「いや、だからさ。西岡には座敷わらしの素質があるんだって!」

 早足で歩くあたしの隣についてきながら、先輩が早口でまくし立てる。神さまプリーズ。この男を黙らせろ。

 ……いや、前言撤回。黙らせないでいい。黙ったら、この人の声が聞けないから。このイライラするほど穏やかな声が聞けなくなるから。

 ショッピングモールの脇にある長い桜並木を歩いていく。日曜の午後らしく、子供たちのはしゃぎ声が陽射しの中で揺れている。さて、問題です。そんな中でこの先輩は何をとち狂った台詞を吐いているのでしょう。

 答え。あたしを座敷わらしの後継者にしたいと口説いている。

 ……頭が痛い。

 あたしは確かに面食いではある。格好いい顔の男の人は好きだ。だけど、頭の可哀想な人は――嫌いだ。心底。吐き気がするほどに。

 特に、この人は。
 戸部敦先輩は。

 春風が吹き抜けて、薄ピンクの花びらを舞い上がらせた。肩に降って来る花びらをつまんで捨てて、あたしはため息を風に乗せて立ち止まる。

 先輩はあたしより半歩行き過ぎたところで立ち止まって振り返って来た。穏やかな笑顔が、春の陽射しによく映えている。

「聞いてくれる気になった?」
「あのですね」

 鈍く響いてくる頭痛に顔をしかめながら、あたしは頭一個分上にある先輩の顔を睨みあげた。薄ピンクの満開の桜が、先輩の輪郭を包んでいるようにすら見えた。

「あたし、デートはオーケイ出しましたけど、こんな頭可哀想な会話に付き合うことにオーケイ出したつもりはありませんよ」
「西岡はけっこう酷いなぁ」
「先輩!」

 へらへらっと一切の緊張感を欠いた笑みを浮かべる先輩に、あたしは苛立ちを隠せずに思わず声を荒らげた。下ろしたての白いスカートが、ふわりと風に舞う。それを手のひらで抑えて、先輩の瞳を見上げた。

 切れ長のブラウンの瞳。まつげが長く、目の下にわずかな影を落としている。自分のスタイルをたぶん良く理解しているタイプの、もてる人、だと思う。襟の大きく開いた白い長袖シャツに、デニムの半袖ジャケットを合わせていて、足の長さが引き立つような綺麗なラインのジーンズをはいている。金をかけたと思われるがっちりしたスニーカーは、ある程度履き潰した感が逆に浮きすぎずにはまっていた。十字架のチョーカーと、太い銀の指輪。装飾品も浮くことなく決まっている。それなりに自分の容姿に自信があるんだろうなぁ、と思わせるスタイルだ。まぁ実際、外見は格好いいんだけど。頭の中身が、これじゃあなぁ。

 というか、どこにいる。こんな今時若者スタイルの『座敷わらし』が。

 先輩は相変わらずの穏やかな笑みを浮かべたまま、自分の前髪にくっついた桜の花びらをつまむ。銀の指輪が陽射しに柔らかく反射した。

 飾り気のない、太い銀の指輪。

 理由もなく、一瞬それに目を奪われた。銀の指輪。

「――この指輪が、気になる?」

 ふいにトーンの落ちた声が耳に届く。はっと意識を戻すと、先輩が口の端を片方歪めて上げていた。穏やかな笑顔じゃない――どことなく皮肉っぽさも漂う、笑い方。

 ほんの一時、背中に何かが走った気がしたけれど、あたしはそれを無視してかぶりを振った。

 何かが、心の奥で引っかかる。

 だけどそれを振り払って、あたしは淡く甘い香りのする空気を肺に入れた。

「別に、なんでもないです」
「あれ、そう? 残念だなぁ」

 そうやって笑った先輩の声は、さっきのトーンとは違っていて、笑顔も皮肉っぽさは欠片もない、人畜無害な純粋笑顔だった。気味が悪いほどに。

「まぁそれはいいとして。で、さ。西岡。座敷わらしだよ、座敷わらし。なりたくない?」
「ありません。そもそも頭の可哀想な先輩にこれ以上付き合う気もさらさらありません」
「西岡はけっこう酷いなぁ」

