こころは二杯目のメロンソーダを飲み干した。
「二人とも、自分だけで解決しようと思ってるでしょ。ダメダメ! そんなの、ただつらいだけだよ。そんなわけで、このあたしになんでも言ってみなさい」
ほらほら、と両手で誘う仕草をする。これを見て、優也はあからさまに嫌そうな顔をした。
「まぁ、無理して話すことはないし」
助け舟を出そうと涼香が口を挟むと、優也の眉が緩む。しかし、こころはしつこかった。
「言っとくけど、涼香だってそうなんだからね。ホウ・レン・ソウは社会の基本だよー」
「いやぁ……」
思い当たる節があり、すぐに目をそらした。
しかし、面と向かっての改まった相談は気恥ずかしい。自分の弱い部分を見せるのは、いまだにかっこ悪いものだと思っていた。キャラじゃない。でも、素直に相談することで解決することがあると思う。優也の悩みを聞いて、なんとかしたいと強く思った。
それは、こころも同じなんだろう。優也を誘惑するように指先を細かく動かしてふざけているが、心配していると思う。
「んもう、強情なんだから」
なびかない優也に根負けしたこころがソファにもたれかかる。そして、思い立ったようにメニュー表を手に取った。
「お腹空かない? あたし、お昼からなんにも食べてないよー……あ、目玉焼きハンバーグおいしそう!」
「がっつりいくな」
優也が苦笑いでつっこんだ。そんなこころにつられるように、彼もメニューを取る。
「んじゃ、俺はボロネーゼにする。あと、窯焼きピザも」
「がっつりいくな」
そう言いつつ、涼香もこころからメニューを渡されて悩む。
授業の合間にお菓子を食べていないようで、確かに空きっ腹だった。しかし、夕飯前だ。
「あ。私、冷麺がいい」
「そこはがっつりいこうよ!」
こころが不満げに天井を仰いだ。
「冷麺って、この時期あるの?」
優也が聞く。それに応えるように、涼香はメニューを掲げた。
「ほら、本格冷麺。麺がこんにゃくみたいなの。さっぱりしてておいしい。期間限定の塩レモン味」
銀色のボウル皿に盛られた冷麺を指すと、優也は困ったように笑った。
「季節外れだろ。お前の食生活、本当によくわかんねぇ」
「それについてはあたしも激しく同意だわ」
「ちょっと、二人ともひどい! まるで私が味音痴みたいじゃん!」
抗議すると、優也が呼び出しボタンを押した。「ピンポーン」とホール内に流れ、涼香はメニューで優也の頭を叩いた。
***
宣言通り三人はそれぞれ注文し、運ばれたものを前に目を輝かせた。こころは目玉焼きハンバーグを。優也はボロネーゼとピザを。涼香は冷麺を。
「でさ、話の続きなんだけど」
半熟の目玉焼きを割りながらこころが言う。鉄板の上にジュワッと鮮やかな黄身がとろけていく。そのままハンバーグステーキにナイフを入れると、泡立つ肉汁があふれ出した。ぱくんと口に入れ、彼女は至極満悦な表情で唸る。
「話って?」
ボロネーゼに粉チーズをふんだんにかけながら優也が聞く。涼香は黙々と割り箸で麺をほぐしていた。
「とぼけないでよねー。寺坂くんのお悩み相談に決まってるじゃない。あたしの見立ててでは、杉野くんと喧嘩して、それを涼香が心配してるってとこじゃない? 違う?」
「まぁ、そうなんだけど」
優也はフォークでボロネーゼをつついた。ミートソースと一緒に食べる。芳醇なひき肉とトマトの酸味を味わってしまうと、彼の口は滑りやすい。
「でも、いまさらじゃね? それに、俺のことはどうでもいいよ。お前らが気にすることじゃないし」
「あれー? 私には言うなって言っといて」
キムチを口に放り込みながら涼香はふてくされた。バツが悪くなる優也は、ピザにタバスコを豪快にかけ、薄い生地をつまんだ。
「でも、これは俺の問題だ。自信がないから、あいつのことを羨んでるだけ。それをお前らが解消してくれるわけじゃないだろ? 相談したところで解決しないだろうし」
「解決策を求めようとするからダメなのよ!」
こころがモゴモゴと言った。ハンバーグを「あむっ」と頬張り、さらに話を続けるが、何を言っているのかわからない。ゆっくり咀嚼し、ジュースを飲んで一息つく。
