月が空に映える頃。
蝉時雨の止んだ夜空には、キリギリスの音色が溶けていた。
夜になって尚も残熱を放つアスファルトは、まるで夏の呪いにでもかかったよう。
まとわりついた熱気を振り払うように、僕は夜の町を歩いた。
『やあ、ビンゴだ。久しぶりだね、半分の泥棒サン?』
昼下がりの電話に出たのは、駄菓子屋ノーベルの店主ザハロフさんだった。
混乱は未だに解けない。
『今夜、店の裏から入ってくるといい。チョコを用意して待っているよ』
なぜ友崎がノーベルとザハロフさんを?
なぜザハロフさんは何も聞いてこないんだ?
頭が答えを探す一方で、体はすでに動き出していた。
「コンビニ行ってくる」
「パンスト買ってきて」
「コンビニだよ」
「売ってる売ってる」
「やだよ」
母さんには、嘘を残して家を出た。
駄菓子代と、往復分の小銭をポケットに突っ込んで、電車に飛び乗る。
『遠光台、遠光台~。お出口は~、左側、です。開くドアにご注意ください』
間抜けたアナウンスに送られて、改札を出た。
ノーベルの最寄り駅は、遠光台高校の建つ小山の麓にある。少し歩いて高校の山を越え、「jude kiss」の看板の掛かった裏口に着いたのは、コオロギの唄う夜九時頃だった。
「ごめん下さい」
「やあ半人前の泥棒君、待っていたよ」
仄かに明かりの漏れる店内に足を踏み入れると、店の奥から声が歩いてきた。
「改めてここの店主、バジル・ザハロフだ。よろしく頼むよ」
薄ら褪せた丈長のカーディガンを羽織って、見知った女性が顔を覗かせた。
「お久し振りです。なんです、ここ?」
「入り口に書いてあったろう?」
裸電球の淡い光。隙間風に揺れる彼女の影が、指にシケモクを弄ぶ。
「ジュード・キス。《ユダの接吻》さ」
どこか虚ろな瞳を揺らして、ザハロフさんは随分と短くなった煙草をくわえた。
火灯りも、紫煙も出ない。
前に嗅いだバニラの香りはもうくすんで、今はただ苦い残り香だけを漂わせていた。
「そうじゃなくて」
言葉を探す脳が、考えるのを止めた。
シケモクをくわえるザハロフさんの目が、深い海底のように暗かったから。
「ここは、何を売る店ですか?」
「なんでもさ。在庫があれば、武器だって淡い恋心だって、なんだって売るよ」
訳がわからない。
いつものザハロフさんの戯れ言か、それとも誇大表現か。どっちにしても、少し引っ掛かった。
いつもニヒルに笑うザハロフさんが、今日に限っては笑いもしない。
泥棒にだけは真剣な友崎の紹介もあってか、疑問は募るばかりだ。
「……友崎達馬もここに来たんですか?」
「おや、ザキ君の紹介だったか」
カーディガンのポケットから五円玉のチョコレートを取り出して、僕に渡してくる。
ポケットの小銭を出そうとすると、首を振られた。どうやら好意らしい。
「有り難う御座います」と言って、口に含む。何故だか、苦い。
「彼の母親が常連だったのさ。彼はその付き添いで、よく来ていたよ」
懐かしそうに語るその瞳は、けれど深い黒に沈んでいて。虚ろだったそれはどんどん剣呑になっていく。
「さあ、最初の質問に答えようか」
ささくれだった瞳が、僕を見据えた。
足がすくむ。息がつまる。光のない瞳に、視線が吸い込まれる。目眩がした。
「ここは、負け犬共の避難所。忘れん坊の泥棒が盗んだ「要らないもの」を売りさばく、卑しい盗品窟さ」
さて、何がお望みだい?
ザハロフさんの声が歪む。耳に膜が掛かったように、脳内で言葉が反響する。
忘れん坊の泥棒?
盗んだもの?
盗品窟?
なぜザハロフさんがそんな店を?
