先輩の目がまた奇妙に笑みを浮かべた。それは人畜無害な、あの笑み。
「西岡」
真衣じゃなくて、西岡と――ただの先輩と後輩のように、彼はあたしをそう呼んだ。
「幸せのない世界で、ひとりきりで生き続ける事がどんなことか、判る?」
「……判りません」
「俺には少なくとも耐えられなかった。正樹がどうして耐えられたんだろうかと疑問に思うほどにね。理由があるとしたら、西岡、お前だったのかもしれないね」
お兄ちゃん。
自分でも良く判らない感情が、内部から湧きあがってきて涙になりそうだった。あたしはそれを必死で堪えながら、ただ静かに先輩を見つめつづけていた。
「真衣」
今度は真衣と、あたしを名前で呼んできた。先輩は地面に落ちていたあたしの手を持ち上げて、指にまた軽い口付けを落としてきた。
「お前を殺したい」
「好きにすればいいです」
静かな微笑みと同時に呟かれた言葉に、あたしは感情を動かされることもなく答えた。
先輩は微笑んで、それから同じ口調で続けてきた。
「お前を抱きたい」
「……好きにすればいいです」
先輩の腕が背中に回されて、抱きしめられるのが判った。硬い腕だった。
春の夜風が桜を舞い散らせる。月明かりの中で、あたしは先輩の腕に抱きすくめられていた。それがどれくらいの時間だったのかは、判らなかったけれど。
「真衣!」
ふいに聞き慣れたハスキー・トーンの女の子の声が耳に届いた。
知らずに閉じていたまぶたを持ち上げても、そこにはもう先輩の姿はなかった。ただ、風に吹き付けられて踊っている桜の花びらだけが目に入った。
「真衣!」
後ろから肩を捕まれて、振り返る。
「……薫」
「何やってんだお前、こんな夜中に……」
長袖シャツとジーンズ。綺麗に切られたショート・ヘア。ボーイッシュなあっさりとした顔立ちが、今は困惑に彩られていた。見慣れた薫の顔が、一瞬前までの異様な空気の中庭を、いつもの中庭へと変えていた。
「薫……なんで」
「おまえんち行ったら、真衣が行方不明だって言われて……探してたんだよ」
「かおる……何で、あたしを探してたの」
「それは」
薫が一瞬言いよどんで――それが合図にでもなったかのようだった。
今まで張り詰めていた何かが切れたように、あたしの目からぼろぼろと涙がこぼれてきた。
「真衣。……なぁ。落ち着いて聞けよ」
あたしの肩を掴んで、薫が静かに言う。薫が何を言い出すのか、あたしにはもう判っていた。
幸せのない世界で生きていくことには耐えられなくなったと先輩は言った。
この指輪をどうするかはあたしに任せると先輩は言った。
あたしを殺したいと先輩は言った。
あたしは好きにすればいいと言った。
お兄ちゃんが先輩を殺したのだとしたら――あたしは先輩に、殺されたのだ。
座敷わらしの後継者。
幸せのない生、その運命の輪に組み込まれたのだ。
指輪の所有者はもう、先輩じゃない。
「戸部先輩が、亡くなったらしいんだ」
――指輪の所有者はもう、あたしなんだから。
もう聞こえない先輩の声が、耳の奥で繰り返されていた。
あたしを抱きしめて、呟かれた言葉。
「西岡」
真衣じゃなくて、西岡と――ただの先輩と後輩のように、彼はあたしをそう呼んだ。
「幸せのない世界で、ひとりきりで生き続ける事がどんなことか、判る?」
「……判りません」
「俺には少なくとも耐えられなかった。正樹がどうして耐えられたんだろうかと疑問に思うほどにね。理由があるとしたら、西岡、お前だったのかもしれないね」
お兄ちゃん。
自分でも良く判らない感情が、内部から湧きあがってきて涙になりそうだった。あたしはそれを必死で堪えながら、ただ静かに先輩を見つめつづけていた。
「真衣」
今度は真衣と、あたしを名前で呼んできた。先輩は地面に落ちていたあたしの手を持ち上げて、指にまた軽い口付けを落としてきた。
「お前を殺したい」
「好きにすればいいです」
静かな微笑みと同時に呟かれた言葉に、あたしは感情を動かされることもなく答えた。
先輩は微笑んで、それから同じ口調で続けてきた。
「お前を抱きたい」
「……好きにすればいいです」
先輩の腕が背中に回されて、抱きしめられるのが判った。硬い腕だった。
春の夜風が桜を舞い散らせる。月明かりの中で、あたしは先輩の腕に抱きすくめられていた。それがどれくらいの時間だったのかは、判らなかったけれど。
「真衣!」
ふいに聞き慣れたハスキー・トーンの女の子の声が耳に届いた。
知らずに閉じていたまぶたを持ち上げても、そこにはもう先輩の姿はなかった。ただ、風に吹き付けられて踊っている桜の花びらだけが目に入った。
「真衣!」
後ろから肩を捕まれて、振り返る。
「……薫」
「何やってんだお前、こんな夜中に……」
長袖シャツとジーンズ。綺麗に切られたショート・ヘア。ボーイッシュなあっさりとした顔立ちが、今は困惑に彩られていた。見慣れた薫の顔が、一瞬前までの異様な空気の中庭を、いつもの中庭へと変えていた。
「薫……なんで」
「おまえんち行ったら、真衣が行方不明だって言われて……探してたんだよ」
「かおる……何で、あたしを探してたの」
「それは」
薫が一瞬言いよどんで――それが合図にでもなったかのようだった。
今まで張り詰めていた何かが切れたように、あたしの目からぼろぼろと涙がこぼれてきた。
「真衣。……なぁ。落ち着いて聞けよ」
あたしの肩を掴んで、薫が静かに言う。薫が何を言い出すのか、あたしにはもう判っていた。
幸せのない世界で生きていくことには耐えられなくなったと先輩は言った。
この指輪をどうするかはあたしに任せると先輩は言った。
あたしを殺したいと先輩は言った。
あたしは好きにすればいいと言った。
お兄ちゃんが先輩を殺したのだとしたら――あたしは先輩に、殺されたのだ。
座敷わらしの後継者。
幸せのない生、その運命の輪に組み込まれたのだ。
指輪の所有者はもう、先輩じゃない。
「戸部先輩が、亡くなったらしいんだ」
――指輪の所有者はもう、あたしなんだから。
もう聞こえない先輩の声が、耳の奥で繰り返されていた。
あたしを抱きしめて、呟かれた言葉。