それはそうだろう。
大事な後継者なのだから。
私は夜叉の後継者を産むための借り腹である。
その証拠に妊娠が発覚して以来、課長は大変な過保護っぷりだ。
ぴたりと私に付き従い、転ばないよう背を支えて最善の注意を払っている。送迎は常に課長の自家用車。マンションでの家事はすべて課長が担当。さらに仕事中は、鬼のような冷徹な視線がこちらを監視している。おかげで女子社員たちから何かを言われることはないが、その代わりにいたたまれなさが倍増である。
次第に遠慮がなくなってきた私は、課長に訊ねた。
「夜叉の後継者のためとはいえ、課長がこんなに甲斐甲斐しいタイプだとは思いませんでした」
「そうかな。このくらいは当然だろう」
「でも……この子は夜叉と人間のハーフということになりますよね? 半分は私の血が入っているんじゃないですか?」
「そういうことになるね」
「それって……鬼神の仲間として認められるんですか?」
「もちろん。俺の血を引いているわけだからね。ただ、どの程度の能力を持つかは本人次第だ。母体に影響を及ぼしているところをみるとそれなりの神気はありそうだが、産まれてみないことには判断できない」
「さほどの能力じゃなかったら、夜叉の後継者にはなれないということですか?」
「それは多聞天が判断する。いずれ挨拶に行こう」
「……わかりました」
なんだか面接試験のようだ。
多聞天は四天王と謳われる神様だから、きっと厳しいんだろうな。何しろ課長の上司だもんね。
もし、この子が鬼神としての能力が低いとみなされたなら、私のもとで育てよう。
お父さんは鬼神なんだよ、ということは隠しておいたほうがいいのかな……。
早々と数年後のことを案じる私に、課長は運転しながら告げる。
「星野さんの両親にも挨拶に行かないとね」
その言葉にぎくりとして、私は背筋を凍らせる。
「けっこうです。実家は田舎なので遠方だし、出産後に別れるなんて言ったら、うちの両親は卒倒しますから」
「そうか。今は体調を最優先にしないといけないからね。とりあえずは無事に出産してからかな」
なぜか課長はうきうきとしていて、嬉しそうだ。
その様子だけを見れば、結婚と妻の妊娠という人生の一大イベントを迎えて喜ぶ旦那さんそのものである。
でも課長が浮かれる真の理由を、私は薄々察した。
鬼神の一族は長らく後継者に恵まれなかったのかもしれない。
それが一夜で妊娠したのだから、彼は早々に鬼神としての義務を果たせたのだ。
子を孕ませるにしても、鬼神を産める素質が必要ということなのだろう。私は体力だけは自信がある。それに正体を知られても、それを漏らさない口の堅さが重要だ。それらの条件に見合った女が、私だったわけだ。
のどかな土曜日の昼下がり、うららかな春の陽射しを受けながら散る桜を、ぼんやりと車窓から眺めた。
「課長……今さらですけど、どうして同じ立場の神様と子どもを作らなかったんですか?」
「なぜ、そんなことを?」
「だって、そうでしょう。人間の私より、鬼神と子作りしたほうが絶対に能力の高い後継者が得られるじゃないですか」
私は、ただの人間だ。鬼神なら鬼神との子を作ったほうが何の憂慮もないはず。
そう考えて気づいた。
私は、私が選ばれた特別な理由が欲しいのだということに。
だって、条件が合えば誰でもよかったなんて、言われたくない。今の状況は、鬼神に騙されて孕まされた愚かな女だ。この先の出産を考えると、課長を責めたくはないけれど、文句のひとつも言いたくなる。
自分の質問に落ち込み始めた私に、課長はあっさり言い放った。
「それは、きみのことが好きだったから」
「はあ⁉」
唖然とした私は目を見開く。
そんなわけない。冗談もほどほどにしてほしい。
「無理もないが、星野さんは俺のことを全く信用していないよね。俺に騙されて孕まされたと思っている」
「そのとおりです」
「……おいおい。まあ、否定はしない」
「認めてるじゃないですか」
ふう、と嘆息した課長は、きらりと眼鏡を光らせる。
「俺たちはもっとお互いをよく知る必要がある。そうだろう?」
「課長のことはもうこれ以上知りたくありません。正体が鬼神という秘密も、知らないほうが幸せだったなと思っています」
「それね。『課長』って呼び方をやめてもらえるかな。かりそめとはいえ夫婦なんだから、旦那を役職で呼ぶのはおかしいだろう」
「じゃあ、鬼山さん」
