千夏が床に撒いた塩を掃除機で片づけていると、怪しいものがないか見回りに行っていた元気がリビングへと戻ってきた。
「悪い気配はほとんど消えてるみたいだ。あっちの部屋の奥とかベランダとかには、ごちゃごちゃ黒いモヤみたいなのがわだかまってたところが何か所かあったから、蹴散らしておいた」
「ありがとう」
そんな会話をしていたら、シャワーを浴びに浴室に行っていた晴高も戻ってきた。さっきまでいつものスーツを着ていた晴高だったが、今はさすがに部屋着に着替えている。彼は戻ってくるなり、ソファにどさっと横になって目を閉じた。まだどこか体調が悪いのかもしれない。
晴高に、さっきの悪霊みたいなものがなんだったのか聞いてみたい気持ちは強かった。でも、憔悴している彼に今それを聞くのは酷な気がして聞けないでいる。元気も心配そうだ。
さて、このあとどうしよう。あの悪霊みたいなものが晴高の体調不良の原因だろうというのは千夏にもわかる。壁にかかった時計はもう夜の十二時過ぎを指していた。このまま晴高を一人にしておけばまた同じ状態にならないとも限らないから、彼をここに置いて帰るのは不安だった。どうしようかな、そんなことを悩んでいたらボソボソと晴高の声が聞こえてきた。
「……すまなかったな」
いつものような張りの感じられない、弱い声音。
「いえ。何度か電話したんですが、出なかったので心配になって。あ、カギは開いてたので勝手に入ってきちゃいました……すみません」
緊急事態だったとはいえ勝手に入ってしまったことを気まずく思う千夏だったが、晴高は何も言わなかった。
元気はダイニングテーブルの椅子を引っ張ってきてソファのそばに置くと、背もたれに抱き着くようにして座る。
「……なあ。俺、霊のことはよくわかんねぇけど、お前、まじでヤバイことになってんじゃないのか?」
強い調子が滲む元気の声。けれど、晴高は目をつぶったまま何も答えなかった。
もしかして眠ってしまったのかなと千夏が思い始めたころ、晴高はうっすらと目を開けてボソッと返してきた。
「……どっから、話したらいいんだろうな」
そうしてしばらく天井を見ながら何か考えているようだったが、やがて晴高はゆっくり起き上がるとソファに座った。
もとから色白な彼の顔色は、病的なまでに白くなっている。いまにもまた倒れてしまうんじゃないかと、千夏は内心はらはらしていた。
彼は膝に置いた腕で額を押さえて、身体の中の辛さを吐き出すように言った。
「お前らが昼間見たっていうカナコという女性は……おそらく、雨宮華奈子。俺が昔、つきあってた恋人の名前だ」
きっと、あのずっと右薬指につけているペアリングの相手なのだろう。と、千夏は察する。
「彼女は三年前に病死した。もともと身体が弱い子で、二十歳まで生きられないって言われてたから、二十二まで生きたのは幸運だったんだろうな」
彼女の葬儀はつつがなく行われたはずだった。しかし、それだけでは終わらなかったのだと晴高は言う。
「しばらくして、アイツが入院してた病院でおかしなことが起こりはじめたんだ。夜な夜な、いるはずのない人間の足音が聞こえたり、話し声がしたり。いろいろな霊障がおこって、マスコミに心霊病院なんて紹介されるほどになっていた」
妙な胸騒ぎを覚えて晴高はその病院を訪れるが、病院の様子が以前とは様変わりしていたことに驚いたのだそうだ。
「華奈子が入院してたころ、俺もよく見舞いに行ってたんだ。けど、そのころは感じたことのないような禍々しい瘴気のようなものに包まれていた」
「もしかして、そこに華奈子さんの霊もいた?」
元気の問いかけに、晴高は少し迷ったあとコクンと頷いた。
「あいつの気配を感じた。……驚いたよ。てっきり、成仏したとばっかり思っていたから。どうやら、あいつは悪霊たちに取り巻かれてあそこに閉じ込められているようなんだ。でも、気配はそれだけじゃなかった。たくさんの霊の、それも悪霊といわれるものの気配があそこにあった」
いつの間にか、病院は悪霊たちの巣窟になっていたのだそうだ。
もちろんそんな状態になって経営がうまくいくはずもない。ちょうど施設が老朽化しつつあったこともあって、病院側はその建物を放棄して別の場所に移転したのだという。
「あそこには昔から霊の通り道があったらしいんだ。そこに病院を建てたのがまずかったんだろうな。でもそれだけならまぁ、普通より心霊現象が多く起こるくらいで済んだのかもしれないが、運悪く病院で死んだやつの中にとても霊力が高いやつがいたんだ。そいつが核となって霊道を通りがかった霊やら付近の悪霊やらを呼び寄せて、あんなになっちまったらしい」
いっきに話して疲れたのか、晴高がふぅと息を吐きだす。
「廃墟になってからは、以前に増して日に日に悪霊は増えている。それを俺は、暇さえあればあそこに祓いに行っていたんだが……とうとう手に負えなくなって、このありさまだ。……迷惑かけたな」
そう言うと、晴高はふらりと立ち上がってキッチンカウンターに置いてあった車のキーを手に取り、玄関へ行こうとした。まだふらふらとしていて足取りがおぼつかない。どこへ行こうというのだろう。いや、どこへ行くのかは想像はついた。
千夏は玄関の手前で彼の前に立ちはだかる。
「…………」
晴高は怪訝そうに、千夏を見下ろした。やつれているせいか、いつもより眼光が鋭い。思わず怯みそうになりながらも、千夏はキッと晴高を見返した。
「どこへ、行くんですか」
「決まってるだろ。どんどん悪霊が増えてる。俺が祓わないと」
「そんな身体で、そんなとこに行けるわけないじゃないですか!」
「俺がやらなかったら、誰がやるんだ。そうしないと、華奈子はいつまでも」
晴高が腕で千夏を押しのけ、なおも玄関へ向かおうとしたため千夏は彼の腕を掴んで引き留める。
「それなら、私たちも一緒に行きます」
睨むようにして千夏が言う。晴高だけを行かせるわけにはいかない。
しかし、晴高はぴしゃりと拒絶した。
「だめだ。お前らには危険すぎる」
「晴高さんにとっても危険ですよね?」
すぐに千夏は言い返す。さらに傍に来た元気が付け加える。
「お前、すでにそこのやつらに憑りつかれてんだろ。さっきの黒い霊たちはなんだよ。あれ、悪霊ってやつだろ? このまんまだと、どんどん衰弱してしまいには死んじまうよ? ……お前まさかさ、死んじまってもいいとか思ってないよな?」
その元気の言葉に、晴高の瞳がわずかに揺れたように千夏には思えた。
その廃病院には彼の恋人の華奈子の霊もいるのだ。そういう心理に陥る気持ちもわからないではない。でも、それが晴高にとって良いことだとは千夏には到底思えなかった。
「お前、俺に悪霊になるなって言っておきながら、お前が悪霊に食われに行くなんてどういうことだよ?」
元気の言葉は、言っている内容とは裏腹に晴高を責める調子ではなかった。口ぶりから、ただ晴高の力になりたいと思っているのが伝わってくる。
晴高は二人から視線をそらして、唇をかむようにジッと床を見つめていた。
沈黙を破ったのは、千夏だった。
「私……もう一つ気になっていることがあるんです。前に晴高さんが倒れたとき、生前の華奈子さんのものらしき記憶を見たと言いました。でも、見たものはそれだけじゃないんです」
