「何話してたんですか?」
部屋に戻っても、天月は枕に顔を埋めたままだった。
くぐもった声で差し出された手に携帯を返す。
「別に何でも。三ヶ月もストーカー被害を黙ってたんだってね」
「何でもあるじゃないですか、うぇ~……」
消え入りそうな声で唸って、天月は足をバタつかせる。駄々っ子みたいだ。
「怒ってます?」
枕の隙間から、チラリと天月の眼が覗く。
潤んだ瞳。けれど目元は赤くないから、泣いてはいないだろう。
「怒ってないよ」
「じゃあ、こう言ったら怒りますか……?」
揺れる。天月の瞳が、細い声が。
どこにも行けなくなった動揺の代わりに、僕に向けられる。
「『今日は泊まっていって下さい』って」
不安に瞳を揺らしながら、まっすぐに僕を見つめる天月の顔。
その表情に、間違いなく揺らぐ僕がいる。
散々「変わってる」と思っていた少女の、今さらになって垣間見る「普通」の顔。
──あの子が「普通の女の子」としての姿を見せ、年相応に「好き」を言葉にするのなら。それはきっと君に向けてだろう
修治さんの言葉を思い出して、目を瞑った。
僕は天月を「普通の女の子」とは思えない。普通と言い切るには、彼女は僕にとって近くに居すぎたから。
天月が普通の女の子だとしたら、僕らの「答え合わせの日」は、存在する必要がなくなるから。
僕は頭を振る。
「怒らないよ」
修治さんと約束したから。天月がきっと、怯えているから。
誰かの弱味を言い訳に、自分の欲望を満たすのは、卑怯なのだろう。
わからなくなった答えを先延ばしにするのは。本当はわかっている答えから目を逸らすのは、臆病なのだろう。
「本当に、本当ですか?」
「うん、親に伝えてくるよ」
もう一度部屋を出る。
後ろ手で扉を閉めると、膝が崩れた。
「……っ」
わかってる。
わかってるんだ、自分が卑怯な臆病者だってことぐらい。
でも臆病だからこそ、卑怯だからこそ。誰かに寄り添うことが出来るんだ。
「いつまでも、悩み続けてやる」
独白を一つ。スマホを取り出して、電話をかける。
ツーコールで出た母親に、一方的に用件を伝える。
「今日友達ん家に泊まる。晩御飯は要らないけど、余ったら明日帰って食べる」
『えっ? 何、突然。パンツは?』
「帰ってから履き替える」
『ばっちー。……向こうさんのお家に迷惑かけちゃ駄目よ』
「わかってる、じゃ」
放任主義で助かった、と通話を切る。
夕暮れに鳴くセミに混じる、ヒグラシの淡い声。
随分と目立つようになってきたその淡さに、なぜか焦りが沸いてくる。
「大丈夫だったよ、今日は泊まらせてもらうね」
また部屋に戻る。
電気の着いていない部屋は、ほんのりと夕焼け色に染まっていた。
「すみません、ワガママ言って」
「いいよ。ちょうど暇だった」
そこから僕らは、夕飯の買い出しに向かった。
とは言ってもバイトもしていない僕らにお金なんてなくて。買えるものと言ったら、コンビニの弁当くらい。
後はスナック菓子やコーラ。そこに数本のチューハイを買い物かごに入れ、天月はレジに向かった。
「天月、何歳だっけ?」
「元カノの歳も忘れるなんて元カレ君ったら薄情ヤローですね」
「じゃあ余計ダメじゃん」
「大丈夫ですよ、タバコは嫌いですから」
「そう言う問題じゃないんだよなぁ」
溜め息を吐いても、天月は止まらない。
「どのみち年齢確認で止められるだろう」と思っていたレジも、即座にパネルをタッチして回避。レジ店員も細かく確認しようとはしない。
学生アルバイトの怠惰を利用すると言う、なんとも姑息な方法だった。
「ふふん、行きますよ二条君」
天月が自慢気に笑いかけてくる。
鈍い僕は、その時になってようやく気が付いた。
「そのための化粧だったか」
「いぐざくとり~です」
商品を積めてもらった袋を手に、天月は得意気に笑う。
おかしいとは思っていた。家を出る前に脱衣室に籠るし、出てきたら出てきたで化粧をしているし。
初めて見たその化粧姿に、不覚にもドキッとしたし。
「にしても、割り勘だなんて水くさいですよ」
「僕が奢るって言ったのに、君が拒否ったんじゃないか」
「私が全部出す予定だったんですよ」
「いいじゃん、折衷案だよ」
ブンブンと袋を振りながら歩く。
中にはコーラやチューハイも入っているのに、随分と迷いがない。
一方の僕は、家に着くまでずっとストーカーを警戒して、落ち着かなかった。
「パーリー会場到着です」
何事もなく家に着く。
何も入っていないポストに安堵して、玄関に靴を揃えて天月の部屋へ。
クーラーの効いていない部屋は、ほぼ蒸し風呂状態だった。
「さあ、レッツ・パーリーです!」
戸締まりを終えた頃には、陽も山向こうに沈みかけていた。
