八月中日の夏空を、入道雲が泳ぐ。
 気晴らしに、雲の形に名前を付けようとした。
 鯨も、ライオンも、バナナも、スニーカーも。思い浮かぶそのどれもがしっくり来ない。
 僕は雲を「雲」以外の何かに例えることが、出来なくなっていた。

「それで、今日はどこに行くの?」

 集合場所の、彫像前。
 夏空から目を離して、隣に並ぶ天月に問いかける。
 ボーダーのトップスに、薄手のデニムジャケット。ベージュのスカートの清楚な装い。
 彼女が手にするサイダーは、集合時刻に遅刻した僕の奢りだ。

「うぺっ……すみません」

 げっぷを飲み込んで、天月が顔を伏せる。

「うーん、今のところ手掛かりも掴めてませんからねぇ」

 唸りながら、天月はクルクルと毛先を弄ぶ。
 八月に入ってしばらく経った。天月との泥棒探しは、まだ続いている。
 彼女の言う通り、未だに忘れん坊の泥棒の手掛かりは掴めていない。
 七夕竹、消えたオムライスのピーマン、壊された野良犬の墓標。
 どれを探しても、何も見つからなかった。
 七夕竹は消えて失せ、オムライスのピーマンは探す事もなく。
 かつて天月が埋葬し、次の日上級生に割られた野良犬の墓石は、未だ割れずに雑草に埋もれていた。
 けれどそのどれにも、泥棒の痕跡は見付からない。
 きっと中には、時間が経って曖昧になった記憶も混ざっているのだろう。

「じゃあ、今日一日は元カレ君くんが私を連れ回してください」
「連れ回すったって……」

 何故か輝きを増した天月の目に、引き気味の僕が映る。
 連れ回すと言っても、目的地がなかなか思い浮かばない。

「テキトーな所でいいですよ」
「えっ、いや、でもそれじゃまるで」

 ──まるでデートみたいじゃないか。
 喉を駆け上がる言葉を噛み殺して、口をつぐむ。
 天月と恋人だった時間よりも、天月を嫌いになろうとした時間の方が長い。
 それでも彼女を嫌いになれず、忘れられも出来なかった。
 つまり僕は、まだ天月の事が好きなのだろう。
 けれどそれが「純粋な好意」であるかは、わからない。
 僕は天月本人にではなく、天月の持つ冷たい優しさに恋をしていたのだから。

「……じゃあ、農園に行こうか」

 一つだけ思い浮かぶ所があった。
 僕が初めて忘れん坊の泥棒を頼った、あの芋掘り農園だ。季節毎に旬の果物や野菜を収穫できるらしい。

「農園?」
「ああ、今の時期は桃とかスイカとかが採れるんだ」

 首をかしげる天月に説明する。
 僕が幼い頃にそこで盗まれた、芋掘りの喧嘩は伏せておいた。
 忘れん坊の泥棒に盗まれた思い出は、軽いトラウマだったから。

「桃いいですね、行きましょう!」

 天月が笑って、僕の袖を掴む。
 そのまま歩き出した天月に、僕の体は吸い寄せられた。
 改札を潜る。通学定期が間抜けな音と共に排出された。

 天月への気持ちは好意には違いないけれど、それが恋であるかはわからない。
 僕は彼女の白すぎる優しさに、恋をしていたのだから。
 これはきっと、朱に染めた黒。朱色の恋に見せかけた、黒い劣等感。

 ──朱染めの黒は恋なのか?

 それはきっと、いや確実に、今の僕ではわからない。
 けれど、だからと言って初めから諦めたくなかった。

 *

 いつもとは逆の方向に行く電車に乗って、数年振りに思い出の農園に着いた。
 最後に来たのは、僕だけで泥棒を探した三年前の夏休み。それ以来は一切来ていない。

「いらっしゃー、い、ま……マジか」

 出迎えてくれたのは記憶にあるお爺さんではなくて、見覚えのある顔だった。

「おいおい、確かにどっかいこーぜっつったけどよぉ」

 「今仕事中だからさ、な……?」なんてセリフを吐いて、友崎がイタズラっぽく笑う。
 それは、仕事中にきた彼女からの電話への対応みたいにいじらしくて、甘酸っぱくて。そして少し、イラっとした。

「別に友崎目当てじゃないから、農場に遊びに来ただけ」

 言い捨てて、周囲を見渡した。
 久しぶりに来た農園は、昔よりも少し狭く見える。きっと背が伸びたのだろう。
 成長に連れて、世界はどんどん狭く苦しくなっていくのだから。