千夏がそう言うと、晴高は千夏を見て怪訝そうに眉を寄せた。
「ほかに……? ……何を見たんだ?」
言ってもいいよね?と元気に目で確認すると、彼はこちらの意図に気づいて小さく頷き返して晴高に話し始めた。
「あの景色は、どこかの廃墟の中だった。そこらじゅうに禍々しい空気が漂っていて。その部屋の隅に隠れて小さな男の子が泣いてたんだ。あれ、たぶん、最初に見たソウタって子だと思う」
元気も、やはりあの泣き声はソウタのものだと感じたようだった。
今度は、千夏が引継いで話を続ける。
「そのソウタ君が言ってたんです。……靴、どこ……って。ソウタくんは病気を治して外に出るのを夢見ていました。彼は入院中で、病院のスリッパを履いていたから。元気になったら靴を買ってもらう約束をお母さんとしていました。もしかして彼は靴がなくて、いまだにあの病院から出られずにいるんじゃないでしょうか。それに、初めのテラスの景色は華奈子さんの目から見たものでした。ということは……」
千夏の言葉に、晴高が驚いたように息をのむのがわかった。
「その廃墟の景色を見ていたのも……」
千夏は大きくうなずく。
「あれは死後の華奈子さんが見た記憶なんじゃないかと思うんです。私が霊に触れて視える記憶は、その人にとってとても想いの籠った記憶ばかりです。だから、もしかしてあの光景には何か深い意味があるんじゃないかと思って……」
そこまで話した後、元気があっけらかんと言う。
「意味もなにも。ソウタは靴が欲しかったんだろ? だったら、靴を届けてあげりゃいいじゃん?」
その言葉に、晴高はしばらく何かを考えた後、はぁっと嘆息を漏らした。
「たしかに、俺もあの病院に行ったときに悪霊たちの中から子どもの泣き声らしきものを聞いたことがある。ソイツが泣くたびに霊たちは力を増しているようにも見えた。それが、そのソウタってやつである可能性は高いのかもしれんな。だとすると、欲しがっていた靴をあげれば何かが変わるかもしれない」
とりあえず、やるべきことは決まったみたい。三人は一緒に、廃病院へと行ってみることになった。
とはいえ、ひとまず晴高には休息が必要。このまま霊のでた部屋に一人で置いておくのも何かと不安なので、タクシーを拾って千夏の家まで彼を連れていくことにした。千夏の家に着くと晴高にはリビングのソファで寝てもらうことにする。いつもは元気が使っているけれど、彼は寝なくても平気なので構わないという。
そして、翌朝。
幸い土曜日だったのでいつもより少し遅めに起きた千夏だったが、ソファの晴高はまだ寝ているようだった。もしかしたら、悪霊たちの影響でここしばらくちゃんと寝られていなかったのかもしれない。
キッチンへ行って朝ごはんは何を作ろうかなぁと迷うものの、晴高の体調を考えるとあっさりした食べやすいものにしたほうがいいだろう。結局、冷蔵庫の中身と相談して、雑炊を作ることにした。
「さあ、できたよ」
器三つに雑炊を盛ってテーブルへ運ぶと、ダイニングテーブルでタブレットを見ていた元気は「ああ、ありがとう」と顔をあげる。
「なんかさ。晴高が言ってた病院。やっぱいまはもう幽霊病院として有名みたいで、ネット上にいっぱい出てるね。ほとんどがブログとか心霊体験レポみたいなやつだけど」
「へぇ、そうなんだ。心霊スポットになってるのかな」
「そうみたい。しかも、最恐の心霊スポットとして有名みたいだな。行った奴がしばらく原因不明で寝込んだり、二階から落ちて怪我したりとか実際いろいろあるみたいでさ」
朝ごはんの準備ができたところで、ソファに横になっていた晴高が起きてきた。
「あ、晴高さん。朝ごはん、どうぞ」
「……ああ」
晴高は額を抑えて呻くように言う。まだ体調が戻りきっていないのかもしれないけれど、もしかすると単に寝起きが悪いだけなのかも。とりあえず席についてもらう。
「いただきます」
「いただきまーす!」
「……ます」
千夏はレンゲで雑炊を自分の口に運ぶ。ちょうどいい塩加減の優しい味が口の中に広がった。
晴高は食べてくれるのだろうかと気になって、自分も食べながらチラと晴高を見る。彼はまだ少し寝ぼけているようでゆっくりとした動作だったけれど、レンゲを口元に運んでもそもそと雑炊を食べ始めた。
千夏は元気と目を見合わせ小さく笑いあう。良かった、食べてくれそうだ。
朝ごはんが終わって、食後のお茶を飲んでいるときだった。それまでずっと黙っていた晴高が、ぽつぽつと話し始めた。
「……華奈子とは四年くらいの付き合いだったんだ」
彼の視線は、目の前の湯飲みに注がれているようでいて、どこか遠くを見ているようでもある。
千夏も元気もお茶をすすりながら、特に促すようなこともせず晴高の言葉を待つ。
晴高は、記憶の引き出しから大切なものを取り出すように少しずつ話し始めた。
「身体が弱くて入退院を繰り返していたから実質的に一緒にいれた時間は短かったし、何もしてあげられなかった。良くなったら一緒に旅行に行こうって約束してたのに、叶わなかったしな……」
短いといいつつも、それが晴高にとってかけがえのない時間だったのだろうということが彼の口調から察せられた。だから、彼は今もこんなにも彼女のことを想っているのだろう。そして、それはきっと華奈子にとっても同じだったのだろう。
なんてことを思っていたら晴高が衝撃的なことを口にする。
「俺、元は女子高で教師をやっていたんだ」
「……え。お前、先生だったの?」
と驚いた顔をする元気。晴高は、小さく苦笑を浮かべて返す。
「ああ。現代社会とかを教えてた。華奈子は、……俺が勤めてた高校の生徒だったんだ。知り合ったとき、アイツは高三で、俺は新任教師だった」
「……意外過ぎる」
千夏も唸る。でも驚く半面、クールで無口なイケメンの新任教師なんて女子生徒たちの間で人気あったんだろうなぁなんて想像してしまった。
「付き合いだしたのは、華奈子が卒業してからだったんだが。……身体の弱いアイツは高三のとき治療のためにしばらく休んでいたことがあったんだ。それをなぜか、俺が彼女を孕ませたせいで彼女は学校に来れなくなっていたっていう噂がたって。……もちろんそんな事実はないし、学校にはそう説明したんだが。卒業したばかりの華奈子と付き合ってたのは確かだし、学校側もそれにあまりいい顔しなくてな。結局、学校は辞めて、叔父が管理職をやってた八坂不動産管理に拾ってもらったんだ」
そんな経緯があっただなんて全然知らなかった。たしかに、八坂不動産管理には彼と同じ苗字の久世という管理職がいる。だから紛らわしいので晴高は久世係長ではなく晴高係長と職場では呼ばれているのだ。
「華奈子さんは、大学とかに行ってたのか?」
元気の問いかけに、晴高は頷く。
「ああ。美術系の大学に通ってた。でも、結局休んでばかりで卒業はできなかったな……。卒業したら籍を入れる約束してたんだけど、それも果たせなかった」
そういって晴高は自分の右薬指に嵌めたリングを触った。
「ときどき。俺は生きてていいのかなって、思うことがあるんだ。死ねば、アイツと同じところにいけるんじゃないか。それを、アイツも望んでるんじゃないか、って」
