ホームルーム前の教室というのは、いつだってすごく騒がしい。
気力も体力も有り余っているクラスメートたちが、「おはよー!」「ねえ聞いてよ!」と、互いにエネルギーをぶつけ合っている。
「えーっ!? 紫外線って、八月が一番キツいんじゃないの!?」
そんな、喧騒にまみれた朝の空間。自分の席でふあ、とあくびを漏らしていたとき、ひと際甲高い声が耳をついた。
出どころは、教室中央に集まっている派手めグループの女子たちだ。同じクラスになって一週間ほど経つけれど、まだまともに言葉を交わしたことはない。
「違うって! 五月! 来月からが一番ヤバいんだよ!」
聞こうとせずとも、勝手に耳に飛び込んでくる会話。へえ、と興味の薄い感想を抱き、俺は頬づえをついて、窓の外に視線を遣った。
窓際一番後ろの席というのはいい。クラスの様子を一望できる上、授業中寝てしまっても先生にばれにくい、絶好のポジションだ。
地上三階から、目下に広がる外の風景をぼんやりと見つめる。等間隔で植えられた桜並木が、綺麗にグラウンドを囲っている。
春を知らせる柔らかなピンク色は、俺がこの城下高校に入学した当時からちっとも変わっていない。
ただ、初めて見たときには、今よりずっと感動したことを覚えている。絨毯のごとく続く淡いピンクが、これから始まる高校生活を祝ってくれているかのように感じたからかもしれない。
「おーい、早水元也(はやみもとや)くーん!」
柄にもなく感慨にふけっていたところ、おどけた声にフルネームを呼ばれた。桜から視線をはがし、顔を上げる。
視界に入ったのは、口元にニヤリと笑みをたたえた馴染みのある顔。友人の朝霧翔太が、飛び込むように俺の前の席に座った。
「なあ、知ってたか?」
朝の挨拶をすっ飛ばし、顔を近づけて聞いてくる翔太。鼻息荒ぇよ、と若干身を引きながら、俺は眉をひそめて答える。
「……いや、俺も八月のが強いと思ってたけど」
「は? なんの話だよ」
わけがわからない、といった風に、翔太も同じく眉をひそめた。
「なにって」
「俺が言ってんのは部活のこと! 体育館、今日バレー部使わねぇから、オールで使えるってさ」
「……えっ! マジで!?」
オール。その単語を聞いた瞬間、俺は眉間のシワを瞬時に消し、頬づえを外し、加えて体を跳ね上げていた。
さっきまでの気だるさはいずこへ、だ。そんな俺の様子を見て、翔太はくっくと喉を鳴らす。
「やっぱバスケのことになると別人みたいだよなぁ、元也って」
「うっせ。なあ翔太、授業終わったらソッコー体育館行って1on1しねぇ? 今日六時間目担任の授業だし、多分早く終わるだろ」
「うげー……いいけど。でも今日はジュースなしな。俺、何回おごらされてると思ってんだよ」
1on1で負けたらおごる。それは、俺たちの間でいつからか自然と決まっていたルールだ。十分の九の確率でジュースは俺のものになっていたから、翔太の財布はずいぶんかわいそうなことになっている。
早水元也、高校三年生。短めの黒髪に、身長はわりと高い方で、ちょうど百八十センチ。
勉強は苦手で、全教科赤点に引っかかるか否かの微妙なライン。いつも眠そうだとか、覇気がないだとか、友人からはよく言われる。
けれどそんな俺でも、唯一熱意を持って取り組めるものがある。
そう、それは――バスケットだ。自慢じゃないが、バスケではそんじょそこらのヤツには負けない自信がある。
正直なところ、学校には部活をしに来ているようなもの。
授業は半分ほど寝て過ごし、エネルギーを温存してやっと迎えた放課後。
「っし!! 行くぞ!」
「いってぇ!? 待てよ元也ぁ」
チャイムが鳴ると同時に翔太の背中をバシッと叩くと、俺は教室を飛び出て、体育館へとまっすぐ走っていった。
今日は、四月にしてはずいぶん暑い。月をふたつほど飛び越して、七月くらいに感じる気候だ。玉のような汗がツウ、と背骨に沿って皮膚を伝う。
外の暑さと、体育館の暑さはまた種類が違う。館内は日差しを受けずに済むものの、閉めきられているために熱気がこもり、蒸し風呂状態だ。しかしその熱気が、かえって俺をやる気にさせる。
「次、3対2対1!!」
腹から出した俺の声に、「はい!!」と部員たちが元気よく返事を重ねる。
3対2対1とは、バスケの練習メニューのひとつだ。
オフェンス三人に対し、ディフェンスが二人。ディフェンスのポジションや意図を観て、オフェンスは走るコース、パスの方向、ドリブルを使うかなどを考え、動く。こういった練習の積み重ねが、試合のときに活かされてくる。
一応キャプテンを務めている身なので、仕切りは基本、俺に一任されている。とはいっても、練習メニューは顧問から指示されているものを行うだけだから、俺が特別考えるようなことはないのだけれど。
3対2対1のほかには、フットワーク、パス練習、シュート練習、3on3、1on1、試合形式練習……と、それらに加えて、個人的なメニューがもうひとつ。
練習終了後に、俺はいつもフリースロー対決を控えている。そしてこの対決の相手は、翔太ではない。
大田麻子。
麻子は女バスのキャプテンで、女子といえど、これがなかなか侮れないヤツだったりする。とくにフリースローは、百発百中ってほどうまい。
このフリースロー対決にもジュースルールが存在するのだが、残念なことに、こちらの俺の確率はジュース十本中三本だ。
昨日も俺の負けで終わっているし、今日は絶対勝ってやる。そんな風に意気込んで、練習後いつものように、麻子の姿を探していたときだった。
「麻子ちゃん切ったの、髪!」
翔太の驚きの声が、体育館に大きく響いた。
振り返って麻子の姿を視界にとらえ、俺は目を丸くする。
さっきまで練習にのめり込みすぎていて、変化に気付けていなかった。昨日まではふたつに束ねられていた麻子の長い髪が、まさしくショートカットと呼ぶにふさわしいさまになっている。
俺の視線を感じたのか、麻子が真ん丸い目をこちらに向けた。気恥ずかしさを覚えながら、俺は一歩、二歩と麻子に近づいていく。
「……なんで、そんな切った?」
麻子と、今日初の会話だ。俺たちはクラスが違うし、練習中に男バスと女バスが絡むことはないから、この時間まではそうそう話す機会がない。
「んー……だって、五月には最後の試合でしょ? ちょっと気合い入れようかと思って」
正面に立った俺に、麻子は短い毛束を指先でつまみ、はにかんでみせる。練習の直後だからか、麻子の頬は上気して、ほんのり赤みがかっていた。
「ねぇ、元」
「ん?」
「……似合う?」
冗談めかした、けれど少しだけ心配そうな麻子の声。長い髪もよかったけれど、ショートは麻子の明るいイメージをいっそう際立たせているように思う。
まあ、つまり……超似合ってる。
「……サルみてぇ」
けれど口から飛び出したのは、本音とはまったく違った言葉。麻子がむっと、くちびるを尖(とが)らせる。
「サルみてぇって……あんたそれ、女の子に言う言葉?」
「じゃあ、おサルさんみたいですね」
ものすごい勢いで、麻子のバッシュケースが飛んできた。
「一緒じゃん」
――パスッ!
今日も麻子のフリースローが、円を描くように綺麗に決まった。