鳥居坂署の御堂さん

多くの人間が知っている彼女についての情報は、
めちゃくちゃ頭がいいということ、
飛びぬけた出世スピードだということ、
横暴な性格で周囲は敵ばかりだということ、
地味で小柄で、所謂ブスだってこと。

だけど、俺は知っている。
本当の御堂誉がどんな人なのか。

彼女の信念、彼女の強さ、そして彼女の抱えている秘密。
ほんの少しだけ存在する脆さ。

そのすべてを守りたい。
……変な意味じゃない。断じて違う。
部下のひとりとして、俺は彼女をありとあらゆる敵から守る。

この事件を通して、そう決めたのだ。




暗い地下道をいっきに駆け抜けた。
革靴がぴしゃぴしゃと水を跳ね、スーツの足元を濡らすが気にする余裕はない。自分の息遣いが地下道に反響し、鼓動が全身に響く。階(きざはし)巧(たくみ)は眦を決し、手にしたリボルバーを固く握りしめた。

「階ィ! そっちだ! 回り込め!」

姿は見えないが、同僚の指示が聞こえた。巧は声の方に猛然と走った。側道から躍り込んでくる影。犯人だ。
手にはナイフが鈍く光るのが暗闇でも見えた。迷う余裕はない。全身の筋肉に心臓が血液を送り込む。戦闘準備だ。

「階! ガラ押さえろ!」

同僚の叫ぶ声。威嚇射撃か、いやそれよりも早いのは……。
巧は瞬時に犯人に駆け寄り、百七十七センチの体躯を丸め、腕を掴むと悪漢を担ぎ上げた。そのまま見事な一本背負いを決める。どうっと音を立て、犯人の身体が湿気ったコンクリに沈んだ。
追いついた仲間たちが駆け寄り、犯人の身体を抑え込む。

「よくやったな、階」

息を切らしがら、戦闘と勝利の余韻を感じている巧の前に、ひげ面の上司がやってくる。表情に見える自分への信頼と称賛に胸が熱くなった。

「いえ、そんな。自分は手柄を譲っていただいたようなものです!」
「いや、おまえのガッツの勝利だ」

上司は首を振り、巧の左肩にぽんと手を置いた。

「捜査一課のエースだよ、階巧は」

じいんと胸が熱くなる。巧は背筋を伸ばしてから、腰が直角になるまでぶんと頭を下げた。

「恐縮です! 捜査一課は自分の夢でありましたから!」
「よォし、階を胴上げだ!」
同僚たちがわっと駆け寄り、巧の身体を持ち上げ高々と放る。

「階、最高だぜ!」
「警視庁捜査一課の期待の星!」

わっしょいわっしょいとリーグ優勝したチーム監督みたいに宙を舞う巧。
顔がにやける。警視庁捜査一課の若手エース・階巧。なんと素晴らしい響きだろう。
どんな難事件も粘り強い捜査力と類いまれなる身体能力で切り抜ける。誰もが認める逸材……そんなものに……。

『……はし……きざはし』

どこからともなく声が聞こえ、宙を舞いながら巧は首をひねった。
上司の声ではない。同僚たちからでもない。声は天から降ってきて、地下道に反響する。

『……くみ、……階巧、目覚めろ』

声はどんどん大きくなる。わんわんとハウリングして響き渡る。目覚めろとはなんだ。自分は充分目覚めている。それとも、勇者として目覚めよという、アニメやライトノベル的な展開だろうか。そういったファンタジーがいち警察官の階巧に舞い降りるのだろうか。そんな、馬鹿な。

『いい加減にしろよ、階』

声がはっきりしてくる。それと同時にぞわぞわと背筋が寒くなってきた。底冷えするような女の声だ。雪山で会ったら即死しそうな冷たい声音。

『階、目を覚ませ』

ようやく巧は気づいた。その声が誰のものであるか。

「起きろと言っているのがわからないのか! この大馬鹿者が!」
「……ッ、はいっ! すみませんでした!」

叫びながら目を開けた巧の視界には見慣れた天井があった。そして、自分を見下ろすブリザード級の冷たい視線。

「御堂(みどう)……警部補……」

ベッドの上、巧の胴体をまたいで立ち、見下ろしているのは上司・御堂誉(ほまれ)であった。独身寮は鳥居坂(とりいざか)警察署の七~九階にあるとはいえ、女性上司に乗り込まれて迎える朝とは、なかなか刺激的な目覚めである。
「やっと起きたか、この怠け者。始業時間を十五分オーバーでいまだ布団の中とは何事だ。救いようのない穀潰しだな。恥を知れ」

御堂誉はメガネの奥の氷点下の瞳をさらに冷たく凍りつかせ、巧を見下ろしていた。
寝坊した部下をわざわざ起こしにきた上司の言葉に、巧はようやく頭の回路が繋がった。がばっと上半身を起こし時間を確認する。

「十五分オーバー……。わああ! 本当だ!」

壁時計は八時四十五分を指し、始業時間はとっくに過ぎていた。誉は巧の上から退いたが、いまだベッドの上で仁王立ちしている。狼狽と混乱の中にいる部下を、見下げ果てたという表情で眺めているのだ。
巧は慌てて身体を起こし、ジャージ姿のままベッドの上で上司に土下座した。