そう語る晴高の言葉はわずかに震えていた。いつもの彼からは信じられない姿だが、いまの晴高は本当にそのまま命を捨ててしまうんじゃないかと心配になるほど儚げに見えた。でも、その気持ちの切実さを千夏は痛いほどわかってしまう。
千夏の視線がスッと元気の方に向いた。
元気のことを見つめながら、千夏は思う。今は元気がそばにいてくれるからいいけれど、もし何かの事情で彼がここからいなくなってしまったら。彼が、生きている限り到達できない場所へ行ってしまったら。晴高と同じことを想わずにいられるだろうか。一人で強く生きていけるだろうか。……そんな自信なんてなかった。
しかし、そんな千夏の思いを否定するように、元気がぴしゃりと強い口調で言った。
「そうかな。悪いけど、俺にはそうは思えない」
晴高が視線をあげて、少し驚いたように元気を見る。
「なんで、そんなことお前にわかるんだよ」
「わかるよ。俺、死人だもん。だから……死んだやつの気持ちは、よくわかる。誰だって、大切なやつを残して逝きたいなんて思わない。でも、そうせざるをえないんだったら、せめて……」
元気は、小さく笑んだ。
「せめて。残していった人には、幸せに生きてほしいって思うもんだろ。華奈子さんも同じだと思うよ。だってさ、考えてみろよ。お前が倒れたとき、俺と千夏が見た霊の記憶。あれ、誰の目からみた記憶だった?」
「あれは、たぶん華奈子さんの見た記憶だったよね?」
千夏の言葉に、元気はこくんと大きくうなずく。
「そう。あれは華奈子さんのものだ。ということは、晴高の身体に彼女の霊の残滓が残っていたってことなんだよ。あれだけの悪霊に取り巻かれても、晴高がいまも一応生きてるのは、こいつ自身が祓ってきたっていうのもあるんだろうけどさ。華奈子さんが晴高のことを守ろうとしてたんじゃないかって……どうしても、そう思えるんだ」
「でも、逆に華奈子さんが晴高さんをあっち側に連れて行こうとしてるんだったら?」
ただ霊の残滓があったというだけでは、どっちにもとれてしまう。
しかし元気は首を横に振った。
「もしあっち側に連れてこうとしてるんだったら、病院に晴高が行ったときにとっくに連れてってるよ。こいつ自身があっち側にこんなに惹かれてんだから簡単だろ? でも、晴高はまだ生きてる」
元気が話している間、晴高はテーブルを見つめていた。しかし、急に立ち上がると、「悪い。ちょっとタバコ吸ってくる」と抑揚の薄い声で呟いてベランダに出て行ってしまった。
リビングの窓越しに彼の背中が見える。紫煙をくゆらせながら、彼は何を考えているのだろう。その姿は何かを自分の中で決着つけようとしているようにも見えた。
その病院は東京西部の多摩川支流に近い山間部に建っていた。五階建ての大きな建物で三階部分に広いテラスらしきものも見える。華奈子の記憶で見たテラスと同じ形状のものだ。
しかし、いまはすっかり廃墟となり、どの窓もガラスが割れて無残な様相を呈していた。
その正門の手前で車を止めて、三人は廃墟となった建物を見上げた。
千夏は肩から下げたトートバッグを胸にぎゅっと抱いたまま、ごくりと息を飲む。その中には、ここに来る途中で買った子どもの靴が入っていた。男の子用のデザインで、店員さんにおおよその年齢を伝えて合いそうなサイズを選んでもらったもの。
まだお昼を少し過ぎたばかりで今日はよく晴れているというのに、廃墟の周りだけが明らかに薄暗い。まるで全体に薄いモヤがかかっているようだった。
日が高いためか霊のようなものは視えていないが、嫌な気配を全身に感じてぞわぞわと両腕に鳥肌がたったままおさまらない。
(ここ、本当に怖い……)
行きたくない。ここに近づてはいけない。そう本能が警鐘をならしているようだった。一歩だってその建物に近づくことを、全身が拒んでいる。
「すげぇな、ここ。よく、こんだけ集まったな」
千夏には嫌な気配だけしか感じられないけれど、元気にはそこに集まる霊たちが視えているようだ。
「元気には何が見えてるの?」
おそるおそる尋ねると、彼は眉を寄せて廃墟を眺める。
「とにかく、禍々しいっていうのが一番ぴったりくるな。……窓のあちこちから、黒い人影がこっち見てるし。ほかにも人の顔がたくさん埋まった黒い塊がうろうろしてるのも視えた。腕だけのものとか、下半身だけのとか、そんなのもいる。こんな日の高い時間からあんなにたくさんウヨウヨしてるなんて、どう考えても異常だよ」
「そうだ。ここは異常だ。半分、あっちの世界とつながってしまっているといっても過言じゃない。だから」
一度言葉を区切ると、晴高は険しい視線で千夏たちに念を押す。
「その靴をソウタに渡したらすぐに建物から出るんだ。いいな」
晴高に念を押され、千夏はもう一度トートバッグをぎゅっと抱くと、こくこくと頷いた。
ここに来る前に、千夏と元気が以前に見た廃墟の様子を晴高に詳しく話して聞かせたところ、部屋の広さや散らばっている椅子などから、一階の会計用待合室か各階の入院者用に用意されていたデイルームではないかと言う。
デイルームは院内に数か所あったようだけど、小児科病棟のある五階が一番あやしいということになった。
そうこうしている間にも、廃病院を取り巻く黒いモヤのようなものは密度を増してきているように思えた。
「……行くか」
隣に立つ元気が手を差し出してくる。それを左手でぎゅっと握って、こくんと千夏はうなずく。すぐ後ろに立つ晴高が読経を始めた。
すると、それまで濃くなる一方だったモヤが、少しずつ薄れていくようにも見えた。
千夏と元気は同時に、敷地の中へと足を踏み出す。
途端にねっとりと肌に絡みつくような空気の濃度を感じた。まるで水の中を歩いているかのよう。しかも敷地内に入った途端、まだ昼過ぎのはずなのに夕方のように辺りが薄暗くなる。
千夏たちの前に、建物の入り口がぽっかりと口を開けていた。
オオオオオオオオ………
建物を通り抜ける風が不気味に鳴る。
足が竦んでしまいそうだった。
幸い、霊らしき姿は千夏には視えない。
建物に向かって歩き出すと、どんどん足が速くなった。早くここから立ち去りたいという恐怖が足を急かす。
後ろからついてきてくれている晴高の読経の声が心強かった。霊が近寄ってこないのは、この読経のおかげなんだろう。
病院のエントランスから中へと足を踏み入れる。中も想像以上に荒れていた。
天井がところどころはがれ落ち、窓ガラスはほとんどが割れ、周りには医療ワゴンやら落ち葉やらゴミのようなものが散乱していた。
まず、入ってすぐのところから見ていくことにする。そこには会計待ちをするための待合室らしき場所があった。今は椅子が無残に散乱しているけれど、元気が建物の外から見たという人影や不気味な黒い塊のようなものは今は見えない。ソウタが隠れていたあの手洗い場のようなものも見当たらなかった。
「ここじゃないみたいだね」
元気の声からも緊張が感じられる。
まずは一階をざっと探してみて、該当の場所がなければ上の階に行く予定だった。
晴高の読経に交じって、どこか遠くから風の鳴くような音がずっと響いている。
けれど、待合室から出たとたん、その風の鳴くようだった音がだんだんと大きくなってきた。
(あれ、風の音なんかじゃない……?)
