扉が開く。
 暮れ刻の残光が視界を照らした。

「おおー、ここが屋上ですかー」

 降り注ぐ蝉時雨と名残の斜陽を浴びて、天月が駆けていく。
 濡れ烏の艷髪が空に薙いで、漏れ入る光が粒を散らす。

「なんか、新鮮だね」
「おう、立ち入り禁止だからな」

 屋上を歩き回る天月を眺めながら、屋上を見渡す。
 割れたコンクリートから生えた雑草。行方不明になっていたサッカー部のボール。
 山向こうに沈んだ夕陽と相まって、屋上はゾンビ映画特有の、荒廃した世界のようだった。

「なあ、例え話なんだけどさ」

 錆びたフェンスに寄り掛かって、友崎が空を見上げる。
 星はもう、随分顔を覗かせていた。

「天月の事が好きだとしてさ、お前、いつコクるよ?」
「もう何も言わない、じゃなかったっけ?」

 例え話だって、と友崎が笑う。
 僕も笑おうとしたけれど、強ばった頬がそれを許してくれなかった。

「出来ないよ、好きだからこそ」
「ん?」

 笑えなかったから、その言葉は内心よりもずっと固い色で飛び出した。
 もしかしたら、それが僕の本心だったのかもしれない。
 落ちた陽に手を振る天月を眺めながら、そんなことを考える。

「彼女をフッたのは僕だ。僕はどんな顔して、『また付き合って』なんて言えばいい」

 どんなことがあったって、僕が別れ話を切り出した事実はなくならない。
 例え忘れん坊の泥棒に盗まれたとしても、「jude kiss」の隅で燻り続ける。
 結局1は0には戻れなくて、どこか見えないところで在り続けるんだ。

「想いを伝えるには、罪悪感が強すぎるよ」
「なるほどなぁ」

 僕らが見上げる空に、群青は落ちて。
 月が灯したシャンデリアが、淡い光で夜を刺す。

「気持ち、わかるぜ。確かに自分勝手で卑怯な感じ、するよな」

 友崎が浮かべた声は、少し乾いた灰色をしていた。

「けどよ、だからってその続きを妄想して、ずっと後ろばっか見て、立ち止まって。
 そんで成り行きを天月任せにするって事の方が、卑怯なんじゃねぇの?」

 揺れる、揺れる。
 言葉が、感情が。
 支えをなくしたアサガオみたいに。
 なまじ理解と優しさに触れただけ、僕の心は項垂れる。

「それは、そうだけど」

 わかっていた。
 いつまでも自分が停滞していたことも、逃げ続けていることも。
 天月がいないと、何も出来なくなっていたことも。
 どう転んでも、卑怯になってしまうから。だから僕は、ずっと停滞したままでいる。

「告白したって、卑怯は卑怯だよ」

 逃げても卑怯、進んでも卑怯。
 それが一度停滞してしまった、僕への罰。もう潔白ではいられないんだ。

「いーじゃん。人間なんて、もともと卑怯なもんだぜ。何かに折り合い付けないと、生きられないからな」
「確かにそうだね」

 人は独りでは生きられない。
 だから身を寄せあって生きていくし、そのせいで息苦しくなる。
 その息苦しさから逃れたくて卑怯になるし、盗品窟にだってすがり付く。
 僕だってそうだ。
 幼い頃から忘れん坊の泥棒に頼って、嫌なものを盗んでもらって。
 代わりに僕も半分だけ、泥棒になって。
 そうして辿り着いた盗品窟で勇気をもらった。
 何にだってすがると、胸に決めた。

「忘れてたよ。もう好きなようにするんだ、って」
「そりゃいいな」
「二人ともー! 見てくださいよー!」

 天月が遠くから、僕らを呼ぶ。
 僕らは空を眺めても、星を見ようとはしていなかった。

「ちゃんと星見ようぜ」
「そうだね。ありがとう」

 歩き出した背中に言うと、友崎は振り返らないまま笑った。

「例え話だっつーの」

 Jude kissでもらった罪と罰の勇気。
 その勇気に欠けていた「最初の一歩」を、僕はようやく見つけられた気がした。

「綺麗ですねー!」
「うおっ、すげーな!」
「おお、ホントだ……」

 放課後の、立ち入り禁止の屋上。
 「イケナイ事」の背徳感も忘れて、僕らははしゃぎ空を見る。

 夜の低い夏空に、一際輝く星が三つ。
 こと座の織姫と、わし座の彦星。はくちょう座のデネブ。
 今年も雨で流れた七夕に、彼等が出逢った痕跡はなくて。
 ただ哀しい空白を星々で埋めて、三つの星は来年の七夕を待つ。
 それは悲しいほど、美しい星座だった。

