華奈子が教えてくれた部屋の前までやってくる。けれど室内を目にしたとたん、広がる異様な光景に息をのんだ。
テーブルや椅子が散乱するその奥の左隅に、黒い物でおおわれた塊のようなものがあった。まるで黒いコブのようになったソレ。近づいてみると、長い髪の毛が何重にも絡まってその隅を覆っていた。
他に手洗い場らしきものは見当たらない。となると、
(きっとこの中に、ソウタ君が……!)
いつもなら気持ち悪くて近寄ることもできなかっただろう。でも早くソウタくんを助け出してあげなきゃという気持ちが、恐怖心に勝った。
千夏と元気はすぐにそのコブにとりつくと、髪のようなものを引きはがしていく。しかし、その髪のようなものはまるで意思をもっているかのごとく、引きはがしても引きはがしてもシュルシュルと絡みついて剥がれない。
少し遅れてデイルームに入ってきた晴高が、
「ちょっと下がってろ」
と言うと、その髪のコブに札をペタッと貼り付けた。すると、突然、火もないのにその髪のコブが燃え出す。
ギャアアアアアアアアアアアアアアア
断末魔のような音をあげて髪は灰に変わり、パラパラと燃え落ちた。
すると、その下に手洗い場と収納扉が現れる。
「あった! これだ!」
千夏はその扉を開けようと取っ手を引くが、びくともしない。鍵穴などどこにも見当たらないのに、鍵でもかかっているようにピタリと扉はくっついて開かなかった。
「かわって」
元気と場所を代わると、彼はその前に座って片方の足を扉の片側にあてる。そうして身体を支えると、両手で片扉の取っ手を掴んで全力で引っ張った。
「くっ……」
それでもはじめはびくともしなかった扉だったが、元気が力をかけ続けるとピリッと扉の境目に亀裂のようなものが走り、カパッと開いた。
「やった、開いたぁ」
はぁっと安どのため息を漏らす元気。その中を覗き込むと、小さな男の子が膝を抱えて座ってその膝に頭を埋めている。
千夏は急いでトートバッグから靴を取り出すと、しゃがんで収納扉の前に置いた。
「ソウタくん。……だよね?」
男の子は何の反応もしなかったが、千夏はそのまま続けた。
「お靴、もってきたよ。君に合う新しいお靴だよ」
靴、という言葉に、初めて男の子は反応した。ハッと顔をあげると床に置かれた真新しい靴に目を向ける。
……クツ……? ボクノ……?
男の子の声が頭の中で聞こえてくる。千夏は、大きく頷いた。
「そう。あなたの靴よ。これを履いて、あなたはどこへだって行けるの。好きなところへ行けるんだよ」
……ボク……
男の子が顔をあげる。その顔はやはり、ソウタと呼ばれたあの男の子と同じものだった。ソウタが向きを変えてこちらに足をむけてきたので、千夏は片足ずつ彼の足へ靴を履かせてあげる。そして、彼の手をとって手助けしてやると、ソウタは自分から収納スペースの外へと出てきた。彼の手はとてもあたたかくて、強い霊力のようなものが握っている千夏の手にも流れ込んでくるようだった。
「とりあえず、病院の外に出るか?」
元気が尋ねると、ソウタは初めて笑顔を見せる。それは、華奈子の記憶の中で見せていたものと同じ屈託のない笑顔だった。
「さあ、もう行きましょう」
もうここには用はない。とりあえず、ソウタに靴を渡すという目的は達成したのだ。これで何が変わったのかはわからないけれど、場を支配していた重苦しい圧迫感のようなものが急に薄れてきているように感じた。
しかし、部屋の入口に目を向けて、千夏は息をのんだ。
ヒタ、ヒタ、ヒタ、ヒタ
廊下の方から何かがやってくる。それも一つではなかった。
肘から先のない腕だけが床を掴むようにして這いながらこちらに近づいてくる。肘より先は黒いモヤに隠れてしまって見えなかった。それが一本だけではない。腕だけでなく、足だけのものもある。十本以上の手足がこちらに迫ってきている。
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ………