 どうしてくれようこの男。会話が全く成り立たない。

 あたしは漏れ出るため息を飲み込んで、止まっていた歩を再開させた。先輩を置き去りにするために、早足で歩き出す。ヒールのないぺたんこの白いバレエ型シューズが、桜の花びらを踏んでいく。

 前代未聞だ。いくらなんでも。初デートでいきなり『俺、座敷わらしなんだよね』とカミングアウトされ、あまつさえ『座敷わらしの後継者にならない?』と言われる事なんてあっていいのか? しかも、先週偶然中庭で逢ったのが、ほとんど初対面だというのに。その日にいきなりデートに誘われ、まぁいいかと承諾したあたしもあたしだけれど、しかしこれは、いくらなんでもどうなのか。

 鈍く疼く頭痛を抱え込んだまま歩き出したあたしに、先輩はついてこなかった。

 ただ、数メートルも距離をあけたとき、後ろから能天気なのほほん声が覆い被さってきた。

「西岡ー」

 いやいやながら、だけどあの吐き気がするほど人畜無害な顔を視界に収めてやろうかと思って、肩越しに小さく振り返る。

 先輩は桜並木の中で、大きくこちらに向かって手を振っていた。

「また明日な、西岡。俺けっこう、しつこいから。よろしくー」

 胸の奥で渦巻く黒い感情を押さえつけて、あたしは先輩から目を外して前を見た。

 うすい水色の空に、白に近いピンクの花びらが寂しげに舞い上がる。

 桜の花びら。

 ああ、そうか――この時期だから、なのかもしれない。あたしがこんなに苛立っているのは。もちろんあの頭が可哀想な人のせいであるのは八割以上正しいとは思うのだけど、残り二割は、季節柄もあるのかもしれない。二年前の春。あの日から、あたしの中で大嫌いな季節ワーストワンに確定されたこの季節のせいなのかもしれない。

 あたしから、お兄ちゃんを奪った季節。

 目の前にふわりと降って来る花びらを視線で追いかける。舗装された地面に吸い込まれるように落ちていった花びらを見下ろして、あたしは小さく唇の端に笑みを作った。濃い緑の地面の中で、浮き上がるようにいくつもの花びらが白い姿をさらしている。中には花びらじゃなくて額ごと落ちた桜の花もある。そのどれもが、誰かの足に踏まれ、靴のあとを体に纏い、ちぎれ、汚れて見るも無残な姿になっている。ざまあみろ。

 咲く桜に人は目を奪われる。だけど、舞い散り地面に落ちた元桜には、誰も興味を示しはしない。散りゆく桜は美しくない。欠片も、美しくなんかない。そして桜は、散るだけしか能がない。ざまあみろ。

 あたしはいつのまにか止まっていた足を持ち上げて、落ちてきたばかりの花びらに下ろした。感触も何もなく、白い靴の裏で花びらがちぎれる。口の端に浮かんだ笑みが自然と濃くなるのが判った。自分でも気狂いじみてると思わなくもないけれど、だって仕方ないじゃない?

 あたしはこの季節を、殺したい程憎んでいる。

 ゆっくり、ゆっくり、丁寧に。花びらを踏みつけて歩きつづける。恐らく先輩は、まだあたしの背中を見ているはずだ。さて、問題です。彼はこのあたしの姿を見て、何を思うでしょう?

 答えなんて、知りたくもない。
 知る必要もない。
 座敷わらし? 座敷わらしだって? だったら、ぜひ、あたしにとり憑いて欲しいもんだ。幸せを呼ぶんでしょう? だったら、あたしにお兄ちゃんを返して下さい。この季節をなくして下さい。

 ああ、でも駄目だ。そうしたら、今みたいに桜の花を踏みつけて歩くことが出来なくなってしまう。それは駄目だ。

 かなりの時間をかけて、桜並木を通り過ぎる。風にふかれ、二つに結んだ髪の毛がくすぐったそうに揺れている。並木道を過ぎた後は早足で、家までの道を行く。

 ああ、本当に。憎たらしいほど穏やかな季節。先輩の笑顔のように。