オオオオオオオオオオオオオォォオォォォォオォオォォォ……
さっきは風が吹き抜ける音にしか聞こえなかったけれど、今ならわかる。
これは声だ。たくさんの人の、うめき声。ひとつひとつが、生者への憎しみと恨みで満ちていた。
……ニクイ…ニクイ……
……ナンデ…クライ、クライヨ……
…タスケテ……オネガイ……イヤ…イタイ……
……シニタクナイ……シニタクナイ……コワイ……シニタクナイ……
廊下の奥がやけに暗いと思って目を凝らすと、そこに黒いモヤが集まりだしていた。モヤはどんどん大きくなっていく。廊下をふさぐほどの大きさになったかと思うと、その合間から何本もの人間の手足が見えた。時折苦痛にゆがむ人の顔も浮かんでは消える。それらが口々に、生者への憎しみを呟き続ける。
モヤはしだいに大きさを増しながら、こちらへ何本もの手をのばし、ゆっくりと近づいてくる。
「……まずい。いったん逃げるか」
晴高がそう言ったときだった。
『マッテタ』
三人の誰でもない、女性の声が耳をかすめる。
「え?」
千夏が辺りを見回していると、
『コッチ……』
もう一度同じ声。そのとたん、誰かにぐいと右手を引かれた。
(え?)
いつの間にか、千夏の前に華奢な背中があった。白いワンピースの、髪の長い小柄な女性のような背中。その細い腕で千夏の手のひらをしっかりと握り、千夏を導くように手を引いていた。
千夏は手を引かれるまま、彼女と一緒に走っていた。当然、元気もついてくる。晴高もついてきているのが足音でわかっていた。
背中を向けているため手を引く女性の顔は見えない。
でも、それが誰なのか千夏はわかっていた。おそらく、元気や晴高もわかっていただろう。
(華奈子さん……)
胸が締め付けられそうだった。
彼女に導かれるままに廊下を走り、階段を上った。いっきに五階までのぼったので途中で息が切れそうになったけれど、肩で呼吸をしながらなんとか登りきる。
五階も一階と変わらないくらい荒れ果てていた。散乱したガラスや落ち葉のほかに、墨のような泥水の水たまりがあちらこちらにある。その水たまりの間を抜けて、華奈子に手を引かれたまままっすぐに廊下を走っていく。しかし、突然、彼女の身体がぐらりと崩れた。
「きゃ、きゃっ!」
千夏は足を止めて、悲鳴をあげる。華奈子のすぐ足元にあった水たまりから、何本もの黒い腕が伸びてきて、華奈子に絡みついていた。華奈子は千夏を突き飛ばすようにして手を放す。倒れそうになった千夏を元気が支えた。
次の瞬間にはもう、華奈子の姿はその場から掻き消えていた。でもその寸前、
『……アノヘヤ……アノコヲ、オネガイ……』
そう頼む華奈子の声が確かに聞こえた。
「行こう。あの先だ」
晴高はそう言うと、すぐに読経を始める。あちこちの水たまりから黒い手が伸びてきて、千夏たちに迫ってきていたが、その手が読経に反応して一瞬動きを止める。その隙をみて、千夏と元気は走り出した。もうとっくに息は上がっているけれど、頑張って足を動かす。目標は、消える直前に華奈子が指さしていたあの部屋だ。
華奈子が教えてくれた部屋の前までやってくる。けれど室内を目にしたとたん、広がる異様な光景に息をのんだ。
テーブルや椅子が散乱するその奥の左隅に、黒い物でおおわれた塊のようなものがあった。まるで黒いコブのようになったソレ。近づいてみると、長い髪の毛が何重にも絡まってその隅を覆っていた。
他に手洗い場らしきものは見当たらない。となると、
(きっとこの中に、ソウタ君が……!)
いつもなら気持ち悪くて近寄ることもできなかっただろう。でも早くソウタくんを助け出してあげなきゃという気持ちが、恐怖心に勝った。
千夏と元気はすぐにそのコブにとりつくと、髪のようなものを引きはがしていく。しかし、その髪のようなものはまるで意思をもっているかのごとく、引きはがしても引きはがしてもシュルシュルと絡みついて剥がれない。
少し遅れてデイルームに入ってきた晴高が、
「ちょっと下がってろ」
と言うと、その髪のコブに札をペタッと貼り付けた。すると、突然、火もないのにその髪のコブが燃え出す。
ギャアアアアアアアアアアアアアアア
断末魔のような音をあげて髪は灰に変わり、パラパラと燃え落ちた。
すると、その下に手洗い場と収納扉が現れる。
「あった! これだ!」
千夏はその扉を開けようと取っ手を引くが、びくともしない。鍵穴などどこにも見当たらないのに、鍵でもかかっているようにピタリと扉はくっついて開かなかった。
「かわって」
元気と場所を代わると、彼はその前に座って片方の足を扉の片側にあてる。そうして身体を支えると、両手で片扉の取っ手を掴んで全力で引っ張った。
「くっ……」
それでもはじめはびくともしなかった扉だったが、元気が力をかけ続けるとピリッと扉の境目に亀裂のようなものが走り、カパッと開いた。
「やった、開いたぁ」
はぁっと安どのため息を漏らす元気。その中を覗き込むと、小さな男の子が膝を抱えて座ってその膝に頭を埋めている。
千夏は急いでトートバッグから靴を取り出すと、しゃがんで収納扉の前に置いた。
「ソウタくん。……だよね?」
男の子は何の反応もしなかったが、千夏はそのまま続けた。
「お靴、もってきたよ。君に合う新しいお靴だよ」
靴、という言葉に、初めて男の子は反応した。ハッと顔をあげると床に置かれた真新しい靴に目を向ける。
……クツ……? ボクノ……?
