秋は甘くふくよかで、世界が色めいていた。冬は寒さから逃れようと、互いの距離が縮んだ。平凡に平穏に日常は過ぎていく。しかし、衝突というカップルにありがちな倦怠期が続き、気だるくて不穏な日と、優しくて甘い日が交互に訪れる。そんな生活。当たり前に続いた日常を繰り返す。
記憶のフィルムが急速に回転し、その終着点で景色はマーブルを描いた。知っている世界とはまるきり違う景色が浮かび上がる。観測地点がすべて真逆に切り替わっていく。
この選択は間違いじゃないだろう。そう信じたい。
「おい、涼香」
優也が声をかけるまで、意識は遠くにあった。目の前に立つ彼の威圧に驚く。
「うわ」
「プリント、真っ白じゃん。三年の大事な時期になにやってんだよ」
授業が終わったあとだった。黒板はすでに日直が授業内容を消し去っている。日付は十月二十日。デッドラインのその日。しかし、優也から別れを切り出される前兆は一切ない。
「勉強会、今日やるんだろ。右輪と。なにぼけーっとしてんだよ」
頭を小突かれる。涼香は顔を上げて、曖昧に笑った。いまだ、思考はふわふわとおぼつかない。
これには優也も不安な表情を浮かべた。
「どうした? 具合でも悪い?」
「ううん。大丈夫」
「お前は大丈夫じゃなくても、大丈夫って嘘つくからな。信用できねぇ」
辛辣な言い方がダイレクトに突き刺さる。涼香は顔をうつむけた。すると、憂鬱を感知する忠犬がすっ飛んできた。
「ちょっと、寺坂くん! 涼香をいじめないでよ!」
こころの噛みつきに、優也が大きくのけぞる。
「ひと聞き悪いな。いじめてねぇし」
「口悪いんだから、もうちょっと自重してよね! ねー、涼香」
「そうだよ。私だって傷つくことくらいあるんですからねー」
ようやく、いつもの調子でおどけてみせる。優也は呆れたように「はいはい」と言って、涼香のカバンを取った。
「じゃ、駅前のファミレスな。先に行ってるから。がんばって、実行委員」
「はーい。んじゃ、あとでねー」
優也が涼香の腕を引っ張る。そんなふたりをこころが大きく手を振って見送った。
***
優也との別れは回避できた。しかし記憶の矛盾はとくになく、ただ一年の文化祭だけが鮮明に色を変えている。些細だったはずの時間が極端にずれているので、脳内には記憶のフィルムが幾重にも並んでいるようだった。タイムリープの影響だろうか。過去改変の効果が目覚ましい。
涼香はひとり満足して、優也の背中を追いかけた。
「あ、優也」
「ん?」
「明は? 勉強会なら明も誘えばいいのに」
無邪気に聞いてみる。すると、優也の足がとたんに速くなった。
「あいつは絶対に誘わねぇ」
不機嫌たっぷりな低音が、わずかに怒りを見せる。それだけで、空気がピリリと窮屈になった。
青浪高校を出て、くぼ商店街を抜けた先に大きく横長の窪駅がある。ぼってりとした丸いモニュメントや人工的な街路樹がある公園、駅の外観にもシンプルな黒を取り入れている。駅前も黒を基調としたレンガ造りの店や、ご当地カラーに合わせたチェーン店までが勢揃い。その一角にあるファミリーレストランへ二人で向かった。ここは学生が勉強会でよく使うので、混雑しない時間帯は店側も快く迎えてくれる。
涼香と優也は店の中央のソファ席へ通された。店員にドリンクバーを注文し、優也が率先して飲み物を取りに行く。涼香はソファにもたれて、ぼんやりとその様子を眺めていた。
どうやら、彼はさっき見せた怒りが冷めているらしい。戻ってくると、早速カバンからプリントと問題集を出した。涼香もならい、解き損ねたプリントを引っ張り出す。
傍目には、二年も付き合っている恋人同士という空気は欠片もないだろう。「熟年夫婦」と揶揄されるのも慣れている。それくらい、二人の距離は自然なものだった。
しかし、問題を解くほどの集中力が続かなかった。頭はずっと、葬り去ったはずの過去を思い出している。優也と別れる世界はもう払拭できたというのに、どうにも違和感がある。そもそも、彼は大学の推薦入試を受けるはずだ。この時期にはすでに、一次試験まで突破している。
