晴高はファイル片手に淡々と語る。
「この部屋の明け渡しが完了したのが十日前。その翌日の夜に、隣の201号室の住民が深夜に帰宅すると、壁の向こうから女性の泣くような声が聞こえたんだそうだ。その声は一晩中聞こえていたと報告にある。さらにその次の日には泣きながら共用廊下をさまよいあるく女性の影を複数の住人が見ている。そしてそのあと日は違うが、夜中に寝ていると突然金縛りにあい、女性の霊が足元から泣きながら這い上ってきたという報告が二件あがっている。こっちは102号室と、203号室だな。どちらもこの部屋と隣接した部屋だ」
 ほかにも壁や天井から叩くような音が聞こえたり、閉めたはずの窓やドアが勝手に開いたという報告もあった。
 当然住民からは苦情や調査依頼が殺到し、中には賃貸契約中にもかかわらず「こんな家には住めない」とホテル暮らしをしだした入居者もいるという。
 こんな状態では退去者が続出してどんどん空き室が増え、やがてここには誰も住まなくなってしまうことだろう。それを大家さんは非常に心配しているのだという。
「実際のところ、その影や声の正体が松原涼子だっていう確証はない。ただ、奇妙なことが起こり始めたのがこの部屋の明け渡しの直後だったことや、怪異の大半がこの部屋に隣接した部屋で起こっていることから、松原涼子の霊が関係している可能性は高いだろうな」
 というのが、晴高の見解だった。
 今日もまた、日が暮れるとこのアパートのあちこちで怪奇現象が引き起こされるんだろうか。いまはまだ外が明るいからいいけど、その怪異の原因とおぼしき部屋にいると考えただけで怖くて呼吸が浅くなってくる気がした。
 この世のものではない存在を相手に、自分たちに一体何ができるというんだろう。
「どう……するんですか?」
 おそるおそる晴高に尋ねると、彼は持っていたカバンを足元へ置いた。そして右手首にしていた水晶のブレスレットを親指と人差し指の間にさげて片手拝みすると、
「どうするもなにも。俺たちはただ、霊をみつけて除霊をするだけだ」
 目をつぶり、御経を唱え始める。
 いつもの少しぼそぼそとしたしゃべり方とは違い、朗々としたよく通る声でよどみなく晴高の口から紡がれる御経。
 経を詠む声が部屋中に染みわたっていくと、千夏はこの部屋に入ってからずっと感じていた心の表面が泡立つような不安が嘘のように落ち着いてくるのを実感した。
 しかしほっとしたのも束の間、千夏の背後から「うう……」とうめき声が聞こえた。明らかな男の声。驚いて振り向くと、先ほどまで千夏と同じように部屋を眺めていた元気が、胸を押さえて苦しそうに俯いていた。
「……え。ちょっと、どうしたの?」
 どうしたもなにも、読経のせいなのは明らかだった。そのことに晴高も気づいたようで、唐突に経を詠むのを止める。御経が消えると、元気はうつむいたまま膝に手をついて安堵したように肩で大きく息をした。
「……死ぬかと思った」
「いや、アナタすでに死んでるでしょ」
 つい間髪いれず、そう突っ込んでしまう千夏。
 元気は顔をあげると、脂汗のにじんだ額を手の甲で拭いながら弱ったように笑みを浮かべる。
「死んでから、体調悪くなるの初めてだったからさ。驚いちゃって」
 そんな感想をもらす元気だったが、彼を眺める晴高の目は冷たい。まるで実験動物の反応でも検証するかのような乾いた目で、彼の変化をジロジロ見ていた。
「やっぱ、ソレにも効くんだな。どうせなら一緒に除霊してしまってもいいんだが」
 晴高がそう言うと、元気もさすがに身の危険を感じたのか後ずさって彼から距離をとる。晴高が数珠を持つ手を元気に向けて再び口を開こうとしたとき、千夏は二人の間に割って入った。元気を背に隠すように晴高の前に立つ。
 なぜ、彼をかばおうと思ったのかはわからない。でも、生きている人間と同じように笑ったりしゃべったりする彼を見ていると、ここで無理やり除霊してしまうことは何とも気の毒な気がしてしまったのだ。
 それに現時点では、彼は何ら悪さはしていない。除霊しなければならない理由もない。
 晴高の鋭い目で見つめられるとついたじろいでしまうが、それでも負けまいと千夏はじっと晴高を見つめた。しばらく見つめあった後、晴高のほうが先に折れる。彼は小さく嘆息すると、淡々とした口調で苦言を呈した。
「一応忠告しとくが、ソイツをかばったところで(ろく)なことにはならんと思うぞ」
「わかってます。……でも、なんだか苦しそうだったから、気の毒で。除霊ってそんなに苦しいものなんですか?」
「さあな。俺は幽霊になったことないから知らんが、幽霊なんてもともと何かしら未練があってこの世に残ってるもんだ。除霊ってのは、この世にとどまりたがっている霊を無理やり引きはがしてあの世に追いやるんだから、苦しみを感じるやつもいるのかもな」
 晴高はそう言いながら床においたカバンを取り上げると、中から一枚の紙を取り出して千夏に渡してくる。
 縦長な白い紙に黒と朱の墨で文字が描きつけられている。お札のようだった。
「それを後ろの幽霊に持たせておけ。そうすれば、(きょう)の影響を受けないで済むはずだ」
 持たせておけ、と言われたってどうやって渡せばいいのかわからない。千夏はお札をもったまま晴高と元気を見比べた後、元気の胸におしつけるようにお札をつきつけた。当然、千夏の手は元気の身体を何の抵抗もなくすり抜ける。
 やっぱり、この人は実在しない人間なんだ。いくら会話ができて、生きている人間と変わらない外見をしていても、この人は幽霊なんだということを千夏は改めて実感する。
 そんな千夏の感傷をよそに、元気はそのお札を受け取るような仕草をした。すると、サブレーの時と同じように、お札が実体と半透明な幽体とに分かれ、元気の手には幽体のお札があった。実体の方はいまだに千夏の手の中にあるけど、一応これで元気に渡したことになるみたい。
 そのやり取りを見届けると、晴高は再び水晶の数珠を持った右手を片手拝みの形にして読経を再開した。
 元気の様子が気になったけれど、お札をもらった彼は今度は読経の影響を受けないようでケロッとしていた。本人も不思議なのか、ぽつりと「お札、すげぇ」とつぶやくのが聞こえてきたので、思わず千夏はクスリと笑みを漏らす。
 晴高の読経は続く。
 それにつれて明らかに部屋の空気が変わってきた。それまでは不気味にシンと静まり返っていた室内が、読経の声にあわせてあちこちでバチバチという大きな静電気のような音がしだす。あれはラップ音というやつかもしれない。
 室内の空気が、千夏にもよく説明できないけれど、なぜかとても荒らぶっているように感じられた。何かがひどく怒っている。そんな落ち着かなさ。
 そのとき、元気の声が読経の声にかぶさって響く。
「あ! あれ!」
 元気が指さしたのは、寝室として使われていたであろう洋室の一角。
 その部屋の隅に、吹き溜まるように黒いモヤが表れていた。
 モヤは次第に大きくなり、人の形のような輪郭を作り出す。
 千夏はごくりと生唾を飲み込んだ。あれが、このアパートの住民たちを困らせている人影の正体なのだろう。

 オオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォォォ

 声とも泣き声ともつかない音を発しながら、晴高に黒い影の一部が伸びる。それは、読経をやめさせようと霊が手を伸ばしているようにも見えた。
 晴高の読経はなおも続いている。
 地の底から響いてくるかのような不気味な音は、やがて千夏の耳にはっきりとした声として聞こえてきた。

……ヤメテ……、ヤメテ……クルシイ……ヤメテ……

 元気のときと同じように、霊は苦しそうだ。でも除霊のためには仕方ない。そう思おうとした。でも、霊の次の言葉に千夏はハッとする。

……タスケテ、ミーコ……タスケテ……

(え……ミーコ?)
 いま、霊は確かにそう言ったように聞こえた。
 タスケテと言っているように聞こえたけれど、自分のことを言っているわけではないようだ。
 この霊は何かを訴えかけてきている。そんな霊を一方的に除霊してしまっていいのだろうか。こんな強制退去のような方法でいいんだろうか。ぐるぐると疑問が浮かんでくる。

ミーコ……シンジャウ……ミーコ……

 目の前の苦しそうにもがく霊を見ていると、なんだか居たたまれなくなってくる。
 それで、つい口をついて出てしまった。
「晴高さん、ちょっと待ってください!」
 晴高が読経をやめて、ギロッとこちらを睨んできて初めて「ああああ、やっちまったぁ!」と千夏は内心焦ったがもう遅い。
 読経が止まったことで、黒い影もスーッと空中に溶け込むように消えてしまった。