男の子の声が頭の中で聞こえてくる。千夏は、大きく頷いた。
「そう。あなたの靴よ。これを履いて、あなたはどこへだって行けるの。好きなところへ行けるんだよ」
……ボク……
男の子が顔をあげる。その顔はやはり、ソウタと呼ばれたあの男の子と同じものだった。ソウタが向きを変えてこちらに足をむけてきたので、千夏は片足ずつ彼の足へ靴を履かせてあげる。そして、彼の手をとって手助けしてやると、ソウタは自分から収納スペースの外へと出てきた。彼の手はとてもあたたかくて、強い霊力のようなものが握っている千夏の手にも流れ込んでくるようだった。
「とりあえず、病院の外に出るか?」
元気が尋ねると、ソウタは初めて笑顔を見せる。それは、華奈子の記憶の中で見せていたものと同じ屈託のない笑顔だった。
「さあ、もう行きましょう」
もうここには用はない。とりあえず、ソウタに靴を渡すという目的は達成したのだ。これで何が変わったのかはわからないけれど、場を支配していた重苦しい圧迫感のようなものが急に薄れてきているように感じた。
しかし、部屋の入口に目を向けて、千夏は息をのんだ。
ヒタ、ヒタ、ヒタ、ヒタ
廊下の方から何かがやってくる。それも一つではなかった。
肘から先のない腕だけが床を掴むようにして這いながらこちらに近づいてくる。肘より先は黒いモヤに隠れてしまって見えなかった。それが一本だけではない。腕だけでなく、足だけのものもある。十本以上の手足がこちらに迫ってきている。
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ………
廊下の向こうからはさらにたくさんの悪霊たちが迫ってきているのが感じられた。
窓から出ようにも、窓の外も黒い髪の毛のようなもので覆われている。
「いよいよ取り囲まれたな」
晴高が唸る。
「どうする?」
元気はソウタを守るように彼の前に立つ。晴高はフッと鼻で笑った。
「核になっていたソウタが悪霊の手の中から離れたおかげで、悪霊たちの力が弱まっている。だから必死で取り返そうとしてきてんだろうが、これなら俺でも対処できる」
廊下の奥から、のっそりと黒いモヤの塊のようなものが顔を出した。すでに人の背丈よりもはるかに大きく育っている黒い怨念の塊。そこには、いくつもの人の顔が現れては消えていく。そのどれもが、苦痛と悲しみと怒りに満ちていた。
…………ニクイ…ニクイ……
……ナンデ…クライ、クライヨ……
…タスケテ……オネガイ……イヤ…イタイ……
……コッチヘ、オイデ……オマエモ、イッショニ……コッチヘ……
アレに取り込まれたら命がなくなるだけでは済まない。千夏も元気もアレらと同じものになって、永遠に苦しみ彷徨《さまよ》うことになるのだろう。
晴高は恐れる様子もなくそのモヤに向かい合うと、肩に下げていたワンショルダーバッグから何か金色の棒のようなものを三本取り出して投げた。
それがモヤに次々と突き刺さる。刺さるたびにモヤはギャアと声をあげて、痛みに苦しんでいるかのように身をよじらせた。
晴高は手を止めることなく、今度は数珠をもって片手拝みにすると、
「オン・アキュシュビヤ・ウン」
晴高の凛とした声が響く。すると、
ギャアアアアアアアアアアア
黒いモヤが断末魔のような悲鳴をあげた。そして、しゅるしゅるしゅると空気に霧散するように次第に小さくなり、最後は跡形もなく消えてしまった。あとには、カランカランと音をたてて晴高が刺した金属の棒のようなものが床に落ちてくる。
「空気が……」
元気のつぶやきに、千夏もうなずいた。
「うん。軽くなってる。嘘みたい、あんなにたくさんいた悪霊も急に気配が薄くなっていく」
禍々しい髪の毛で覆われていた窓も、いまは青空が見える。室内も、日の光が差し込んでぐっと明るさを増していた。
「あれが親玉だったからな。親玉が消えてしまえば、いくら悪霊といえどもこんな昼間っから堂々と出てこれるわけはない。ほかの奴らは一旦姿を隠しただけだろうが、この程度なら俺でも簡単に祓える」
そう言うと、晴高は悪霊の親玉が消えた場所まで歩いていった。そして、そこに落ちていた金属の棒のようなものを拾い上げる。それは、両端が五股にわかれた不思議な形をしていた。
「これは密教の道具で、独鈷杵《どっこしょ》っていうんだ。結界を張ったり、いまみたいに悪霊にダメージを与えるのに使える」
それらを再びバッグにしまうと、
「ようやく、終わったな」
晴高が小さく息をついたときだった。
千夏たちの前に、いつの間にか白いモヤのようなものが立ち込め始めていた。その白いモヤは集まって濃さを増していき、煙のようになって晴高の周りを取り巻きはじめる。
晴高自身も戸惑っている様子だったが、その白いモヤからは悪い気配は一切感じられない。白いモヤは晴高の全身にまとわりついたあと、彼の身体から離れてその目の前で次第に人の形を成し始める。
モヤは小柄な一人の女性の姿となった。長い髪に、白いワンピースの二十代前半と思しき女性。千夏にも見覚えがある。霊の記憶の中でも見たし、この病院で千夏の手を引いてここまで導いてくれたのも、彼女だった。
「華奈子……」
そう言う晴高の声は震えていた。
華奈子は、晴高を穏やかな目で見上げると静かな微笑みを湛える。
『晴高君』
両手を伸ばすと、彼女は晴高の頬に触れた。
『やっと会えた』
そう呟いて背伸びするように顔を近づけると、華奈子は静かに抱き着いた。
「俺も……、ずっと。ずっと、会いたかった」
呻くように応える晴高に、華奈子は愛しげな瞳をそそぐ。
『うん。ずっと会いに来てくれてるの、いつも知ってたよ。……もっといっぱい一緒にいたかったけど。私、もう逝かなくちゃ』