廊下の向こうからはさらにたくさんの悪霊たちが迫ってきているのが感じられた。
窓から出ようにも、窓の外も黒い髪の毛のようなもので覆われている。
「いよいよ取り囲まれたな」
晴高が唸る。
「どうする?」
元気はソウタを守るように彼の前に立つ。晴高はフッと鼻で笑った。
「核になっていたソウタが悪霊の手の中から離れたおかげで、悪霊たちの力が弱まっている。だから必死で取り返そうとしてきてんだろうが、これなら俺でも対処できる」
廊下の奥から、のっそりと黒いモヤの塊のようなものが顔を出した。すでに人の背丈よりもはるかに大きく育っている黒い怨念の塊。そこには、いくつもの人の顔が現れては消えていく。そのどれもが、苦痛と悲しみと怒りに満ちていた。
…………ニクイ…ニクイ……
……ナンデ…クライ、クライヨ……
…タスケテ……オネガイ……イヤ…イタイ……
……コッチヘ、オイデ……オマエモ、イッショニ……コッチヘ……
アレに取り込まれたら命がなくなるだけでは済まない。千夏も元気もアレらと同じものになって、永遠に苦しみ彷徨《さまよ》うことになるのだろう。
晴高は恐れる様子もなくそのモヤに向かい合うと、肩に下げていたワンショルダーバッグから何か金色の棒のようなものを三本取り出して投げた。
それがモヤに次々と突き刺さる。刺さるたびにモヤはギャアと声をあげて、痛みに苦しんでいるかのように身をよじらせた。
晴高は手を止めることなく、今度は数珠をもって片手拝みにすると、
「オン・アキュシュビヤ・ウン」
晴高の凛とした声が響く。すると、
ギャアアアアアアアアアアア
黒いモヤが断末魔のような悲鳴をあげた。そして、しゅるしゅるしゅると空気に霧散するように次第に小さくなり、最後は跡形もなく消えてしまった。あとには、カランカランと音をたてて晴高が刺した金属の棒のようなものが床に落ちてくる。
「空気が……」
元気のつぶやきに、千夏もうなずいた。
「うん。軽くなってる。嘘みたい、あんなにたくさんいた悪霊も急に気配が薄くなっていく」
禍々しい髪の毛で覆われていた窓も、いまは青空が見える。室内も、日の光が差し込んでぐっと明るさを増していた。
「あれが親玉だったからな。親玉が消えてしまえば、いくら悪霊といえどもこんな昼間っから堂々と出てこれるわけはない。ほかの奴らは一旦姿を隠しただけだろうが、この程度なら俺でも簡単に祓える」
そう言うと、晴高は悪霊の親玉が消えた場所まで歩いていった。そして、そこに落ちていた金属の棒のようなものを拾い上げる。それは、両端が五股にわかれた不思議な形をしていた。
「これは密教の道具で、独鈷杵《どっこしょ》っていうんだ。結界を張ったり、いまみたいに悪霊にダメージを与えるのに使える」
それらを再びバッグにしまうと、
「ようやく、終わったな」
晴高が小さく息をついたときだった。
千夏たちの前に、いつの間にか白いモヤのようなものが立ち込め始めていた。その白いモヤは集まって濃さを増していき、煙のようになって晴高の周りを取り巻きはじめる。
晴高自身も戸惑っている様子だったが、その白いモヤからは悪い気配は一切感じられない。白いモヤは晴高の全身にまとわりついたあと、彼の身体から離れてその目の前で次第に人の形を成し始める。
モヤは小柄な一人の女性の姿となった。長い髪に、白いワンピースの二十代前半と思しき女性。千夏にも見覚えがある。霊の記憶の中でも見たし、この病院で千夏の手を引いてここまで導いてくれたのも、彼女だった。
「華奈子……」
そう言う晴高の声は震えていた。
テーブルや椅子が散乱するその奥の左隅に、黒い物でおおわれた塊のようなものがあった。まるで黒いコブのようになったソレ。近づいてみると、長い髪の毛が何重にも絡まってその隅を覆っていた。
他に手洗い場らしきものは見当たらない。となると、
(きっとこの中に、ソウタ君が……!)
