石階段を上ると境内だった。鳥居付近とは違い、屋台はまばらだ。参道脇に名前が書かれた酒樽が積み上げられている。遊羽は玉砂利を踏みながら、境内の中央にあるキツネの石像に近づいていった。

「カタミミ様じゃ」
「ひゃっ!」

 突然のしわがれ声に、遊羽は飛び上がった。
 たっぷり数秒間、固まったあと、おそるおそる振り返る。と、着物姿の老婆がいた。腰が曲がり、飛び出しすほどのぎょろりとした目つきで遊羽を睨んでいる。
 声の主がきちんと存在したことに安堵のため息をつくと、老婆は勝手にしゃべりはじめた。

「昔な、この神社には心優しい女子(おなご)が住んでいてのぅ。ちょうどお前さんくらいの年頃で、気立ての良い子じゃった。女子は話好きでな、この神社に立ち寄った人で、女子と話をしなかった人はいない、と言われるほどじゃった」

 老婆は玉砂利を踏み鳴らし、キツネの石像の前に歩み出て、石像を見上げた。

「ある日、神社に一匹のキツネが迷い込んで来たそうじゃ。ふらふらと歩きながら、キツネは耳を岩に擦りつけていてな、その左耳は傷ついて血まみれだった。哀れに思った女子はそのキツネを介抱したという。
 そして、キツネを野に帰す前、女子はキツネの左耳を隠すように、着物を切り取って頭にかぶせてあげたそうじゃ。女子は神社に立ち寄る人だけでなく、動物にも優しかった」
「いい話ですね」

 当たり障りのない相槌を打ちつつ、遊羽も石像を見上げた。キツネの石像には、頭に赤ずきんがかぶせてあり、耳をすっぽり覆っていた。
 耳は繊細な器官だ。寄生虫か感染症か、きっとそういうものに罹っていたんだろう。しかし、少女の石像なら理解できるが、助けられたキツネの石像なんて建つのだろうか。遊羽の疑問をよそに老婆は話を続ける。

「それからな、赤ずきんをかぶったキツネが、山道を道案内をするようになったと言われているんじゃ。赤ずきんのキツネを見たら、ついていけば安全に山を越えられる」
「道案内する赤ずきんのキツネですか……」
「それにあやかって、人々も赤ずきんをかぶって山越えをしたと言われとる」

 そこで言葉を区切って、老婆は両手を合わせてキツネの石像に拝んだ。
 キツネが通る道を人が歩くから安全になったのか、それとも、人が通る道をキツネが通っただけなのか……。どちらにしても、キツネが人間の安全を考えていたとは思えないが、ともかく石像の謂れは分かった。

「お前さん、カタミミ様に会ったのかえ?」
「え? いいえ。会ってないですけど」
「ほうほう……」

 老婆は遊羽の回答をきいて、大仰にうなずいた。首が外れるんじゃないかと思うほど、頭を大きく上下に振っている。

「ここでは、キツネの道標を信じなくてはならん。赤ずきんをかぶった人はカタミミ様じゃ。カタミミ様を疑ってはならんぞ。しきたりは守らねばならんのじゃ」
「は、はぁ……」

 きつい口調でそう戒められたものの、気のない返事をしてしまう。
 カタミミ様を疑ってはいけないとはどういう意味だろうか、と頭を掠めた。が、それよりも老婆のカタミミ様に対する信仰が少し狂信的めいている気がして気味が悪い。なにより老婆が遊羽の左耳を凝視していることが一番不気味だった。