心臓を素手で握り潰されたのかと、思った。ついさっき先輩の手の中で果てた桜の花の気持ちが、判るようだった。

 あいまいに揺らぎかける視線を、だけどあたしは先輩から外さなかった。長い睫毛に守られるように光っているブラウンの瞳を、正面から見据えた。

 声がかすれるのだけは、それでもどうしようもない。

「お兄ちゃんは、事故で死にました」
「そう」
「知っていたんですね」
「知らないとでも思ってた?」

 くすりと先輩が笑った。何かを試すような、意地悪な笑み。ついさっきまで張り付いていた人畜無害なあの笑顔は、よく出来た仮面だったのだろうか。

 先輩はネクタイに指輪をはめた中指と人差し指をつっこんだ。ネクタイを緩め、ブレザーのジャケットを脱ぐ。土手脇の階段さえ使わずに、器用に降りていく。ふと振り返って、こちらを見上げてきた。

「座ろう」
「……馬鹿に、してるんですか」
「そうだね。でもそれはお互い様。それに座敷わらし云々は、本気」

 先輩は言うだけ言って、こちらの返事も待たずに滑るように再度土手を降り始めた。途中で黄色くけなげに咲いているたんぽぽの花をちぎって、それをもてあそびながら河岸ギリギリまで歩を進めた。石積みの河岸に腰をおろして、こちらに背中を向けたままただ静かに佇んでいる。

 あたしは、一瞬だけためらった。だけどためらいはすぐ、かぶりを振って追い出した。二つ結びの髪が頬の横で跳ねて、邪魔だと思った。身をかがめて、土手に手をつく。草汁が手のひらにくっついて多少気持ちの悪さは否めなかったけれど、先輩のように器用に立ったまま降りていくことが体育二のあたしに出来る芸当とも思えず、仕方なしにそうした。学校指定の白のハイソックスが汚れるかもしれない、とも思ったけれどこの際どうでもいい。足を踏み出し、ゆっくりと降りていく。

 ところが、土手の半ばを過ぎた時、ローファーの靴裏がずるりと嫌な音を立てて滑った。

「きゃっ……」

 ひっくり返った悲鳴をあげて、あたしはその場に大きくしりもちをついていた。さっと頬に血がのぼる。やってしまった、と口中でだけで呟いた。判ってる。素直に遠回りになってでも階段を使うべきだったんだ。あたしはドン臭い。お兄ちゃんが良く言っていた。『真衣はホントにドン臭いよな』って。

 ぽかんと口を開けている先輩と目が合った。ああ、見られた。この男に。恥ずかしさと悔しさで、先輩の瞳を睨み返した。先輩はすぐにその目を細めた。困ったような、呆れたような――それでいて、今までのどの笑みとも違う、素直な優しさも垣間見えるような、笑みを浮かべた。

「馬鹿だな、真衣は」
「……先輩ほどじゃないです」

 真衣、と呼ばれたことに対しては、自分でも意外なほど驚きは浮かばなかった。それどころか、何故かお兄ちゃんにそう呼ばれたときのような心地良ささえ――腹立たしいが、認めざるをえないだろう――覚えた。

 先輩は苦笑を深くして立ち上がった。たんぽぽを放り出して、こちらに歩いてくる。その手を差し伸べられて、あたしは素直にそれに甘えた。こつりと違和感のある感触が手の中に生まれた。銀の指輪。

 先輩に引っ張って立たされて、スカートにくっついた草を払って歩いた。数歩だけ進んで、河岸に座る。先輩の右隣に座って、あたしは小さく言葉を漏らした。

「その指輪。……お兄ちゃんの、ですよね」
「知ってたんだ?」
「知らないとでも思ってましたか?」

 さっきと同じ問答を、立場を逆転してやる。奇妙な違和感に、先輩は楽しそうにくつくつと笑い声を漏らした。

「お兄ちゃんは」

 声がかすれて、それであたしは気付いた。心の中ではほぼ毎日、その言葉を発していたけれど、唇に乗せて音にするのは、それこそ二年ぶりに近かったのかもしれない。お兄ちゃん。その音が懐かしすぎて、胸に痛い。

「――お兄ちゃんは、あたしが貸して欲しいって言ったら、大抵のものは貸してくれました」

『わがままだな、真衣は』って苦笑しながら。それでも、貸してくれた。CDも。帽子も。本も。アクセサリも。

 先輩は何も言わず、こちらを見ようともせずただ水面に流れる花弁を視線で追っている。

「でも。その指輪だけは……駄目だって。どうしても貸してくれなかったんです」

 震えた音が、水面に落ちていった。だけど、石を落としたときのような波紋は生まれなかった。あたりまえだけど。指先が冷えてきていた。春の陽光があるとはいえ、水辺の風はまだやっぱり冷たい。水面を渡ってきた風から守るように、指を手の中に織り込んだ。自分の指先がかすかに震えているのを自覚する。

「それをなんで」

 喉からその言葉が漏れたとたん、ダムが決壊したように感情が溢れ出した。先輩の肩を掴んでこちらに向きなおさせて、叩きつけるように言葉をぶつけていた。

「なんで、先輩が持ってるんですか! どこを探してもなかったのに、どうして先輩がそれを持っているんですか!? どうしてお兄ちゃんのものを、先輩が持ってるんですか!?」
「正樹に託されたから」