「来年は雨、降らないといいですね」

 寄り添うように並んだ天月が、優しく耳打つ。
 フェンスを握る手が触れそうなほど近くて、僕の右手は行き場所を無くしていた。

「そうだね」

 星を眺めたまま、頷きを返した。
 来年の七夕は、晴れていなければいけない。
 忘れん坊の泥棒から返してもらった七夕竹に、飾れなかった短冊を飾るのだから。 

「こう言うの、憧れてたんだよなー」
「映画によくあるもんね」
「ま、大体バレるけどな」

 左に立った友崎がもたれ掛かったフェンスを軋ませる。

「私それ知ってます」
「お、マジで?」
「はい、確か「フラグ」って言うんですよね」
「あー、そっちかー」
「僕は言うと思ってた」
「さっすが元カレ君ですねー」

 楽しく笑う僕達に、もう怖いものなんてなかった。
 冷静に考えれば、一番無防備な状態なのに。何でも出来るような自信が、僕らの声を大きくする。

「俺は、やりたいことやって生きるぞー!」
「私は、優しい世界を返してもらいまーす!」

 友崎が叫び、天月が続き、そして僕は覚悟を決める。

「よし、決めた」

 叫ぶ。
 伝える。
 大切な気持ちを、覚悟を。
 忘れん坊の泥棒に会って、何をするのか?

(朱染めの黒は、恋なのか……)

 吐き出す言葉は短くていい。
 今なら何でも言える気がするから。
 伝えるんだ。
 叫ぶんだ。

「僕は、」

 肺に満たした夜の空を、吐き出す瞬間──

「何してんだぁお前らぁ!!」

 扉が開いて、体育の中里先生が怒鳴り声を上げた。

「うっわ! よりによって中里かよ!」

 逃げるぞ!
 友崎が言うまでもなく、僕らは走っていた。
 バラバラになって先生の目を分散させ、一直線に扉を目指す。

「中里ー、こっちこっちー!」
「お、おい友崎、やめろコラ!」

 背後で二人の声がした。
 楽しそうな声と、焦った声。

「ははっ! いいねいいね!」

 僕らは振り返る。
 友崎がフェンスの上に立っている。

「こんな青春、やってみたかったんだよ、俺!」

 中里先生の向けた懐中電灯が、フェンスの上の友崎を照らし出す。

「でもまだ、やってねぇ事があるんだ!」

 十センチもない足場に爪先立って、両手を広げて、友崎が僕らに笑いかけていた。
 心の底から楽しげで、悪戯な笑顔。

「映画のフラグを知ってんなら。わかるよな、天月!?」

 うろたえる中里先生を足元に、友崎は満面の笑顔で叫ぶ。

「ここは俺に任せて──先に行け!」

 バカだ。
 イカれてる。
 一歩踏み外せば、四階から真っ逆さまなのに。
 そんな状況で叫んで、小躍りして、笑っているなんて。
 頭おかしいんじゃないのか?

「どうかご無事で!」

 天月も、なんで乗るんだ?
 ここにいる全員、頭がイカれてる。

「行きますよ、二条くんっ」

 でも、

「うん、行こう!」

 そんな茶番に心踊らせる僕も、頭がイカれてるのだろう。

「えぇっ、お前ら友崎置いてくのか!?」
「友崎さん、また桃食べに行きます!」
「生きて会おう、友崎!」

 中里先生の狼狽をBGMに、僕らは屋上階段に飛び込んだ。
 扉を閉めるその瞬間。
 僕らに親指を立てる友崎の笑顔に、僕も笑ってしまった。

『内申点が無事で帰れると思うなよ、友崎ィ!』
『かかってこいやぁ!』

 階段を飛び下りて、廊下を走り抜けて。
 暗い廊下の雰囲気に心踊る。
 今の時間、生徒用玄関は閉まっている。
 唯一開けられている職員用玄関までの最短ルートを、全力で駆け抜ける。