部屋は昏い。天月の取り出した偶数のチューハイを見て、嫌な予感を覚える。
「ちょっと待って」
「はい?」
「それ、僕のもあるの?」
「もちろん、元カレ君を仲間外れにはしませんとも」
嬉しくない、そんな平等。
第一僕らは未成年。自称進学校特有の厳しい校則に照らし合わせれば、飲酒は停学だ。
誰も守らない校則を律儀に守ろうとも思わないけれど、無理に破ろうとも思わない。
「ダメ、それは全部修治さん用にしな」
「父は下戸ですよ」
「じゃあお母さんに」
「下戸」
「じゃ僕の両親に。お金は払う」
「なんでそんな堅いんですかー!」
当たり前だ。
幾ら修治さんと約束したからと言っても、天月を悪い方向に行かせていい訳じゃない。
「逆になんでそんな飲みたいの?」
瞬間、天月の瞳孔が色を手放した。
無理に作った微笑みが、空回りする。
「怖いからですよ」
足元から這い上がってくるような、冷たい声だった。
取るべき反応も、行動も。何もかもを奪い去っていく。
「嫌なことがあるから、飲んで忘れたいんです。カッコつけたいとか、そんなんじゃないですよ」
身勝手な理由でストーキングされ、独りぼっちにされ。それでも彼女が明るく振る舞うには、酒は必要なのだろう。
本当はダメなことなのに、それでも今の僕には、それを諭す語彙も理屈もなかった。
「……付き合うよ」
チューハイを取る。
天月が心配そうな目でこちらを見ていた。
「無理しなくていいですよ?」
「してない。ただ、今日飲んだら二十歳までは我慢してほしい」
「嫌なことがあっても?」
「ああ、その度に僕が聞くのはダメ?」
「ダメじゃないです、けど……」
プルタブを起こす。景気のいい音がして、炭酸が弾ける。
「けど?」
口を付ける寸前で止めて、視線を天月に送る。
天月の顔がうつむく。仄かに紅の乗った唇で口ごもり、慎重に言葉を溢す。
「いいんですか?」
「……」
その問いには答えなかった。
代わりに、チューハイに口を付けた。
鼻を抜けるレモンの風味と、舌に残る渋味とも苦味とも言える刺激。
その冷たさが喉を下った一拍後に、顔が暑くなる。
初めて飲んだ酒の雰囲気に、少し面食らった。
「飲みなよ、これが十代最後のお酒さ」
「いただきます」
勧められるがままに、天月もプルタブを起こして口を付けた。
小さな喉がコクリコクリと音を鳴らして、透明なアルコールを飲み込んでいく。
少し、ペースが早いようにも思える。
「ぷはっ」
湿った唇から息を吐いて、天月は缶を差し出した。
「なに?」
「乾杯です。やらなかったじゃないですか」
「ああ」
そう言えばそうだった。応じるように、缶を出す。
「「乾杯」」
缶をぶつけた。
中の酒が波打って、小さな泡が飛ぶ。気にせずまた煽る。
チェイサーも入れず、時々思い出したように、床に置かれたスナック菓子を摘まむ。
一杯目を開ける頃には、部屋は真っ暗になっていた。いつのまにか点けていたベッドのライトが、僕らを淡く包んでいる。
「フフッ……」
何かが小さく弾けたように。例えば小さな蕾が、春を迎えて一斉に咲いたように。
天月は静かに笑った。
「これでオトナ、ですか?」
心臓が跳ねた。
その台詞は、僕らが初めて口づけを交わした日の言葉だったから。
わざと言っているのか、本当にただの天然なのか。どっちにしても、意地が悪い。
「……さあ。どうだろうね?」
そしてその言葉にかつての恋愛を重ねてしまう僕も、意地が悪いのだろう。
「じゃあ、元カレ君の思うオトナになってみます?」
「あー、キスの上ってこと?」
「そうなりますねー」
もう随分と回らなくなった頭は、やけに欲望に忠実で。けれど中途半端に残された理性の欠片が、それを半端に諌めている。
きっと人間の「たが」なんて、缶チューハイ一本で外れるような欠陥品だ。
「そんなの、恋人同士でやるもんでしょ」
「愛のない行為って、なんか『あだるてぃー』じゃらいです?」
「ダーティーだよ。酔ってるな」
「やーん、元カレ君に襲われちゃいますねー」
暗い中でもはっきりわかる程紅潮した頬を撫でて、天月は「あだるてぃー」と連呼する。
「がおー」
興が乗って、僕も彼女を襲うジェスチャーを模した。
「おー、あ……?」
バランスを崩す。
ふわふわと足が消えたような感覚がして、立ち上がったはずの体が何かに受け止められる。
柔らかい感触。雰囲気に染まった毛布。お腹を抱えて笑う、横になった天月。
僕はどうやら、天月のベッドに倒れ込んだらしい。
「こりゃ僕も酔ってるな」
「口調だけシラフとか、元カレ君ったらアンドロイドー!」
ムッとして、天月の手を引いた。
指を差して笑うその声が、あんまりにもうるさかったから。