彼女の身体もまた、キラキラと光を放ち始めていた。成仏しかけているのだ。華奈子は晴高から離れると、千夏と元気に向けて頭を下げる。
『ありがとう。あなたたちのおかげで、颯太君のことを助けることができました。晴高くんのことも。本当にありがとう……』
そして今度は、颯太ににっこりと笑いかける。
『颯太君、お姉ちゃん先に行っているね。颯太くんはそっちでいっぱい遊んでから来ればいいからね』
そして、華奈子は最後にもう一度晴高に向き合うと彼を指さした。
『晴高君!』
はつらつとした声で告げる。
『君に、幸あれ!』
その言葉を聞いた晴高の顔が、ハッとなった。すぐに、くしゃりと涙に歪む。
「それ、俺が卒業式の日にクラスの皆に言った言葉だろ」
華奈子はエヘヘと笑った。そして、ふわりと穏やかな笑顔になると、そのままスウッと空気に溶け込むように消えてしまった。
『大好きだよ』
そう、ぽつりと言葉を残して。
華奈子の消えた場所を見つめながら、晴高も応える。
「ああ。俺も、大好きだ」
その声が華奈子に届いたのかどうかはわからない。でも、きっと届いたと千夏は信じている。人が逝くのは一瞬だ。でも、その別れはきっと一生忘れられないものになるに違いない。
晴高はしばらく華奈子がいまいた場所を見つめていたが、腕で顔を拭った後こちらを向いた彼は、もういつものクールな彼に戻っていた。
さて、あとは颯太のことだ。
「颯太くん。このあと、どうする? 行きたいところがあるなら連れて行ってあげるけど」
千夏に聞かれて颯太は少し考えていたけれど、パッと顔をあげる。
『ボク、おうち帰りたい! パパとママと、それと妹のサヤカにも会うんだ!』
「いいよ、おうちに連れていってあげる。でも、どこか覚えてる……?」
千夏の問いかけに颯太は少し考えたあと、こくんと頷いた。
『ホイクエンからならおうちまでわかるよ』
「保育園の名前はわかる? あと、どのあたりにあったのかとか」
うーんと颯太は窓の外を眺めたあと、もう一度大きく頷いた。
『ボクのおうちね。セーセキサクラガオカのエキのちかくだったよ。ケーオーせんなの』
くわしく教えてくれる。もしかしたら、電車好きな子なのかもしれない。
保育園の名前も憶えていた。スマホで検索してみると、聖蹟桜ヶ丘駅の近くにほぼこれだろうと思われる保育園がみつかる。これなら彼の家を探すのはさほど難しくはなさそうだ。
晴高は残りの悪霊を祓うために残るというので、千夏と元気、颯太の三人で聖蹟桜ヶ丘駅まで向かうことになった。
はじめは久しぶりに見る街の様子や電車に大はしゃぎだった颯太だったけれど、途中で疲れてしまったようで電車の中で寝始めた。その彼を元気が抱っこしながら、彼がかつて通っていたという保育園の前までやってくる。
その頃には颯太も目を覚ましていて、元気の腕からぴょんと降りて保育園の柵から園内をしばらく懐かしそうに見た後、「ボクのおうち、こっちだよ」と先導して歩き出した。
そこは保育園から歩いて十分ほどの場所にある住宅街の中の一軒家だった。
いつしか日が沈み始めていたけれど、家の中からはいいニオイが漂っている。夕飯の支度をしているようだ。
颯太は、タタタッと家に向かって走ると門の前で振り返った。
『ここ! ここがボクのおうち!!』
郵便受けには、『森沢』とある。
「颯太くんのお名前は、森沢颯太くんで、いいのね?」
千夏が聞くと、颯太はコクンと大きく頷いた。もし、彼の家族が引っ越ししてしまっていたらどうしようと少し心配だったが、ご家族は今もこの家に住んでいるようだ。
ほっと胸をなで下ろした千夏はそこで気づく。颯太の全身がキラキラと輝き始めていた。彼の未練が果たされて、成仏しかけているようだ。
千夏は笑顔で彼を見送る。
家の中からは家族の声が聞こえていた。
見送りはここまでで充分だろう。
「私たちはここまで。さぁ、ママとパパのところに行っておいで」
そう言ってバイバイと手を振ると、颯太は『うん! バイバイ!』と手を振り返して、玄関の方へ走っていった。
そして、もう一度こちらを見た後、『ただいま!』とはつらつとした声をかけて、ドアの向こうに消える。きっと、彼はもう大丈夫だろう。成仏するまでのしばらくの間、彼の大好きな家族といっぱい過ごしてほしいと切に願った。
森沢家のキッチンでは母親がハンバーグを焼きあげ、ダイニングテーブルへと運んでいた。
家族は三人のはず。それなのに、母親は四人分の料理を並べている。大きなハンバーグと、付け合わせのバターコーンにマッシュポテト。サラダと、オニオンスープもそれぞれ4皿ずつあった。
「ママー。おさら、一つおおいよ?」
配膳を手伝ってフォークを並べていた五歳の沙也加が、母親に言いに行く。
母親はエプロンで手を拭きながら、にっこりと笑った。
「ああ、いいのよ。今日は多く作っちゃったから。それにほら、お兄ちゃん、ハンバーグ大好きだったから。今日は一緒に、ね?」
「ふーん?」
そこに父親もダイニングへとやってくる。
「お、今日はハンバーグか」
そしていつもより一つずつ多い皿を見て、柔らかく目を細めた。
「颯太も好きだったからな。ハンバーグ」
「さあ、食べちゃいましょ。席についてついて」
「はーい」
沙也加は返事をしながら自分の席に座る。
そのとき。
一瞬だけ、誰も座っていない席に誰かが座っているように見えた。
瞬きをしたらもう誰もいなかったけれど、ニコニコ笑う顔が見えた気がした。
「これで、一件落着だね」
駅に戻るためにくるっと向きを変えたそのとき、隣に立つ元気が一瞬、きらりと光を帯びているように見えた。
(…………え?)
