「と、トカゲですか? この子」
「ああトカゲだ。フトアゴヒゲトカゲという。……ムサシ、悪いな。起こしてしまったか」
誉は水槽を覗き込み、トカゲに呼びかける。聞いたこともないくらい優しい声だ。それから、巧の横を通り過ぎる。
「こういう生物って夜行性じゃないんですね」
「フトアゴは昼行性だ」
よたよたとキッチンに向かう誉を制し、ソファに座らせた。壁の電気のスイッチを入れると改めて部屋の概要が見てとれた。
御堂誉の部屋はひと言で言えば雑然としていた。
(片付け、苦手なんだな……)
ソファには服が何着も投げ捨ててあり、その上に部屋着であろうジャージが重なっている。それらが洗濯やクリーニング済のものなのかもわからない。
水を汲もうとキッチンへ向かい、数日は洗っていなさそうな食器の数々にため息が出た。自炊はしないのだろう。食器はコップや箸、フォークばかりだが、今使う分のグラスすらない。食器洗いの洗剤は随分前に切れたようで、カラのボトルすら存在しなかった。
「も~、待っててくださいね!」
ちょっとした惨状に悩んだのも束の間、巧は鍵を借り、誉の部屋を飛び出した。マンションの目の前のコンビニでペットボトルの水と食器洗い洗剤とアルコール除菌シートを買う。大急ぎで引き返し部屋に戻ると、眠そうにしている誉に水を差しだした。
「水か」
「飲んでください。洗い物させてもらいますからね」
「頼む」
そこから巧は家事に勤しんだ。洗い物を済ませ、キッチンを除菌シートで拭く。洗濯物をたたみ、掃除機をかけた。ペットのトカゲの水も替えようとしたが、トカゲが口を開け顎を真っ黒にしているのでやめた。よくわからないが、絶対威嚇されている。それに、誉はペットの世話だけはしているようで、水槽は綺麗に掃除され、フンなども見当たらない。
(自分の世話をもう少しすればいいのに)
いつも同じようなスーツにひっつめお団子ヘア。ばっちり化粧をすれば、外見を揶揄されるようなことはなくなるはずなのに。
(もったいないんだよな)
そこまで考えて首をぶんぶん振る。なにを考えているんだ。御堂誉が勝負すべきところは容姿ではない。
(でも、家事はすべきだな)
そう思いつつ、ソファでくうくう寝息をたてている誉に声をかけた。
「御堂さん、俺帰ります。鍵締めてくださいね! 防犯! 大事!」
「おう、大事」
誉はのそりと起き上がって、玄関で靴を履く巧のもとへやってきた。どう見ても、まだ酔っているし寝ぼけている。
「俺が出たら鍵かけて。パジャマに着替えて、ベッドで寝てくださいね」
「余計な世話だ。母親か、おまえは」
「今日だけお母さんだと思って言うこと聞いてください」
ドアを閉めると、ちゃんと中から施錠をする音が聞こえた。とりあえず責務は果たした。巧は時計を見て、まだ二十一時であることにほっとした。
「ホント、あんなにお酒弱いなら、絶対飲んじゃ駄目だろ」
鳥居坂署の上階が男子独身寮なので、署に向かって巧は歩く。
「一応、女なんだから隙見せちゃいけないって」
過去、彼女はこうやって誰かに送ってもらったことがあるのだろうか。それとも、ふらふらになりながら自力で帰っただろうか。後者であればいい。そんなことを漠然と考えながら、巧は帰路についた。
翌日、御堂誉は普通に出勤した。
あれほど酔っぱらっていたというのに、鮮やかな復活。オフィスに到着した巧は、昨夜の上司の姿は自分が見た夢か幻なのではと思い始めていた。なにしろ、昨夜のことについて誉は一切巧に言ってこない。案外、記憶がないパターンだろうか。
あれは相当なレアショットということで心に収めておこうと思った時だ。
「御堂、いるかい?」
朝礼の最中に穏やかな笑顔で入ってきたのは生安の諸岡課長だ。
「なにかありましたか?」
「新たな特殊詐欺が昨日夜二件起こった。鳥居坂管内だ。さきほど、被害者が署に直接連絡してきたんだ」
それを刑事課ではなく犯抑に話しにきたということは……。巧はぴんときた。
「例の手口ですか」
「そうだ。電話の時刻、受け子の来訪時刻、受け子の特徴がすべて同一だ」
誉がすぐにPCへ向かう。巧が仕掛けたカメラはまだ可動中だ。
「諸岡課長、受け子が来訪した時刻、受け子の特徴をデータでいただけますか?」
「今、刑事課で扱い中だからなあ」
「諸岡課長ならわかりますよね。情報が揃い次第流してください」
誉はカメラ画像を注視しだした。もう朝礼どころでないのは、空気でわかる。
「御堂係長~、俺らビラ配り行ってきます」
井草が古嶋を伴い、外出準備を始める。誉はそちらを見ずに「頼む」と言ったきりだ。