火照った掌からも感じる、天月の手の熱さ。酔って潤んだ瞳、垂れた眦。
「おっとと……」
引かれた手に続いて、彼女の体も落ちてきた。
軋むベッド。弾む天月の体。夜に揺れる瞳、重なった手。
触れそうな程近い、天月の顔。
シングルのベッドに二人。見つめあって、その距離感に心を揺らす。
「……っ」
酒臭い息を嗅がれたくなかったから、呼吸を止めた。
息ができなくて、苦しくて。そうしていつか、心臓までも止まればいいと思った。
胸の鼓動を聞かれるなんて、恥ずかしかったから。
「私、酔ってます」
僕の空いた手を、天月の指が絡め取った。
潤んだ瞳は近いまま。酒臭く、けれどどこか甘い吐息が僕の脳裏を揺さぶる。
「だから、せめて今日だけは」
絡め取られた僕の掌に、天月の唇が触れた。
次いで、自分の唇につけた指を、僕の唇に這わせる。
アルコールに頭をやられた僕は、ただそれを見ていた。キスにはする場所によって異なる意味があったけど、そんなことはもう思い出せない。
言葉を発するのも億劫な中で、僕はただ一言だけを引きずり出す。
「答え合わせ……」
「わかってます。見付けてから、ですよね?」
「そう、見つけてから、ね」
何を、とは言わなかった。
思い返せば今日一日、僕と天月の間には「忘れん坊の泥棒」がいなかった。
普通に遊びにいって、彼女の家に泊まるだけ。忘れん坊の泥棒なんて、頭のどこかに追いやって。ただ過ぎていく無為な時間に、幸せを感じていた。
けれど、それが本当の幸せかなんてわからないから、僕は決めた。
「だから、早く見つけよう」
「そー、ですね……はふぁ」
天月の声が歪んだ。
間抜けたあくびに、薄く涙の乗った眦は眠たげに垂れて、僕を見つめる瞳は焦点が合わない。
「眠い?」
「はい……」
「そっか、じゃ」
立ち上がろうとして、立てなくて。いつかキスを受けた右手が、握られていることに気付く。
これじゃベッドから退けない。
「天月。手、退けて」
「むー、りぃ……」
ほとんど寝息と同化したその言葉に、僕は迷った。
頭は上手く働かなかった。
ベッドを降りて、もたれ掛かればいい。床だって空いている。
天月だけをベッドに眠らせたければ、僕が無理に手を抜けばいい。
「じゃあ、半分もらうからね」
「はいー……」
それでも僕は、酔っていたから。
静かに眠る天月に、小さく断って、天月の隣に体を横たえた。
一人用のベッドが、少しの身動ぎに軋む。
その夜。僕たちの間には、何もなかった。
僕たちはどこまでも青くて潔白で。
だからこそ、僕らは許されない。
そしてこれが、僕らの会話から忘れん坊の泥棒が消えた、最後の夜だった。
次の日、天月はベッドにいなかった。
僕が起きるずいぶん前に立ったのか、彼女が寝ていた場所は冷たくなっていた。
『風呂イング・ナウ。朝刊お願いします』
寝惚けた字を這わせた紙だけが床に置かれていた。
念のため、窓から玄関を見下ろす。車はまだなく、また人もいない。
一階に降りて玄関扉を開け、朝刊を取る。
何の気なしに目を通した折り込みチラシに、明らかに書き足されたであろう文を見付けた。
『うはきもの』
最初は、意味が解らなかった。
でもその筆跡に、既視感があった。
だから、気付く。気付いて、しまった。
「……ッ!」
心臓が水浸しのスポンジを握りしめた時みたいに、全身に大量の血を送った。
自然とつんのめった体で玄関に飛び込む。
鍵を閉め、チェーンを掛ける。
家中を走って施錠を確認し、すべてのカーテンを閉める。
部屋に置いていたスマホを握り締め、玄関に座り込む。
怖かったし、何より腹が立ったから。震えたまま、行き場のない怒りを抱えて座った。
「二条くん? どうしたんです?」
気付けば、髪を濡らした天月が僕の肩を揺らしていた。
「震えてるじゃないですか、汗も酷いですよ」
「大丈夫だよ、大丈夫、大丈夫」
うわ言のように繰り返した言葉は嘘に塗れていた。
上がり框に放置された朝刊。その中の折り込みチラシに書かれた『うはきもの』の文字。
不自然な文字の羅列が、歴史的仮名遣いに当て嵌めた現代文だとしたら。
それを現代仮名遣いに直すと、そこに現れる文字は意味をなしてしまう。なして、しまった。
『うわきもの』
浮気者。
一方的に天月との相思相愛を夢想する、頭のおかしいストーカー。
奴から見れば僕は間男で、天月は浮気者。狂ったストーカーの脳みそは、そんな僕らを許さない。
許すも何も、そもそもストーカーにそんな裁量なんてありはしないのに。
「本当にどうしたんですか?」
視界の端で天月が首を傾げる。肩から落ちた濡れ髪が、滝のようだった。
「……何ともない。修治さんたちが戻るまで、あとどれくらい?」