「ひどいわ二条クン、私の事は遊びだったのね!?」
「すまない、君とはおままごとだと思っていたよ」

 適当に合わせて、二人分の金額を支払う。
 財布を出そうとした天月の手は、僕の見栄が抑えていた。

「嘘つき弱虫のサイテー元カレ君やろー、ですね」
「天月もなんで信じてるのさ」

 学生特有の意味もない話に花を咲かせながら、様々な果実が鈴生る畑を通っていく。
 すもも、なし、スイカに、ブドウ。目的の桃畑に着くまでに、友崎は雑談を切り上げて説明してくれた。
 やけに慣れてるなと思ったら、どうやらこの農園の経営者が友崎の叔父らしい。
 だから長期休暇の間は、ここでアルバイトをしているそうだ。
 バイト禁止の校則も、身内の手伝いと言う名目ならすり抜けられる。なるほどどうして、理想的な環境だった。

「こんな人、私たちクラスにいたんですね」

 はえー、と天月は感嘆の声を漏らす。

「え、知らなかったの?」
「ひどくない……?」

 素直に驚く僕と、本当に傷付いた様子の友崎。
 ちぐはぐの反応に、天月はキョトンと首を傾げる。

「? すみません、接点のない人を覚えるのは苦手で」

 当たり前のことのように言った天月を見て、僕はようやく思い出す。
 天月は決して一個人に優しい訳じゃない。「優しい人間ならばどうするか」と言う想像のもとに他人に優しくし、用が済めば見向きもしない。
 冷たくて残酷で、不器用な優しさに、彼女は縛られていたんだ。

「諦めろよ友崎、接点がないなら仕方ない」
「えぇ、めっちゃショック……」

 わかりやすく肩を落として、友崎は嘆息した。
 自分が覚えてるのに相手は覚えていない。クラス全員の顔を覚えている友崎にとってそれは、悲しい事なのだろう。
 
「後でコーラ奢るよ。だから桃狩りの説明お願い」
「おうよっ」

 桃狩りの説明を促すと友崎の顏に元の明度が戻った。
 切り替えの早さは流石アルバイターと言うところだったけど、たぶん半分はコーラのお陰なのだろう。

「よーし、パパ頑張って説明しちゃうぞー」
「16歳で、子供が……?」
「天月、今のは無視」

 難しい顔をする天月を諭して、上機嫌な友崎の説明を聞いた。
 一時間は桃取り放題。けれど収穫は一つずつ、食べ終わってから次の桃を収穫すること。
 持ち帰り用の桃はグラム売り。休憩スペースにて計量、販売。
 桃を収穫する際は日当たりのいい所に生った実を掌に乗せ、弾力があるものから採ると完熟していておいしい。

「ま、こんな所か」

 一息に、けれどわかりやすく説明して、友崎は僕らに皿とナイフを手渡した。
 背を押されるままに畑を見渡すと、ずらりと並んだ低い木が影を落としている。先にいた他のお客たちは、美味しそうに桃を食べていた。

「実を優しく包んで引くと採れるから、後はお好きにどうぞー」
「ありがとう」
「有難う御座います」

 礼を言って、僕たちは桃狩りを開始した。
 教えられた通りに桃をもぎ、ナイフで皮を剥いて口に運ぶ。

「甘っ……」

 口に入れた瞬間、果汁が口内に溢れた。
 甘くて濃厚で、けれどしつこくない。ジュースのようで、けれどジュースのように作り物くさくない。
 爽やかで上品な、自然そのものの味わい。
 柔らかな果肉は歯を使わなくても簡単につぶれて、ジューシーな果汁がまた溢れ出してくる。

「おいしいです!」
「うん、すごい甘いのに、後味もすっきりしてる」

 隣で天月が目を輝かせた。口の周りにはやっぱりと言うかなんというか、桃の甘い蜜が煌めいていた。

「口、汁ついてるよ」

 ポケットティッシュを差し出す。
 僕が拭いてやるなんて、そんな大胆なことはできない。それなのに。

「私、両手塞がってます」

 それなのに天月は、両手に持った皿と桃を主張して、僕を見つめる。
 僕に拭けとでも言いたそうに、真っ直ぐに澄んだ瞳で、僕を見つめてくる。

「元カレ君が拭いてください」

 ああ、こんな。こんな意地悪な笑い方もできたのか。
 知らなかった天月の一面に、僕の心臓はどうしようもなく暴れた。
 汗の滲む手でティッシュを取って、天月の口元に寄せる。
 直前で、振り返る。