「そりゃ、解決するのは寺坂くん自身だよ。あたしたちの力なんてミジンコ程度しかないもん。でもね、一人で抱え込んであとあと後悔するほうがはるかに愚かなのよ」
「愚か……」
「そう! あのとき謝っておけばよかった、あのとき素直に自分の気持ちをぶつけたらよかった、あのときだれかに相談したら違う結果になってたかも、なんて言ってるうちにおじいちゃんになってしまうんだから!」
「急に時間が飛ぶなぁ」
突拍子もないこころの言葉には笑うしかない。優也も笑ってはいるが、なにやら思うところがあるようで、うつむき加減にピザを頬張った。黙ってしまうと、こころの調子がどんどん前のめりになる。
「いいじゃん、かっこ悪くてもさ。こうなったらとことん、ダサくいようよ。もう十分、かっこ悪いんだから」
「言い方がひどい」
さすがに優也がかわいそうだ。非難の目をこころに向けるも、彼女は毅然とハンバーグを食べながら続ける。
「でもさ、寺坂くんが思う『かっこいい』か『悪い』かは、自分の物差しに過ぎないでしょ。周りから見れば全然大したことはないんだよ。自分の気持ちを押し込めてまで体裁を守らなくていい。自分の痛みに鈍くなっていくと、他人の痛みにも気づかなくなっちゃう。そんな風になってほしくないよ」
そう言い放ち、ハンバーグをしっかりもぐもぐ食べる。しかし、彼女の言いたいことはまっすぐ届いた。漠然と奥深いものを感じる。
「うーん……そうだな」
優也もほだされている。
「でも、いまさら明とぶつかって、それこそ大きな溝ができたらどうしたらいいんだよ。卒業間際に大喧嘩とかしたくないんだけど」
「大喧嘩する前提なのがよくない」
思わず涼香が口を挟んだ。
「そうそう。まずは落ち着いて話し合おうっていう気持ちがないわけ? どうしてそんなに血の気が多いの」
こころも噛み付く。二人に責められ、優也は痛そうに顔をしかめた。
「大丈夫! もし、これで杉野くんが茶化してきたら、あたしが杉野くんをコテンパンにやっつけるから。ね、涼香」
急に同意を求められ、涼香は思わず頷いた。しかし、明をコテンパンにするつもりは毛頭ない。
逃げるようにスープすすると、こころが続けた。
「向こうがどう思ってるかは、いまの段階じゃわからないしね。それでも、あたしは無責任に言うよ。自分の気持ちと将来を間違えないで」
そこまで言われてしまえば、優也はともかく涼香も黙りこむしかなかった。こころの鋭さには恐れ入る。口はソースだらけなので、いまいち威厳はないのだが。
やがて、優也が長いため息を吐いた。
「はー……わかったよ。わかった、わかりました。明にきちんと話すよ。それでいいんだろ?」
釈然としないが、こころのおかげで優也のモヤモヤは解消されそうだ。
しかし、まだ気がかりなものがある。ここで暴露してもいいものか、涼香は麺をすすりながら悩んだ。
***
結局、優也の進路については言い出せず、注文した料理はからっぽになった。
涼香に至っては、塩味のスープまで全部飲み干している。さっぱりしていてくどくないので、口の中は爽やかだった。味のことはよくわからないが、ほのかにレモンの風味がきいていたと思う。
腹がふくれると勉強は後回しになってしまい、結局こころは問題集の一問も解かずにいた。
全員が会計し、外に出たときには空は焦げた茜色だった。
「ほんとに送ってかなくていいの?」
ファミレスを出るなり、優也が名残惜しそうに言う。しかし、彼の家は涼香やこころが住む商店街方面ではなく、逆方向の住宅街だ。
「いいよいいよ。どうせ、いまからこころの家に行くし」
「そう。んじゃ、気をつけて帰れよ」
優也は潔く引いてしまい、背を向けて群青の中へと姿を消した。遠ざかる彼の後ろ姿を見送り、こころの手をつかむ。
「ちょっと、話したいことがあるんだけど」
「お、奇遇だね。あたしも話したいことがあったの」
目をしばたたかせるも、こころはにこやかに言い、涼香の手を握り返した。