何度キーワードを繰り返しても、答えなんて出やしない。
「本当に、何でもあるんですか?」
「ああ、もちろんだとも。何なら明日、泥棒が盗んだ七夕竹でも返しておこうか?」
「やれるものなら」
混乱する頭で、なんとか言葉を絞り出す。
ザハロフさんが喋る度、頭がこんがらがっていく気がした。
夏休みの始め。天月と探した七夕竹は、僕たち二人しか知らない最初の泥棒探し。
それを的確に言い当てられたのだから、僕の頭はますます混乱していく。
「あの……それと」
「強欲なお客さんだ、まだ何か?」
疑問符でごった返す思考が、何かにすがろうとする。
射抜くようなザハロフさんの冷たい瞳も気にせず、ただ答えだけを求めて、口を開く。
「イジメられていた女の子、いませんか?」
それはきっと、あの日のかくれんぼ。消えてしまった、消させてしまった女の子の記憶。
泥棒を頼った僕に背負わされた、罪と罰への懺悔なのかもしれない。
「会ってどうする?」
胡乱な視線が僕を試す。侮蔑と諦念を混ぜた、黒の瞳孔。
考えなしに言葉を吐く僕に、その瞳はいやに小さく映った。
立ったままの足に流れ落ちていく血液が、やけに熱くて居心地が悪い。
「謝ります。僕のせいで、彼女の人生を変えてしまったから」
「独善的だね。それで思い出したくない傷を抉るのかい?」
ぎりり、と歯が鳴った。
僕じゃない、ザハロフさんだ。一緒に噛み締めたシケモクが、歯と歯の間で潰される。
「そりゃ独善だよ、独善。君は謝ってある程度スッキリするだろうが、生乾きの傷を抉られた少女はどうなる? また血を流すぜ」
苦虫を噛み潰した。僕も、ザハロフさんも。
初対面の人間に助けを求めるくらい傷付いた少女から、僕は家族を奪ってしまった。
そして今度は、時間が癒しかけた傷を抉ろうとしている。何も、言い返せない。
「結局の所、君は虚飾と利己主義の塊さ。人間臭いったらありゃしない」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「知らんよ」
詰め寄る僕に、ザハロフさんは吐き捨てる。
「それより君は、何かマズいことになったからここに来たんだろう?」
言われて初めて、自分がストーカー被害に巻き込まれつつあることを思い出す。
「何もかもお見通しって訳ですか」
「そうでもないさ」
すくめた肩から、長い髪が滑り落ちる。
この盗品窟にいると、ザハロフさんの機嫌はどんどん悪くなっていくような気がした。
「この件について、君はあくまでついでだよ」
「天月詩乃の、ですか?」
「そ。ストーカーの件だろう?」
細く形のいい眉が、片方上がる。
「やっぱり知ってたんですね」
「当たり前さ。君が知るずっと前から、私は知っていたとも」
予想通りだ。ザハロフさんは天月のストーカーを知っていた。
でなければ普段くれないレシートを、わざわざ郵送する必要がない。
「君がストーカーに恨まれてるってのは、何も昨日始まった訳じゃないぜ」
それはそうだ。ストーカーが天月に病的な恋心を抱いたのなら、その元恋人である僕はマークされる。
しかもその元カレが未だに天月と仲がいいとなると、その憎悪が僕に向くのはある種の必然だ。
「もとから、薄々考えてはいましたよ」
「可哀想に。どうやら君には、危機感が足りないらしい」
褪せたカーディガンの胸元で、華が散った。
透けた蒼が押し上げる夕暮れ色の火。仄かに鼻を突くガスの香り。
マッチの安い火が、湿気たタバコに灯りを点す。
噎せ返るほどに重くて、少し据えたバニラの臭い。前に嗅いだタバコとは、何もかもが違った。
「あの、臭いんですけど」
苛立つ感情が声に乗る。
それでも道化師は、全く気にしなかった。
「いいじゃないか、楽しみなよ。最高のアドリブさ」
死んだ目の道化が、死んだ煙を吐き出して。窓辺の月がそれを嗤う。
あまりにも冷たい光景。楽しむなんて、とてもじゃないけどできない。
「泥棒がね、一度詩乃ちゃん宛の殺害予告を盗んできたんだ」
埃を被った棚から一通の封筒を出す。
チラリとザハロフさんの手から覗いたそれは、隙間なく貼られた切手に彩られている。
「それ、ストーカーの」
「そうとも。これが奴から届いた、最初の一通さ」
シケモクが照らすストーカーの手紙。
二日連続で触れるその存在に、胃がねじ切れそうになる。
「こないだ教えた「泥棒の呪い」は覚えてるかい?」
様々な角度で封筒を眺めながら、ザハロフさんが尋ねてくる。
「無意識に盗みを行う、半人前の泥棒になる」
「そう、その通りさ。後は?」
「盗んだものを忘れられなくなる」
「上等。だがそれを応用すれば、こんなこともできる」
今から君にお見せしよう。
短くなったシケモクの煙を、ザハロフさんがそっと吐き出す。
温い夜に溶けるはずの紫煙は、けれど消えず。灰の煙を夜に広げて、僕らを包んだ。
「なんです、これ……?」
噎せるような煙たさもなく、匂いもなく。
ただ僕らを包む煙は、まるで生き物のようだった。
「まあ、見てなよ」
ザハロフさんの瞳が哀しげに細まった。
同時に、煙の中に映像が浮かび上がる。
(天月……?)