いつもなら気持ち悪くて近寄ることもできなかっただろう。でも早くソウタくんを助け出してあげなきゃという気持ちが、恐怖心に勝った。
千夏と元気はすぐにそのコブにとりつくと、髪のようなものを引きはがしていく。しかし、その髪のようなものはまるで意思をもっているかのごとく、引きはがしても引きはがしてもシュルシュルと絡みついて剥がれない。
少し遅れてデイルームに入ってきた晴高が、
「ちょっと下がってろ」
と言うと、その髪のコブに札をペタッと貼り付けた。すると、突然、火もないのにその髪のコブが燃え出す。
ギャアアアアアアアアアアアアアアア
断末魔のような音をあげて髪は灰に変わり、パラパラと燃え落ちた。
すると、その下に手洗い場と収納扉が現れる。
「あった! これだ!」
千夏はその扉を開けようと取っ手を引くが、びくともしない。鍵穴などどこにも見当たらないのに、鍵でもかかっているようにピタリと扉はくっついて開かなかった。
「かわって」
元気と場所を代わると、彼はその前に座って片方の足を扉の片側にあてる。そうして身体を支えると、両手で片扉の取っ手を掴んで全力で引っ張った。
「くっ……」
それでもはじめはびくともしなかった扉だったが、元気が力をかけ続けるとピリッと扉の境目に亀裂のようなものが走り、カパッと開いた。
「やった、開いたぁ」
はぁっと安どのため息を漏らす元気。その中を覗き込むと、小さな男の子が膝を抱えて座ってその膝に頭を埋めている。
千夏は急いでトートバッグから靴を取り出すと、しゃがんで収納扉の前に置いた。
「ソウタくん。……だよね?」
男の子は何の反応もしなかったが、千夏はそのまま続けた。
「お靴、もってきたよ。君に合う新しいお靴だよ」
靴、という言葉に、初めて男の子は反応した。ハッと顔をあげると床に置かれた真新しい靴に目を向ける。
……クツ……? ボクノ……?
男の子の声が頭の中で聞こえてくる。千夏は、大きく頷いた。
「そう。あなたの靴よ。これを履いて、あなたはどこへだって行けるの。好きなところへ行けるんだよ」
……ボク……
男の子が顔をあげる。その顔はやはり、ソウタと呼ばれたあの男の子と同じものだった。ソウタが向きを変えてこちらに足をむけてきたので、千夏は片足ずつ彼の足へ靴を履かせてあげる。そして、彼の手をとって手助けしてやると、ソウタは自分から収納スペースの外へと出てきた。彼の手はとてもあたたかくて、強い霊力のようなものが握っている千夏の手にも流れ込んでくるようだった。
「とりあえず、病院の外に出るか?」
元気が尋ねると、ソウタは初めて笑顔を見せる。それは、華奈子の記憶の中で見せていたものと同じ屈託のない笑顔だった。
「さあ、もう行きましょう」
もうここには用はない。とりあえず、ソウタに靴を渡すという目的は達成したのだ。これで何が変わったのかはわからないけれど、場を支配していた重苦しい圧迫感のようなものが急に薄れてきているように感じた。
しかし、部屋の入口に目を向けて、千夏は息をのんだ。
ヒタ、ヒタ、ヒタ、ヒタ
廊下の方から何かがやってくる。それも一つではなかった。
肘から先のない腕だけが床を掴むようにして這いながらこちらに近づいてくる。肘より先は黒いモヤに隠れてしまって見えなかった。それが一本だけではない。腕だけでなく、足だけのものもある。十本以上の手足がこちらに迫ってきている。
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ………