涼香は優也に持ってきてもらったジンジャーエールを飲んだ。とくに頼まないメニューを開いて閉じて、天井を仰ぐ。
「涼香ー、集中しろ」
彼は顔も上げずに注意してきた。その仕草が癪に障る。わざとシャープペンを転がして、彼の気を引いてみた。
「凉香」
「ふふっ」
「おい」
「ごめん」
顔を覆って笑いを堪える。
すると、優也が長く息を吐いた。問題集をパタンと閉じる音がし、涼香は指の隙間から様子をうかがった。
センター入試対策問題集の学校名に目が釘付けになる。地元の大学名である「美の里大学」という文字が書かれてあった。涼香が志望する大学だ。
それだけで、この世界の軸を悟った。彼は、夢を諦めている。
「ちょっと待って。優也、私と同じ大学に行くの?」
思わず聞くと、優也の手が止まった。顔を上げ、呆れたように涼香を見る。
「なんだよ、いまさら。それはもうとっくに決めたことだろ」
アイスコーヒーのストローを音を立てて飲む彼は、眉を不機嫌につり上げた。怯むわけにはいかず、涼香は前のめりになった。
「だって、バスケは? プロになるって言ってたじゃん。推薦は?」
「はぁ? 俺がプロになれるわけがないだろ。それに、明のほうが推薦に向いてたし」
「いやいや、でもさ」
「はい、この話は終わり」
会話の終了を宣言し、優也はグラスをテーブルに置いた。コトンと立てた音が機嫌の悪さを表している。
しぶしぶプリントに目を移すも、シャープペンを転がしてもてあそぶ。そんな涼香を無視し、優也は英語のプリントを引っ張り出した。淡々と文章問題をこなしていく。その手を見ながら、涼香はどんよりとひとりごちた。
「私が原因でやめちゃうの? バスケ、あんなに好きだったくせに」
「……しつこい」
「好きなことまで我慢することないでしょ。そりゃ、私のせいかもしれないけど」
「涼香」
「ひとりごとなんで、気にしないでくださーい」
ふてくされると、優也は観念したようにシャープペンを置いた。ソファにもたれ、涼香をじっと見つめる。
「好きなことよりも、涼香を優先したい。それが俺のいまの気持ちだから……言わせんな、バカ」
面と向かって言われると、顔に熱がこみ上げる。頬が紅潮し、それでも場にそぐわないと思ったので気持ちを鎮めることに専念した。
「そう、ですか」
「そうなんです。だから、もう二度と『私のせい』って言うなよ。次言ったら怒る」
「明と仲直りしてくれたら、二度と言わない」
「はぁ? それは絶対に嫌だ。意味わかんねぇよ」
滑り込みの言葉はあえなく却下された。あんまりしつこいと喧嘩になりそうだが、ここで折れるわけにもいかない。またもや、ひとりごとのようにつぶやいてみる。
「あーあ。やっぱり喧嘩してるんだ」
「恋愛と進学だけでも手一杯なのに、ほかのヤツのことなんて気にしてられねぇよ。俺は涼香さえいてくれればいい」
「うわぁ……」
こみ上げた熱が一気に冷めた。
なんだかダメな方向に向かっている気がする。ズルズルと関係を続ける方向に向かってはいないか。
いまは自覚がなくても、近い将来、どちらかに依存して深みにはまっていくかもしれない。どちらもうまくいかなくなり、社会に取り残されるのでは。優也が真剣に思ってくれるほど、その感情が重いものになっていく。
彼の足を引っ張ることはしたくない。それに、もし大学進学できたとして、ずっと一緒にいられるという保証はない。結局、いまの彼とは未来が見えない。
涼香は優也の問題集をかすめ取った。
「おい! 涼香、いい加減に、」
「明となにがあったの? 話して。でないと返さない」
真剣に眉をつり上げてみせたら、彼は目をそらした。気まずそうにアイスコーヒーを飲み干す。なにを言おうか考えていた。
「なにがって……ただ、喧嘩しただけ」
やがて出た答えはふてぶてしい。この期に及んではぐらかす気だ。
「ごまかすな!」
つい大声が出てしまい、涼香はすぐさま首をすくめた。優也が辺りを見回し、困ったように眉をハの字にする。しかし、ここまでしても頑として譲らない優也に対し、単純な怒りが湧いている。
一歩も引かない涼香に、優也はいやいやながら口を開いた。
