それは声ではなかった。
 気持ちだけを感じ取っているような奇妙な感覚。
 そして心が大波を被ったように哀しみが胸に溢れて、ひどく泣きたい気持ちになる。

 同時に理子のことを思い出した。夢の中で聞いた気がする、理子の声。
 理子が、振り向いてほしいと思いながらおまじないをしたために、同じ感情をもつ彼らが、引き寄せられてしまったのだろうか。
 わたしの思考はそこで一端さえぎられた。

「ちょえややぁぁぁっ!」

 かけ声とともに、ぶつかってくるモノが途切れた。はっと顔を上げると、着物の裾をからげる勢いで、黒い鳥に回し蹴りをかましている籬さんの勇姿があった。

「うりょああぁぁぁっ!」

 旋風のように籬さんの体が舞う度、蹴られた鳥の姿が霧散していく。
 爽快な光景に、思わず「籬さんかっこいい!」と叫びそうだった。

 しかし籬さんの元気がだんだん下降していく。
 足の動きにキレがなくなったことに気づき、次いで籬さんの体がどんどん薄れていく。あれよあれよという間に籬さんの体を黒い鳥がすり抜けるようになり、

「悠司。後は頼んだ……」

 そう言って消えてしまった。

「ま、籬さんーー!?」
「ちっ、体力が尽きたか」

 冷酷にも舌打ちした悠司くんは、尚も残った鳥形の幽霊達に、ドーナツを割って投げつける……って、鳥の餌付けみたいだよ!?
 しかも驚くことに、餌付けされに行く鳥が何匹もいた。ほんとに効くとおもわなかった分、すごい微妙な気分になる。

 そうして油断したのがいけなかったのだろう。急に横からぶつかられて、わたしはよろけてしまう。とっさに手をのばしたものの、何も掴む物が無くて尻餅をついた。

 更に鳥たちはわたしにたかってくる。
 払いのけようとして、地面についた手がロープを見つけたので、とっさに振り回したが、

「なっ……」

 目の前に迫った鳥は、ナゼか理子の顔をしていた。
 人面鳥としかいいようの無い異相に、息をのんだ隙だった。
 ロープの先を一羽がクチバシで挟む。そのまま引かれて草の上をひきずられた。そして気付いた時には、足下に地面がなくなっていた。

「…………!」

 鳥がクチバシを離す。ほどけたロープを掴んだまま、わたしは崖下へと落ちていこうとしていた。

「千紗さん!」

 辺りにドーナツを捲き散らかしながら、悠司くんが駆け寄ってきてくれるのが見えた。彼はとっさに近くに残ったロープを掴んだ。

「いっ……!」

 がくんとロープに引っ張られて、落ちかけた体が止まる。
 足元はすでに崖の外で宙を掻いてる状態だ。ロープを握った両手だけが頼りだったけど、摩擦で火傷をした手が痛んで涙が溢れ、手から力が抜けそうになる。

「離すなよ!」

 警告されて、わたしは手に再度力を込める。火傷をした掌はますます痛くて悲鳴を上げそうだったし、怪我をしていた腕も痛む。

 悠司くんは近くの倒木にもう一端を結びつけた上で、少しずつロープを引き上げてくれている。が、こんな状態では、わたしの方がそんなに長くもたない。

「ゆうじく……っ」

 ごめんなさい、無理だといいかけた。が、その言葉を悠司くんが最後まで言わせてはくれなかった。

「絶対離すな! 落ちるなら、俺も一緒に落ちてやる」

 彼の言葉に、また涙があふれてくる。
 嬉しい。素直にそう思う。

 泣きながら、震える手でロープを握りしめて、どれくらい経っただろう。
 痛みで感覚がおかしくなりそうだった手に、悠司くんの手が触れた。そのまましっかりと手首を握ってくれる。

「片方ずつだ。こっちの手は離していい」

 言われた通り、力を入れすぎてこわばった右手をロープから放す。
 見上げると、悠司くんは崖っぷち近くの木にひっかかった、太い倒木で体を支えていた。上半身を崖下に乗り出し、わたしを引き上げようと力を込めた。

