月光に浮かび上がる桜は怖いくらい艶やかで、気味が悪いほど綺麗だった。
夜の中庭はまるで何かにとりつかれたかのように昼間とは色を変え、とてもじゃないけれどいつも見ている場所と同じとは思えなかった。
夜の学校に外灯なんて物はなく、ただ円い月が降り注ぐ無機質な光だけが、白く紅く花びらを浮き上がらせている。木に咲いたままの桜を。そして、地面に散った無残な花びらを。
春とはいえまだ夜風は寒い。スプリング・コートの襟元を手繰り寄せ、細く息を吐いた。月明かりに浮かび上がる花びらを、そっと靴の裏で踏みつける。音もなく花びらはよれて型を無くす。何度も踏みつけた。同じ場所を。違う花を。月明かりに晒すほどの姿さえ、なくなってしまえばいい。汚く爛れて誰にも見向きむされないような姿になってしまえばいい。ただ静かに花びらを踏みつける。月光は普段感じるよりずっと明るく、あたしの影を伸ばしている。外灯のない場所の月明かりは、これほどまでに明るいんだとあたしは初めて知った。
影のフレアスカートが、春の夜風に踊る。月光が照らし出す桜の花びらを、あたしの影が幾度も踏む。
「楽しい?」
笑みを含んだ声が背中にかけられて、あたしはそっと足を止めた。
振り返ると、月光の中で穏やかな笑みが浮かんでいる。
――戸部敦先輩。
「楽しくないです、別に」
「じゃあ何してたの?」
「つまらないことしてたんです」
先輩はただ小さく笑うだけだった。長袖シャツと半袖シャツを重ね着したTee on teeのスタイルに、色褪せたストレートジーンズ。寒くないんだろうかと一瞬思って、すぐにそれならそれでいいと思った。寒い思いくらいすればいい。先輩は月を一瞬だけ見上げると、視線をすぐにあたしに据えてきた。ゆっくりと歩を進めてあたしに近付いてくる。あたしの影の胸元あたりを踏んで、先輩は足を止めた。
「見た?」
静かな口調。それが問いかけでも何でもなくて確認だということにあたしは気付いていた。あの手紙のことだ。
「――やっぱり、あたしに見せるためにジャケットを貸してくれたんですね」
「じゃなきゃなんだと思った? ただの親切だとでも?」
「……思いません」
噛み締めた奥歯の間から漏らすように答えると、先輩はくつくつと低い笑い声を上げた。一歩、もう一歩とあたしに近付いてくる。ほんの少し恐怖を感じて、後ずさりしそうになって――けれど、靴の裏に力をこめて踏みとどまった。先輩の手が伸びてきて、一瞬心臓が痛んだ。けど先輩の手は無造作にあたしの頭を撫でるだけだった。やわらかく、そっと。くしゃりと頭をかき回されて、あたしは俯くことを必死で堪えて先輩を見上げるしか出来ない。
「風邪、ひいてない?」
「……平気です」
「そう。良かった」
ぽんぽん、とまるで小さい子にするみたいに先輩は二度あたしの頭を叩いて、手をどかした。
「せんぱい」
「泣いてただろ?」
あたしの声をさえぎって、先輩は小さく言葉をかけてくる。あたしに背を向けて、あのペンキが剥がれかけたベンチへと足を進めながら、背中で言葉をかけてくる。
「泣いてただろ、真衣。正樹が死んだとき」
――知って、いるんだ。きっとあの葬式の日に、先輩も来ていたんだろう。あたしは、泣きつかれていた記憶しか、ないけれど。
「……」
「正樹を殺したのがお前だってのに、お前はそれを知らないで泣いていた」
先輩はそう言って、ベンチに腰を下ろした。その仕草がなんだかとても疲れているように見えた。月光をすくい上げるように手で椀の形をつくって、静かに指を見つめている。その指にはもう、銀の指輪ははまっていない――指輪は、あたしの指にある。夜風が嘲笑うように桜の花を舞い散らした。
「殺したいって思ったよ。何も知らないお前をね」
桜吹雪をうざったそうに払いのけて、先輩はこちらに微笑みを向けてくる。その視線をうけて、あたしはただ立ち尽くすしか出来なかった。月光を受けた先輩の笑みは、それこそ夜桜と同じように綺麗で禍々しくて、気味が悪い。
「あたしが」
震える音が唇から漏れた。自分の声が震えているのが気に食わなくて、胸の奥で息を固めた。せめて、どうか、少しでも。音が震えずに先輩に届くように。
「あたしがお兄ちゃんを殺したって、どういうことですか」
先輩は一瞬目を丸くして、それから困ったような苦笑を向けてきた。
「何だ。判ってなかったのか。馬鹿だな、真衣は」
「先輩ほどじゃないです」
言い返すと、先輩の笑みが濃くなった。あの、人畜無害な邪気のない幼い笑み。
「おいで」
手招きをされて、あたしは――あたしの足は、あたしの意思とはほとんど無関係に動いていた。吸い寄せられるみたいに先輩に近付いていて、ベンチに座ってこちらを見上げてくるブラウンの瞳を正面から見返していた。夜気の冷たさに、僅かに指が震えていた。
「正樹がいた頃は、幸せだったろ?」
先輩はあたしの手をそっと握ってきた。あたしは抵抗することもなく、ただそのブラウンの瞳を見返していた。
「幸呼びの指輪はね。所有者の周りに幸せを呼ぶ。逆に言えば、所有者の周りの不幸を代わりに担うんだ。たとえば、交通事故にあいかけた妹がいたとして、その事故を肩代わりする、とかね」