「……本当のことを言ったら、引かれると思ったんだよ」
弱々しい声は、あの告白のシーンを想起させる。つり上げた眉が一気にストンと落ちてしまい、涼香は困った。優也の言葉が頼りなく続く。
「俺、お前のことで頭がいっぱいでさ、やっぱりいまだに不安なんだ」
「え?」
涼香は乗り出していた体をわずかに引っ込めた。優也はもごもごと口ごもってしまい、有耶無耶にしようとした。それを逃がすわけにはいかない。
「それで?」
「それで、明と仲良くしてるとこ見てたらさ、本当にムカつくわけ。だから、明を遠ざけたかった。実は、二年の冬から部活で揉めてたんだ。居づらくなって、部活も楽しくなくなって。だから〝変な噂〟が流れてるみたいだけど、推薦枠を取られて悔しいとかは思ってないよ。それだけあいつががんばってきたってことだし。俺はがんばってないし」
一息つく。そして、彼は悩ましげに眉間を揉んだ。
「あーもう、最悪。ほんとかっこわりぃな。俺、そんなにメンタル強くないからさ。結構、余裕がないんだ。でも、それをお前に知られたくなかったよ」
告白も手間取る不器用なひとだから、いまさらの発言だ。
正直に言えば、彼はかっこ悪い。でも、そんな弱みを許せる器量くらい持っていなければ、優也の彼女なんていう役は務まらないんだろう。
なんと返すのが最適解か。数学のように答えが決まっていたらいいのに、いくつもの分岐を考えては消す。黙り込んでしまうと、優也は渇いた笑いを漏らした。
「ドン引きだろ?」
「ううん」
「正直に言って」
「……まぁ」
喉を絞るように言えば、彼はさらに落胆した。
「だよな」
「でも、話してくれなきゃわからないよ。優也がつらいと、私もつらい」
彼の不安を取り除けたらいいのに。そうすれば、全部丸くおさまるはずだ。
思えば、最初のルートからそうだった。優也の不安が払拭されなければ、世界の軸が変わっても幸福な未来を描けない。
別れたら涼香がつらい。別れなければ優也がつらい。恋愛も進路も友情も、欲張るのはいけないのだろうか――
「そんな二人にケセラセラ! 心の助っ人こころちゃんの参上です!」
暗い空気を吹き飛ばすように、とぼけた声が二人の間に割り込んできた。
「辛気くさい顔しちゃって、嫌だなぁ。ダメだなぁ。よくないぞー」
涼香の横にカバンを放り投げ、こころはドリンクバーでメロンソーダを注いだ。緑色の炭酸がぽぽぽと泡立つ。ストローもなしで豪快に飲み干し、一息ついたこころが涼香の横に座り込んだ。
「右輪。お前、いつから聞いてたんだよ」
優也が不機嫌に聞く。秘めた悩みを他人に聞かれることに抵抗があるようだ。
「さっき来たばかりだよー」
怒った顔の優也に、こころは臆さない。指でフレームをつくり、その奥からニヒルに笑う。
「そしたら、涼香がかわいいこと言ってたからさぁ、『あ、やばーい! これは青春ドラマの定番じゃーん!』って勝手に盛り上がってたの」
「盛り上がるな」
「見せ物じゃないんだけど」
揃って文句を投げつけると、ようやくこころもたじろいだ。
「まぁまぁまぁ。悩める諸君には、救世主が必要でしょ? もうちょっと他人を信用してくれたっていいんじゃなーい?」
ふざけた言い方だから信用ができないというのがなぜわからない。しかし、相手にするだけ無駄だというのは優也も感じているようだ。
「とは言え、途中参加なものだから、ざっくりとしか聞いてないんだけど。要するに、あれかな? 杉野くんのこと? 恋と友情の間で揺れる、なーんていかにも青春ドラマのそれっぽい!」
「お前はどういう立ち位置なんだよ」
とうとう優也が苦笑する。そんな彼に向かって、こころは気取ったように指をぱちんと鳴らした。
「だから、助っ人だって言ってるでしょ! 二人が解決できないことをあたしが解決したげようと乗り出しているのがなんでわからないの」
「でも、相談したところで、こころになんのメリットがあるのよ」
涼香がそっけなく言えば、彼女は目を光らせた。キランと効果音が鳴ったような気がする。
「メリットはシャンプーのメーカーよ。友情に理屈や公式は不要。感情を優先させるべし。それがあたしの青春哲学!」