「……あっ。冷えた飲み物も売ってますよー、全然ウチの果物使ってないから、なんか癪ですけどー!」

 友崎が他の客にジョークを飛ばした。若々しい少年の働く姿に、お客たちからは微笑まし気な空気が漏れ出す。
 問題は、直前まで確実に目が合っていたということだ。

「早く拭いてくださいよー」

 急かす天月の声に振り返る。
 僕が手にしたティッシュに、天月がその薄桃の唇を近づけていた。
 鼓動はますます僕を蝕む。
 焦る胸の鼓動が、天月に聞こえてしまうんじゃないかって、不安になる。
 いや、これは不安とは少し違う。これはきっと──恥ずかしさ、だ。

「……わかったよ」

 なるようになれ。
 覚悟を決めた。
 ここまでの時間はそう長くなかったのだろう。けれど僕にとっては、あまりにも長く感じられた。

「じゃあ顎、上げて」
「はい」

 天月が、目を瞑って顎を上げた。
 心臓の鼓動は、もう周囲のざわめきすらもかき消す。
 少し尖らせた唇が、チョンとティッシュに触れた。
 透けるほど薄いティッシュ越しに、唇のぬくもりが伝わる。

 ──柔らかい

 一瞬止まった手を動かして、口の周りの果汁を拭き取った。
 薄いティッシュは桃の水分を孕んで、柔らかな唇の感触が、天月の唇を直接触っているような気分になる。
 出来るだけ目を背けようとするのに、目線はどうしても天月の口元に釘付けになった。
 
「ありがとー御座いますっ」

 自制心がティッシュを引き離すと、天月は屈託のない笑顔を向けてきた。
 どういたしまして、と返して目線を引きはがす。桃の木も、遠くのお客も、何を見ても天月の顔がちらついた。

「さあ、気を取り直して食べますよ~」
「おなか壊さないでね」

 張り切る天月から少し距離を取る。
 次また天月の口を拭くことになったら身が持たない。

「どうした二条、ジュースか?」

 僕を見付けた友崎が話しかけてくる。

「いや、桃よりいいジュースはないよ」
「そっか。楽しんでくれてんのなら、俺もなんか嬉しいわ」

 照れくさそうに笑う友崎は、まさに好青年と言ったやつなのかもしれない。
 浮ついた噂もないのは、映画好きが高じて悪役に憧れてしまったせいか。
 真顔で「世界征服したい」なんて言うのだから、僕としては既視感を覚えずにはいられない。

「お前、天月と一緒に居なくていいの?」
「うん、ちょっと疲れたから」
「確かに、他人の目がある所であれは恥ずいよなぁ」
「うっさい黙れ」

 ニヤつく友崎を小突いて、天月に目を向ける。
 少し遠くへ行った天月は、黙々と桃を食べていた。蝉の声はうるさく暑苦しいけれど、木陰から出ることが少ないから安心だ。

「で? 泥棒探しは順調か?」

 木陰にしゃがんで、友崎が桃をかじった。

「順調なら、今日ここには来てないよ」
「ははっ、順調じゃなくてよかったな。うまいもん逃すとこだった」
「それは確かに」

 素直に頷いて、僕も一つ桃をもいだ。
 今度の桃は、身も皮も白っぽい。注意して見ると、桃の品種の違いがよく判った。
 店先に並ぶ桃の品種なんて考えたこともなかったけれど、違いが判ると面白い。

