「理人さん、早くこっちに!」

「だめ……もう、むり……」

「わあああああっ!」

草木も眠る丑三つ時。
家中に悲鳴を轟かせながら、私は理人さんをトイレまで引きずった。



「もう大丈夫?」

「ええ……本当にいろいろとごめんなさい。酔いもすっかり醒めたわ」

結論から言うと、私が普段は出せないような力を発揮できたおかげで、なんとか玄関を汚してしまうことだけは免れていた。
こういうのをたぶん、火事場の馬鹿力と言うのだろう。

「はい、お水」

「ん。ありがとね」

胃の中が空っぽになり、ぐったりとしている理人さんに、冷蔵庫の中で冷やしていたミネラルウォーターを差し出す。
頭からタオルを被った彼は、それを一気に飲み干していった。
いつもの落ち着いた理人さんがそこにいることに、ほっと安堵の息を吐く。

よかった、もう大丈夫だ。
漠然とした不安だって、きっと杞憂なことだったのだろう。
私が心配することなんて、何もないのだから。

いまだに激しく動く心臓に言い聞かせるように、心の中で唱える。
それから気を紛らわせるため、水を飲むたびに大きく動く、理人さんの喉仏を見つめていると。

「あ……」

ふいに彼が被っていたタオルが、ぱさりと床に落ちてしまった。
そのせいで、みるみるうちにその顔が露わになる。

彼は無表情だった。
しかし、その目からは一筋だけ涙が流れている。
そしてそれは顎に沿って流れ落ち、やがて両目から止めどなく溢れていった。

「理人さん……!」

「あはは、やだ……ごめんなさい。なんでもないのよ」

「なんでもないって、そんな」

「お酒が入ると、涙腺が緩んで。……ほんとダメね、アタシって」

お酒のせいにして言い訳をする理人さんは、触れただけで壊れてしまうのではないかと思うくらい、ひどく危うげに見えた。
涙の止まらない目元を袖で隠し、浅く息を吐く彼を、ただ呆然と見つめる。
いつしか胸が早鐘を打つように高鳴っていた。
気づかなかったふりなんて、もうできない。
苦手なお酒を飲んできた理由は、きっと何かを忘れたかったからなのだろう。

ねぇ、理人さん。
私、知っているんだ。
誰かに焦がれて心を揺さぶられる人の姿を、私はずっと間近で見ていたから。
あなたの瞳や表情は、恋人を想うときの暖花さんと同じ色をしている。

あなたは、“誰か”に恋をしている。

「理人さん、あのね……」

本当はずっと、心のどこかで気づいていた。
けれど私は気づいていないふりをしていたのだ。
それを理人さんが望んでいるように思えたから。
でも、もう、見て見ぬふりはしたくない。

「大丈夫だよ。我慢しなくていいんだよ」

「雨音……?」

「私、分かってるよ。だから、大丈夫」