芝居がかった青くさいセリフだが、その力強さに気圧され、涼香と優也は耐えきれずに吹き出した。
記憶のフィルムが急速に回転し、その終着点で景色はマーブルを描いた。知っている世界とはまるきり違う景色が浮かび上がる。観測地点がすべて真逆に切り替わっていく。
この選択は間違いじゃないだろう。そう信じたい。
「おい、涼香」
優也が声をかけるまで、意識は遠くにあった。目の前に立つ彼の威圧に驚く。
「うわ」
「プリント、真っ白じゃん。三年の大事な時期になにやってんだよ」
授業が終わったあとだった。黒板はすでに日直が授業内容を消し去っている。日付は十月二十日。デッドラインのその日。しかし、優也から別れを切り出される前兆は一切ない。
「勉強会、今日やるんだろ。右輪と。なにぼけーっとしてんだよ」
頭を小突かれる。涼香は顔を上げて、曖昧に笑った。いまだ、思考はふわふわとおぼつかない。
これには優也も不安な表情を浮かべた。
「どうした? 具合でも悪い?」
「ううん。大丈夫」
「お前は大丈夫じゃなくても、大丈夫って嘘つくからな。信用できねぇ」
辛辣な言い方がダイレクトに突き刺さる。涼香は顔をうつむけた。すると、憂鬱を感知する忠犬がすっ飛んできた。
「ちょっと、寺坂くん! 涼香をいじめないでよ!」
こころの噛みつきに、優也が大きくのけぞる。
「ひと聞き悪いな。いじめてねぇし」
「口悪いんだから、もうちょっと自重してよね! ねー、涼香」
「そうだよ。私だって傷つくことくらいあるんですからねー」
ようやく、いつもの調子でおどけてみせる。優也は呆れたように「はいはい」と言って、涼香のカバンを取った。
「じゃ、駅前のファミレスな。先に行ってるから。がんばって、実行委員」
「はーい。んじゃ、あとでねー」
優也が涼香の腕を引っ張る。そんなふたりをこころが大きく手を振って見送った。
***
優也との別れは回避できた。しかし記憶の矛盾はとくになく、ただ一年の文化祭だけが鮮明に色を変えている。些細だったはずの時間が極端にずれているので、脳内には記憶のフィルムが幾重にも並んでいるようだった。タイムリープの影響だろうか。過去改変の効果が目覚ましい。
涼香はひとり満足して、優也の背中を追いかけた。
「あ、優也」
「ん?」
「明は? 勉強会なら明も誘えばいいのに」
無邪気に聞いてみる。すると、優也の足がとたんに速くなった。
「あいつは絶対に誘わねぇ」
不機嫌たっぷりな低音が、わずかに怒りを見せる。それだけで、空気がピリリと窮屈になった。
青浪高校を出て、くぼ商店街を抜けた先に大きく横長の窪駅がある。ぼってりとした丸いモニュメントや人工的な街路樹がある公園、駅の外観にもシンプルな黒を取り入れている。駅前も黒を基調としたレンガ造りの店や、ご当地カラーに合わせたチェーン店までが勢揃い。その一角にあるファミリーレストランへ二人で向かった。ここは学生が勉強会でよく使うので、混雑しない時間帯は店側も快く迎えてくれる。
涼香と優也は店の中央のソファ席へ通された。店員にドリンクバーを注文し、優也が率先して飲み物を取りに行く。涼香はソファにもたれて、ぼんやりとその様子を眺めていた。
どうやら、彼はさっき見せた怒りが冷めているらしい。戻ってくると、早速カバンからプリントと問題集を出した。涼香もならい、解き損ねたプリントを引っ張り出す。
傍目には、二年も付き合っている恋人同士という空気は欠片もないだろう。「熟年夫婦」と揶揄されるのも慣れている。それくらい、二人の距離は自然なものだった。
しかし、問題を解くほどの集中力が続かなかった。頭はずっと、葬り去ったはずの過去を思い出している。優也と別れる世界はもう払拭できたというのに、どうにも違和感がある。そもそも、彼は大学の推薦入試を受けるはずだ。この時期にはすでに、一次試験まで突破している。
涼香は優也に持ってきてもらったジンジャーエールを飲んだ。とくに頼まないメニューを開いて閉じて、天井を仰ぐ。
「涼香ー、集中しろ」
