鳥居坂署の御堂さん

雪緒は言い淀むように唇を噛み、わずかな間の後に言った。

「永太が『ヤバイ』って言っていたとき、誰がとは言いませんでした。Crackzっていうチームのことはその前に聞いたので」
「じゃあ、永太くんが自身に危険を感じていた相手は特定できないってことですね。確か自衛にナイフを持ち歩いていたのでしょう」
「はい、そうです。ナイフは俺に見せてくれました。確か、お父さんから以前もらった海外ブランドのサバイバルナイフです」

誉が心苦しそうにうつむき、雪緒に対して言葉を紡ぐ。

「相手が大人で、暴力に長けた人間だとしたら、自衛のつもりの武器携帯が、裏目に出るということは考えられます。悲しいことですが」
「永太は……どれほど怖かっただろう……」

雪緒の大きな瞳からぽたぽたっと涙の粒が零れ落ちた。誉は雪緒の顔を覗き込み、真剣な口調で語りかける。

「幸井くんは今まで通りに暮らしてください。大事な幼馴染の死に憤りもあるでしょう。ですが、本件について調べたり動き回らない方がいい」
「御堂さん」

雪緒はぽろぽろと涙をこぼしながら言う。

「永太を殺した犯人を捕まえてください。御堂さんが担当じゃないのはわかってます。だけど、俺、このままじゃ……」
「幸井くん」
「永太の無念を晴らしてやりたいんです。たった十六で殺された永太の……」

誉がわずかに瞳を見開くのが巧の目に見えた。そこにいたのは捜査一課時代の御堂誉だったのかもしれない。心なしか周囲の空気が揺らいだようにすら見える。

「幸井くん、約束しましょう。香西永太くんを殺した犯人は私が捕まえます」
「御堂さん」
「必ず」


雪緒と話した後、巧と誉は遅い昼食を食べに中華料理店・向来に入った。空いた店内の二人掛けのテーブル席につく。
いつ来ても古くさい地元の中華店である。暖簾はすすけているし、壁の手書きメニューははがれかかっている。テーブルのビニールマットも油でベタベタするが、味は美味しいし署から近いので誉の気に入りだ。

「チャーシューメン大盛、油多め、味玉トッピング。餃子ふた皿」
「俺は担々麺大盛でお願いします」

空腹全開の注文をする誉は、ラーメンがくるまでスマホでメッセージを送っている。

「陣馬にいくつか頼み事をしておいた」

そういってスマホを置く。

「今日、昇鯉会を調べてもらってるのにですか?」
「別件だ。陣馬ならすぐにやってくれる」

何度か誉がスマホでやりとりをしているうちにラーメンは出てきた。食事を目の前にすると、食事以外に集中できなくなるのが御堂誉なので、手を合わせて猛然と食べ始めた彼女に突っ込んだ話はお休みだ。

「御堂さん」

食事があらかた済んだ頃、巧は口を開く。

「本当はもうとっくに事件の真相がわかっているんじゃないですか?」

巧の思い切った発言に、誉はわずかに驚いたような表情になり、それからふうと嘆息した。

「おそらく階の考える通りで当たりだよ」
「……俺はまだしっくりきてないですけどね」
「ドラマや漫画じゃない。状況証拠だけじゃ、犯人は逮捕できても裁いてもらえない。確実に起訴できるよう、私たちは証拠をそろえて送致する義務がある。逮捕しても、証拠不十分で不起訴はあってはならない」

誉は箸を置き、お冷をぐっと飲み干した。

「階はここまでだ。この先はいよいよ犯抑の仕事じゃない。時間ばかりがかかる地味な作業だ。私ひとりでいい」
「俺にもやらせてください」

巧は反射的に答え、それから改めてはっきりした口調で懇願した。

「元捜査一課の御堂刑事のやり方を勉強させていただきたいです」
「おまえが想像していることの百倍つまらないぞ。そして実作業のうち、報われるのは百分の一程度だ。そして、私はこれを早急に終わらせたい。時間外はボランティアになるがいいのか?」
「かまいません」

巧にはいまだ事件の全容も、誉が裏でなにに時間をかけ、なんのために動いていたのかわからない。それを知りたい。あの御堂誉の一番に近くにいて、手法がわからなかったとはいいたくない。
自分の夢をあきらめないために。いつか、彼女と肩を並べられる刑事になるために。