くぼ商店街への道は、傾いた陽の光が強く射し込む眩い筋だった。古着屋やスーパー、コンビニ、喫茶店を通り過ぎ、ミギワ堂古書店にたどり着く。今日もおんぼろの屋根から陽が漏れていた。
「おかえり、こころ」
「ただいま、おじいちゃん!」
こころが明るく応えるとと、レジ台に座っていた祖父が笑う。白い猫を抱いて立ち上がった。
「いまからお店、閉めるねー」
「まかせたよ」
そんなやり取りを棚からのぞき見ておく。こころの祖父がこちらにも屈託なく笑うので、涼香は愛想笑いを返した。
祖父が店の奥にある居間へ入るのを見届け、こころはレジ台にカバンを置いた。店先へ移動し、古本の棚を引っ張る。涼香も手伝い、店じまいを進めていく。
「いやあ、寺坂くんって豪快に見えて繊細なんだね」
こころが笑いながら言うので、涼香もつられて笑った。
「まあね。誰かさんに脅されないと告白もできない男だし」
「あいたた。それについてはもう時効でしょ」
二年前の告白大作戦は、こころにとっても痛い過去のようだ。しばらく笑い合いながら、二人は店の片づけをした。
「寺坂くんって真面目で優しいのに、自分のことはおざなりだよね。ほんと、危なっかしいよ」
「うん。そんなやつだからさ、私としてはこのままつき合っていくのがちょっと不安になっちゃって。だから、こころに相談しようと思ったの」
「不安かぁ。それはわかるかも」
店の中に引っ張った棚に古い遮光カーテンを敷いて、こころはあっけらかんと言った。
「このままだと、寺坂くんがひとりになっちゃうよね。はぁ、困ったもんだね」
「そうなんだよ。このままだと、優也がダメになりそうで。そんなあいつを私が支えられるかって思ったら……」
こころみたいにきっぱり言えたら、どんなにいいだろう。説得もままならないのに、ただ単純に優也と明が仲直りすることだけを押しつけてしまう。それが果たして、優也のためか自分自身のためなのか、わからなくなる。
「涼香」
こころが声音を落とす。
「涼香は、寺坂くんと付き合ってて、楽しい?」
「えっ?」
思わぬ問いに、涼香は頬を引きつらせた。
「いまの涼香は苦しそうだよ。楽しいのにつらい、みたいな。寺坂くんと同じくらいグラグラしてる」
その言葉を受けて、涼香は迷った。
つらいのはその通りだが、優也との日々は願っていたことそのものだから苦じゃない。そのはず。楽しいに決まっている。過去や、他人の気持ちを犠牲にしてまで手に入れたかった現実なのだから。
「楽しいよ。優也と一緒にいられるのが、私にとって一番の願いだから」
思いをそのまま告げると、こころは口をすぼめた。だんだん納得したように何度も頷く。
「そっか。それなら心配いらないね」
彼女の声はさっぱりとしていた。
「まあ、寺坂くんを裏切って杉野くんとハッピーエンドを迎えるなんていうオチも、どんでん返しって感じでスリリングなんだけど」
「なにそれ。そんなめんどくさいことしたくないんですけどー」
青春にスリルを求めたくはない。悲しいラストシーンは苦手だ。それに、優也を裏切ってまで自分の幸せを優先したくはない。さらに言えば、明とつき合う気はまったくない。
一度にいろんなツッコミが思い浮かんだが、言葉が大渋滞を起こしたせいで喉が詰まった。
「だってね、寺坂くんが不安に思う気持ちもわかるのよ。言ってること、わかる?」
「わかんない」
「無自覚なのー? こりゃ、寺坂くんがかわいそうだわー」
こころは首を振って項垂れた。
「寺坂くんが一途すぎるっていうのもあるね。涼香が杉野くんと仲良くするだけで、嫉妬の炎がメラメラしてるの」
「はぁ……あー、なるほど。うーん」
ついさっきも優也に言われたことだ。こころにまで見抜かれてしまい、涼香は気まずく唾を飲んだ。
まったく、恋愛というのは煩わしい。ようやく自覚するものの、悪気がないので不満が募る。
そもそも明に対する認識は、良き友達というポジションだ。彼氏の親友であり、ときに相談相手として頼る。現に優也への誕生日プレゼントのアドバイザーとして一役買っている。都合がいいと言われても仕方ないが、結局はそのぬるさが心地いい。