「……」
「覚えてない?」
夜の中庭はまるで何かにとりつかれたかのように昼間とは色を変え、とてもじゃないけれどいつも見ている場所と同じとは思えなかった。
夜の学校に外灯なんて物はなく、ただ円い月が降り注ぐ無機質な光だけが、白く紅く花びらを浮き上がらせている。木に咲いたままの桜を。そして、地面に散った無残な花びらを。
春とはいえまだ夜風は寒い。スプリング・コートの襟元を手繰り寄せ、細く息を吐いた。月明かりに浮かび上がる花びらを、そっと靴の裏で踏みつける。音もなく花びらはよれて型を無くす。何度も踏みつけた。同じ場所を。違う花を。月明かりに晒すほどの姿さえ、なくなってしまえばいい。汚く爛れて誰にも見向きむされないような姿になってしまえばいい。ただ静かに花びらを踏みつける。月光は普段感じるよりずっと明るく、あたしの影を伸ばしている。外灯のない場所の月明かりは、これほどまでに明るいんだとあたしは初めて知った。
影のフレアスカートが、春の夜風に踊る。月光が照らし出す桜の花びらを、あたしの影が幾度も踏む。
「楽しい?」
笑みを含んだ声が背中にかけられて、あたしはそっと足を止めた。
振り返ると、月光の中で穏やかな笑みが浮かんでいる。
――戸部敦先輩。
「楽しくないです、別に」
「じゃあ何してたの?」
「つまらないことしてたんです」
先輩はただ小さく笑うだけだった。長袖シャツと半袖シャツを重ね着したTee on teeのスタイルに、色褪せたストレートジーンズ。寒くないんだろうかと一瞬思って、すぐにそれならそれでいいと思った。寒い思いくらいすればいい。先輩は月を一瞬だけ見上げると、視線をすぐにあたしに据えてきた。ゆっくりと歩を進めてあたしに近付いてくる。あたしの影の胸元あたりを踏んで、先輩は足を止めた。
「見た?」
静かな口調。それが問いかけでも何でもなくて確認だということにあたしは気付いていた。あの手紙のことだ。
「――やっぱり、あたしに見せるためにジャケットを貸してくれたんですね」
「じゃなきゃなんだと思った? ただの親切だとでも?」
「……思いません」
噛み締めた奥歯の間から漏らすように答えると、先輩はくつくつと低い笑い声を上げた。一歩、もう一歩とあたしに近付いてくる。ほんの少し恐怖を感じて、後ずさりしそうになって――けれど、靴の裏に力をこめて踏みとどまった。先輩の手が伸びてきて、一瞬心臓が痛んだ。けど先輩の手は無造作にあたしの頭を撫でるだけだった。やわらかく、そっと。くしゃりと頭をかき回されて、あたしは俯くことを必死で堪えて先輩を見上げるしか出来ない。
「風邪、ひいてない?」
「……平気です」
「そう。良かった」
ぽんぽん、とまるで小さい子にするみたいに先輩は二度あたしの頭を叩いて、手をどかした。
「せんぱい」
「泣いてただろ?」
あたしの声をさえぎって、先輩は小さく言葉をかけてくる。あたしに背を向けて、あのペンキが剥がれかけたベンチへと足を進めながら、背中で言葉をかけてくる。
「泣いてただろ、真衣。正樹が死んだとき」
――知って、いるんだ。きっとあの葬式の日に、先輩も来ていたんだろう。あたしは、泣きつかれていた記憶しか、ないけれど。
「……」
「正樹を殺したのがお前だってのに、お前はそれを知らないで泣いていた」
先輩はそう言って、ベンチに腰を下ろした。その仕草がなんだかとても疲れているように見えた。月光をすくい上げるように手で椀の形をつくって、静かに指を見つめている。その指にはもう、銀の指輪ははまっていない――指輪は、あたしの指にある。夜風が嘲笑うように桜の花を舞い散らした。
「殺したいって思ったよ。何も知らないお前をね」
桜吹雪をうざったそうに払いのけて、先輩はこちらに微笑みを向けてくる。その視線をうけて、あたしはただ立ち尽くすしか出来なかった。月光を受けた先輩の笑みは、それこそ夜桜と同じように綺麗で禍々しくて、気味が悪い。
「あたしが」
震える音が唇から漏れた。自分の声が震えているのが気に食わなくて、胸の奥で息を固めた。せめて、どうか、少しでも。音が震えずに先輩に届くように。
「あたしがお兄ちゃんを殺したって、どういうことですか」
先輩は一瞬目を丸くして、それから困ったような苦笑を向けてきた。
「何だ。判ってなかったのか。馬鹿だな、真衣は」
「先輩ほどじゃないです」
言い返すと、先輩の笑みが濃くなった。あの、人畜無害な邪気のない幼い笑み。
「おいで」
手招きをされて、あたしは――あたしの足は、あたしの意思とはほとんど無関係に動いていた。吸い寄せられるみたいに先輩に近付いていて、ベンチに座ってこちらを見上げてくるブラウンの瞳を正面から見返していた。夜気の冷たさに、僅かに指が震えていた。
「正樹がいた頃は、幸せだったろ?」
先輩はあたしの手をそっと握ってきた。あたしは抵抗することもなく、ただそのブラウンの瞳を見返していた。
「幸呼びの指輪はね。所有者の周りに幸せを呼ぶ。逆に言えば、所有者の周りの不幸を代わりに担うんだ。たとえば、交通事故にあいかけた妹がいたとして、その事故を肩代わりする、とかね」
「……」
「覚えてない?」