「誠に申し訳ありませんでした!」
「私の部下になってから三回目の遅刻だ。たるんでいるというより舐められているのではと不安になってきてな。今日は迎えにきてやった」

怒りを押し殺しているのではなく、本当に使えない人材を哀れんでいると言いたげな冷え切った声だ。巧は頭を下げるばかりだ。

「昨夜、生活安全課の野方(のがた)さんと卯木(うつぎ)さんに飲みに連れて行ってもらいまして、気づけば深夜を回っていました。いえ、けして言い訳をするわけではないんですが」
「そうだな。飲むのはコミュニケ―ション上悪くないが、それを遅刻の理由にするのは警察官失格、いや社会人失格だな。恥じろ」
「その通りでございます。以後、気を付けます」

へへえとプライドゼロで頭を下げる巧に冷たすぎる一瞥をくれ、御堂誉はひらりとベッドから飛び降りた。小柄な上司が軽快に動いていると小学生みたいに見えた。口が裂けても言えないことだが。
玄関でローヒールのパンプスを引っ掛ける御堂誉は、パンプスと同じチャコールグレーの地味なパンツスーツをまとっている。いつものスタイルだ。こちらを振り返って圧力満点の視線をくれる。

「五分で出社準備を整え、七分後にはオフィスに姿を見せろ」
「はい!」
「それと、相当楽しい夢を見ていたようだな」
「え?」

驚いて顔を上げる巧に、上司はにいっと笑って見せた。それは優しい女性的な笑顔とは百八十度違う酷薄とした悪魔の笑みだ。

「夢は捜査一課か。……覚えておこう」

巧は背筋に冷たい汗が流れ落ちるのを感じた。
どうやら、最強に格好いい夢の内容は、寝言で筒抜けだったらしい。
狭い玄関から出て行く御堂誉の背を見送り、巧はへなへなとベッドに崩れ落ち、うつ伏せに突っ伏した。

「恥ずかしすぎて死ねる……」

落ち込んでいる暇などないことに、巧が気付くのは数秒後。





警視庁鳥居坂署は麻布署と三田署、高輪署に挟まれた都心のど真ん中にある。
港区の一番華やかな商業地域からは少しずれた地区を担当し、最寄り駅は麻布十番駅。
各国の大使館と古い住宅が建ち並び、長くこの土地に住む者と海外からの居住者が暮らす街。
そんな地域に鳥居坂署はある。

階巧は鳥居坂署犯罪抑止係に先月配属された。
警視庁はおおよそ五年程度で部署の異動がある。巧は昨年鳥居坂署の地域課に異動し、念願の刑事講習を受け、ようやく交番ではなく署の内勤に抜擢された。これで私服刑事の仲間入りかと思いきや、巧の配属先は希望の鳥居坂署刑事課ではなく、犯罪抑止係だった。
巧は少なからず、いや激しく失望した。なぜなら犯罪抑止係には捜査権限がない。そして、“犯抑(はんよく)”は鳥居坂署のお荷物と呼ばれる部署だったからだ。

「遅いぞ、階」
「寝坊して、御堂が迎えに行ったって?」
「だらしねえなあ」

署の廊下をネクタイを締めながら走る巧を、生活安全課の刑事たちがからかう。

「すんません、ホント。すんません」

巧は頭を下げつつ走った。
昨夜巧を潰したのは生活安全課の年嵩の刑事たちで、酒の誘いを断れなかった。しかし、隣の部署であり仕事を頼んだり頼まれたりという関係性の生活安全課とは、仲良くしておかなければならない。

「申し訳ありません! 遅くなりましたっ!」

犯罪抑止係のオフィスに到着したのは上司の指示時刻から一分過ぎだった。すかさず、御堂誉の怒声が飛んできた。

「遅い!」
「すみませんでした!」

条件反射のように最敬礼をする巧は、この女上司が苦手だ。苦手というより、恐れている。
「階、ゆうべ飲んでたんだろ~。飲んでてこれじゃ怒られるよ~」

間延びした声を向かいの席からかけてくるのは井草(いぐさ)耕三(こうぞう)巡査部長だ。五十代の男性で、仕事にはすこぶるやる気がない。だらしない無精ひげにぼさぼさの頭は、一見して刑事にはとても見えない。

「おまえが来なきゃ、俺と古嶋(こじま)が出られないじゃない」

本当は外出が遅れてこれ幸いと思ってるくせに。井草の心中を考えながら、巧は頭を下げた。

「井草さん、すみませんでした」
「若いのに弱っちいなあ。徹夜で酒飲んでも出社は基本でしょ~。階って体育会系出身だよね。それとも、最近の部活ってそういうしきたり的なの無いの~?」
「本当にすみません。たるんでいました」

自分では何もしないのにねちねち文句言うこの先輩が、巧はやっぱり苦手だ。どこの部署にいても、やる気がなくのらりくらりと仕事を避ける井草は、鳥居坂署一のタダ飯食らいと呼ばれている。本人もその悪名は知っているはずなのに、一向に態度を変えようとしないあたりたちが悪い。

「な、古嶋」

話を振られたのは、井草の隣のデスクにいる古嶋侑史(ゆうじ)巡査だ。犯抑では先輩だが、階級年齢的に巧より下である。
古嶋はパソコンの陰に大きな身を竦め、短く吐息のような相槌を打った。高卒で入庁しているので、まだ二十歳だったはずだが、巧の目から見て若々しさも気概もない青年に感じられる。百八十五センチの身長を猫背気味に丸め、前髪を長くし周囲と壁を作っている古嶋は、地域課で仕事がまったくできずに犯罪抑止係に回されたと聞いている。
確かにコミュニケーション能力に難ありのようで、話しかけても真っ当な返事は返ってこない。かといって黙々と仕事に打ち込むタイプでもない。いつも、井草と組んで、最低限の与えられた仕事をこなしているに過ぎない。