「しっかし、涼香も彼氏の前ではかわいい子猫ちゃんになっちゃうのねー。いやぁ、感慨深いよ」
悩んでいると、空気をぶち壊された。それが彼女の照れ隠しだというのはわかっている。しかし、冷やかされてはたちまち恥ずかしさがこみ上げるもので、涼香はすぐさま声を上げた。
「やめてよ、その言い方」
「だってそうでしょー? 乙女じゃん! かわいいー!」
「やめてってば! それ、私に一番似合わないワードだし。寒気がする」
「似合わないことないでしょ。涼香って、どうしてそんなに『かわいい』が苦手なの?」
その問いは素朴なものだった。対し、涼香は「へ?」と面食らってしまう。目を開いて、視線を上にずらして考える。
「えーっと。なんでだっけ?」
「いやいや、聞いてるのこっちなんですけどー! なんか、そういうきっかけがあるんじゃないの?」
考えれば考えるほど謎が深まった。
どうして「かわいい」を遠ざけていたんだろう。身につけているものはシンプルなデザインのものだが、影ではうさぎ型のコインケースや甘いものを集めていたりする。それを他人にひけらかすことはしたくない。もちろん、優也にも。凛としたポニーテールのヘアスタイルも小学校二年生くらいから始めた。そのきっかけがどこかにあったはず。
はて。それがなんだったか、すぐには思い出せない。
「ちょっとちょっとー、自分のことじゃん。無頓着だなー」
こころの嘆きももっともだ。自分でも情けなく思う。しかし、どうにも自分のこととなると思考が止まってしまった。
「ま、いまは多様性の時代だし? 自分のスタイルを貫くのはかっこいいと思うよ。女らしく、かわいく、愛嬌命なんて考えも古いわけで」
「いやぁ、そんな大層な思想は持ってないよ。ただ、似合わないからって決めつけてるだけ、みたいな?」
なんとなく自分の心を見つめてみる。出した答えもあやふやで、こころが言うような芯の強さも持ち合わせていなかった。
「それに、こころが私の親友だから思うことであって、贔屓してるだけじゃない? かわいくないって、優也にもたまに言われるんだよ?」
女子の言う「かわいい」ほど信用できないものはない。これで言い返せまい。鼻で笑って高をくくっていると、こころはあっけらかんと言った。
「そりゃ、ふてぶてしくブスッとしてたら、かわいくないもん。涼香だって、あたしが『てめー、なんだこのやろー』って言い出したら、怖いって思うでしょ」
口調はさほど怖いものではなかったが、確かにいつもマイペースで無邪気なプードル女子が不良の口調で話し始めたら近寄りがたいと思う。
なんだかすんなり納得してしまった。目からウロコが落ちた気分だ。しかし、譲れないものもある。
「でも、いまさら自分を曲げるのは難しいよ」
からかわれたら突っぱねるし、やっぱりかわいいものをひけらかすのは抵抗がある。愛情や好意も隠したい。それなりに十八年間積み上げてきたものを崩してしまうのは、それこそもったいなく思えてしまう。
強情に食い下がっていると、こころはやけに大人びた微笑を向けた。
「ちょっとずつでいいじゃない。一年生のころに比べたら、涼香は結構丸くなったほうだよ。だから、寺坂くんも手放したくないって思うのよ」
「うわぁ……ぐうの音も出ない……降参する」
これ以上持ち上げられると、むず痒さで叫びたくなる。親友のあたたかい言葉は、それまでの固定概念を破壊するほどの威力があった。本当に油断ならない。
「あ、ねぇ、こころ」
恥ずかしいので、話をすり替えることにした。レジ台の中をのぞきこむ。あの小難しそうな本が見当たらない。
「今日はあの本、読まないの?」
「え? どの本?」
「ほら、さかさま? さかまき? ってタイトルの」
そこまで言うと、こころはすぐにひらめいた。
「『逆巻きの時空間』ね。あるよー」
レジの引き出しから本を出してくる。宇宙色のワームホールが描かれた黒い表紙。それをひったくると、こころの両目が丸く開いて驚いた。
「これ、貸して」
「え? うーん、いいけど……どうしたの?」
問いの答えがすぐには見つからない。しばらく考えるも、思考は楽をしようと諦める。