彼は顔も上げずに注意してきた。その仕草が癪に障る。わざとシャープペンを転がして、彼の気を引いてみた。
「凉香」
「ふふっ」
「おい」
「ごめん」
顔を覆って笑いを堪える。
すると、優也が長く息を吐いた。問題集をパタンと閉じる音がし、涼香は指の隙間から様子をうかがった。
センター入試対策問題集の学校名に目が釘付けになる。地元の大学名である「美の里大学」という文字が書かれてあった。涼香が志望する大学だ。
それだけで、この世界の軸を悟った。彼は、夢を諦めている。
「ちょっと待って。優也、私と同じ大学に行くの?」
思わず聞くと、優也の手が止まった。顔を上げ、呆れたように涼香を見る。
「なんだよ、いまさら。それはもうとっくに決めたことだろ」
アイスコーヒーのストローを音を立てて飲む彼は、眉を不機嫌につり上げた。怯むわけにはいかず、涼香は前のめりになった。
「だって、バスケは? プロになるって言ってたじゃん。推薦は?」
「はぁ? 俺がプロになれるわけがないだろ。それに、明のほうが推薦に向いてたし」
「いやいや、でもさ」
「はい、この話は終わり」
会話の終了を宣言し、優也はグラスをテーブルに置いた。コトンと立てた音が機嫌の悪さを表している。
しぶしぶプリントに目を移すも、シャープペンを転がしてもてあそぶ。そんな涼香を無視し、優也は英語のプリントを引っ張り出した。淡々と文章問題をこなしていく。その手を見ながら、涼香はどんよりとひとりごちた。
「私が原因でやめちゃうの? バスケ、あんなに好きだったくせに」
「……しつこい」
「好きなことまで我慢することないでしょ。そりゃ、私のせいかもしれないけど」
「涼香」
「ひとりごとなんで、気にしないでくださーい」
ふてくされると、優也は観念したようにシャープペンを置いた。ソファにもたれ、涼香をじっと見つめる。
「好きなことよりも、涼香を優先したい。それが俺のいまの気持ちだから……言わせんな、バカ」
面と向かって言われると、顔に熱がこみ上げる。頬が紅潮し、それでも場にそぐわないと思ったので気持ちを鎮めることに専念した。
「そう、ですか」
「そうなんです。だから、もう二度と『私のせい』って言うなよ。次言ったら怒る」
「明と仲直りしてくれたら、二度と言わない」
「はぁ? それは絶対に嫌だ。意味わかんねぇよ」
滑り込みの言葉はあえなく却下された。あんまりしつこいと喧嘩になりそうだが、ここで折れるわけにもいかない。またもや、ひとりごとのようにつぶやいてみる。
「あーあ。やっぱり喧嘩してるんだ」
「恋愛と進学だけでも手一杯なのに、ほかのヤツのことなんて気にしてられねぇよ。俺は涼香さえいてくれればいい」
「うわぁ……」
こみ上げた熱が一気に冷めた。
なんだかダメな方向に向かっている気がする。ズルズルと関係を続ける方向に向かってはいないか。
いまは自覚がなくても、近い将来、どちらかに依存して深みにはまっていくかもしれない。どちらもうまくいかなくなり、社会に取り残されるのでは。優也が真剣に思ってくれるほど、その感情が重いものになっていく。
彼の足を引っ張ることはしたくない。それに、もし大学進学できたとして、ずっと一緒にいられるという保証はない。結局、いまの彼とは未来が見えない。
涼香は優也の問題集をかすめ取った。
「おい! 涼香、いい加減に、」
「明となにがあったの? 話して。でないと返さない」
真剣に眉をつり上げてみせたら、彼は目をそらした。気まずそうにアイスコーヒーを飲み干す。なにを言おうか考えていた。
「なにがって……ただ、喧嘩しただけ」
やがて出た答えはふてぶてしい。この期に及んではぐらかす気だ。
「ごまかすな!」
つい大声が出てしまい、涼香はすぐさま首をすくめた。優也が辺りを見回し、困ったように眉をハの字にする。しかし、ここまでしても頑として譲らない優也に対し、単純な怒りが湧いている。
一歩も引かない涼香に、優也はいやいやながら口を開いた。
「……本当のことを言ったら、引かれると思ったんだよ」
弱々しい声は、あの告白のシーンを想起させる。つり上げた眉が一気にストンと落ちてしまい、涼香は困った。優也の言葉が頼りなく続く。
