「あれ、わたし、今……」

 なんだか夢の光景とその直前までの光景が頭の中で混ざり合い、整理するのにややかかった。
 とにかく起き上がろうとして、頭や左腕が痛んで、声を上げてしまった。

「痛った!」

 痛む場所を見れば、右腕はひび割れた窓に押しつける形になっていた。そっと離すと、青アザと切り傷ができている。頭を触れば、たんこぶになっていた。
 見回せば近くの窓硝子は割れ、椅子というか車体全体が斜めにかしいでいる。

「そうか、事故に遭ったんだ」

 眠っている間の出来事なんだろう。
 事故直前の記憶はないのは幸いなのだろうか?
 怖い思いはしなかったけれど、景気よく車内を右から左へと飛ばされた時、偶然にも右腕で受け身を取る形になり、私は助かったようだ。

 右腕に硝子の破片が刺さっていないか確認する。バスの中は照明もなく、木陰になっているせいか妙に暗かったが、どうやら平気みたいだ。
 バス自体のエンジンは完全に停止している。そうだ、それはさっき『外から』確認していた。

「まさか、幽体離脱……とか?」

 思いかえせば、心当たりがいくつかある。
 ドーナツ屋で見た老人達の姿。椅子に座ってる人がいると言ったとたんの彼らの反応。あれは『普通の人間に見えるわけがない』からだったのだ。
 そんな悠司くんに普通に対応していたのだから、ドーナツ屋のおばあさんもそういったことに慣れている人だったんだ。
 籬さんもタクシーのドアすり抜けからして、完全に幽霊のはず。そんな彼と一緒にいたのだから、老人達はみんな……幽霊だったのでは。

 そして生きてる人は、悠司くん一人だけだった。

「え、じゃあ悠司くんは、外にいる?」

 これだけ鮮明な記憶が、夢のわけがない。

 斜めになった車内で、慎重に立ち上がる。
 たしか、悠司くんの方からは、バスの底が見えていた。だから床が高くなっている方から覗けば、見えるかもしれない。

 移動しようとしたところで、ふいに誰かのうめき声が聞こえた。
 誰かいる?
 声が運転席の方からするのに気付いて、わたしは息を飲んだ。きっとバスの運転手だ。

「い、生きてますか? 大丈夫ですか?」

 慌てて移動しようとしたところで、斜めの床で足が滑る。

「ひゃっ」

 とっさに座席に捕まったからいいようなものの、足下には硝子の破片が散らばっていた。尻餅をついたら切り傷だらけになりそうだ。

 ようやくたどりついた運転席では、黒っぽい制服の六十近いおじさんがうずくまっていた。目を閉じているのに、口からは「うう、うう……」と唸るような声が漏れていた。
 起こそうと近寄ったわたしだったが、その様子に思わずのばそうとした手を止めた。

「さわるな!」

 その時、背後からの緊迫した声と同時に、運転手の体から湯気のように黒い煙が立ち上る。

「きっ……」

 何この煙!? 悲鳴も喉の奥から出てこない。思わず思考が停止した。
 一方煙の方は、雲のようにバスの天井に滞留する。ややって黒い雲のようになったそこから、無数の黒い手が伸びてきた。ゆらゆらと海草みたいに揺れながら、素早くこちらへ向かってくる。

「じいさん早くしろ!」

 声が響くと、上下に体がはね飛びそうな衝撃と共に、傾いていたバスが平行に戻った。そしてドアがけり開けられ、悠司くんが飛び込んでくる。

「散れ!」

 恐れなどみじんもなく彼が一喝する。と、黒い煙は潮が引くように消えていった。

「早くこい!」

 そして差しのばされた手。
 わたしは心臓が止まりそうなほどの恐怖から解放され、思わずその手を握った。

 握り慣れたはずだった。
 だけど、前はどこか感覚が違っていたのだろう。少しひんやりとした手は、自分より大きくて骨張っているように感じた。

 これが、本当の悠司くんの手の感覚なんだ。
 そう思うと、初めて触れるみたいに気恥ずかしくなった。一瞬、悠司くんも自分の手を見た気がして、同じ事を考えているのかもと思ってさらに身の置き所が無い気持ちになる。

 が、悠司くんの方はそんなことを頓着していなかったようだ。彼はわたしをバスの中から抱えるようにして脱出させると、

「くそ、早く出せ!」

 暴言を吐きながら、わたしのジーンズのポケットに手を突っ込んできた。

「や、ちょっと!」

 なんてきわどいとこに触るのよ!
 叫ぼうとする前に、悠司くんはわたしの携帯電話を取り出す。そして一息にストラップを引きちぎった。

「あっ! 理子の――」

 大きめの白っぽい石がついたストラップは、止める間もなく谷底へ投げられる。

 なんてことするの、と言いかけたが、舌先が凍り付いたように動かなくなる。
 ストラップについた石から、黒い炎が燃え上がったのだ。石は、彗星の尾のように黒い線を視界に残し、崖下へと消えていった。

 さらに、どこからかわき出した黒い煙が虫のような形になって現れ、アリの群のように石を追ってカサカサと谷底へ移動していく。

「な、な、なんで……。だって、あれは理子が恋の応援をするおまじないだって」

「呪いじゃなくても、引き寄せることはある。相手への妬み、さらには使った物に元から負の念がよりついてた時。それに時期が悪いと、もうどうしようもない」

 隣で悠司くんがそう語った。ストラップを投げた谷の方を向いていた彼は、ゆっくりとわたしの方を振り向く。
 迷惑を掛けたはずなのに、彼は今までで一番清々しそうな表情をしていた。

「これでようやく、初めましてだね。千紗さん」
「あ……うん。初めまして悠司くん。あと、ありがとう」

 つられるように挨拶したわたしは、まぶしそうに目を細める悠司くんから目を離せなくなる。