「さっき連絡があって『遠光台駅に着いた』って言ってました」
「じゃあ後30分くらい?」
「ですかね。ねぇ、ほんとにどうしたんですか?」
しつこい天月を無視して、二回の彼女の部屋に上がる。
後ろについてくる足跡を感じつつ、握り締めたチラシを、また強く握り締めた。
「それ、ですよね?」
部屋に入って、また誰が言うとなく向き合って座る。
天月の問いに、答えるべきかはまだ悩んでいた。
「そうだよ」
迷って、伝えた。
言っても言わなくても厄介事に違いはない。
それなら天月を少しでも信じた方が、なんとなくいい気がした。隠し事を続けると言うのは、あまりにもしんどい事だから。
「浮気者、だってさ。ストーカーさん怒ってるよ」
「私と、二条くんが?」
「らしいね、笑えるよ」
本当に、笑えてくる。
ストーカーにも、女の子の手掛かりすら見付けられない僕自身にも。
「ほんとですよー。後から入ってきた癖に図々しい」
「毒舌だね」
「だって私、優しくないですもん」
「大丈夫。優しい人だって、嫌いな人には優しくしないよ」
僕らの間に置いたチラシを見下ろして、天月は笑った。
そのあんまりにも無味乾燥な反応に、少なからず面喰らう。
なんだ、この程度だったのか。一人の怖さを二人で分け合えば、それはきっと笑い飛ばすことも可能で、きっと人はそれを「救われた」と言うのだろう。
天月への感謝の中で、僕も笑っていた。
*
例のチラシは、その後帰ってきた修治さんたちに見せた。
修治さんに謝られ、母親の小春さんにも謝られ。流れで謝ってきた半笑いの天月の前で、昨日の飲酒を告発して。
小春さんに怒られている彼女を尻目に、僕は修治さんに連れられて帰路に着いた。
家まで送ってくれるらしい。
「じゃあ、今日は何もなしで」
「あ、はい、明日の学校で……」
肩を落とす天月を置いて、僕と修治さんは家を出た。エンジンがかかったままの車に乗って、公道に走り出す。
ストーカーを警戒してくれているのか、修治さんが走る道は教えた道を迂回してくれた。
「本当に、すまない」
一つ目の信号待ちで、修治さんは僕に頭を下げてきた。
見据えた瞳は、澄んだ深海の色。天月の目と同じなんだ、と改めて思った。
「謝らないで下さい、僕が好き好んでやってることなので」
「けどね、せめてご両親に説明を」
「僕からします」
説明なんてしない。
僕の親は放任主義だ。一々反応なんてしないだろう。
「心配だな」
「大丈夫ですよ」
車が動き出す。すぐに修治さんが重い息を溢す。
「警察が動いてくれることになった」
「よかった、犯人がわかったんですか?」
「いや、まだわからないから、周辺のパトロールを強化するそうだ」
「それって」
言いかけた言葉に、修治さんが頷く。
「ああ。とりあえず不審者として捜査する、と言うことだろう」
それから修治さんは、僕を励ますように明るい声で続けた。
「なに、見つかって接近禁止命令が出たらストーカーも止む。止まなかったら、奴さんは即逮捕さ」
そこから先の言葉は、上手く出てこなかった。
相手がわからなければ、警察も動きようがない。接近禁止命令だって、相手がわからなければ出しようがない。
(結局、何の解決にもなってないんじゃないか)
修治さんも僕の言いたいことを察してか、家に着くまで何も言わなかった。
家に着いたのは昼過ぎ。一軒家の前に車を停めて、修治さんはもう一度僕を見据える。
「何かあったら、順番は最後でもいい。俺にも連絡してきなさい」
「はい、送ってもらって有り難う御座います」
「巻き込んだんだ、これくらい。じゃあ、また」
車が遠ざかる。お辞儀で見送って、家に入る。
夏休みなんてない社会人たちは、まだ職場にいる時間。当然家には誰もいない。
鍵を閉めてからショルダーバッグの中身を整理していると、友崎からもらった紙袋が出てきた。
『ちょっとでも危なくなったら使え by.たつま』
中から出てきたのは、電話番号の書かれたメモだった。
いかにも友崎らしい、と笑う。
心配性と言うか、友達思いと言うか。自分の名前さえも面倒臭がって平仮名で書くのも、相変わらずだ。
「危なくなったら、使う……」
どこに通じる電話番号かはわからない。
けれど今回の友崎がふざけるとは考えられないし、何か力になってくれる所なのかもしれない。どこかの法人とか。
現状、ストーカーを刺激した僕らは、端から見たら危険なのだろう。
今は僕だけの問題じゃないし、渋るべきではない。
僕は意を決して電話をかけた。
それはセミものぼせるような、暑い日の昼下がり。
『やあ、ビンゴだ。久しぶりだねぇ、半分の泥棒サン?』
数コールの後に出たのは、駄菓子屋バジル・ザハロフの艶声だった。