「今日明日でカタをつける。わかったな」
「はい!」

巧は気持ちを込めて頷いた。







「こんにちは」

幸井雪緒は御堂誉と階巧の姿を見つけてやわらかく微笑んだ。笑顔は少女のようにも見える少年だ。

「こんにちは、雪緒くん」

高校から出てきた雪緒に、巧と誉は会いに来ていた。前回会った日から二日が経っている。

「幸井くん、少し顔色がよくなったように見えますね」

誉の言葉に雪緒は寂しげに笑ってみせる。

「まだ、気持ちは全然整理できてないんですけどね。でも、前を向かなきゃって思っています」
「強いですね、きみは。そうだ、時間があればまた少しお話ししませんか?」

友好的に誘う誉の言葉に、雪緒は一瞬たじろいだような表情をした。しかし、すぐにいつものなつっこい笑顔になる。

「今日は母と買い物の約束をしているんです。手短であれば、お話できます」
「助かるよ、雪緒くんが協力してくれるなら」

巧の友人のような態度に雪緒が目を細めた。
三度、近隣の緑地にやってきた三人は、二日前と同じ構図についた。誉と雪緒が並んでベンチに座り、前に巧が立っている。

「テストはどうでしたか? 帝旺学院は二学期制だから今が中間考査ですよね。勉強に身が入らなかったのではと心配していました」
「あはは、理由にはしたくないですけど、今回はボロボロかもしれないです」
「中学時代は常にトップ、帝旺学院の入試もかなりの好成績で入学しているそうじゃないですか。そんなきみが不調なら、嬉しい人間は多いかもしれませんね」
「あ、気に障ったらごめんね。香西永太くんの成績とか調べていて、雪緒くんのも一緒にわかっちゃったんだ。すごく頭よかったんだね。帝旺学院自体、超名門なのに」

巧が誉の言葉をとりなし、雪緒はなんでもないというように首を振った。

「昔は永太と競っていました。勝った方がアイス奢るとか。最近は全然でしたけど」
「そっか、親友でライバルだったんだね。香西永太くんは」

巧の言葉から流れるように誉が口を開いた。

「ときに、幸井くん。知っていましたか?」
「なにをです?」

誉の雰囲気の変化に雪緒は気づいたのかもしれない。わずかに空気が張り詰めるのが巧にもわかった。

「香西くんを死に至らしめた凶器のサバイバルナイフですが、彼はあのナイフを持ち歩く習慣がなかったそうです」
「え? そうなんですか?」
「なんでも、最初はポケットに入れて持ち歩いていたのですが、一度深く指を切ってしまったそうです。それからは恐怖心みたいなものもあって、引き出しに入れっぱなしにして触らなかったはずだと、彼のお兄さんが」

雪緒はわずかに黙り、それから物憂げにため息をついた。

「そんなものを持ち出してまで身を守ろうとしていたなんて、永太はどれほど怖かったんでしょうね」
「そうですね。彼が本当に〝自衛用のナイフを奪われて殺害された〟のだとしたら」

誉は答え、それから雪緒を優しい瞳で見つめる。

「ところで幸井くん、私はひとつどうしても気になっていることがあるんです」
「なんでしょう」
「私は最初にきみと出会ったとき、あのマンションに出入りする少年たちの名簿を作り終えていました。防犯カメラのないマンションなので、近隣の住宅に設置させてもらいました。ちょっと大変でしたがね。リストには、カメラに映っていたきみの名前もあります。しかし、少年たちの誰もがきみの顔を見たことがないと言っていました。帝旺学院生がメンバーにいるということすら知らなかった。ですが、きみは最初に帝旺学院の制服で訪れていますね」
「ああ、永太に呼ばれて二度ほど顔を出しましたが、すぐに帰っているのでそこにいた人たちが覚えていなくても無理はないかもしれないです」
「そこがそもそもおかしいんです。きみがあのマンションを訪れたとき、室内には誰もいなかったんですから」

雪緒が黙った。誉は続ける。

「きみはあの日、誰もいない部屋に行き、すぐに帰っています。それは防犯カメラで確認できます。このとき、きみはまだ防犯カメラの存在に気づいていなかったのですね。きみは実行犯の少年たちのメンバーではないが、定期的にあの部屋に行く用事があった。防犯カメラに気づいたのは二度目の訪問です。このとき、防犯カメラと特殊詐欺警戒チラシ、そして私と階の姿を見つけ、探りを入れようと近づいた。そして意図的に、私たちに情報を開示した」
「意図的に?」
「香西永太くんの存在を知らしめるように、です」
「おかしいですよ、御堂刑事。それじゃ、俺が振り込め詐欺の主犯みたいじゃないですか」