「ガッハッハッハー!」
「アハハ、ハハハ!」

 いつかの鬼の物真似で、天月は笑う。
 床を殴る騒々しい足音。薄い上靴越しに伝わる、床の固さ。
 隣を走る、天月の吐息。上気した頬。
 煌めく、淡い、深海の瞳。

 胸がざわついた。
 いつものドキドキとは、少し違う。
 もっと淡くて、苦しくて。体を芯から突き動かすような、衝動。
 職員玄関を飛び出しても、ドキドキはずっと止まらなかった。
 きっとこれは、天月と離れないと治まらない。けれど、離れたくないのも事実で。

『──お前、いつコクるよ?』

 友崎の言葉が、頭をガンガンと殴った。
 もう誤魔化せない。
 天月に抱いたこの感情は、何なのか?
 朱染めの黒は、恋なのか?
 そんなの、とっくにわかってる。

(恋だ)

 恋に決まってる。
 こんなにも苦しくて、こんなにも嬉しくて、夜になる度想い起こす。
 そんなものが恋じゃないのなら。
 きっと織姫も彦星も、七月七日に天の川を渡ったりはしない。

「待てキミたち! 待ってくれー!」

 校門の手前。懐中電灯を揺らして、公務員のもっさんさんが走ってくる。

「もっさんさんです!」
「校門越えるよ、天月!」
「はいっ」

 待つと言われて待つ者はいない。
 校門を乗り越えて、僕らは夜に駆けていく。
 荒いアスファルトの地面を蹴って、光のあるあの街へ。

「天月、修治さんにお迎え頼める?」
「もうとっくに呼んでますよー」
「流石」

 仕事が早い。
 これなら帰り道も安心できる。
 長い坂道を駆け下りて、焼き鳥屋のそばに出た。
 見覚えのある車が停まっている。

「さあ乗れ、ずらかるぞ!」
「まだ一人残ってますっ」
「彼はもうダメだ、早く!」

 なんで修治さんも乗り気なんだろう?
 車窓を開けて僕らを呼ぶ父親は、この作戦を知らなかったはずなのに。

「詩乃からのメールで察したよ。やー、若い頃に戻ったみたいだ!」

 満面の笑みでハンドルを握る修治さんを見て、合点がいった。
 天月の意外な|《ルビを入力してください》ノリの良さも、手際の良さも。全部この父親あってこそなのだろう。

「二条君、早く乗ってください!」

 後部シートに乗った天月が、車窓を開けて僕を呼ぶ。
 でも、

「二条君?」

 迎えの車に、背を向けた。
 僕にもまだ、やらなきゃいけないことがある。

「ごめん、僕にもやることがあるんだ」

 修治さん、お願いします。
 運転席に軽く振り返って、頭を下げる。
 
「えっ、まさか、友崎さんを?」

 違う、アイツは割とどうでもいい。
 なんてことは言えないから、ひとまずは頷いておいた。
 本当のことを言ったらきっと、天月は付いてくるだろうから。

「二条君」

 歩き出す足を、修治さんが引き留めた。
 重い声。電話口に聞いたあの声と、同じだった。

「君も、気を付けるんだよ」

 その言葉は、役割《ロール》に沿った台詞《プレイング》じゃない。
 誰かを心配する、一人の男の「忠告」だった。

「わかりました」

 言葉の意味するところは知っている。
 だから、きっちり振り返って頭を下げた。
 車が走り出す。
 車窓から飛び出た天月の顔が、離れていく。

「また、またメールします!」

 遠ざかる天月を見送って、学校へ走った。
 友崎を助けたい訳じゃない。

 ──何なら明日、泥棒が盗んだ七夕竹でも返しておこうか?

 消えたコンビニと、戻ってきた七夕竹について。
 あの哀れな武器商人に聞きたいことがある。

(多分、ザハロフさんは)

 そこまで考えて、思考を切り替える。
 この一連の泥棒騒動。その解を求めるには、まだ情報が足りない。
 見上げた空には、夏の大三角形が悲し気に瞬いていた。