部屋に戻っても、天月は枕に顔を埋めたままだった。
くぐもった声で差し出された手に携帯を返す。
「別に何でも。三ヶ月もストーカー被害を黙ってたんだってね」
「何でもあるじゃないですか、うぇ~……」
消え入りそうな声で唸って、天月は足をバタつかせる。駄々っ子みたいだ。
「怒ってます?」
枕の隙間から、チラリと天月の眼が覗く。
潤んだ瞳。けれど目元は赤くないから、泣いてはいないだろう。
「怒ってないよ」
「じゃあ、こう言ったら怒りますか……?」
揺れる。天月の瞳が、細い声が。
どこにも行けなくなった動揺の代わりに、僕に向けられる。
「『今日は泊まっていって下さい』って」
不安に瞳を揺らしながら、まっすぐに僕を見つめる天月の顔。
その表情に、間違いなく揺らぐ僕がいる。
散々「変わってる」と思っていた少女の、今さらになって垣間見る「普通」の顔。
──あの子が「普通の女の子」としての姿を見せ、年相応に「好き」を言葉にするのなら。それはきっと君に向けてだろう
修治さんの言葉を思い出して、目を瞑った。
僕は天月を「普通の女の子」とは思えない。普通と言い切るには、彼女は僕にとって近くに居すぎたから。
天月が普通の女の子だとしたら、僕らの「答え合わせの日」は、存在する必要がなくなるから。
僕は頭を振る。
「怒らないよ」
修治さんと約束したから。天月がきっと、怯えているから。
誰かの弱味を言い訳に、自分の欲望を満たすのは、卑怯なのだろう。
わからなくなった答えを先延ばしにするのは。本当はわかっている答えから目を逸らすのは、臆病なのだろう。
「本当に、本当ですか?」
「うん、親に伝えてくるよ」
もう一度部屋を出る。
後ろ手で扉を閉めると、膝が崩れた。
「……っ」
わかってる。
わかってるんだ、自分が卑怯な臆病者だってことぐらい。
でも臆病だからこそ、卑怯だからこそ。誰かに寄り添うことが出来るんだ。
「いつまでも、悩み続けてやる」
独白を一つ。スマホを取り出して、電話をかける。
ツーコールで出た母親に、一方的に用件を伝える。
「今日友達ん家に泊まる。晩御飯は要らないけど、余ったら明日帰って食べる」
『えっ? 何、突然。パンツは?』
「帰ってから履き替える」
『ばっちー。……向こうさんのお家に迷惑かけちゃ駄目よ』
「わかってる、じゃ」
放任主義で助かった、と通話を切る。
夕暮れに鳴くセミに混じる、ヒグラシの淡い声。
随分と目立つようになってきたその淡さに、なぜか焦りが沸いてくる。
「大丈夫だったよ、今日は泊まらせてもらうね」
また部屋に戻る。
電気の着いていない部屋は、ほんのりと夕焼け色に染まっていた。
「すみません、ワガママ言って」
「いいよ。ちょうど暇だった」
そこから僕らは、夕飯の買い出しに向かった。
とは言ってもバイトもしていない僕らにお金なんてなくて。買えるものと言ったら、コンビニの弁当くらい。
後はスナック菓子やコーラ。そこに数本のチューハイを買い物かごに入れ、天月はレジに向かった。
「天月、何歳だっけ?」
「元カノの歳も忘れるなんて元カレ君ったら薄情ヤローですね」
「じゃあ余計ダメじゃん」
「大丈夫ですよ、タバコは嫌いですから」
「そう言う問題じゃないんだよなぁ」
溜め息を吐いても、天月は止まらない。
「どのみち年齢確認で止められるだろう」と思っていたレジも、即座にパネルをタッチして回避。レジ店員も細かく確認しようとはしない。
学生アルバイトの怠惰を利用すると言う、なんとも姑息な方法だった。
「ふふん、行きますよ二条君」
天月が自慢気に笑いかけてくる。
鈍い僕は、その時になってようやく気が付いた。
「そのための化粧だったか」
「いぐざくとり~です」
商品を積めてもらった袋を手に、天月は得意気に笑う。
おかしいとは思っていた。家を出る前に脱衣室に籠るし、出てきたら出てきたで化粧をしているし。
初めて見たその化粧姿に、不覚にもドキッとしたし。
「にしても、割り勘だなんて水くさいですよ」
「僕が奢るって言ったのに、君が拒否ったんじゃないか」
「私が全部出す予定だったんですよ」
「いいじゃん、折衷案だよ」
ブンブンと袋を振りながら歩く。
中にはコーラやチューハイも入っているのに、随分と迷いがない。
一方の僕は、家に着くまでずっとストーカーを警戒して、落ち着かなかった。
「パーリー会場到着です」
何事もなく家に着く。
何も入っていないポストに安堵して、玄関に靴を揃えて天月の部屋へ。
クーラーの効いていない部屋は、ほぼ蒸し風呂状態だった。
「さあ、レッツ・パーリーです!」
戸締まりを終えた頃には、陽も山向こうに沈みかけていた。