雪緒の茶化したような問いに、誉は静かな口調で答えた。

「私はそう見ています。正確には主犯のひとりであると」

唇を静かに閉じ、雪緒が黙った。愛らしい大きな瞳はすうっと光を失い、暗い海のような洞のような色味をしている。その目がじっと誉を見つめていた。

「きみは、香西永太くんと共謀して、振り込め詐欺を主導していましたね。始めたのは、きみたちが中学三年生の終わり。名門校受験を控えてものすごい行動力です。初期資金と場所提供は香西くん、技術面のフォローアップは幸井くん」
「アポに使った固定電話番号も、被害者の電話番号も、業者から買い取ったんだね。SNSでの人材集めや振り込み用口座の準備などは、裏サイト経由でなんでも屋を探してやらせた。ひとつひとつ業者を変えているから、請け負った業者も詳細を知らない。雪緒くんが取りまとめていたんだろう?」

雪緒は愛らしい顔を嘲笑めいた表情に歪めた。

「全然心当たりがないなあ。それって永太がひとりでもできたことじゃないですか?」
「永太くんができたのは資金面だけだろうね。彼のスマホとパソコンは一課がすでに調べているけれど、業者とのやりとりは見つかっていない。実行犯の少年たちに指示を出していたSNSアカウントが永太くんのものだとわかったくらいだよ」

巧が穏やかに答える。
「きみが定期的にあのマンションに行かなければならなかった理由は、少年たちがパソコンにまとめたデータのバックアップを取るためだろう? 彼らは技術的にはパソコンに明るくない。メンテナンスやバックアップのためにきみは定期的にあのマンションに行かなければならなかったんだよね。無人のときに」

巧の声音は優しい。その口調にはまだ信じたくない、認めるなら素直に認めてほしいという気持ちが滲んでしまう。

「実行犯の少年たちへの振り込みはネットバンクを利用していたんですね。ですが、彼らのバイト料は最初のひと月だけ、ネットバンクではなく香西永太の銀行カードを使ってなされていました。相手の通帳に表示される名義は手動で代えられますし、のちのちネットバンクの名義を同じにすれば、振り込まれた方は気づかない。ネットバンクの開設年月日と少年たちのバイト料を受け取り始めた時期がずれていたので調べたんです。資金と知識はあってもきみたちは未成年、最初のひと月はネットバンクの開設が間に合いませんでしたか? バイト代を彼らに手動で振り込んでいたのはきみですね」
「証拠がないです。永太かもしれないじゃないですか」
「いえ、あります」

誉はスマホを取り出し、画面を見せる。荒い画像ながらも、ひとりの少年がATMを操作しているのが見てとれる。中学の制服を着たその姿は幸井雪緒だった。
「どのATMから振り込まれたかは調べればわかります。あとは当該日の防犯カメラを確認するだけ。一部の銀行は年単位で防犯カメラの画像を保存しておきます。まあ、簡単に照会できるものではありませんが」

誉はスマホを膝に戻した。雪緒の目を覗き込み、語りかける。

「真実をすべて話す気はありませんか?」

ふうと雪緒が嘆息した。大人びた表情で誉と巧を交互に見やる。

「……永太に脅されていたんです。昔から、永太は俺を子分のように扱っていました」

感情のこもらない低くかすれた声だった。焦った様子はない。落ち着き払った顔は、十六歳の少年には見えない。

「残念ながら信じることはできません。きみと香西くんは対等な関係だったと見ています」
「俺と永太の関係のなにがわかるんですか?」

馬鹿にしたように言う雪緒に、誉が決然と言い切った。

「少なくとも、きみが香西永太くんを殺害したということならはっきりしています」

ふ、と空気を揺らす程度の笑いが雪緒の口から漏れた。眉間に皺を寄せ、誉と巧を馬鹿にしたように見比べる。

「俺が永太を殺した? とんでもないことを言いだすんですね」

傷ついたような、嘲笑うような口調で雪緒が言う。誉は首を左右に振った。