川辺を歩いていく先輩の影が、傾いてオレンジに変化した西日によって長く伸びている。先輩が小さく口ずさんでいるメロディは、レッド・ツェッペリンの天国への階段だ。お兄ちゃんが大好きだった曲を、先輩が口ずさんでいる。

 ばらばらのジグソーパズルを前にしたような感覚だった。ばらばらに提示される先輩の語る『座敷わらし』の話。それを自分なりに結合していくと、こうなった。

 遠い昔、周囲に幸せを呼ぶ『幸呼び子』と呼ばれる子供がいた。その子供は富豪の家に大金で買い取られ、その家に住まわされた。家から出ることを禁じられ、ただ己の意思とは無関係にその家に幸を呼びつづけたという。そこから、家から出られない、家についた幸せを呼ぶ子供――座敷わらしの話の原型になったのではないか、と先輩は言った。

 その子供は死んで、けれどその『幸呼び』の能力は時代とともに少しずつ『形』を変化させて、現代にまで受け継がれているという。そして、最近ではネットオークションに流れて、見つけることになった。先輩はそう言って深く笑った。深く。深く。深く。

 ふいに――

 前を歩いていた先輩の足が止まった。同時に口ずさんでいた歌声も途切れる。腕に抱えられているジャケットの裾が、川辺からの風に揺れている。先輩の影を踏む直前であたしは足を止めた。

「殺してやろうと思った」

 唐突なその言葉は、低く風に飛ばされていく。訳も判らず先輩の背中を見上げる。

「殺してやろうと思ったんだ。何も知らないお前をね」

 静かな言葉とともに、先輩は振り返って来た。切れ長のブラウンの瞳は歪んだ笑みを内蔵していた。

「せんぱい……?」

 先輩の顔は、ちょうど正面にある夕陽のせいで眩しくてまともに見れたものではなかった。だけどあたしは目を細めながらも、それでも先輩の瞳を見返していた。逆光の中浮かび上がる、ブラウンの瞳。あの写真の中にあった、お兄ちゃんと一緒にいた先輩の瞳を。

 川辺のざわめきは、かすかに耳元を揺らして過ぎていく。その間に、先輩はゆっくりとあたしに向かって歩を進めていた。すぐ真横にある川。並べられている石の上を平均台よろしく歩いてきて、あたしの目の前で足を止めた。

 先輩の腕が、あたしの右手をとる。中指にはめられたままの指輪を、先輩はそっとなぞった。

「何も知らないで――よく、生きてられるな。吐き気がするよ」

 唾棄するように呟かれたその言葉は、あたしを静かに斬りつけようとして――だけどそんなものは、あたしを傷つける要因にはなりはしなかった。そんな言葉なんて、どうでもいい。まるで額縁のなかの美しい絵画のように見える先輩からそんな言葉を吐かれたところで、何の意味を要するというのだろう。

 そして――見ていて吐き気が覚えるのは、何も先輩があたしに対してだけじゃない。あたしが先輩に対しても、全く同じだ。あの写真の中の笑顔。お兄ちゃんの傍にあったはずのそれを、ためらいもなくあたしに向けてくる人。お兄ちゃんが大好きな曲を口ずさむ人。お兄ちゃんと一緒の学校に通っていた人。あたしが望んでも望んでも得られなかったものをもっている人。お兄ちゃんが貸してくれなかった指輪を、お兄ちゃんに託されたという人。座敷わらしだなんて本気で言ってしまう頭のおかしな人。狂っている人。狂っている人。お兄ちゃんはもういないのに。あたしと同じように、お兄ちゃんを追っているようにしか――見えない人。

 夕陽の中佇むその顔を見上げ、あたしは確かに込み上げて来る何かを押しとどめながら、言葉を吐き捨てた。

「知らないから――生きていけるんです。知ろうとするから」

 あたしの言葉に、先輩の笑みが深くなった。あたしの手を握るその手の力が強くなる。鈍く染みてくる痛みに顔が歪むのが自覚できた。だけどあたしは、先輩の瞳を睨みあげた。逸らすことはなかった。ただ睨みあげた。睨みあげた。睨みあげた。切れ長の、睫毛が長い、ブラウンの瞳を。

 くつくつと、低い笑い声が響いた。そう思った瞬間、それは弾けるような大きな笑い声に変化していて――そして、あたしの足は踏みしめる地を失っていた。

 一瞬の浮遊感。そして、刺すような痛みが全身を襲う。水柱が上がって、そこでようやく理解した。川の中に突き落とされたということに。

 スカートのひだが波に流されるように踊っている。川は浅く、水かさは、座り込んだ体勢のあたしの腹部に達するか否かと言う程度でしかなかったが、それでも、痛みに似た冷たさに全身が震えた。動くことも出来ず、凍りつくように冷えていく体を感じながら、あたしは顔を上げた。先輩のブラウンの瞳と視線が絡みあう。

「寒い?」

 何かを楽しむような声音で、先輩が訊ねて来る。

「……寒いです」
「そう」

 川の中にいるあたしを見下ろしながら、先輩は静かに微笑んだ。人畜無害な笑みで。

「真衣」

 またあたしを名前で呼んで、先輩は子供のように首を傾げた。

「正樹が生きてた頃は、幸せだっただろう?」

 あたしは答えずに先輩を睨み上げていた。先輩はあたしの視線を苦笑で受け止めて、それからゆっくり手を差し伸べてきた。その手を掴んで引きずり込んでやろうか――そう思ったけれど、力が敵わなかった。細身に見えるくせに力が強い先輩は、あたしをあっさり川の中から引き上げた。

 下着も濡らした川の水が、足を伝っていく。風が冷たく感じた。草の上に靴を載せると水音が響いた。あたしはその間一度も先輩から目を逸らさなかった。

「先輩。あたし、先輩が大嫌いです」
「知ってるよ」

 震える唇から唾棄した言葉に、先輩は造作もなく頷いた。自分のジャケットを脱いで、あたしにかけてくる。お兄ちゃんが小さい頃あたしによくそうしてくれたみたいに。けれどかけられたジャケットは高等部の物で、お兄ちゃんが結局ほとんど着ることのなかったものだと考えるとどうしてもやるせなかった。ぶかぶかのジャケットに下唇を噛んでいると、先輩がふと微笑んだ。邪気も何もない穏やかな笑みで。

「早く帰ったほうがいい。風邪ひくよ」

 自分で突き落としたくせに。

 頭の中の冷静な部分がそんな言葉を発してきたけれど、結局それはあたしの唇に乗ることはなかった。

 先輩はあたしの視線から逃れるみたいに、足早に川辺を去っていった。風があたしの体温を奪いながら桜の花びらを運んできた。恐怖が足を竦ませて暫く動けなかった。

 おにいちゃん。

 口内で呟いた言葉が鍵になって、あたしはようやく動き出せた。春から逃げたくて、あたしはジャケットと手の中の指輪を握り締めたまま、水濡れた足音を響かせて走り出した。