下を向いていた顔を持ち上げて、また先輩は笑顔を見せた。人畜無害なあの笑顔じゃない。昨日一瞬だけ覗かせた、あの笑顔だ。唇の端だけを片方持ち上げた、皮肉じみた――嘲笑に近い、笑み。

 春先に似合わない悪寒が、背中を駆けた。

 先輩はゆっくりと閉じた右手を開く。握りつぶされて一部色素すら失ってよれた桜の花が、舞うこともなく煉瓦の地面の上に落ちた。

 ただじっと、それを見下ろす。その時間はたぶん、ほんの十数秒だっただろう。だけどあたしには何故か長く思えた。ふいに先輩が、明るい声をあげた。

「西岡、デートしよう」
「……は?」
「デート。らぶ☆どき☆春の青春デート」

 浮かんでいた笑みを邪気のない幼いものへと変貌させて、先輩が立ち上がる。落ちた桜の花を無造作に踏みつけて――それこそ、幼い子供独特の残酷さをもって踏みつけて、あたしに手を差し出す。

 その時思った。

 ああ、やっぱりこの人も狂っているんだ。あたしと同じように。

 銀の指輪がはめられた右手。その手に自分の手を重ねて、あたしは小さな吐息をこぼした。少し硬くて厚い手のひらは、お兄ちゃんのそれを否応なしに思い出させる。先輩は重ねたあたしの手を、無造作に握ってきた。あたしも先輩の手を握り返す。

「ううーん。いいねぇ。この感じ。これぞ青春って感じだねぇ、そう思わない? 西岡」

 黙っていれば格好いいだけなのに、この男は口を開くととたんに馬鹿だ。馬鹿か、狂っているか、あるいはそのどちらでもあるのかは判断つけがたいけれど――たぶん、両方が正解なんだろう。

「先輩。後輩として忠告してあげます」
「なに?」
「口、閉じとけ。あんたは」

 あたしの一言に、先輩は軽く声を立てて笑った。

 並んで中庭から歩き出し、校門へと足を向ける。校門をくぐる直前に、薫とすれ違った。薫はぽかんと大口を開けてあたしたちを見たが、あたしは薫に何も言わずにその横を通り過ぎる。

 無言のまま、あたしたちは手を握り合って歩いていた。どこへ行くかもお互い口には出さず、ただ足の向くまま歩を進めていた。訊ねたいことはいくらでもあった。問いただしたいことも。知りたいことも。だけど口に出す気になれず、言葉は喉の奥に張り付いてやがて消えていった。消化不良になった黒い澱みが、ただ胃の中に積もっていった。

 春の陽光に照らされた影が、短く伸びている。影を引き摺って、機械的に足を動かした。高い石の段を幾度か上り、気付くと鼻先に水の匂いが広がっていた。学校裏の堤防。

 時折跳ねる魚と水音。学校から届いてくるざわめき。水に踊る光。流れてくる薄ピンクの花びら。沸き立つような若葉の土手。視線を高く上げれば、駅のほうに空を染めそうなほどに薄ピンクの群れが広がっている。昨日歩いた、あの桜並木。午前中授業のみだったので、まだ夕焼けには遠い。だけどそれでもやや西に傾いた陽射しが、眩しかった。

「んー、気持ちいいね。やっぱこの季節が一番良い。そう思わない? 西岡」
「先輩」

 大嫌いです。

 漏れかけた言葉を飲み込んで、あたしは違う音を唇に乗せた。伸びをしていた先輩が、空を見上げたまま動きを止めた。

「意味が判りません。どういうことなんですか。どうして、あたしに声をかけたんですか。座敷わらしがどうのって、あたしを馬鹿にしているんですか」

 先週通りかかったあの中庭で、初めて先輩のほうからあたしに声をかけてきた。

 先輩はその時すでに、あたしの名を知っていた。西岡、もうすぐ桜が咲くよ。つぼみが膨らんでいる。あまりに唐突なその言葉に、あたしはやや呆然として頷くしか出来なかった。桜が満開になったら、デートしよう。先輩はそう言ってほとんど一方的に、デートの約束を取り付けてきた。あたしは――先輩が何を考えているのかが知りたくて、それを承諾した。そして昨日があって、今がある。けれど、先輩の真意は――先輩が何を考えているのかは、全く判らなかった。

「君を誘ったのは」

 先輩は天に伸ばしていた腕を下ろして、こちらを振り返って来た。色のない、無機質な笑みを浮かべたまま。

「君のことが好きだったから」

 ――瞬間的に湧き上がってきた鈍い吐き気を押し戻そうと、喉を上下させた。そのあたしの様子を見て、ふと先輩の笑みが深くなる。

「――なんて言うと思った?」
「……思いません」
「正樹の妹なんだって?」