「御堂さん」
諸岡もまだオフィスにいて誉を見守っている。巧は声をかけた。
「御堂さん、捜査をする気ですか?」
「馬鹿を言うな、階。犯抑に捜査権はない」
PCを見つめながら、誉は答える。そして、諸岡に尋ねる。
「しかしながら、刑事課は本件を扱うでしょうか。調書を取って終わりということにするのでは?」
「あり得るね」
「よしんば本腰を入れたとしても、刑事課が解決できるとは思えない」
諸岡が、あははと軽快に笑った。
「じゃあ、仕方ないよね。御堂」
「ええ、仕方ない」
誉がにやりと微笑み、巧はいっそう激しい嵐の予感に身震いした。
「都民を守るのが、警察官の職務ですから」
闘志を秘めた声音で誉が言った。
鳥居坂管内で発生した振り込め詐欺の解決に向け、御堂誉が動き出したことを署内の誰も知らない。知っているのは犯罪抑止係の部下三人と彼女の上司・諸岡だけだ。
「階、遅いぞ」
朝のオフィス、誉の叱責にすみませんと頭を下げる。巧の出勤はギリギリである。同じ建物の中にオフィスがあるというのは、油断に繋がるのかもしれない。独身寮を出て部屋を借りようか……。
しかし、誉はただ叱責したいわけじゃなさそうだ。
「早速だが、受け子がリストの人物とほぼ合致した」
そう口を開く誉に、巧は自身のデスクに鞄を置くなり駆け寄った。捜査に関わると言いだしたのは昨日の話だ。仕事が速い。
「本当ですか?」
「階が仕掛けた近隣の監視カメラの映像に、同時刻、少年のひとりがスーツを着て出て行くのが映っていた。階が張り込み中も、同じ少年が何度かスーツで出入りしていただろう」
「ああ、この子。写真撮ってあります」
監視カメラの画像を確認しながら、巧は頷いた。
「残念ながら、被害者は高齢で目が悪い。暗い玄関で対面したため、受け子の顔と服装はよく覚えていないそうだ。ただ、声と体格からかなり若いと後々感じたとのこと」
「どっちみち、御堂さんが作ったリストが門外秘である以上、証拠にはならないですし、この監視カメラ映像も同様ですね」
「そうだ、証拠にはならない。しかし、絞り込めてきたとは思わないか」
「はい!」
感心しながら返事をする巧の横から、井草がひょいと顔を出した。
「御堂係長、あんまりやってると、怒られちゃうよ~」
「ああ」
「俺、とばっちりは御免なんで、よろしくでーす」
誉がそれ以上何も言わないでいると、井草は手をひらひらさせながら、古嶋を伴ってドアに向かう。
「ATMパトロールしてきまっす」
振り向いてひと言告げ、出て行った。
「……なんなんですかね、井草さんのあの言い方」
せっかく御堂誉が乗りだしているというのに、やる気をそぐようなことを言うべきじゃない。誉は首を左右に振った。
「井草巡査部長はあれでよく周りが見えている。私をこの案件に集中させるために自分は犯抑のデイリーワークをこなしてくれているんだろう。全員で取り掛かっていれば、犯抑が遊んでいると言われかねない」
「そんな気遣いのできる人でしょうか」
巧は口を尖らせた。井草に対する信頼は、今のところ欠片もない。今だって、何かあった時、自分が怒られたくないからあんなことを言っているだけだろう。
「さて、リストアップした少年たちの身元は割れている。しかし、彼らの誰が特殊詐欺の首謀者なのかが見えてこないな」
「首謀者がこの中にいるんですかねえ」
巧が何気なく言った言葉に、誉が注目して答える。
「階、なかなかいいことを言う。そうなんだ。この中に首謀者がいない可能性もある。資金の出所が不透明だからな」
「資金の出所?」
「マンションを借りて、電話を用意して、探知されない電話番号とターゲットの電話番号を業者から購入して……ネットですべてできるから手間はかからないかもしれないが、初期投資の時点である程度の知識と財力は間違いなく要る。そして、リストアップした少年たちは皆、ごくごく一般的な家庭の育ちだ。麻布界隈に住んでいる時点である程度の収入がある家庭だが、けた違いの金持ちはいない」
PCでリストを見直しながら、誉は言う。
「首謀者が賢い人間なら、自分は実働部隊に入らず、高みの見物を決め込むだろうな。十代の少年たちをまとめ、金を分配している人間はリストとは別にいそうだ」
「半グレ集団と繋がっているメンバーもいるって御堂さん言ってましたよね。首謀者はそっちでしょうか」
「調べたが、せいぜい工業高校の先輩などの地元ヤンキー程度だ」
「じゃあ、別な大人が、高校生を集めてやらせてるとか」