鬼神だしね。
ぶっきらぼうに言う私に、即座に課長は受けたボールを投げ返す。
「きみも鬼山さんだよ。籍はまだ入れてないけど」
「入れなくていいです。戸籍を汚す必要ありませんから。会社では今までどおりじゃないですか」
「ややこしくなるから、名前で呼ぼう。俺の名前、知ってるかい?」
「忘れました。なんか、鬼に関係あったような……」
「柊夜ね。夜叉だけに」
「先手打ちましたね。笑えないです」
「さあ、呼んでみて。あかり」
先に名前で呼ばれてしまった。
うっ……と声を詰まらせた私は、悠々とハンドルを握る課長を横目で見やる。
「……柊夜さん」
「いいね。俺という夜を照らしてくれるあかりは、きみだけだ」
ポエムかな……。
げんなりした私は溜息を吐いた。
課長……もとい柊夜さんは意外とロマンチストらしい。
そんなことを話していると、車は私の住んでいたアパートへ到着した。
車を降りると、早速柊夜さんは私に手を貸してアパートの階段を上る。
「柊夜さん、過保護じゃないですか? 手すりがあるから転んだりしないですよ」
「心配でたまらないんだ。きみは黙って保護されていたまえ」
大事な後継者がお腹にいますからね。
小さく嘆息を零した私は言われるがまま、冷たくて大きな掌に自らの手を預けた。
そのとき、階上から「ニャア」という声が届く。
「あっ……あの鳴き声は……」
きっと、あの子だ。
アパートの階段を上りきると、部屋の扉の前に、小さな黒猫がお座りをしてこちらを見ていた。以前部屋を訪れたときにフードを置いていったけれど、元気でいてくれたのだ。
「柊夜さん、お願いです。この子を連れていっていいですか? 野良猫らしくて、私に懐いてくれてるんです」
その言葉に、すっと立ち上がった黒猫は、腰に手を当てて首を傾げた。まるで人間のするポーズのように。
「野良猫はひどいにゃ、花嫁さま。おいらは夜叉さまのしもべの、ヤシャネコだにゃん」
……なに、その、シャム猫をひっくり返したような名称……。
突然喋りだした黒猫に、私は唖然として口を開けた。
『うん』や『ごはん』なんてレベルではない。この子は流暢に言葉を話せて、しかも私たちの事情も知っているのだ。
大事な後継者なのだから。
私は夜叉の後継者を産むための借り腹である。
その証拠に妊娠が発覚して以来、課長は大変な過保護っぷりだ。
ぴたりと私に付き従い、転ばないよう背を支えて最善の注意を払っている。送迎は常に課長の自家用車。マンションでの家事はすべて課長が担当。さらに仕事中は、鬼のような冷徹な視線がこちらを監視している。おかげで女子社員たちから何かを言われることはないが、その代わりにいたたまれなさが倍増である。
次第に遠慮がなくなってきた私は、課長に訊ねた。
「夜叉の後継者のためとはいえ、課長がこんなに甲斐甲斐しいタイプだとは思いませんでした」
「そうかな。このくらいは当然だろう」
「でも……この子は夜叉と人間のハーフということになりますよね? 半分は私の血が入っているんじゃないですか?」
「そういうことになるね」
「それって……鬼神の仲間として認められるんですか?」
「もちろん。俺の血を引いているわけだからね。ただ、どの程度の能力を持つかは本人次第だ。母体に影響を及ぼしているところをみるとそれなりの神気はありそうだが、産まれてみないことには判断できない」
「さほどの能力じゃなかったら、夜叉の後継者にはなれないということですか?」
「それは多聞天が判断する。いずれ挨拶に行こう」
「……わかりました」
なんだか面接試験のようだ。
多聞天は四天王と謳われる神様だから、きっと厳しいんだろうな。何しろ課長の上司だもんね。
もし、この子が鬼神としての能力が低いとみなされたなら、私のもとで育てよう。
お父さんは鬼神なんだよ、ということは隠しておいたほうがいいのかな……。
早々と数年後のことを案じる私に、課長は運転しながら告げる。
「星野さんの両親にも挨拶に行かないとね」
その言葉にぎくりとして、私は背筋を凍らせる。
「けっこうです。実家は田舎なので遠方だし、出産後に別れるなんて言ったら、うちの両親は卒倒しますから」
「そうか。今は体調を最優先にしないといけないからね。とりあえずは無事に出産してからかな」
なぜか課長はうきうきとしていて、嬉しそうだ。