「秘密」
「二人とも、自分だけで解決しようと思ってるでしょ。ダメダメ! そんなの、ただつらいだけだよ。そんなわけで、このあたしになんでも言ってみなさい」
ほらほら、と両手で誘う仕草をする。これを見て、優也はあからさまに嫌そうな顔をした。
「まぁ、無理して話すことはないし」
助け舟を出そうと涼香が口を挟むと、優也の眉が緩む。しかし、こころはしつこかった。
「言っとくけど、涼香だってそうなんだからね。ホウ・レン・ソウは社会の基本だよー」
「いやぁ……」
思い当たる節があり、すぐに目をそらした。
しかし、面と向かっての改まった相談は気恥ずかしい。自分の弱い部分を見せるのは、いまだにかっこ悪いものだと思っていた。キャラじゃない。でも、素直に相談することで解決することがあると思う。優也の悩みを聞いて、なんとかしたいと強く思った。
それは、こころも同じなんだろう。優也を誘惑するように指先を細かく動かしてふざけているが、心配していると思う。
「んもう、強情なんだから」
なびかない優也に根負けしたこころがソファにもたれかかる。そして、思い立ったようにメニュー表を手に取った。
「お腹空かない? あたし、お昼からなんにも食べてないよー……あ、目玉焼きハンバーグおいしそう!」
「がっつりいくな」
優也が苦笑いでつっこんだ。そんなこころにつられるように、彼もメニューを取る。
「んじゃ、俺はボロネーゼにする。あと、窯焼きピザも」
「がっつりいくな」
そう言いつつ、涼香もこころからメニューを渡されて悩む。
授業の合間にお菓子を食べていないようで、確かに空きっ腹だった。しかし、夕飯前だ。
「あ。私、冷麺がいい」
「そこはがっつりいこうよ!」
こころが不満げに天井を仰いだ。
「冷麺って、この時期あるの?」
優也が聞く。それに応えるように、涼香はメニューを掲げた。
「ほら、本格冷麺。麺がこんにゃくみたいなの。さっぱりしてておいしい。期間限定の塩レモン味」
銀色のボウル皿に盛られた冷麺を指すと、優也は困ったように笑った。
「季節外れだろ。お前の食生活、本当によくわかんねぇ」
「それについてはあたしも激しく同意だわ」
「ちょっと、二人ともひどい! まるで私が味音痴みたいじゃん!」
抗議すると、優也が呼び出しボタンを押した。「ピンポーン」とホール内に流れ、涼香はメニューで優也の頭を叩いた。
***
宣言通り三人はそれぞれ注文し、運ばれたものを前に目を輝かせた。こころは目玉焼きハンバーグを。優也はボロネーゼとピザを。涼香は冷麺を。
「でさ、話の続きなんだけど」
半熟の目玉焼きを割りながらこころが言う。鉄板の上にジュワッと鮮やかな黄身がとろけていく。そのままハンバーグステーキにナイフを入れると、泡立つ肉汁があふれ出した。ぱくんと口に入れ、彼女は至極満悦な表情で唸る。
「話って?」
ボロネーゼに粉チーズをふんだんにかけながら優也が聞く。涼香は黙々と割り箸で麺をほぐしていた。
「とぼけないでよねー。寺坂くんのお悩み相談に決まってるじゃない。あたしの見立ててでは、杉野くんと喧嘩して、それを涼香が心配してるってとこじゃない? 違う?」
「まぁ、そうなんだけど」
優也はフォークでボロネーゼをつついた。ミートソースと一緒に食べる。芳醇なひき肉とトマトの酸味を味わってしまうと、彼の口は滑りやすい。
「でも、いまさらじゃね? それに、俺のことはどうでもいいよ。お前らが気にすることじゃないし」
「あれー? 私には言うなって言っといて」
キムチを口に放り込みながら涼香はふてくされた。バツが悪くなる優也は、ピザにタバスコを豪快にかけ、薄い生地をつまんだ。
「でも、これは俺の問題だ。自信がないから、あいつのことを羨んでるだけ。それをお前らが解消してくれるわけじゃないだろ? 相談したところで解決しないだろうし」
「解決策を求めようとするからダメなのよ!」
こころがモゴモゴと言った。ハンバーグを「あむっ」と頬張り、さらに話を続けるが、何を言っているのかわからない。ゆっくり咀嚼し、ジュースを飲んで一息つく。