 答えは、こちらの声をものともせずにあっさりと返ってきた。あっさりと、平坦な声で。自分のシャツに絡まったあたしの指を解いて、先輩は右手の中指につけた銀の指輪を眺めた。

「託されたって……」

 お兄ちゃんは交通事故だった。病気とかと違って、自分の死を判って何かを託すなんてことは出来たはずがない。なのに、先輩の言い草はまるで、お兄ちゃんが判っててそれを手渡したみたいだった。

「つけてみる?」

 先輩はふいに軽い口調でそう言った。一瞬意味が判らず見上げたあたしを気にすることもなく、自分の指から指輪を抜いた。それから、一度は振り払ったあたしの手に触れて、その指輪を静かに中指へとはめてきた。

 ――ぶかぶか、だ。

 思わずゆるく苦笑を浮かべたあたしを見て、先輩が笑みを濃くした。唇の端が持ち上がり、歪む。

「先輩……?」
「座敷わらし」

 ふいにトーンの落ちた声がその言葉を紡ぎ出して、あたしはすっと現実が冷めていくのを感じた。指輪のはまった右手を握りこぶしにして、左手で覆う。はずれないように。

「まだ言ってるんですか、それ。人の事、馬鹿にしてるんですか?」
「座敷わらしって、どんなのだと思う? 西岡」

 真衣じゃなく西岡、と先輩はあたしの顔を見つめた。赤いネクタイが風に揺れるのを何となく視線で追ってから、小さくため息を漏らす。馬鹿馬鹿しい。

「家に憑いて、幸福を呼ぶ子供の妖怪、でしょう?」
「そう。他には何か知ってる?」

 馬鹿にされている。そう思いながら、先輩の瞳を見返した。切れ長の目が、からかうような笑みを浮かべている。睨み返す。視線は動かない。あたしの視線も先輩の視線も、一度たりとて揺らがない。

「――オカッパの女の子だとか、座敷わらしは家から出られないとか、そういうのですか?」
「まぁ、一般的な正解だね」

 睨みあったまま交わす言葉じゃない。こんなのは。だけど先輩はその行為が満足だとでも言うように大きく頷いた。雲ひとつない薄い水色が広がる空を見上げ、変わらない口調で続ける。

「大昔――って言っても、それがいつ頃かは知らないし起源が日本だともはっきりはしてないんだけどね」

 もう何もついていない右手の中指を春風に晒しながら、それこそ春の陽光のような口調で続ける。穏やかな、腹立たしい口調。

「周りに幸せを呼ぶ能力を持った子供が実際にいたそうだよ」
「妖怪ですか? 馬鹿馬鹿しい」
「いいや。普通の農民の子供だったらしい」

 いきなり現実離れした単語を吐いて、そのまま言葉を続ける先輩に怪訝な目を向ける。けれど先輩は――ああそう、きっと狂ってるんだ――当たり前のように続けた。それがなんだか怖く思えて、あたしはきゅっと手を握る。銀の指輪の感触が、お兄ちゃんを思い起こさせてくれて力強く思えた。

「だからその子供は高い値段で買われたそうだ。農村の住民が一年は遊んで暮らせるほどの値段だったって言うからね、親だって手離さざるを得なかったんだろう。そんな話があれば、村人の目が子供を金としか見なくなるだろうし、そもそも当時の農村なんて閉鎖的な世界だからね……まぁ、売りませんとは言い出せなかったんだろ」

 意味が判らない。売られた子供の話がこの場合何の関係があるというんだろう。

「そんな怖い話、どうでもいいです。昨日のは嘘ですか。先輩が座敷わらしだって言ったのは」
「まぁそう急ぐなよ。せっかちだな、真衣は」

 どこからか飛んできた桜の花びらを視線で追いながら、先輩が前髪をかきあげた。くすりとした小さな笑い声を鼻から漏らして、一瞬だけあたしに視線を合わしてくる。

 ブラウンの瞳。

 それに映る自分自身を睨み返しながら、あたしはうすく唇を開く事を止められなかった。

「先輩が本当に座敷わらしだって言い張るなら、聞きたいです」

 先輩は視線だけで言葉の続きを促して来た。銀の指輪の感触に頼るように拳を握り、体内で響く心臓の音を感じながら、あたしは呟く。

「どうして、少しでも――ほんの少しでも、お兄ちゃんを幸せにしてくれなかったんですか」

 先輩の目が、まるで嘲りでも含むかのように色を変えた。

「そのときは俺はまだ座敷わらしじゃなかったから」

 ――座敷わらしじゃ「なかった」?

 思わずきょとんと目を瞬かせてしまったあたしの様子を見て、先輩が楽しそうに笑い声を漏らした。その様子は、一瞬にしていつもの人畜無害なそれに変わっている。

「とりあえず、順序だてて話そうか。最後まで聞いてくれるかな、西岡」

 先輩の言葉に、あたしは眉を寄せながら、それでも静かに頷いてみせた。