その様子だけを見れば、結婚と妻の妊娠という人生の一大イベントを迎えて喜ぶ旦那さんそのものである。
でも課長が浮かれる真の理由を、私は薄々察した。
鬼神の一族は長らく後継者に恵まれなかったのかもしれない。
それが一夜で妊娠したのだから、彼は早々に鬼神としての義務を果たせたのだ。
子を孕ませるにしても、鬼神を産める素質が必要ということなのだろう。私は体力だけは自信がある。それに正体を知られても、それを漏らさない口の堅さが重要だ。それらの条件に見合った女が、私だったわけだ。
のどかな土曜日の昼下がり、うららかな春の陽射しを受けながら散る桜を、ぼんやりと車窓から眺めた。
「課長……今さらですけど、どうして同じ立場の神様と子どもを作らなかったんですか?」
「なぜ、そんなことを?」
「だって、そうでしょう。人間の私より、鬼神と子作りしたほうが絶対に能力の高い後継者が得られるじゃないですか」
私は、ただの人間だ。鬼神なら鬼神との子を作ったほうが何の憂慮もないはず。
そう考えて気づいた。
私は、私が選ばれた特別な理由が欲しいのだということに。
だって、条件が合えば誰でもよかったなんて、言われたくない。今の状況は、鬼神に騙されて孕まされた愚かな女だ。この先の出産を考えると、課長を責めたくはないけれど、文句のひとつも言いたくなる。
自分の質問に落ち込み始めた私に、課長はあっさり言い放った。
「それは、きみのことが好きだったから」
「はあ⁉」
唖然とした私は目を見開く。
そんなわけない。冗談もほどほどにしてほしい。
「無理もないが、星野さんは俺のことを全く信用していないよね。俺に騙されて孕まされたと思っている」
「そのとおりです」
「……おいおい。まあ、否定はしない」
「認めてるじゃないですか」
ふう、と嘆息した課長は、きらりと眼鏡を光らせる。
「俺たちはもっとお互いをよく知る必要がある。そうだろう?」
「課長のことはもうこれ以上知りたくありません。正体が鬼神という秘密も、知らないほうが幸せだったなと思っています」
「それね。『課長』って呼び方をやめてもらえるかな。かりそめとはいえ夫婦なんだから、旦那を役職で呼ぶのはおかしいだろう」
「じゃあ、鬼山さん」
鬼神だしね。
ぶっきらぼうに言う私に、即座に課長は受けたボールを投げ返す。
「きみも鬼山さんだよ。籍はまだ入れてないけど」
「入れなくていいです。戸籍を汚す必要ありませんから。会社では今までどおりじゃないですか」
「ややこしくなるから、名前で呼ぼう。俺の名前、知ってるかい?」
「忘れました。なんか、鬼に関係あったような……」
「柊夜ね。夜叉だけに」
「先手打ちましたね。笑えないです」
「さあ、呼んでみて。あかり」
先に名前で呼ばれてしまった。
うっ……と声を詰まらせた私は、悠々とハンドルを握る課長を横目で見やる。
「……柊夜さん」
「いいね。俺という夜を照らしてくれるあかりは、きみだけだ」
ポエムかな……。
げんなりした私は溜息を吐いた。
課長……もとい柊夜さんは意外とロマンチストらしい。
そんなことを話していると、車は私の住んでいたアパートへ到着した。
車を降りると、早速柊夜さんは私に手を貸してアパートの階段を上る。
「柊夜さん、過保護じゃないですか? 手すりがあるから転んだりしないですよ」
「心配でたまらないんだ。きみは黙って保護されていたまえ」
大事な後継者がお腹にいますからね。
小さく嘆息を零した私は言われるがまま、冷たくて大きな掌に自らの手を預けた。
そのとき、階上から「ニャア」という声が届く。
「あっ……あの鳴き声は……」
きっと、あの子だ。
アパートの階段を上りきると、部屋の扉の前に、小さな黒猫がお座りをしてこちらを見ていた。以前部屋を訪れたときにフードを置いていったけれど、元気でいてくれたのだ。
「柊夜さん、お願いです。この子を連れていっていいですか? 野良猫らしくて、私に懐いてくれてるんです」
その言葉に、すっと立ち上がった黒猫は、腰に手を当てて首を傾げた。まるで人間のするポーズのように。
「野良猫はひどいにゃ、花嫁さま。おいらは夜叉さまのしもべの、ヤシャネコだにゃん」
……なに、その、シャム猫をひっくり返したような名称……。
突然喋りだした黒猫に、私は唖然として口を開けた。
『うん』や『ごはん』なんてレベルではない。この子は流暢に言葉を話せて、しかも私たちの事情も知っているのだ。