「そりゃ、解決するのは寺坂くん自身だよ。あたしたちの力なんてミジンコ程度しかないもん。でもね、一人で抱え込んであとあと後悔するほうがはるかに愚かなのよ」
「愚か……」
「そう! あのとき謝っておけばよかった、あのとき素直に自分の気持ちをぶつけたらよかった、あのときだれかに相談したら違う結果になってたかも、なんて言ってるうちにおじいちゃんになってしまうんだから!」
「急に時間が飛ぶなぁ」
突拍子もないこころの言葉には笑うしかない。優也も笑ってはいるが、なにやら思うところがあるようで、うつむき加減にピザを頬張った。黙ってしまうと、こころの調子がどんどん前のめりになる。
「いいじゃん、かっこ悪くてもさ。こうなったらとことん、ダサくいようよ。もう十分、かっこ悪いんだから」
「言い方がひどい」
さすがに優也がかわいそうだ。非難の目をこころに向けるも、彼女は毅然とハンバーグを食べながら続ける。
「でもさ、寺坂くんが思う『かっこいい』か『悪い』かは、自分の物差しに過ぎないでしょ。周りから見れば全然大したことはないんだよ。自分の気持ちを押し込めてまで体裁を守らなくていい。自分の痛みに鈍くなっていくと、他人の痛みにも気づかなくなっちゃう。そんな風になってほしくないよ」
そう言い放ち、ハンバーグをしっかりもぐもぐ食べる。しかし、彼女の言いたいことはまっすぐ届いた。漠然と奥深いものを感じる。
「うーん……そうだな」
優也もほだされている。
「でも、いまさら明とぶつかって、それこそ大きな溝ができたらどうしたらいいんだよ。卒業間際に大喧嘩とかしたくないんだけど」
「大喧嘩する前提なのがよくない」
思わず涼香が口を挟んだ。
「そうそう。まずは落ち着いて話し合おうっていう気持ちがないわけ? どうしてそんなに血の気が多いの」
こころも噛み付く。二人に責められ、優也は痛そうに顔をしかめた。
「大丈夫! もし、これで杉野くんが茶化してきたら、あたしが杉野くんをコテンパンにやっつけるから。ね、涼香」
急に同意を求められ、涼香は思わず頷いた。しかし、明をコテンパンにするつもりは毛頭ない。
逃げるようにスープすすると、こころが続けた。
「向こうがどう思ってるかは、いまの段階じゃわからないしね。それでも、あたしは無責任に言うよ。自分の気持ちと将来を間違えないで」
そこまで言われてしまえば、優也はともかく涼香も黙りこむしかなかった。こころの鋭さには恐れ入る。口はソースだらけなので、いまいち威厳はないのだが。
やがて、優也が長いため息を吐いた。
「はー……わかったよ。わかった、わかりました。明にきちんと話すよ。それでいいんだろ?」
釈然としないが、こころのおかげで優也のモヤモヤは解消されそうだ。
しかし、まだ気がかりなものがある。ここで暴露してもいいものか、涼香は麺をすすりながら悩んだ。
***
結局、優也の進路については言い出せず、注文した料理はからっぽになった。
涼香に至っては、塩味のスープまで全部飲み干している。さっぱりしていてくどくないので、口の中は爽やかだった。味のことはよくわからないが、ほのかにレモンの風味がきいていたと思う。
腹がふくれると勉強は後回しになってしまい、結局こころは問題集の一問も解かずにいた。
全員が会計し、外に出たときには空は焦げた茜色だった。
「ほんとに送ってかなくていいの?」
ファミレスを出るなり、優也が名残惜しそうに言う。しかし、彼の家は涼香やこころが住む商店街方面ではなく、逆方向の住宅街だ。
「いいよいいよ。どうせ、いまからこころの家に行くし」
「そう。んじゃ、気をつけて帰れよ」
優也は潔く引いてしまい、背を向けて群青の中へと姿を消した。遠ざかる彼の後ろ姿を見送り、こころの手をつかむ。
「ちょっと、話したいことがあるんだけど」
「お、奇遇だね。あたしも話したいことがあったの」
目をしばたたかせるも、こころはにこやかに言い、涼香の手を握り返した。
くぼ商店街への道は、傾いた陽の光が強く射し込む眩い筋だった。古着屋やスーパー、コンビニ、喫茶店を通り過ぎ、ミギワ堂古書店にたどり着く。今日もおんぼろの屋根から陽が漏れていた。