「ま、俺からも何か探っとくわ」
「ありがとう、無理はしないでね」
「おう、その代わり俺とも遊んでくれ」
「わかった、またメールする」

 短く話して、二人して小さな桃に齧り付いた。
 これも甘いけれど、さっき食べた桃よりも身質が繊細で酸味が少ない。

「これもおいしいな」
「ああ、高級品種だからな」
「へえ、そんなものも取り放題なんだ」

 一時間千五百円と言うのは少し高い気もしたけれど、高級品種が味わえるのなら十分安い。
 月並みなようだけど、思い出に値段はつけられないのだから。

「天月はなんて言ってたんだ?」
「何に対して?」

 友崎の質問に質問を返す。

「殺害予告、聞いたんだろ?」
「ああ、それか。友崎はいつも話が急すぎるんだよ」

 いつだって友崎の質問は突発的だ。ある程度慣れた今でも苦労する。

「それで、まさか聞いてないってことないよな?」
「聞いたよ」

 確かに聞いた。天月に向けられた殺害予告の真偽と、それを受けた天月自身の反応も。
 全部聞いたことだからこそ、あまり思い出したくはなかった。

「そっか。じゃ、いいや」

 あっけらかんと言って、友崎は桃の種をビニール袋に入れた。

「聞かないの?」
「別にー。だってもう何も言わんって言ったしな」

 「相談なら乗ってやるけどな」と言って、友崎は立ち上がった。
 純粋に「かっこいい」と思った。
 そしてそれに甘えてしまう僕自身を、僕は恥ずかしく思う。

「ありがとう」
「やめーや気持ち悪ぃ、こう言う時は黙っとけよ」

 笑って言うと、ちょうど真夏みたいに明るい笑顔が返ってきた。
 いい友達を持ったと、つくづく痛感させられる。
 天月が好きだとか、好きじゃないとか。
 自殺すると言うのは本気だとか、冗談だとか。
 そんなものはどうでもいい。嫌なら嫌と言って、死んで欲しくないなら死なせなければいい。

『勝手にしろよ』

 それよりも今は、自分が投げた匙をもう一度拾わなければならない。
 僕は天月との対話から、もう逃げるわけにはいかないんだ。

「もうちょっと、天月と話してみる」
「おっとちょい待ち」

 離れてしまった天月へ駆け出す。
 立ち上がったその足を、友崎が引き留めた。

「お前ら忘れん坊の泥棒探すんだろ?」

 頷くと、「ほらよ」と言って小さな紙袋が飛んでくる。
 ギリギリでキャッチする。中からは何も音が聞こえなかった。

「それ、やるよ。いつか必要になったら使ってくれ」
「紙ゴミの日に捨てろってこと?」
「ちげーよ! 中入ってっから、帰ったら見ろよっ」

 振り向かされ、背中を押された。
 体が前にのめる。倒れないように踏み出した一歩が、次の一歩を生む。
 自然と、走っていた。


「天月」
「はい?」

 次第に迫る天月に声をかけた。
 振り返った天月に一瞬遅れて、長い黒髪が夏空に煌めいた。

「なんです? 口の汁拭いてほしいんですか?」
「僕には付いてないよ」
「え、現在進行形で付いてますよ?」
「あホントだ」

 口元に触れると、僕にも桃の果汁が付いていた。
 でも違う、それじゃない。

「ちょっと、話したいことがあって」

 勢いに任せて口走る。
 けれど、そこから先の言葉は何も思いつかない。

「それよりまず口です」

 氷みたいな表情を全く変えず、天月はティッシュを取り出した。

「いや、僕は自分でやれるから」
「動かないでください」

 釘を刺すような天月の言葉に咎められて、僕はおとなしく動きを止める。
 天月の手が僕の口元に迫ってくる。視線は斜め上の桃の実を意識したけれど、頭では別の事を考えていた。
 また激しくなった鼓動を天月に聞かれていないか、とか。
 吐息が天月に掛からないだろうか、とか。
 そんな取り留めもないことを考えている内に、柔らかい指が唇に触れた。

 ──指も柔らかいのか

 どこに触れても柔らかい。
 純粋な感動がまた鼓動を早め、そして自分の気持ち悪さに幻滅する。
 不純だ。本当に好きかもわからないような相手に、そんな事を考えるなんて。

「感謝してます」

 自己嫌悪で少し落ち着くと、天月がぽつりと呟いた。
 口元をなぞる指のせいで声は出せず、目線を下げて声に聞き入る。

「一度別れたのに、まだ私を見捨てないでいてくれて」

 違う、と否定したくて。僕は君を捨てたんだ、と叫びたくて。
 けれど天月の指先がそれを言わせてくれない。

「二条君といると、いっぱい『優しい』ってことをわかっていくんです」

 不思議だった。
 目の前の少女は、こんなにも僕に感謝してくれている。
 けれどその顔に、一切の表情はない。氷みたいに冷たい「無」が張り付いた顔に、僕は違和感を覚える。
 普段の天月の鉄面皮とは、少し違う気がしたから。