目をこすってもう一度見てみると、颯太が消えていったドアをじっと見つめている元気はいつもと変わらない彼だった。千夏の視線に気付いて、彼がこちらを見やる。
「ん? どうした?」
「う、ううん。なんでもない……」
「さぁ。晴高のところに戻ろうぜ。あいつ、大丈夫かな。またぶっ倒れてなきゃいいけど」
そう元気が冗談めかして言うので、千夏はいま感じた不安をクスリと笑みに変える。
「うん。そうだね」
いま見たのは、きっと何かの見間違いだよ。そう思うことにした。
でも、駅へと戻る道すがら。駅に行くのに近いからと公園を抜けていたときのことだった。元気が突然足を止める。
どうしたのかと思って千夏も足を止めて振り返ると、彼は自分の両手を見つめて立ちすくんでいた。
「どうし……」
そこまで言いかけて、千夏も驚きで目を見開く。彼の両手がキラキラと輝きだしていた。
元気は千夏に視線を戻すと、申し訳なさそうに目じりを下げた。
「千夏……俺も、もうそろそろ逝かなくちゃいけないみたいだ」
そう語る元気の全身が光を帯びはじめていた。颯太や華奈子、それにいままで成仏を見届けた数々の霊たちと同じように、その身体がキラキラと光の粒子を放って輝き始める。
その輝きを千夏は驚きをもって見つめた。そして、それが意味することを理解する。こうなるともう、誰にも止められないこともわかっている。
元気にもとうとう、成仏する瞬間がやって来たのだ。
元気は成仏できるというのに、心底申し訳なさそうな顔をしていた。千夏は、胸に湧き上がるたくさんの思いを飲み混んで元気を見つめ返す。
「なんて顔してるのよ」
そう言って、無理やり笑う。目の端に涙は浮かんでしまったけれど、彼がようやくこの世での未練を果たして次へと進めるのだ。嬉しいことじゃないはずがない。そう自分に言い聞かせた。
「あっちに逝っても、元気でね」
そう空元気を振り絞って笑顔で言うと、抑えきれなかった涙が一粒、ホロリとこぼれおちた。元気も、くしゃっと辛そうに顔を歪めて千夏を見つめる。
「俺、また戻ってくる。千夏のそばに帰ってくるよ。それがどんな形かは、分からないけど」
その言葉に、千夏も小さく頷いた。
成仏すれば、彼は輪廻の輪の中に戻っていずれ生まれ変わるのだろう。今の彼とは違う誰かになってしまうのかもしれない。そうしたらもう、千夏には彼が彼とは分からなくなるに違いない。それでも、いずれ再び彼がこの世に戻ってきてくれると言うその言葉が、唯一の希望のように思えた。
言葉を返そうとするのにうまく言葉にならず、千夏はただ頷くしかできない。そんな千夏に、元気は柔らかな眼差しを向けてくれる。
「千夏、君に出会えて良かった。君との日々はほんとに、楽しくて……ずっと続けばいいのに、って思ってた」
「私も……同じ」
彼の顔をもっと見ていたかった。彼の笑顔をずっと見ていたかった。涙で滲んでしまいたくなくて、彼に心配をかけたくなくて。千夏は必死で涙をこらえたけれどこらえきれなくて。
堪らず千夏は元気に抱きついた。元気はしっかりと受け止めてくれる。
「……ごめんね。悲しませて」
千夏はぶんぶんと首を横に振った。
逝かないで、なんて言えない。
「私は、あなたの未練になんかなりたくないもの」
そう声を振り絞るように返す。精一杯の強がりだった。
千夏に回した元気の腕がぎゅっと強くなる。
「俺に、幸せをくれてありがとう。愛してるよ。千夏」
「うん。私も。愛してる、元気」
お互い、相手を離すまいとするかのように強く抱き合う。
唐突に、千夏の腕の中にあった元気の感触がふわりと消えた。
彼は光の粒となり、そして空気に溶け込むように見えなくなった。
あとに、カランと何かが落ちる。
指で拾い上げるとそれは、彼が左薬指につけていたシルバーのペアリングだった。
千夏はそれを手のひらで強く握りしめると胸にあてて、空を見上げた。
(逝ってらっしゃい)
また、いつか出会える日まで。
またいつか、二人の運命が重なるその日まで。
そして、千夏は自宅へと帰ってくる。
「ただいま」
そう独り言を言ってから靴を脱いで、リビングへ向かった。
がらんと静かなリビング。
こんなに広かったっけ。
そして、こんなに静かだったっけ。
もう、彼と出会う前がどうだったかなんて思い出せない。
ほんの今朝まで、「ただいま」と言えば「おかえり」と返してくれる声がそこにあった。ソファに座ってタブレットを眺める姿があった。
千夏はカバンを床に置くと、ふらつくようにリビングの隅にある衣装ケースの前にペタンと座った。そこには彼のために買った衣服が入っている。
引き出しを開けて、シャツを一枚手に取った。
まったく誰も袖を通したことのない新しい匂いのするシャツ。でもそれは、彼がよく着ていたシャツ。千夏はそれを、ぎゅっと抱きしめて顔を埋めた。
キッチンにはまだ彼が使っていた茶碗や箸が洗ったまま残っている。
洗面所には彼の歯ブラシもある。そして、トートバッグの中には彼が愛用していたタブレットが入っていた。彼の名前が刻印された、タブレット。これが届いたとき、彼は本当に嬉しそうにしていたっけ。
彼の痕跡が、家中のあちらこちらに残っていた。たしかに、元気という人間はこの場所にいて、一緒に暮らしていたのだ。
それなのに、彼はもうここにはいない。
もう、どこを探してもいない。
この世のどこにも、いない。
もうあの笑顔も、あたたかい声も、大きな手も、戻っては来ない。
抱きしめて顔を埋めたシャツから、嗚咽が漏れた。
一度堰を切って流れ出した涙は、なかなか止まらなかった。
たったひとりきりの寒い部屋で、泣き続ける。
その左親指には、彼が残していったペアリングが静かに輝いていた。
元気が成仏してから、数ヶ月が経った。
季節は巡って、再び春がやってくる。
千夏が八坂不動産管理に異動になってから一年。そこで高村元気と出会ってからも、一年が経とうとしていた。
元気の両親とは、彼の殺害事件の捜査に協力する際に面識ができていた。
晴高が、生前彼と友人関係にあり、彼から手紙を託されていたという筋書きにしてあったため、彼の両親から一度会って話したいという連絡がくる。
呼ばれたのは晴高一人だったが、彼は千夏にも「一緒にくるか?」と誘ってくれた。
千夏は公的には、元気とは何の関係性もないことになっている。
それどころか元気と面識があるはずがないのだ。千夏が八坂不動産管理水道橋支店に異動してきたのは彼の死後、三年も経ってからのことなのだから。
それでも千夏は晴高の誘いに乗った。元気が生きていた痕跡をこの目で見てみたかったから。
桜が満開を過ぎて、花びらが地面を薄桃色に変えていた土曜日。
千夏と晴高は、高村元気の実家を訪れた。彼の実家は、以前彼が言っていたように登戸から少し歩いたところにある住宅街にあった。
インターホンを押すなりすぐに出てきてくれた元気の母は、千夏と晴高の姿を見ると「遠いところをわざわざ、よくおいでくださいました」と、目じりを下げて二人の手を握った。
見てすぐに、その人が元気の母親だとわかる。穏やかな目じりが、元気にそっくりだった。その後ろから出てきた彼の父親も、彼とよく似た髪質をした背が高く優しそうな男性だった。
まず、千夏たちは奥の仏間に通される。そこには小ぶりだがセンスの良い仏壇が置かれていて、その前に写真立てに入れられた一枚の写真が飾られていた。
生前の高村元気の写真だ。
仏壇に手を合わせて、千夏はその写真にじっと目をやる。
(元気が、生きていたころの姿……)
考えてみると、あれだけ一緒にいたのに、彼の生きていたころの姿を見たのはこれが初めてだった。元気の母の話によると、遺影に使った写真なのだという。