廊下の向こうからはさらにたくさんの悪霊たちが迫ってきているのが感じられた。
窓から出ようにも、窓の外も黒い髪の毛のようなもので覆われている。
「いよいよ取り囲まれたな」
晴高が唸る。
「どうする?」
元気はソウタを守るように彼の前に立つ。晴高はフッと鼻で笑った。
「核になっていたソウタが悪霊の手の中から離れたおかげで、悪霊たちの力が弱まっている。だから必死で取り返そうとしてきてんだろうが、これなら俺でも対処できる」
廊下の奥から、のっそりと黒いモヤの塊のようなものが顔を出した。すでに人の背丈よりもはるかに大きく育っている黒い怨念の塊。そこには、いくつもの人の顔が現れては消えていく。そのどれもが、苦痛と悲しみと怒りに満ちていた。
…………ニクイ…ニクイ……
……ナンデ…クライ、クライヨ……
…タスケテ……オネガイ……イヤ…イタイ……
……コッチヘ、オイデ……オマエモ、イッショニ……コッチヘ……
アレに取り込まれたら命がなくなるだけでは済まない。千夏も元気もアレらと同じものになって、永遠に苦しみ彷徨《さまよ》うことになるのだろう。
晴高は恐れる様子もなくそのモヤに向かい合うと、肩に下げていたワンショルダーバッグから何か金色の棒のようなものを三本取り出して投げた。
それがモヤに次々と突き刺さる。刺さるたびにモヤはギャアと声をあげて、痛みに苦しんでいるかのように身をよじらせた。
晴高は手を止めることなく、今度は数珠をもって片手拝みにすると、
「オン・アキュシュビヤ・ウン」
晴高の凛とした声が響く。すると、
ギャアアアアアアアアアアア
黒いモヤが断末魔のような悲鳴をあげた。そして、しゅるしゅるしゅると空気に霧散するように次第に小さくなり、最後は跡形もなく消えてしまった。あとには、カランカランと音をたてて晴高が刺した金属の棒のようなものが床に落ちてくる。
「空気が……」
元気のつぶやきに、千夏もうなずいた。
「うん。軽くなってる。嘘みたい、あんなにたくさんいた悪霊も急に気配が薄くなっていく」
禍々しい髪の毛で覆われていた窓も、いまは青空が見える。室内も、日の光が差し込んでぐっと明るさを増していた。
「あれが親玉だったからな。親玉が消えてしまえば、いくら悪霊といえどもこんな昼間っから堂々と出てこれるわけはない。ほかの奴らは一旦姿を隠しただけだろうが、この程度なら俺でも簡単に祓える」
そう言うと、晴高は悪霊の親玉が消えた場所まで歩いていった。そして、そこに落ちていた金属の棒のようなものを拾い上げる。それは、両端が五股にわかれた不思議な形をしていた。
「これは密教の道具で、独鈷杵《どっこしょ》っていうんだ。結界を張ったり、いまみたいに悪霊にダメージを与えるのに使える」
それらを再びバッグにしまうと、
「ようやく、終わったな」
晴高が小さく息をついたときだった。
千夏たちの前に、いつの間にか白いモヤのようなものが立ち込め始めていた。その白いモヤは集まって濃さを増していき、煙のようになって晴高の周りを取り巻きはじめる。
晴高自身も戸惑っている様子だったが、その白いモヤからは悪い気配は一切感じられない。白いモヤは晴高の全身にまとわりついたあと、彼の身体から離れてその目の前で次第に人の形を成し始める。
モヤは小柄な一人の女性の姿となった。長い髪に、白いワンピースの二十代前半と思しき女性。千夏にも見覚えがある。霊の記憶の中でも見たし、この病院で千夏の手を引いてここまで導いてくれたのも、彼女だった。
「華奈子……」
そう言う晴高の声は震えていた。