部屋は昏い。天月の取り出した偶数のチューハイを見て、嫌な予感を覚える。
「ちょっと待って」
「はい?」
「それ、僕のもあるの?」
「もちろん、元カレ君を仲間外れにはしませんとも」
嬉しくない、そんな平等。
第一僕らは未成年。自称進学校特有の厳しい校則に照らし合わせれば、飲酒は停学だ。
誰も守らない校則を律儀に守ろうとも思わないけれど、無理に破ろうとも思わない。
「ダメ、それは全部修治さん用にしな」
「父は下戸ですよ」
「じゃあお母さんに」
「下戸」
「じゃ僕の両親に。お金は払う」
「なんでそんな堅いんですかー!」
当たり前だ。
幾ら修治さんと約束したからと言っても、天月を悪い方向に行かせていい訳じゃない。
「逆になんでそんな飲みたいの?」
瞬間、天月の瞳孔が色を手放した。
無理に作った微笑みが、空回りする。
「怖いからですよ」
足元から這い上がってくるような、冷たい声だった。
取るべき反応も、行動も。何もかもを奪い去っていく。
「嫌なことがあるから、飲んで忘れたいんです。カッコつけたいとか、そんなんじゃないですよ」
身勝手な理由でストーキングされ、独りぼっちにされ。それでも彼女が明るく振る舞うには、酒は必要なのだろう。
本当はダメなことなのに、それでも今の僕には、それを諭す語彙も理屈もなかった。
「……付き合うよ」
チューハイを取る。
天月が心配そうな目でこちらを見ていた。
「無理しなくていいですよ?」
「してない。ただ、今日飲んだら二十歳までは我慢してほしい」
「嫌なことがあっても?」
「ああ、その度に僕が聞くのはダメ?」
「ダメじゃないです、けど……」
プルタブを起こす。景気のいい音がして、炭酸が弾ける。
「けど?」
口を付ける寸前で止めて、視線を天月に送る。
天月の顔がうつむく。仄かに紅の乗った唇で口ごもり、慎重に言葉を溢す。
「いいんですか?」
「……」
その問いには答えなかった。
代わりに、チューハイに口を付けた。
鼻を抜けるレモンの風味と、舌に残る渋味とも苦味とも言える刺激。
その冷たさが喉を下った一拍後に、顔が暑くなる。
初めて飲んだ酒の雰囲気に、少し面食らった。
「飲みなよ、これが十代最後のお酒さ」
「いただきます」
勧められるがままに、天月もプルタブを起こして口を付けた。
小さな喉がコクリコクリと音を鳴らして、透明なアルコールを飲み込んでいく。
少し、ペースが早いようにも思える。
「ぷはっ」
湿った唇から息を吐いて、天月は缶を差し出した。
「なに?」
「乾杯です。やらなかったじゃないですか」
「ああ」
そう言えばそうだった。応じるように、缶を出す。
「「乾杯」」
缶をぶつけた。
中の酒が波打って、小さな泡が飛ぶ。気にせずまた煽る。
チェイサーも入れず、時々思い出したように、床に置かれたスナック菓子を摘まむ。
一杯目を開ける頃には、部屋は真っ暗になっていた。いつのまにか点けていたベッドのライトが、僕らを淡く包んでいる。
「フフッ……」
何かが小さく弾けたように。例えば小さな蕾が、春を迎えて一斉に咲いたように。
天月は静かに笑った。
「これでオトナ、ですか?」
心臓が跳ねた。
その台詞は、僕らが初めて口づけを交わした日の言葉だったから。
わざと言っているのか、本当にただの天然なのか。どっちにしても、意地が悪い。
「……さあ。どうだろうね?」
そしてその言葉にかつての恋愛を重ねてしまう僕も、意地が悪いのだろう。
「じゃあ、元カレ君の思うオトナになってみます?」
「あー、キスの上ってこと?」
「そうなりますねー」
もう随分と回らなくなった頭は、やけに欲望に忠実で。けれど中途半端に残された理性の欠片が、それを半端に諌めている。
きっと人間の「たが」なんて、缶チューハイ一本で外れるような欠陥品だ。
「そんなの、恋人同士でやるもんでしょ」
「愛のない行為って、なんか『あだるてぃー』じゃらいです?」
「ダーティーだよ。酔ってるな」
「やーん、元カレ君に襲われちゃいますねー」
暗い中でもはっきりわかる程紅潮した頬を撫でて、天月は「あだるてぃー」と連呼する。
「がおー」
興が乗って、僕も彼女を襲うジェスチャーを模した。
「おー、あ……?」
バランスを崩す。
ふわふわと足が消えたような感覚がして、立ち上がったはずの体が何かに受け止められる。
柔らかい感触。雰囲気に染まった毛布。お腹を抱えて笑う、横になった天月。
僕はどうやら、天月のベッドに倒れ込んだらしい。
「こりゃ僕も酔ってるな」
「口調だけシラフとか、元カレ君ったらアンドロイドー!」
ムッとして、天月の手を引いた。
指を差して笑うその声が、あんまりにもうるさかったから。