「これが、きっと」

 ほんの一瞬、瞳孔が揺れた。
 それだけでわかった。天月の表情への違和感も、彼女が何を言おうとしているかも。
 わかってしまった、その表情の正体は「覚悟」。人が何か大切なことをする時、心臓を掴む悪魔の名前だ。

「──ダメだ」

 咄嗟に天月の手首を掴む。
 天月の驚いた顔が視界を埋め尽くす。

「それ以上は、まだダメだ」

 天月が何を言おうとしていたのか。
 その答えはもうわかっている。けれどそれを理解することは、僕の中に引き籠る僕が拒絶していた。

《まだ早い、まだわかりたくない!》

 そんな幼稚な叫びが、天月の手を掴んでいた。

「……そうでしたね。すみません、忘れてください」

 諦めたような微笑を残して、天月が手を降ろした。
 真夏の日差しの中に、冷たい鼓動が浮かび上がる。
 こんな事が解決に繋がるとも思っていない。まして「答え合わせ」の日なんて、遠のくばかりだ。
 それでも僕は、朱染めの黒を恋と言うことは出来ない。

 ──随分酷いことをするんだねぇ、まるでいじめっ子みたいだ

 あの日、可哀想な少女を盗んだ時の泥棒の声を思い出す。
 そうだ、僕は天月ともう一度話し合うために声をかけたんだ。
 それなのに彼女の言葉を無視して、強引に終わらせてしまうなんて、いじめっ子と変わらない。
 話すんだ、天月と。聞きたいことも、伝えたいこともあるのだから。

「天月」
「はい」

 初めて天月と会った時のように、醜い人間と、同じにはなりたくない。
 彼女がいじめられていた日の感情を思い出せば、伝えたい言葉は簡単に口を飛び出した。

「天月は、死なないよ」
「え?」

 天月が目を丸くする。
 驚きと言うよりは、理解が出来ていない表情だ。

「答え合わせとか、忘れん坊の泥棒とかそんなのは関係ない」

 昼下がり。厳しさを増しつつも、麗らかな夏の陽の中。
 僕は天月と向き合って、あの日伝えるはずだった言葉を投げ掛ける。

「天月に死んで欲しくないんだ。だから──」

 海を写したような暗い瞳が、僕を見つめる。
 いつもは目を逸らす、真っ直ぐすぎて刺すような瞳を、それでも今日の僕は逸らさない。

「だから、天月を危ない目には遇わせない。僕が責任を持って家に返すから」

 天月が殺されるとは、まだ考えられない。
 けれど、そんなことは関係ない。
 恋人であろうと、なかろうと。男でも女でも、目の前で誰かが傷付くのは見たくない。

「仮に世界が優しくなっても、君が死ぬことは僕が許さない」

 天月が言った「自殺」は、その場任せに吐いた出任せだったのかもしれない。
 それでも天月なら、本当にやりかねない、と思った。
 だからこそ、釘を刺した。

「そう、ですね」

 短く呟いて、天月は顔を伏せる。

「私も、二条くんと答え合わせをするまでは死ねません」

 滝みたいに流れ落ちる黒髪から、無を刻印した顔が覗いた。
 端整に冷たく、けれどその目は揺れている。
 きっとそれは、覚悟なんかじゃない。

「ねえ、二条君」
「どうかしたの?」

 天月の声が震えた。
 項垂れた顔が少し僕を向いて、暗い瞳が僕を見上げる。
 表情だけは冷たいまま。いや、冷たい顔を装って、感情を殺す。

「この後、空いてますか?」
「空いてるよ」

 「なんで?」とは、聞かなかった。
 天月が何を言おうとしているのかはわからない。ただ単純に、天月の見せるマイナスの感情が珍しかったから。僕は一も二もなく頷いた。

「私の家、来てくれませんか?」 

 長い夏の昼下がり。
 消え入りそうな声で呟いた天月の懇願に、僕は苦虫を噛みつぶす。
 彼女の声音に年相応の青さはなくて、ただ弱さと恐怖だけが滲む。
 世の中全く甘くない。甘いのは桃やお菓子ぐらいのもの。二十年も生きないうちからそんなことを悟ってしまうほど、世界はどこまでも残酷だ。

「……いいよ、行こうか」
「有難う御座います」

 未だに硬いままの顔を上げて、天月はへたくそに笑って見せた。
 どこまでもチラつく泥棒の影への苛立ちを押し殺して、桃に齧り付く。
 面倒くさがって低い所から採った桃は、今日食べた桃の中で一番苦かった。