「最後まであきらめるな。じゃないとまた口にドーナツ突っ込むぞ」

 あきらめるなと彼が言う。だからわたしは、そうしようと思った。
 まず足場になるものがないか探す。しかし崖はどこも土がもろくて、足がかりになる場所はみつからない。

 届かないかもしれないと思いながら、左手を伸ばす。これはなんとか、崖っぷちから枝を伸ばす、若木をつかんだ。

 いけるかもしれない。
 そう思った時だった。

 悠司くんの顔を見上げたわたしは、彼の背後にゆらめく影を見つけた。
 いや違う、影じゃない。これはさっきの鳥がぐるぐると旋回して、棒状の影をつくっているだけだ。

「悠司くん!」

 このままじゃ、悠司くんまで落ちちゃう!
 しかし背後を振り返った悠司くんは、またわたしを引き上げる作業に戻る。棒状の影は長く伸び、蛇の鎌首のようなその先端がこちらへ向かってきていた。

「お願い離して! これじゃ悠司くんが!」

 わたしの問題に巻き込んでしまっただけでも十分迷惑をかけたのに、死なせるわけにはいかない。
 しかし悠司くんは「フン」と鼻でせせら笑う。

「落ちるなら、一緒に落ちてやると言っただろう」

 傲慢に言い切る。だけど悠司くんの顔を見れば、穏やかに微笑んでいた。
 それらすべてが、一瞬で黒い影に覆われる。
 わたしはまた、落下する感覚に襲われた。背筋が寒くなったが、手首をつかんだ手の暖かさはそのまま。

 しかし、急に真っ暗だった視界が白い煙に変化した。
 思わず瞬いたわたしの目に、白い煙の中にうっすらと見覚えのある顔が見える。

 籬さん、久住さん、そしてドーナツ屋でみかけた人たち。
 みんなが「貸しにしてやるからのぅ」「今度はあんみつな」と言っているような気がした。
 と同時に、どすんと硬い場所に落下した。

 おしりが痛かったが、崖下へ真っ逆さまに落ちたにしては、それほど強い衝撃じゃない。転んで尻餅をついたぐらいのものだ。
 そして目の前にはむき出しの土の壁。地層まで見える。見上げれば、崖っぷちはまだそんなに遠くない。

「え? えっ!?」

 自分が座っているのは、木の幹だった。崖から伸びて張り出した木にひっかかっている倒木だ。端っこには見覚えのあるロープが絡まっている。
 なんで?
 考え始めた矢先に不安定な倒木の上でふらつき、隣に座っていた悠司くんに抱き止められた。

「せっかく助かったってのに、落ちるな!」

 怒られて、ようやくわたしは状況を認識する。そして今さら震え始めた腕で、悠司くんにしがみついた。
 最後まで見捨てないでいてくれた。それに対して、どんな風に感謝したらいいかわからない。

「ありがとう」

 小さな声でそう繰り返すしかなかったわたしの背中を、悠司くんは安心しろというように、軽く叩いてくれた。

「それを言うのは俺の方だ」

 悠司くんが小さな声でつぶやく。

「普通、こんな幽霊騒動に巻き込まれても、なかなか俺の言うことは信じてくれないんだ。見えたって混乱して叫ぶだけか、逆に頑なになったりする」

 だから幽霊が何かを訴えても、その通りにしてやれることは多くない。
 そうなると折々に幽霊達がやってきて、代わりに甘味責めにあうのだと悠司くんは語った。

「千紗さんは、驚かなかっただろ」

 言われてきょとんと目を見開く。

「ん? 驚いたとは思うんだけど……」
「だけど、今はもう納得してる」

 それだけでいいんだと、悠司くんが笑う。間近にある綺麗な笑顔に見とれたわたしは、

「…………そうかも」

 なんだか気恥ずかしくてうつむいてしまった。