「おかえり、こころ」
「ただいま、おじいちゃん!」
こころが明るく応えるとと、レジ台に座っていた祖父が笑う。白い猫を抱いて立ち上がった。
「いまからお店、閉めるねー」
「まかせたよ」
そんなやり取りを棚からのぞき見ておく。こころの祖父がこちらにも屈託なく笑うので、涼香は愛想笑いを返した。
祖父が店の奥にある居間へ入るのを見届け、こころはレジ台にカバンを置いた。店先へ移動し、古本の棚を引っ張る。涼香も手伝い、店じまいを進めていく。
「いやあ、寺坂くんって豪快に見えて繊細なんだね」
こころが笑いながら言うので、涼香もつられて笑った。
「まあね。誰かさんに脅されないと告白もできない男だし」
「あいたた。それについてはもう時効でしょ」
二年前の告白大作戦は、こころにとっても痛い過去のようだ。しばらく笑い合いながら、二人は店の片づけをした。
「寺坂くんって真面目で優しいのに、自分のことはおざなりだよね。ほんと、危なっかしいよ」
「うん。そんなやつだからさ、私としてはこのままつき合っていくのがちょっと不安になっちゃって。だから、こころに相談しようと思ったの」
「不安かぁ。それはわかるかも」
店の中に引っ張った棚に古い遮光カーテンを敷いて、こころはあっけらかんと言った。
「このままだと、寺坂くんがひとりになっちゃうよね。はぁ、困ったもんだね」
「そうなんだよ。このままだと、優也がダメになりそうで。そんなあいつを私が支えられるかって思ったら……」
こころみたいにきっぱり言えたら、どんなにいいだろう。説得もままならないのに、ただ単純に優也と明が仲直りすることだけを押しつけてしまう。それが果たして、優也のためか自分自身のためなのか、わからなくなる。
「涼香」
こころが声音を落とす。
「涼香は、寺坂くんと付き合ってて、楽しい?」
「えっ?」
思わぬ問いに、涼香は頬を引きつらせた。
「いまの涼香は苦しそうだよ。楽しいのにつらい、みたいな。寺坂くんと同じくらいグラグラしてる」
その言葉を受けて、涼香は迷った。
つらいのはその通りだが、優也との日々は願っていたことそのものだから苦じゃない。そのはず。楽しいに決まっている。過去や、他人の気持ちを犠牲にしてまで手に入れたかった現実なのだから。
「楽しいよ。優也と一緒にいられるのが、私にとって一番の願いだから」
思いをそのまま告げると、こころは口をすぼめた。だんだん納得したように何度も頷く。
「そっか。それなら心配いらないね」
彼女の声はさっぱりとしていた。
「まあ、寺坂くんを裏切って杉野くんとハッピーエンドを迎えるなんていうオチも、どんでん返しって感じでスリリングなんだけど」
「なにそれ。そんなめんどくさいことしたくないんですけどー」
青春にスリルを求めたくはない。悲しいラストシーンは苦手だ。それに、優也を裏切ってまで自分の幸せを優先したくはない。さらに言えば、明とつき合う気はまったくない。
一度にいろんなツッコミが思い浮かんだが、言葉が大渋滞を起こしたせいで喉が詰まった。
「だってね、寺坂くんが不安に思う気持ちもわかるのよ。言ってること、わかる?」
「わかんない」
「無自覚なのー? こりゃ、寺坂くんがかわいそうだわー」
こころは首を振って項垂れた。
「寺坂くんが一途すぎるっていうのもあるね。涼香が杉野くんと仲良くするだけで、嫉妬の炎がメラメラしてるの」
「はぁ……あー、なるほど。うーん」
ついさっきも優也に言われたことだ。こころにまで見抜かれてしまい、涼香は気まずく唾を飲んだ。
まったく、恋愛というのは煩わしい。ようやく自覚するものの、悪気がないので不満が募る。
そもそも明に対する認識は、良き友達というポジションだ。彼氏の親友であり、ときに相談相手として頼る。現に優也への誕生日プレゼントのアドバイザーとして一役買っている。都合がいいと言われても仕方ないが、結局はそのぬるさが心地いい。
「しっかし、涼香も彼氏の前ではかわいい子猫ちゃんになっちゃうのねー。いやぁ、感慨深いよ」