火照った掌からも感じる、天月の手の熱さ。酔って潤んだ瞳、垂れた眦。
「おっとと……」
引かれた手に続いて、彼女の体も落ちてきた。
軋むベッド。弾む天月の体。夜に揺れる瞳、重なった手。
触れそうな程近い、天月の顔。
シングルのベッドに二人。見つめあって、その距離感に心を揺らす。
「……っ」
酒臭い息を嗅がれたくなかったから、呼吸を止めた。
息ができなくて、苦しくて。そうしていつか、心臓までも止まればいいと思った。
胸の鼓動を聞かれるなんて、恥ずかしかったから。
「私、酔ってます」
僕の空いた手を、天月の指が絡め取った。
潤んだ瞳は近いまま。酒臭く、けれどどこか甘い吐息が僕の脳裏を揺さぶる。
「だから、せめて今日だけは」
絡め取られた僕の掌に、天月の唇が触れた。
次いで、自分の唇につけた指を、僕の唇に這わせる。
アルコールに頭をやられた僕は、ただそれを見ていた。キスにはする場所によって異なる意味があったけど、そんなことはもう思い出せない。
言葉を発するのも億劫な中で、僕はただ一言だけを引きずり出す。
「答え合わせ……」
「わかってます。見付けてから、ですよね?」
「そう、見つけてから、ね」
何を、とは言わなかった。
思い返せば今日一日、僕と天月の間には「忘れん坊の泥棒」がいなかった。
普通に遊びにいって、彼女の家に泊まるだけ。忘れん坊の泥棒なんて、頭のどこかに追いやって。ただ過ぎていく無為な時間に、幸せを感じていた。
けれど、それが本当の幸せかなんてわからないから、僕は決めた。
「だから、早く見つけよう」
「そー、ですね……はふぁ」
天月の声が歪んだ。
間抜けたあくびに、薄く涙の乗った眦は眠たげに垂れて、僕を見つめる瞳は焦点が合わない。
「眠い?」
「はい……」
「そっか、じゃ」
立ち上がろうとして、立てなくて。いつかキスを受けた右手が、握られていることに気付く。
これじゃベッドから退けない。
「天月。手、退けて」
「むー、りぃ……」
ほとんど寝息と同化したその言葉に、僕は迷った。
頭は上手く働かなかった。
ベッドを降りて、もたれ掛かればいい。床だって空いている。
天月だけをベッドに眠らせたければ、僕が無理に手を抜けばいい。
「じゃあ、半分もらうからね」
「はいー……」
それでも僕は、酔っていたから。
静かに眠る天月に、小さく断って、天月の隣に体を横たえた。
一人用のベッドが、少しの身動ぎに軋む。
その夜。僕たちの間には、何もなかった。
僕たちはどこまでも青くて潔白で。
だからこそ、僕らは許されない。
そしてこれが、僕らの会話から忘れん坊の泥棒が消えた、最後の夜だった。
次の日、天月はベッドにいなかった。
僕が起きるずいぶん前に立ったのか、彼女が寝ていた場所は冷たくなっていた。
『風呂イング・ナウ。朝刊お願いします』
寝惚けた字を這わせた紙だけが床に置かれていた。
念のため、窓から玄関を見下ろす。車はまだなく、また人もいない。
一階に降りて玄関扉を開け、朝刊を取る。
何の気なしに目を通した折り込みチラシに、明らかに書き足されたであろう文を見付けた。
『うはきもの』
最初は、意味が解らなかった。
でもその筆跡に、既視感があった。
だから、気付く。気付いて、しまった。
「……ッ!」
心臓が水浸しのスポンジを握りしめた時みたいに、全身に大量の血を送った。
自然とつんのめった体で玄関に飛び込む。
鍵を閉め、チェーンを掛ける。
家中を走って施錠を確認し、すべてのカーテンを閉める。
部屋に置いていたスマホを握り締め、玄関に座り込む。
怖かったし、何より腹が立ったから。震えたまま、行き場のない怒りを抱えて座った。
「二条くん? どうしたんです?」
気付けば、髪を濡らした天月が僕の肩を揺らしていた。
「震えてるじゃないですか、汗も酷いですよ」
「大丈夫だよ、大丈夫、大丈夫」
うわ言のように繰り返した言葉は嘘に塗れていた。
上がり框に放置された朝刊。その中の折り込みチラシに書かれた『うはきもの』の文字。
不自然な文字の羅列が、歴史的仮名遣いに当て嵌めた現代文だとしたら。
それを現代仮名遣いに直すと、そこに現れる文字は意味をなしてしまう。なして、しまった。
『うわきもの』
浮気者。
一方的に天月との相思相愛を夢想する、頭のおかしいストーカー。
奴から見れば僕は間男で、天月は浮気者。狂ったストーカーの脳みそは、そんな僕らを許さない。
許すも何も、そもそもストーカーにそんな裁量なんてありはしないのに。
「本当にどうしたんですか?」
視界の端で天月が首を傾げる。肩から落ちた濡れ髪が、滝のようだった。
「……何ともない。修治さんたちが戻るまで、あとどれくらい?」
