今どきの若人は「すき」と言うわずか2文字の単語に、気持ちを重ねすぎているように見えるでしょう?この平成の世で「すき」その言葉の需要が年々下がってしまっていることをあなたは知っていますか。

彼にそう問い掛けられたあの時、嫌に心臓辺りが音を鳴らした。

それはドキドキ、なんて甘い音じゃなくて、ズドンとかズギンとか、耳響きの悪いようなそんな音。

だってまさに、あの時。

「…知らないです」

私は彼に、その口から漏らさた需要の低い「すき」という言葉を告げようとしていたから。

彼は続けた。僕はすきと言う言葉が嫌いな訳ではないんです、と。
ただ、平成を生きる同年代の人間達がすぐに「すき」を誓っては、無かった出来事にして、そうしてまたすぐに安い「すき」を掲げる。その頭の悪そうな行動のループを何万の人々が同時に行っている。その事実は今の時代に浸透しすぎていて、最早なんの違和感も感じない人が多くなっている、と。

そう不満げに口を尖らせた彼に、私はどうして「すき」と言うその安い感情を抱いてしまったのか。
初めは、頭の硬そうな人だと思っていた。理屈を好んで、曲がった意見を認めない、小難しい事に生きている人だと。

けれど、通じる冗談もあれば、ゲームがとても上手なところ、緑野菜が嫌いなところ、英語が致命的に苦手なところ。親近感というのか、割と普通の私と変わらない人間だということに気がついて、そして、__時が経つにつれ私も彼に「すき」と言うその感情を抱いていた。現に、それを伝えるつもりでいた。

彼は言った。その行為は果てしなく僕の迷惑になっていると。本気の「すき」を伝えて軽く見られては、安請け合いされては困ると。

「好きなんて言葉が、あなたにはどこまで響きますか」

あの時顔を伏せて私に問た、彼は。きっとこの先の生涯を共に生きる人。

安請け合いなんてしてはいないから、