強く手を握られて、痛みが走った。ブラウンの瞳が静かに狂うような色に変わり始めるのを、あたしは静かに見据えていた。

 ――覚えて――いた。

 ううん、正確には思い出した。今までは忘れていた。

 モノクロームだった記憶の断片が、急に色と質量を伴って頭の中に再生され始める。怖いほど、リアルに。

 お兄ちゃんと二人で歩道を歩いていた。あのショッピングモール脇の桜並木だ。新学期のための準備を済ませて、あたしはとても嬉しくてはしゃいでいた。けれどそこに、横から自動車が突っ込んできた。何の前触れもなく、あたしに向かってきた。悲鳴を上げる暇もなく自動車はあたしを跳ね飛ばそうとした――その瞬間、急にハンドルを切ったのか、あたしとは少し離れた場所にいたはずのお兄ちゃんを跳ね飛ばした。一瞬の出来事だった。

 それから。それから。それから――

「立ちなよ」

 先輩の静かな声とともに、腕が引っ張り上げられた。気付くとあたしは先輩の前でしゃがみ込んでいた。ブラウンの瞳が嘲るみたいに笑っている。

 ベンチから立ち上がっていた先輩にひかれて、あたしはふらつきながらも立ち上がった。けれど足に力は入らなかった。

「正樹を殺したのは、誰だったか。判るよね?」
「でも、それは……」
「そう。正確にはこの指輪のせいだね」

 先輩はそう言って、掴んでいたあたしの手を持ち上げた。月光に弱く反射する銀の指輪を見て、それからそっと指輪に唇を寄せてきた。指輪ごと、あたしの指に軽い口付けを二度、三度と降らす。そしてあたしの指は、先輩の口の中にすわれていく。先輩の舌があたしの指をなぞる感触が確かに伝わってきて、背筋が震えた。指輪と指の隙間を、先輩の舌先が這うのを、確かに感じた。

「せんぱ」
「――これのせい、だね」

 思わず上ずった声をあげたあたしに、先輩は悪戯めいた笑みを作って呟いてきた。あたしの指を口からはなすと、もう一度軽い口付けを降らしてきた。先輩の唾液で濡れたあたしの指は、月光に照らされて僅かに光を反射した。夜風が濡れた指を曝け出すように吹いて、頬が朱に染まるのをあたしは自覚した。唇を引き結んで、先輩を睨み上げる。

「あたし、先輩のことが嫌いです」
「ああ、俺もだよ。真衣のことが嫌いだね。殺したいくらいに」

 だったら何で、こんな事をするんですか。
 呟きを言葉にしなかったのは、答えを何となく理解していたからだ。先輩はきっと、あたしが嫌がるから、それを知っているからこんな事をするんだ。きっと。

「指輪の所有者は正樹だった。今は、俺」
「どうして、捨てなかったんですか」
「さあ、何でだろうね。俺にも判らない」

 先輩は楽しそうに笑って、あたしの指にはめられた指輪を手でなぞっていた。薄ピンクの桜の花びらが一枚、降るように落ちて来て指に止まった。唾液のせいで、指に張り付く。

「捨てるという選択肢も確かにあった――むしろ正樹はそれを望んでいたからね。けど俺はそうしなかった。正樹を殺したはずの指輪を正樹から受け継いで、所有者になったよ」
「その指輪の所有者は……いつか死ぬん、ですか」
「正樹しか実例を知らないからはっきりとは言えないけど、たぶんそうだね」
「だったら」

 あたしの声に、先輩は優しい瞳を向けてきた。その穏やかなブラウンの瞳を見つめて、あたしは訊いた。

「お兄ちゃんが先輩を殺したんですか?」

 風が桜の花びらを吹き付けた。
 月光の中で、先輩が静かに微笑む。

「そうなるかもね」

 吐き気が――する。

 先輩のブラウンの瞳が、月光に照らされて笑っている。その瞳を睨み返して、けれど体は言う事を聞いてくれなくてふらついた。桜の樹に、背中がもたれかかる。その衝撃で、花びらがまた雪のように降ってくる。