悩んでいると、空気をぶち壊された。それが彼女の照れ隠しだというのはわかっている。しかし、冷やかされてはたちまち恥ずかしさがこみ上げるもので、涼香はすぐさま声を上げた。
「やめてよ、その言い方」
「だってそうでしょー? 乙女じゃん! かわいいー!」
「やめてってば! それ、私に一番似合わないワードだし。寒気がする」
「似合わないことないでしょ。涼香って、どうしてそんなに『かわいい』が苦手なの?」
その問いは素朴なものだった。対し、涼香は「へ?」と面食らってしまう。目を開いて、視線を上にずらして考える。
「えーっと。なんでだっけ?」
「いやいや、聞いてるのこっちなんですけどー! なんか、そういうきっかけがあるんじゃないの?」
考えれば考えるほど謎が深まった。
どうして「かわいい」を遠ざけていたんだろう。身につけているものはシンプルなデザインのものだが、影ではうさぎ型のコインケースや甘いものを集めていたりする。それを他人にひけらかすことはしたくない。もちろん、優也にも。凛としたポニーテールのヘアスタイルも小学校二年生くらいから始めた。そのきっかけがどこかにあったはず。
はて。それがなんだったか、すぐには思い出せない。
「ちょっとちょっとー、自分のことじゃん。無頓着だなー」
こころの嘆きももっともだ。自分でも情けなく思う。しかし、どうにも自分のこととなると思考が止まってしまった。
「ま、いまは多様性の時代だし? 自分のスタイルを貫くのはかっこいいと思うよ。女らしく、かわいく、愛嬌命なんて考えも古いわけで」
「いやぁ、そんな大層な思想は持ってないよ。ただ、似合わないからって決めつけてるだけ、みたいな?」
なんとなく自分の心を見つめてみる。出した答えもあやふやで、こころが言うような芯の強さも持ち合わせていなかった。
「それに、こころが私の親友だから思うことであって、贔屓してるだけじゃない? かわいくないって、優也にもたまに言われるんだよ?」
女子の言う「かわいい」ほど信用できないものはない。これで言い返せまい。鼻で笑って高をくくっていると、こころはあっけらかんと言った。
「そりゃ、ふてぶてしくブスッとしてたら、かわいくないもん。涼香だって、あたしが『てめー、なんだこのやろー』って言い出したら、怖いって思うでしょ」
口調はさほど怖いものではなかったが、確かにいつもマイペースで無邪気なプードル女子が不良の口調で話し始めたら近寄りがたいと思う。
なんだかすんなり納得してしまった。目からウロコが落ちた気分だ。しかし、譲れないものもある。
「でも、いまさら自分を曲げるのは難しいよ」
からかわれたら突っぱねるし、やっぱりかわいいものをひけらかすのは抵抗がある。愛情や好意も隠したい。それなりに十八年間積み上げてきたものを崩してしまうのは、それこそもったいなく思えてしまう。
強情に食い下がっていると、こころはやけに大人びた微笑を向けた。
「ちょっとずつでいいじゃない。一年生のころに比べたら、涼香は結構丸くなったほうだよ。だから、寺坂くんも手放したくないって思うのよ」
「うわぁ……ぐうの音も出ない……降参する」
これ以上持ち上げられると、むず痒さで叫びたくなる。親友のあたたかい言葉は、それまでの固定概念を破壊するほどの威力があった。本当に油断ならない。
「あ、ねぇ、こころ」
恥ずかしいので、話をすり替えることにした。レジ台の中をのぞきこむ。あの小難しそうな本が見当たらない。
「今日はあの本、読まないの?」
「え? どの本?」
「ほら、さかさま? さかまき? ってタイトルの」
そこまで言うと、こころはすぐにひらめいた。
「『逆巻きの時空間』ね。あるよー」
レジの引き出しから本を出してくる。宇宙色のワームホールが描かれた黒い表紙。それをひったくると、こころの両目が丸く開いて驚いた。
「これ、貸して」
「え? うーん、いいけど……どうしたの?」
問いの答えがすぐには見つからない。しばらく考えるも、思考は楽をしようと諦める。
「秘密」