノーベルを訪れていた。
 九日間前の告白で得た答えを、確かめるためだ。

「天月詩乃は、十年前の盗品だったんですね」

 私を盗んでください。
 あの告白の日、天月は確かにそう言った。兄にイジメられていた、とも。
 そして、彼女の右頬に乗った泣きボクロ。
 そのどれもが、十年前のかくれんぼで僕が拒絶した少女と同じだった。
 僕はようやく、自分の探し物を見つけられた。
 
「天月が言ってましたよ。「忘れん坊の泥棒に盗んでもらって幸せになった」って」

 そこまで言うと、ザハロフさんは静かに息を吐いた。

「そっか、なら、よかったよ……」

 体中から空気が抜けていくように見えた。
 ザハロフさんの暗い瞳が潤んで、すぐ閉じる。
 その瞳に見えた温もりを、僕は見逃さない。

「──あなたが、忘れん坊の泥棒なんですよね? アリョーナ・イワーノヴナさん」

 僕が聞いた忘れん坊の泥棒の声は、老婆のように嗄れていた。
 そして盗品窟「jude kiss」の主人バジル・ザハロフ。またの名を、アリョーナ。
 それはドストエフスキーの「罪と罰」において、主人公に殺された高利貸しの老婆と同じ名だった。

「……ノーベルしょー、だ」

 子供のいない雨の店内に、ザハロフさんは煙を溶かした。陰鬱な煙だった。

「私こそが、忘れん坊の泥棒。盗品窟を営む女主人の、その裏の顔さ」

 もう驚きはしなかった。
 代わりに、「なぜ?」と言う疑問が浮かんだ。

「なんで、なんであなたは、嫌いなはずの人間を助けるんです?」

 忘れん坊の泥棒はいつだって、私利私欲では盗まなかった。
 盗まれたものはいつも悲しみと直結するもので、盗まれた人間の傷付いた心は、悲しみを忘れられたはず。
 泥棒の忘れ盗みは、確かに人間の助けになっていたはずだ。

「悲しいからさ」

 溜め込んだ煙と一緒に、道化の独白がそっと零れた。
 虚ろに天井を眺める瞳が静かに閉じる。燻らす煙が、輪郭を朧に隠す。

「私だって人間だからね。誰かが悲しみ壊れていく様を見続けりゃ、こっちが壊れる。だから私は、嫌うことで人間の悲しみから目を逸らし続けるのさ」

 煙の向こうで、泥棒は独白を続けた。
 一息ごとに燻らす煙は、きっと心の防衛本能。二面性を保ったまま壊れていく心の、ストッパー。

「もう、誰かの壊れそうな悲しみを盗むなんて御免なんだよ」

 哀しげに語った顔が泣いているように見えたのは、深い煙のせいなのだろう。
 少なくとも僕には、この可哀想な泥棒が優しい世界を盗んだとは思えない。
 そんな世界があったのなら、誰よりも渇望するのは彼女以外では考えられないから。

「詩乃ちゃんに、本当のことを言うかい?」
「あなたがそれを、望むなら」
「イジワルだねぇ」
「それ、天月にも言われましたよ」

 口先では誤魔化せても、騙しきれないのが内心で。
 僕はこの救いのない現実を、天月に伝える言葉を持たない。
 最初から分かっていたことだ。時間を重ねるごとに、言葉がなくなっていくことなんて。
 優しい世界の偶像に、僕は歯ぎしりした。

「ニィ君、二条君?」

 ザハロフさんの呼び声に、呼び戻された。

「電話、鳴ってるぜ?」

 言われて初めて、ポケットの中の着信音に気が付いた。
 待機画面には『修治さん』の文字。天月の父親の名前が表示されている。

「はいもしもし、二条です」

 嫌な予感は、どこかに忘れていた。
 あまりにも唐突な物事の前には、直感なんてものは機能しないんだと、後から思った。
 だから、その言葉を聞いた時。

『──、──』

 心臓が、止まった音がした。

「天月が、刺された……?」

 屋外の雨音が、耳元で響いているような気がした。
 それがこれ以上の情報をシャットアウトする防衛本能であったことに気付いたのは、ザハロフさんに胸倉を掴まれた時だった。

「君は今、何をしている?」

 端麗な顔が、目の前にある。
 手元にあった携帯は、彼女の手に渡っていた。

「君が今、するべきことは何だ?」

 冷徹な瞳が、僕を捉えている。
 咥えたピースの火口が、鼻先に触れそうになる。
 タバコの熱に背けそうになる顔を抑えて、真っ向から睨み返した。

「行ってきます」
「よろしい」

 襟首が解放された。
 一万円が机の上に置かれる。

「詩乃ちゃんが救急搬送された病院はそう遠くない。タクシーを呼ぶから、それに乗りたまえ。私もすぐに行く」

 淡々と説くザハロフさんに信頼感を感じつつも、心のどこかでイラ立つ僕もいた。
 どうして天月が刺されたのに、こんなに冷静でいられるんだ。大人って、皆こうなのか?
 考えても仕方なかった。
 頭を振って、一万円をポケットに仕舞う。
 一万円札の下に敷かれていたメモに目を向ける。