「俺、お前のことで頭がいっぱいでさ、やっぱりいまだに不安なんだ」
「え?」
涼香は乗り出していた体をわずかに引っ込めた。優也はもごもごと口ごもってしまい、有耶無耶にしようとした。それを逃がすわけにはいかない。
「それで?」
「それで、明と仲良くしてるとこ見てたらさ、本当にムカつくわけ。だから、明を遠ざけたかった。実は、二年の冬から部活で揉めてたんだ。居づらくなって、部活も楽しくなくなって。だから〝変な噂〟が流れてるみたいだけど、推薦枠を取られて悔しいとかは思ってないよ。それだけあいつががんばってきたってことだし。俺はがんばってないし」
一息つく。そして、彼は悩ましげに眉間を揉んだ。
「あーもう、最悪。ほんとかっこわりぃな。俺、そんなにメンタル強くないからさ。結構、余裕がないんだ。でも、それをお前に知られたくなかったよ」
告白も手間取る不器用なひとだから、いまさらの発言だ。
正直に言えば、彼はかっこ悪い。でも、そんな弱みを許せる器量くらい持っていなければ、優也の彼女なんていう役は務まらないんだろう。
なんと返すのが最適解か。数学のように答えが決まっていたらいいのに、いくつもの分岐を考えては消す。黙り込んでしまうと、優也は渇いた笑いを漏らした。
「ドン引きだろ?」
「ううん」
「正直に言って」
「……まぁ」
喉を絞るように言えば、彼はさらに落胆した。
「だよな」
「でも、話してくれなきゃわからないよ。優也がつらいと、私もつらい」
彼の不安を取り除けたらいいのに。そうすれば、全部丸くおさまるはずだ。
思えば、最初のルートからそうだった。優也の不安が払拭されなければ、世界の軸が変わっても幸福な未来を描けない。
別れたら涼香がつらい。別れなければ優也がつらい。恋愛も進路も友情も、欲張るのはいけないのだろうか――
「そんな二人にケセラセラ! 心の助っ人こころちゃんの参上です!」
暗い空気を吹き飛ばすように、とぼけた声が二人の間に割り込んできた。
「辛気くさい顔しちゃって、嫌だなぁ。ダメだなぁ。よくないぞー」
涼香の横にカバンを放り投げ、こころはドリンクバーでメロンソーダを注いだ。緑色の炭酸がぽぽぽと泡立つ。ストローもなしで豪快に飲み干し、一息ついたこころが涼香の横に座り込んだ。
「右輪。お前、いつから聞いてたんだよ」
優也が不機嫌に聞く。秘めた悩みを他人に聞かれることに抵抗があるようだ。
「さっき来たばかりだよー」
怒った顔の優也に、こころは臆さない。指でフレームをつくり、その奥からニヒルに笑う。
「そしたら、涼香がかわいいこと言ってたからさぁ、『あ、やばーい! これは青春ドラマの定番じゃーん!』って勝手に盛り上がってたの」
「盛り上がるな」
「見せ物じゃないんだけど」
揃って文句を投げつけると、ようやくこころもたじろいだ。
「まぁまぁまぁ。悩める諸君には、救世主が必要でしょ? もうちょっと他人を信用してくれたっていいんじゃなーい?」
ふざけた言い方だから信用ができないというのがなぜわからない。しかし、相手にするだけ無駄だというのは優也も感じているようだ。
「とは言え、途中参加なものだから、ざっくりとしか聞いてないんだけど。要するに、あれかな? 杉野くんのこと? 恋と友情の間で揺れる、なーんていかにも青春ドラマのそれっぽい!」
「お前はどういう立ち位置なんだよ」
とうとう優也が苦笑する。そんな彼に向かって、こころは気取ったように指をぱちんと鳴らした。
「だから、助っ人だって言ってるでしょ! 二人が解決できないことをあたしが解決したげようと乗り出しているのがなんでわからないの」
「でも、相談したところで、こころになんのメリットがあるのよ」
涼香がそっけなく言えば、彼女は目を光らせた。キランと効果音が鳴ったような気がする。
「メリットはシャンプーのメーカーよ。友情に理屈や公式は不要。感情を優先させるべし。それがあたしの青春哲学!」
芝居がかった青くさいセリフだが、その力強さに気圧され、涼香と優也は耐えきれずに吹き出した。