「わざわざ高校生の実働グループを見つけ、初期投資をし、振り込め詐欺をやるか? 時間や行動に制約がなく金がない大人を集めた方が手っ取り早い」
誉が説明しながら、巧を見上げる。
「私の仮定だが、特殊詐欺グループは高校生たちで組織されたと見ている。首謀者もおそらくは十代の若者。そして、半年以上事業を安定継続させていることからも、すでにケツモチをつけている可能性も高い」
ケツモチとは、暴力団など地域の裏社会の集団に、みかじめ料を払うことで後ろ盾になってもらうことだ。裏社会の仕事で金を稼ごうとすれば、見逃してくれない存在はどこにでもいる。
「高校生がそこまで考えますかね。自分たちの遊ぶ金を、悪い大人に取られるんですよ。バレなきゃいいやって思考になりません?」
「いくつか理由はあるだろうが、港区界隈にも暴力団や半グレ集団など、それなりに勢力分布がある。いざ、どこかに目をつけられ事を構える前に、有力なところに売り込みをかけるだろう。私なら、そうする」
御堂誉の価値観が一般的かはわからないが、首謀者が賢く立ち回る人間ならおおいにあり得る話だ。そして、その後ろ盾の組織から、捜査していくという選択肢も出てくる。
「ともかく、十代の若者の遊びでは済まないだろう。いくぞ、階」
誉に促され、巧はおどおどと周囲を見渡す。出かけるとは聞いていない。
「あの、どちらへ」
「現場のマンションだ。階の作った特殊詐欺注意のビラを持っていけ」
「束ごと持っていくんですか?」
誉は当たり前だと言わんばかりに鼻を鳴らした。
「あと、五分やるから、後頭部の寝癖だけどうにかしろ。だらしなさ過ぎるぞ。恥を知れ」
「え!?」
巧は自分の後頭部を触り、ぴょこんと跳ねたひと束の髪に気づいた。
五分でどうにかなるだろうか。いや、しなければ……。
ふたりが向かったのは、南麻布の拠点のマンションである。
梅雨時の空はどんより曇り、今にも雨が落ちてきそうだ。空気が湿っている。
「このマンションに直接乗り込むんですか?」
「馬鹿か、階。そんなことして解決するなら、警察はいらない」
誉がビラを手に堂々とエントランスに入っていく。ここは犯人グループの本拠地。無防備に入って行って大丈夫だろうか。巧はおそるおそる後に続き、管理人室の小窓から中を覗き込む誉を後ろから見守った。
「すみません、鳥居坂署のものです」
中は六畳ほどの部屋だ。椅子に掛けていた高齢の男性がけだるそうに立ち上がり、歩み寄ってくる。
「はいはい、なんですか?」
「そこの掲示板に、このポスターを貼らせてほしいんです。ほら、振り込め詐欺に気を付けてという」
誉が警察手帳と一緒に、ビラを見えるように持ち上げる。管理人はうんうんと素早く頷き了承する。
「あ~、どうぞどうぞ」
「ちなみに、マンションのオーナーさんはこちらにお住まいですか? 振り込め詐欺が続いていましてね。注意喚起に回っているんですよ」
「オーナーはここに住んでいないよ。住まいは俺も知らないなあ、月一くらいで自分の不動産を見て回ってるから、来週あたりに顔出すんじゃないかな」
管理人は面倒臭そうに答えて、禿げ上がった頭を掻いている。
「なるほど。それでは、居住者のお部屋にこのチラシをお配りしてもいいですか?」
「それならそこの集合ポストにね」
巧がビラを持ってポストに近づき振り向いた。
「あの、空き部屋はどことどこですか? あまり枚数がないので、入居のお部屋だけに配りたいんですが」
要請に、管理人はよっこらしょと小窓から身を乗り出す。
「賃貸だから入れ替わりがあるんだよな。今は二十四戸中十八戸しか入居してないんだ」
部屋番号を指示され、そこにビラを入れ、作業は終了だ。
「居住者名簿みたいなものってありますか?」
ポストには名前がついていないものが多い。巧がそれとなく口にすると、管理人は胡散臭そうな顔をした。
「刑事さんでも簡単に開示できないんだよね。そういうの」
「ごもっともです。管理人さんが居住者を把握しているか確認しているんですよ。形式上伺っているだけですので」
誉が穏やかな口調で言い、ふたりは礼を言ってマンションのエントランスを出た。
「どの部屋が拠点かわかりませんでしたね」
近くの公園まで歩きながら、巧が言う。
「ああ、言ってなかったが、部屋は特定してある。管理人から情報が取れればと思って立ち寄ったが、難しそうだな」
「もう特定してるんですか?」
やっぱり仕事が速い。というか、先に教えてくれよ、と思う巧である。
「これを見ろ」
誉がスマホを取り出し、マンション外観の画像を見せようとするので、巧は先回りして言った。