「さっき連絡があって『遠光台駅に着いた』って言ってました」
「じゃあ後30分くらい?」
「ですかね。ねぇ、ほんとにどうしたんですか?」
しつこい天月を無視して、二回の彼女の部屋に上がる。
後ろについてくる足跡を感じつつ、握り締めたチラシを、また強く握り締めた。
「それ、ですよね?」
部屋に入って、また誰が言うとなく向き合って座る。
天月の問いに、答えるべきかはまだ悩んでいた。
「そうだよ」
迷って、伝えた。
言っても言わなくても厄介事に違いはない。
それなら天月を少しでも信じた方が、なんとなくいい気がした。隠し事を続けると言うのは、あまりにもしんどい事だから。
「浮気者、だってさ。ストーカーさん怒ってるよ」
「私と、二条くんが?」
「らしいね、笑えるよ」
本当に、笑えてくる。
ストーカーにも、女の子の手掛かりすら見付けられない僕自身にも。
「ほんとですよー。後から入ってきた癖に図々しい」
「毒舌だね」
「だって私、優しくないですもん」
「大丈夫。優しい人だって、嫌いな人には優しくしないよ」
僕らの間に置いたチラシを見下ろして、天月は笑った。
そのあんまりにも無味乾燥な反応に、少なからず面喰らう。
なんだ、この程度だったのか。一人の怖さを二人で分け合えば、それはきっと笑い飛ばすことも可能で、きっと人はそれを「救われた」と言うのだろう。
天月への感謝の中で、僕も笑っていた。
*
例のチラシは、その後帰ってきた修治さんたちに見せた。
修治さんに謝られ、母親の小春さんにも謝られ。流れで謝ってきた半笑いの天月の前で、昨日の飲酒を告発して。
小春さんに怒られている彼女を尻目に、僕は修治さんに連れられて帰路に着いた。
家まで送ってくれるらしい。
「じゃあ、今日は何もなしで」
「あ、はい、明日の学校で……」
肩を落とす天月を置いて、僕と修治さんは家を出た。エンジンがかかったままの車に乗って、公道に走り出す。
ストーカーを警戒してくれているのか、修治さんが走る道は教えた道を迂回してくれた。
「本当に、すまない」
一つ目の信号待ちで、修治さんは僕に頭を下げてきた。
見据えた瞳は、澄んだ深海の色。天月の目と同じなんだ、と改めて思った。
「謝らないで下さい、僕が好き好んでやってることなので」
「けどね、せめてご両親に説明を」
「僕からします」
説明なんてしない。
僕の親は放任主義だ。一々反応なんてしないだろう。
「心配だな」
「大丈夫ですよ」
車が動き出す。すぐに修治さんが重い息を溢す。
「警察が動いてくれることになった」
「よかった、犯人がわかったんですか?」
「いや、まだわからないから、周辺のパトロールを強化するそうだ」
「それって」
言いかけた言葉に、修治さんが頷く。
「ああ。とりあえず不審者として捜査する、と言うことだろう」
それから修治さんは、僕を励ますように明るい声で続けた。
「なに、見つかって接近禁止命令が出たらストーカーも止む。止まなかったら、奴さんは即逮捕さ」
そこから先の言葉は、上手く出てこなかった。
相手がわからなければ、警察も動きようがない。接近禁止命令だって、相手がわからなければ出しようがない。
(結局、何の解決にもなってないんじゃないか)
修治さんも僕の言いたいことを察してか、家に着くまで何も言わなかった。
家に着いたのは昼過ぎ。一軒家の前に車を停めて、修治さんはもう一度僕を見据える。
「何かあったら、順番は最後でもいい。俺にも連絡してきなさい」
「はい、送ってもらって有り難う御座います」
「巻き込んだんだ、これくらい。じゃあ、また」
車が遠ざかる。お辞儀で見送って、家に入る。
夏休みなんてない社会人たちは、まだ職場にいる時間。当然家には誰もいない。
鍵を閉めてからショルダーバッグの中身を整理していると、友崎からもらった紙袋が出てきた。
『ちょっとでも危なくなったら使え by.たつま』
中から出てきたのは、電話番号の書かれたメモだった。
いかにも友崎らしい、と笑う。
心配性と言うか、友達思いと言うか。自分の名前さえも面倒臭がって平仮名で書くのも、相変わらずだ。
「危なくなったら、使う……」
どこに通じる電話番号かはわからない。
けれど今回の友崎がふざけるとは考えられないし、何か力になってくれる所なのかもしれない。どこかの法人とか。
現状、ストーカーを刺激した僕らは、端から見たら危険なのだろう。
今は僕だけの問題じゃないし、渋るべきではない。
僕は意を決して電話をかけた。
それはセミものぼせるような、暑い日の昼下がり。
『やあ、ビンゴだ。久しぶりだねぇ、半分の泥棒サン?』
数コールの後に出たのは、駄菓子屋バジル・ザハロフの艶声だった。