「それが私の──八久世《やくせ》巴《ともえ》の連絡先。掛けてくるものなんていやしない、孤独な電話番号さ」

 何かあったら連絡したまえ。
 ザハロフさんがタバコを吹かす勢いは、いつもより早くなっていた。

「ザハロフさん」
「なんだい?」

 声は震えていた。僕も、八久世さんも。
 臆病だからこそ、僕らの言葉は素直だった。

「この電話番号、掛けたくないです」
「……そうだね。私も、この番号が孤独であることを祈っているよ」

 タバコを挟むザハロフさんの指は震えていた。
 十分後に来たタクシーに飛び乗って目的地を伝える。
 僕の様子から何かしらを察した運転手のおじさんは、何も言わない。
 ただ一言だけ聞いてきた言葉は、僕の焦りを少しだけ落ち着けてくれた。

「きっと何もかも大丈夫だよ、お客さん。だからここは、おっさんに預けてくれるかい?」

 頷く。タクシーがスピードを上げる。
 水たまりを跳ね上げ、裏道を抜ける。
 病院に着いて一万円を差し出した僕を、運転手は手で制した。

「今日は店仕舞いだ。行きなさい」

 こんな昼間に仕事が終わるわけがない。
 そう言おうとして、すぐやめて。
 お礼を言って飛び出した。
 ロビーで修治さんと合流した時、天月は緊急手術を受けていた。

「私の、せいなんだ」

 手術室への道すがら。
 苦しげな声音で、修治さんは天月が襲われた経緯を説明してくれた。
 天月への最後通牒があった日から、彼女が外に出るときは必ず誰かがそばにいた。
 けれど今日に限って、油断していたらしい。
 一人で郵便受けを覗きに外へ出たとき、天月は玄関扉に潜んでいたストーカーに刺された。
 修治さんが天月を追って飛び出した時、彼女の背中には包丁が刺さっていた。
 ストーカーは逃走。現在は警察が行方を追っている。

「私が──俺が! 詩乃をもっと見ていれば……!」

 呻く声の大きさとは裏腹に、修治さんの背中は消えてしまいそうなほど萎んでいた。
 僕は何も返せなかった。
 病院の不気味な静寂がそうさせるのかもしれない。
 不思議と、何の感情も湧いてこなかった。
 手術室の前の無機質なソファも、「手術中」の赤い灯も。二時間後にやっと見れた天月の顔も。
 どこかドラマのワンシーンを見ているようで。僕だけがどこか違う所にいるようで。
 曖昧に前後する記憶の順番を、僕は周りに流され続けて追わずにいた。

「来てくれたのね、二条君……」

 何本もの管に繋ぎ止められた、天月のベッド。
 未だに目覚めない天月の横に、母親の小春さんは座っていた。
 渇れたスポンジから最後の一滴を絞り出すような声。
 白く綺麗な顔をした天月よりも、小春さんの方が死んでしまいそうな気がした。

「ありがとうね、あの子と遊んでくれて」

 呆けた小春さんの言葉が、一瞬僕の心臓を止めた。
 冷静になれているはずだった。実感がわかないから、どんな言葉だって受け流せると思っていた。
 でも、彼女の言葉が孕んだニュアンスに、僕の胸の内からはヘドロのような何かが沸き起こる。
 かつてのイジメで天月が見せた微笑みと同じ、怪物に向けた拒絶心だった。

「これからも遊びますよ、何度だって。天月詩乃が、好きですから」

 薄れた理性が吐いたセリフ。
 天月の手を握って微笑みかける修治さんの横で、小春さんは悲しげに天月を眺めた。

 ──なんて顔してんだ。

 ボコボコと、海底のヘドロから湧き出すガスのように。
 グチャグチャになった自分の腸に初めて気が付いた。
 きっと僕は、初めから怒っていて。
 けれど針を振り切ってしまったその怒りに、言葉が追い付かなかった。何に怒っていいか、分からなかった。
 でも今ははっきりわかる。

「……ンて顔してんだよ」

 違うだろ。
 今天月に向ける顔は、そんな諦めた顔じゃないだろ。
 道端の花束に手を合わせるような、白々しい優しさじゃないだろ。

「親なら、親ならどこまでも信じてやれよ! 本人が生きてるのに、周りが勝手に死なせるなよ!」

 立ち上がった反動で、パイプ椅子が倒れる。
 椅子の脚に擦れたリノリウムの床が、歪に鳴いた。

「一番頑張ってるのは天月なんだ! それをただそばで見てるだけの僕らが、諦めるなんて……ッ」

 息が上がっていた。
 肩は震えていた。それでも、この激情は収まらなかった。

「命を、バカにすんなよ!」

 誰も、何も言わなかった。
 抱えきれなくなった言葉を引きずって、病室を飛び出す。
 叫び出したくなる気持ちを抑えて、ロビーで電話をかけた。

『おー二条か、どうしたー?』

 ツーコールで出た友崎の声が、まるで違う世界の住民みたいに明るく感じられた。
 事実だけを淡々と伝える僕の口も、どこか自分の体じゃないような気がした。

『すぐ行く。 お前は天月のそばにいろ』

 布擦れの音と、床を叩く足音。
 靴がコンクリートを擦る音がして、外の喧騒が飛び込んでくる。

『お前は大丈夫か?』

 弾む呼吸を抑えながら、友崎が尋ねてきた。
 そんなの今はどうだっていいだろ。
 どうせなら、あの現場にいたかった。天月の身代わりになってやりたかった。
 けれどそんなことを伝えたって意味はなかったから「僕は現場にいなかったから」とだけ応える。