煙の中に、天月詩乃がいた。
蝉時雨の止んだ夜空には、キリギリスの音色が溶けていた。
夜になって尚も残熱を放つアスファルトは、まるで夏の呪いにでもかかったよう。
まとわりついた熱気を振り払うように、僕は夜の町を歩いた。
『やあ、ビンゴだ。久しぶりだね、半分の泥棒サン?』
昼下がりの電話に出たのは、駄菓子屋ノーベルの店主ザハロフさんだった。
混乱は未だに解けない。
『今夜、店の裏から入ってくるといい。チョコを用意して待っているよ』
なぜ友崎がノーベルとザハロフさんを?
なぜザハロフさんは何も聞いてこないんだ?
頭が答えを探す一方で、体はすでに動き出していた。
「コンビニ行ってくる」
「パンスト買ってきて」
「コンビニだよ」
「売ってる売ってる」
「やだよ」
母さんには、嘘を残して家を出た。
駄菓子代と、往復分の小銭をポケットに突っ込んで、電車に飛び乗る。
『遠光台、遠光台~。お出口は~、左側、です。開くドアにご注意ください』
間抜けたアナウンスに送られて、改札を出た。
ノーベルの最寄り駅は、遠光台高校の建つ小山の麓にある。少し歩いて高校の山を越え、「jude kiss」の看板の掛かった裏口に着いたのは、コオロギの唄う夜九時頃だった。
「ごめん下さい」
「やあ半人前の泥棒君、待っていたよ」
仄かに明かりの漏れる店内に足を踏み入れると、店の奥から声が歩いてきた。
「改めてここの店主、バジル・ザハロフだ。よろしく頼むよ」
薄ら褪せた丈長のカーディガンを羽織って、見知った女性が顔を覗かせた。
「お久し振りです。なんです、ここ?」
「入り口に書いてあったろう?」
裸電球の淡い光。隙間風に揺れる彼女の影が、指にシケモクを弄ぶ。
「ジュード・キス。《ユダの接吻》さ」
どこか虚ろな瞳を揺らして、ザハロフさんは随分と短くなった煙草をくわえた。
火灯りも、紫煙も出ない。
前に嗅いだバニラの香りはもうくすんで、今はただ苦い残り香だけを漂わせていた。
「そうじゃなくて」
言葉を探す脳が、考えるのを止めた。
シケモクをくわえるザハロフさんの目が、深い海底のように暗かったから。
「ここは、何を売る店ですか?」
「なんでもさ。在庫があれば、武器だって淡い恋心だって、なんだって売るよ」
訳がわからない。
いつものザハロフさんの戯れ言か、それとも誇大表現か。どっちにしても、少し引っ掛かった。
いつもニヒルに笑うザハロフさんが、今日に限っては笑いもしない。
泥棒にだけは真剣な友崎の紹介もあってか、疑問は募るばかりだ。
「……友崎達馬もここに来たんですか?」
「おや、ザキ君の紹介だったか」
カーディガンのポケットから五円玉のチョコレートを取り出して、僕に渡してくる。
ポケットの小銭を出そうとすると、首を振られた。どうやら好意らしい。
「有り難う御座います」と言って、口に含む。何故だか、苦い。
「彼の母親が常連だったのさ。彼はその付き添いで、よく来ていたよ」
懐かしそうに語るその瞳は、けれど深い黒に沈んでいて。虚ろだったそれはどんどん剣呑になっていく。
「さあ、最初の質問に答えようか」
ささくれだった瞳が、僕を見据えた。
足がすくむ。息がつまる。光のない瞳に、視線が吸い込まれる。目眩がした。
「ここは、負け犬共の避難所。忘れん坊の泥棒が盗んだ「要らないもの」を売りさばく、卑しい盗品窟さ」
さて、何がお望みだい?
ザハロフさんの声が歪む。耳に膜が掛かったように、脳内で言葉が反響する。
忘れん坊の泥棒?
盗んだもの?
盗品窟?
なぜザハロフさんがそんな店を?