「その指輪をどうするかは、真衣に任せるよ」

 先輩のその言葉は、深く考えるまでもなく遺言だった。お兄ちゃんの手紙と同じ。

 先輩はきっと、感じているのだろう。自分がもう長くないことを。ひと一個人が人生の中で得られる幸せの量に限りがあるのかどうかは知らないけれど、そうだと仮定して、周りに幸せを与えすぎたんだろう。自分の幸せの代わりに。生きていることが何よりも幸せだとするなら、その最後の幸せでさえ底がつきかけているのだろう。最後に待っているのは、死で。

 あたしたちはきっと、いつもそうだったんだ。あたしも。

 幸せの対価なんて考えない。幸せの裏にあるものなんて、考えようともしない。誰も、幸せに理由なんて求めない。

 桜が美しいのは散りゆくものだからだと、何かの本で読んだことがある。それが美しさの対価だとしたら、確実に幸せにだって対価はあるはずなのだ。あたしは、あたしたちはそれを、一切考えずに過ごしているだけで――

 幸呼びの子供。幸呼びの能力は時代を超えて、指輪になって。嘲笑うかのように、あたしたちに、あたしに、対価を見せ付けてきている。

 先輩の手が、あたしの首に伸びてくる。それがどういう意味かを理解する間もなく、首を締め付けられた。

 先輩の指が喉に食い込む。関節が膨れ上がった、そのくせ全体は細くてしなやかな指が。ひやりと冷たい指先が。喉に食い込んで、空気をしぼりだす。痛みを残す。揺らぎ始めた視界の中で、けれど月光に照らされた先輩のブラウンの瞳からは視線を逸らさなかった。逸らしたくなんてなかった。桜の薄ピンクの色が視界から抜け落ちても、ブラウンの瞳だけにすがりついた。指先が痺れて、肺の息がなくなって、意識が朦朧としかけても――その瞳にだけすがりついた。

 ふいに指の力が一瞬緩んだ。肺に急激に空気がなだれ込んできて悲鳴のような咳が込み上げて来る。だけど先輩はあたしのその姿を確認したあとでも手を離さなかった。

 ただ、耳に濡れた感触を覚えた。

 さっきの指と同じだった。耳の形にそって這うように、先輩の舌が動くのが判った。背筋が震えて、怖いほどだった。喉の痛みと終わらない咳と、内耳で転がる舌の感触が同時にあたしを包み込んでいた。水濡れた音が内耳にこだまするのが怖かった。ブラウンの瞳が見えなくなって、月明かりだけが目を焼いた。

「怖いんだろう?」

 ふいに低い声が耳元でした。その瞬間首にかけられていた手が外されて、あたしは支えを失って崩れ落ちた。地面が冷たかった。何度も何度も漏れでてくる咳は肺が上げる悲鳴みたいなもので、揺らいだ視界の中で必死にブラウンの瞳を探した。

 すぐに見つかったそれは、泣きだしそうな歪みと、嘲笑う歪みをひとつに携えていた。

 先輩。何でそんな目をしているんですか。

「――怖いんだろう、真衣。俺のことが」

 咳き込んでいて、あたしはとても答えられなかった。だからただ、先輩の瞳を睨み上げた。

 先輩はしゃがみ込んで、あたしの肩に手をかける。覗き込んでくるブラウンの瞳に、あたしはすがりつくように睨み返した。

「だったら何で……目を逸らさない? 何で俺のことを見てくるんだ?」

 息がかかるほど近い場所にある先輩の目。ブラウンの、瞳。

「だって」

 咳き込みながら、擦れた声であたしは訴えた。

「だって。目を逸らしたら先輩の顔、見れないじゃないですか」

 月明かりの中で、桜の花びらが待っている。先輩のブラウンの瞳の中に、その光景が映っていた。

「あたし、先輩が嫌いです。大嫌いです。だから、目に焼き付けなきゃいけないんです。先輩のことが嫌いだから。大嫌いだから。あたし馬鹿だから、目に焼き付けておかないと先輩の顔を忘れちゃうから。目を逸らしたら、先輩の顔が見れなくなるから、そうしたら、忘れちゃうじゃないですか。忘れちゃいけないんです。先輩のこと嫌いだから。頭の中で先輩のことをぐちゃぐちゃにしなきゃいけないから、目を逸らしちゃいけないんです。逸らせないんです」

 頭の中で、先輩を傷つけるために。
 あたしは彼から目を逸らすことは出来ない。