『そうじゃねーよ。お前の気持ちの問題だよ』

 何を言っているのかわからなかった。
 感情は、もうずいぶんと鈍くなってしまった気がする。
 さっき病室を飛び出した時から。いや、あの電話に出た時から、心臓の音だって聞こえない。

「わからないよ」

 普段「大丈夫」とお茶を濁すはずの口が、弱音を吐く。
 僕の知らないうちに、僕は参っていたのかもしれない。

『そっか、話は後で聞いてやる。天月が待ってんぞ』

 薄情だな、と思った。
 それ以上に、感謝の気持ちもあった。
 足がまた病室に戻る。今は、天月の隣にいないと。

 天月の病室に戻ると、小春さんが泣いていた。
 けれどもう、僕の心は動かなかった。
 心電図の電子音が天月の命を記録しても、役割もわからないチューブが、腕から延びていても。
 きっと僕は正常だった。
 十分後に友崎が来て、桃のお見舞いを置いて病院を後にしたのは、陰鬱な夏の昼下がり。
 僕も友崎も慌てて駆け付けたから、傘はない。

 雨濡れのアスファルトを、ずぶ濡れになりながら歩く。
 会話はない。ただ、いつも僕を置いていく忙しない足音が、今は隣を歩いている。
 別れるはずの十字路も、いつも乗るはずのローカル線も。とっくに通りすぎてもまだ、友崎は僕の隣を歩いた。

「……帰らなくていいの?」
「んー? ついでに散歩もありかなって。ま、余計なことは気にすんな」

 その言葉に返す言葉を、僕は見つけ出せなかった。
 家の前まで送ってもらっても、まだ見つからない。
 けれど、帰っていく友崎の背中をただ見つめるなんて御免だった。

「友崎!」

 気付けば叫んでいた。
 振り返った友崎が無言で言葉の続きを促す。
 言葉はまだ見つからない。だから、一番苦しくて素直な感情をぶつけた。

「僕、天月が好きだ」

 冷たかったはずの心臓に、痛いほどの熱が灯る。
 知らなかった。
 一度は伝えた「好き」の言葉が、何度だって胸をときめかせるなんて。

「天月に伝えたんだ、好きだって。その、キスも、した……」

 照れ臭かった。
 誰かに僕らの関係を伝えることで、あの日重ねた唇の感触を思い出すから。

「僕が、守るはずだったんだ! なのに、守れなかった」

 無力だった。
 どんなことがあっても天月に寄り添うと決めたのに。
 僕が実際に出来たのは、おままごとの延長線上にしか過ぎなくて。

「怖いんだ。天月、死んだらどうしよう……?」

 僕の情けない絶叫を、友崎は黙って聞いていた。
 横殴りの雨に服は黒っぽく染まって、外気は震えを連れてくるほどに冷える。
 それでも友崎は僕と向き合ったまま少し考え、やがて風が収まった頃にニコリと笑った。

「心配すんな、天月はストーカーの望み通りにはなんてならねぇよ。だって、優しくねーんだろ? つか好きなんだろ?」

 じゃ、信じなきゃな。
 そう言ってニッカリと笑った友崎の言葉を、僕は一生忘れないだろう。
 誰かを信じたくなった時に恋が始まって、相手を信じきれなくなった時に恋は終わる。
 そんな単純なことも忘れていた。天月が一番辛いのに、僕は自分しか見ていなかったんだ。

「ありがとう、ちょっと目、覚めたかも」
「そりゃ、この大雨じゃ覚めるわな」

 玄関を出て、友崎に傘を渡す。
 二人とも体は冷えきっていて、それでも笑っていた。
 何か暖かいものが、腹の底にあった。
 それは体が冷え切ったからこそわかる温度だったのかもしれない。

「自分を責めるなよ二条」

 別れ際、手を振る友崎がポツリと呟いた。

「お前はそれで楽になるかもだけどな、相手は「自分のせいで傷つく誰か」に傷付けられるからな」

 それは遠い雑踏のどよめきに紛れて、陰鬱に響く。遠ざかった友崎を、僕はもう引き留めない。
 誰が何を抱えていても、どんなに悲しい事が起こっても。たった一人の泥棒が、全てを救うんだ。
 その為なら僕は、シュレディンガーの猫だって殺して見せる。
 「あり得ない皮肉」を「確定した実在」に変えるんだ。

「僕が、全部変えてやる」

 玄関に据えた郵便ポスト。
 投函されたハガキの裏を見て、僕は決意する。
 不思議と怖くはなかった。