何度キーワードを繰り返しても、答えなんて出やしない。
「本当に、何でもあるんですか?」
「ああ、もちろんだとも。何なら明日、泥棒が盗んだ七夕竹でも返しておこうか?」
「やれるものなら」
混乱する頭で、なんとか言葉を絞り出す。
ザハロフさんが喋る度、頭がこんがらがっていく気がした。
夏休みの始め。天月と探した七夕竹は、僕たち二人しか知らない最初の泥棒探し。
それを的確に言い当てられたのだから、僕の頭はますます混乱していく。
「あの……それと」
「強欲なお客さんだ、まだ何か?」
疑問符でごった返す思考が、何かにすがろうとする。
射抜くようなザハロフさんの冷たい瞳も気にせず、ただ答えだけを求めて、口を開く。
「イジメられていた女の子、いませんか?」
それはきっと、あの日のかくれんぼ。消えてしまった、消させてしまった女の子の記憶。
泥棒を頼った僕に背負わされた、罪と罰への懺悔なのかもしれない。
「会ってどうする?」
胡乱な視線が僕を試す。侮蔑と諦念を混ぜた、黒の瞳孔。
考えなしに言葉を吐く僕に、その瞳はいやに小さく映った。
立ったままの足に流れ落ちていく血液が、やけに熱くて居心地が悪い。
「謝ります。僕のせいで、彼女の人生を変えてしまったから」
「独善的だね。それで思い出したくない傷を抉るのかい?」
ぎりり、と歯が鳴った。
僕じゃない、ザハロフさんだ。一緒に噛み締めたシケモクが、歯と歯の間で潰される。
「そりゃ独善だよ、独善。君は謝ってある程度スッキリするだろうが、生乾きの傷を抉られた少女はどうなる? また血を流すぜ」
苦虫を噛み潰した。僕も、ザハロフさんも。
初対面の人間に助けを求めるくらい傷付いた少女から、僕は家族を奪ってしまった。
そして今度は、時間が癒しかけた傷を抉ろうとしている。何も、言い返せない。
「結局の所、君は虚飾と利己主義の塊さ。人間臭いったらありゃしない」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「知らんよ」
詰め寄る僕に、ザハロフさんは吐き捨てる。
「それより君は、何かマズいことになったからここに来たんだろう?」
言われて初めて、自分がストーカー被害に巻き込まれつつあることを思い出す。
「何もかもお見通しって訳ですか」
「そうでもないさ」
すくめた肩から、長い髪が滑り落ちる。
この盗品窟にいると、ザハロフさんの機嫌はどんどん悪くなっていくような気がした。
「この件について、君はあくまでついでだよ」
「天月詩乃の、ですか?」
「そ。ストーカーの件だろう?」
細く形のいい眉が、片方上がる。
「やっぱり知ってたんですね」
「当たり前さ。君が知るずっと前から、私は知っていたとも」
予想通りだ。ザハロフさんは天月のストーカーを知っていた。
でなければ普段くれないレシートを、わざわざ郵送する必要がない。
「君がストーカーに恨まれてるってのは、何も昨日始まった訳じゃないぜ」
それはそうだ。ストーカーが天月に病的な恋心を抱いたのなら、その元恋人である僕はマークされる。
しかもその元カレが未だに天月と仲がいいとなると、その憎悪が僕に向くのはある種の必然だ。
「もとから、薄々考えてはいましたよ」
「可哀想に。どうやら君には、危機感が足りないらしい」
褪せたカーディガンの胸元で、華が散った。
透けた蒼が押し上げる夕暮れ色の火。仄かに鼻を突くガスの香り。
マッチの安い火が、湿気たタバコに灯りを点す。
噎せ返るほどに重くて、少し据えたバニラの臭い。前に嗅いだタバコとは、何もかもが違った。
「あの、臭いんですけど」
苛立つ感情が声に乗る。
それでも道化師は、全く気にしなかった。
「いいじゃないか、楽しみなよ。最高のアドリブさ」
死んだ目の道化が、死んだ煙を吐き出して。窓辺の月がそれを嗤う。
あまりにも冷たい光景。楽しむなんて、とてもじゃないけどできない。
「泥棒がね、一度詩乃ちゃん宛の殺害予告を盗んできたんだ」
埃を被った棚から一通の封筒を出す。
チラリとザハロフさんの手から覗いたそれは、隙間なく貼られた切手に彩られている。
「それ、ストーカーの」
「そうとも。これが奴から届いた、最初の一通さ」
シケモクが照らすストーカーの手紙。
二日連続で触れるその存在に、胃がねじ切れそうになる。
「こないだ教えた「泥棒の呪い」は覚えてるかい?」
様々な角度で封筒を眺めながら、ザハロフさんが尋ねてくる。
「無意識に盗みを行う、半人前の泥棒になる」
「そう、その通りさ。後は?」
「盗んだものを忘れられなくなる」
「上等。だがそれを応用すれば、こんなこともできる」
今から君にお見せしよう。
短くなったシケモクの煙を、ザハロフさんがそっと吐き出す。
温い夜に溶けるはずの紫煙は、けれど消えず。灰の煙を夜に広げて、僕らを包んだ。
「なんです、これ……?」
噎せるような煙たさもなく、匂いもなく。
ただ僕らを包む煙は、まるで生き物のようだった。
「まあ、見てなよ」
ザハロフさんの瞳が哀しげに細まった。
同時に、煙の中に映像が浮かび上がる。
(天月……?)
煙の中に、天月詩乃がいた。