写真の中で朗らかに笑う元気は、千夏の知っている彼だった。見ている人を安心させ、あたたかな気持ちにさせてくれる彼の笑顔。いまはもう、記憶の中にしかない懐かしい彼。
(元気、今頃どうしているんだろう)
死後の世界がどうなっているのかは知らないけれど、きっと彼ならうまくやっているのだろうと千夏は信じている。
そのあと小一時間、晴高と元気の両親が話すのを千夏は横で黙って聞いていた。自分は元気とは直接面識がないことになっているので、ボロが出ないように口をはさむことはしない。
晴高が話す元気の話は、どうやって知り合ったかという部分以外は本当の話のようだった。ただし、今から四年以上前の話ではなく、つい数か月前の彼の姿ではあるけれど。
晴高の話は千夏が知っているものもあったが、始めて聞く話もあって新鮮だった。
千夏は知らなかったが、元気と晴高は一緒に酒を飲みに行ったこともあったらしい。同い年の彼らは、なんだかんだでお互いに友人としてやっていたようだ。
晴高の話を聞きながら、元気の両親は生前の息子の姿を思い浮かべていたのだろう。母親は始終ハンカチを片手に目じりを拭いていたし、父親はずっとこちらにやさしい目を向けて何度も頷き返していた。
千夏にとっても、久しぶりに元気に会えた気がして嬉しいひとときだった。
始終和やかに訪問を終えて、高村家を後にする。電車で家へと向かう途中で、千夏はふと思い立って途中下車することにした。
「晴高さん。私、次の駅でちょっと寄り道していきます」
次に着く駅名表示を見て、晴高も千夏がどこへ行こうとしているのかわかったのだろう。
「わかった。じゃあ、また月曜に」
と、素っ気ない言葉が返ってくるだけで、彼は一緒に来るとは言わなかった。その気遣いが有難い。
千夏はぺこりと頭を下げると、電車を降りた。
そして駅前の花屋で花束を買うと、地図アプリを見ながら目的の場所へと向かった。
「あった……この交差点だ」
そこは駅から少し歩いたところにある交差点だった。
四年前の春、高村元気が交通事故にあった場所。この路上で、彼は亡くなったのだ。春のあたたかな風が吹くたびに、街路に植えられた桜の花びらが舞う。
千夏は交差点の横断歩道の脇にしゃがむと、持ってきた花束を置いて手を合わせた。しばらく拝んだ後、ゆっくりと立ち上がって横断歩道を眺める。
亡くなる直前、彼は当時付き合っていた彼女と会うために、胸ポケットに婚約指輪を忍ばせてこの道を渡っていた。
そのときの彼の姿が目に浮かぶようだった。
無意識に千夏は自分の指にはまった二つのリングを触る。左薬指にあるのはピンクゴールドのリング。左親指は元々元気が身につけていたシルバーのリングだ。二つはいまも、千夏の左手に輝いている。
桜吹雪が舞う、穏やかで静かな横断歩道。
信号が青になった。その横断歩道の先を千夏は見つめるが、動けない。通行人が次々と千夏の横を通り過ぎて渡っていく。それでも、千夏は歩き出すことはできず、ただその先を見つめていた。信号は赤に変わり、車道を何台も車が通り過ぎていく。そして、再び青になり、赤に変わり、何度繰り返しただろうか。
もう何度目かわからない青信号。
いつまでも渡らない千夏を不思議そうにしながら、人々が通り過ぎて行く。
それでも足が動かない。
そのとき。すぐ隣に人の気配を感じた。
背の高い人影。
ついで、柔らかな声を掛けられる。
「青だよ。渡らないの?」
聞き覚えのある声だった。忘れるはずもない、懐かしい声。
千夏は、ハッと顔を上げると隣を見た。
瞬間、驚きと喜びで涙が溢れだす。
「元、気……」
彼が立っていた。初めて会ったときと変わらないスーツ姿。ふわふわとした茶色みのある髪で、はにかんだ笑みを浮かべている彼。
「なんで……!」
千夏は驚きで叫びだしそうになるのをこらえながら、それだけをなんとか口にした。成仏したはずの彼がなぜここにいるのか。もしかして、これは自分が見ている幻覚なんじゃないかとすら疑った。彼を想いすぎるあまりに、彼を幻視するようになったんじゃないかと。
でも、目の前の彼は消えてしまうこともなく、頭を掻くと嬉しそうに目尻を下げて微笑んだ。
「やっと、戻ってこれた」
「で、でも……成仏したはずじゃ……」
「したよ。そんで、あっち側に行った。だからもう俺、浮遊霊じゃないんだ。昇格?っていうか。守護霊とかいうやつになったんだ。でも、生きてる人間には姿を見せちゃいけないって言われて。そのあたりの調整に手間取って遅くなっちゃった」
そう元気は申し訳なさそうに言うが、千夏は次から次へと湧き出てくる涙を振り払うように首を横に振った。
そして、笑顔になる。涙は止まらなかったけれど、悲しい涙じゃないから。
「元気。おかえり」
元気も、柔らかな春の木漏れ日のような笑顔で返す。
「ただいま。千夏」
たまらず、千夏は元気に抱きついた。存在を確かめるように強く強く抱きしめる。
たしかに、そこに元気がいた。彼のぬくもりがあった。
それは桜の舞う、よく晴れたうららかな春の日のことだった。
数日後、職場でのこと。
晴高は自販機横のベンチで、昼休憩の残り時間を缶コーヒーを飲んで過ごしていた。
隣には、成仏したはずなのにまた千夏とともにひょっこりと出勤してくるようになった元気が、同じコーヒーを手にして座っている。守護霊になったとか言ってたが、晴高の知る限りこんなに表に出てくる守護霊なんて聞いたことがない。相変わらず、存在自体がふざけた奴だ。
「なあ、お前。守護霊ってことはずっと千夏のそばにいるんだよな?」
晴高が缶コーヒーを飲みながら聞くと、元気は両手で缶を包み込むようにして持ちながら、うんと答えた。
「そうだけど」
「じゃあさ。もしどっちかが心変わりしたらどうすんだよ。男女の関係なら、今後どうなるかなんてわからないよな?」
生きてるもの同士なら別れてそれでお終《しま》いだ。浮遊霊と生きている人間という関係でさえも、別れることはできた。しかし、守護霊とその対象となるとそうはいかないだろう。
「もちろん、その可能性も考えたさ。でも例えそうなったとしても、俺がこれからも彼女を守り続けることには変りはないよ。千夏がもし、俺じゃない誰かを好きになってそいつと家庭を持ちたいと思うようになったら、そんときは俺もほかの守護霊たちと同じように視えなくなるだけさ」
そう言って、元気は笑った。守護霊という存在になるにあたって、こいつもこいつなりに覚悟を決めてきたんだなというのがその言葉から伺える。
「そうか」
もっとも、千夏のあの嬉しそうな様子を見る限り、そんな心配をする必要はなさそうだけどな。そんなことを思いながら、晴高は立ち上がって、自販機脇の缶入れに空き缶を捨てた。
デスクに戻ろうとしたら、後ろから元気の声が引き止める。
「お前だってさ」
晴高は振り返る。元気は缶を傾けてコクリと一口飲んだあと、やわらかく笑う。
「いるよ。お前の隣に、華奈子さん」
元気の指摘に、晴高はハッとする。しかし、すぐにその顔にふわりと小さな笑みがこぼれた。
「そうか」
元気も、目を細める。
「亡くなった後もさ、俺たちみたいに大切な人のそばにいることを願う霊もいるんだよ。そうして、まだ生きてる人のことを見守ってるんだ。だって、生きている人が死んだ人を想うのと同じように、俺らだって生きてる人のことをいつまでも想い続けてるんだよ」
死は人をへだててしまう。
でも人の心は、なくならない。
誰かを想う気持ちは、いつまでもなくならない。
そう言って、元気は穏やかに笑うのだった。
(完)